驚いた。九と四分の三番線なんて。
この世界では、今までの『常識』など全く通用しないのだ。

Hogwarts EXPRESS

それは運命と呼ぶにはあまりにも

は夏休み中、漏れ鍋とダイアゴン横丁を行ったり来たりして過ごした。初めて見る魔法使いの世界は決して彼女を退屈させなかったし、ハグリッドにそれ以外の場所へ行くことは禁止されたのだ。

「まだ俺らの世界のことをほとんど知らんうちにあちこち回るんは危ねえからな」

彼女にはそれで十分だった。一月歩き回ったってダイアゴン横丁は行き先に困らなかった。まだ隠された秘密などいくらでもありそうだ。
動物好きのは、毎日ふくろう百貨店に通った。そして夏休みも残すところあと数日という頃になって、とうとう小さな森ふくろうを買った。





九月一日。ハグリッドに付き添われてキングズ・クロスという駅に着く。はトランクや鳥かごなどがどんと詰まれたカートを押しながら人々の間を縫うように進んだ。どこに行ってもハグリッドはその巨体のために目を引いてしまう。彼はマグルたちがジロジロと見てくることに気付くと「何見てるんだ」と睨み付けた。

「仕方ないよハグリッド。誰だって最初はびっくりするよ」
「お前さんもか?」
「当たり前じゃない」

さらりと言い放つと彼は少なからず落ち込んだようだった。だが彼女は見てみぬフリをしてどんどんと突き進んでいった。

「ハグリッド、何番線から出るの?」

振り返り訊ねると、彼はチケットを一枚、に手渡した。そこに書かれてあるのは    

「九と四分の三番線?」

怪訝そうな顔をしてハグリッドを見上げる。すると彼は、小さくウィンクしてみせた。

「まさかマグルと同じ汽車にでも乗るつもりだったのか?」
「え、でもこんなホームあるわけが……」

声をあげるにハグリッドは小さく笑みを漏らし、とある一点を指差した。

「あれを見てみい」

言われた通りに改札口の柵の方に顔を向けると、彼女は信じられない光景を見た。と同じように荷物を山積みにしたカートを押した少年が、プラットホームの柵に吸い込まれるようにして消えた。それからも彼女はじっと同じ場所を凝視していたが、先ほどのように数人の少年や少女がそこから姿を消していった。
ハグリッドが少し自慢げにこちらを見下ろしてくる。

「見てみい。あの向こうが九と四分の三番線だ。ホームに停まっとる汽車に乗れ。ホグワーツで会おう」
「え、ハグリッドは一緒に行かないの?」

問うと彼は、声をあげて笑った。また周囲の視線が一気に彼に集まった。

「おいおい、九と四分の三番線から出るんは生徒だけだぞ?俺は一足先に戻ってやらにゃならねえ仕事があるんでな」

「大丈夫、向こうですぐに会える」と言い残し、ハグリッドはをぎゅっと抱き締めて去っていった。彼の巨体で抱かれては呼吸困難に陥りそうになったが、あまりスキンシップに慣れていない彼女にはそれが何だか嬉しかった。
改札の柵に向き直り、目を閉じて深呼吸する。大丈夫、大丈夫。ハグリッドを信じよう。

は目を開くと、重いカートを押して柵の方へと進んでいった。カートの速度が増す    あぁ、ぶつかる。
勢いに任せて駆けながら、彼女は思わず目を閉じた    あれ、まだ走ってる……。
気付いた時には、紅色の蒸気機関車が停車しているホームの上に立っていた。辺りは自分より年上に見える子供たちで溢れかえっていて、その喧騒の中での鳥かごの中のふくろうは不機嫌そうに、ほーと鳴いた。

「ムーン、ごめんね。学校に着いたら出してあげるから」

そんなことをしてもいいのか分からないが、とりあえずはふくろうにそう呼び掛けて機関車へと歩いていった。電車しか見慣れていないので、その蒸気機関車はレトロでとても素敵に見える。はそれだけでドキドキと胸の高鳴るのを感じていた。
しかしイギリスに着いてからそのほとんどを、ハグリッドと過ごすか一人で行動するかのどちらかだったは、急にこんなにたくさんの同世代の中に放り出されてひどく不安だった。

だがハグリッドが時間に余裕を持って出発しようと提案してくれたお陰で、空いているコンパートメントをすぐに見つけることが出来た。急いでカートの荷物をそこに上げようと窓のところでモタモタしていると、後ろから声をかけられる。

「邪魔だ」

ぎくりとして振り返ったが、この混み合ったホームの上でも自分の背後には十分に人が通れる幅があることを知っては眉根を寄せた。そこには荷物を山と積んだカートを押した土気色の顔の少年が一人で不機嫌そうに立っている。
も負けじと苛立たしげに言いやった。

「何よ。あんたの邪魔になるような位置に立ってるつもりは欠片もないんだけど」

すると少年は、さも当然のようにさらりと言った。

「僕の進路上にいる。はっきり言って、邪魔だ」
「は?」

何様だ、この男。この一ヶ月ダイアゴン横丁で様々な魔法使いに会ったが、こんな無礼な奴にはついぞ遭遇しなかった。たまたま幸運だっただけか。は拳を握って身体ごとその少年に向けた。

「あんた喧嘩売ってんの?そのつもりならいくらでも買うわよ?」

少年は嫌悪感剥き出しの顔を大袈裟に歪めてみせた。

「女のくせに血の気が多い奴だな……さしずめ正義屋気取りのグリフィンドールか?お笑い種だな」

『グリフィンドール』が何なのかには分からなかったが、ひどく侮辱されたのだろうということは嫌でも分かった。さらに拳に力を入れ、それを感情に任せて振り上げる。
その時。

「何やってるの、新学期初日から!」

憤怒に意識を奪われていたは、少年と自分との間に割り込んできた赤い髪の少女に気付くのが遅れてしまった。

    あ……」

が自分のしたことに気付いたのは、目の前で一人の少女が自分の拳を頬に受けて機関車に体当たりした時だった。







    最悪だわ」

ポツリと少女が呟く。はぴたりとその手の動きを止めた。
俯いたままほとんど動きを見せない少女の顔を覗き込むようにして、声をあげる。

「ほ……ほんとに、ほんとに、ごめんなさい……!」

少女はその綺麗な緑色の瞳を細めてを冷たく見返した。

「……入学初日から喧嘩なんて、たいそうお元気なのね?」
「あーいや、その……あれは……だってあいつがわけの分かんないことで突っかかってきたから……」

はコンパートメントの中で先ほど殴ってしまった少女と向かい合って座っていた。彼女の左頬は少しだけ腫れて赤くなっている。あまり力を入れてなくて良かった    こんなことを口に出せば、少女はカンカンに怒るだろうが。少女は、と同じく新入生だといった。

「そっか、じゃあ同じクラスになれたらいいね!」

ぎこちない笑顔でが何とかそう告げると、少女は怪訝そうに眉をひそめた。

「クラス?ホグワーツは確か、寮制度でしょう?」

そんなことも知らないの?と言わんばかりに少女は目を細めた。
あぁ、なんか嫌な女だ。は間違ってもこの少女と同じ寮にはなりたくないと思った。もちろん、出会い頭にいきなりパンチを食らわせてしまった自分が悪いのだが。

「寮っていくつあるの?」

訊ねると、少女は嘆息混じりに口を開いた。

「自分が入学する学校のことくらい少しは勉強しようと思わなかったの?寮は、全部で四つよ。グリフィンドール、ハッフルパフ、レイブンクロー、そしてスリザリン」

グリフィンドール?先ほどの少年が言っていた単語だ。は少し身を乗り出すようにして訊き返した。

「グリフィンドールってどんな寮なの?」

もう一度嘆息して少女は言った。

「グリフィンドールは勇気ある者の寮。今でも騎士道精神を持ってる人が多いって聞くわ。ハッフルパフは正直者の寮と言われてるけど    劣等生が多いんですって(この時少女は、少し声のトーンを下げた)。レイブンクローは賢明な者の寮。そしてスリザリンは    狡猾な者の寮」

は何だか拍子抜けした。少年の言い方では、『グリフィンドール』は侮辱の言葉のように聞こえたのだ。勇気ある者の寮?それのどこが悪いというのだろう。

「じゃあグリフィンドールがバカにされる謂れはないのよね?」

すると少女は、困ったような複雑な表情を見せた。

「もちろんそうよ。でもホグワーツではグリフィンドールを目の敵にしてる寮があるの    スリザリンよ。グリフィンドールとスリザリンは、昔からずっと敵対してきたらしいわ」

狡猾な者の寮    スリザリン。あぁ、そうか。あの少年はスリザリンの生徒なんだ。だからああやってグリフィンドールを蔑むようなことを言ったんだ。「正義屋気取り」と。
けれど。

「あー、私きっと、ハッフルパフだわ」

は大きく溜め息をついた。「そうかもね」と呟いた少女を見て、は本気でこの少女と同じ寮は嫌だと思った。
その時、コンパートメントの戸が外側から勢いよく開けられた。はあっと息を呑んだ。

「やあ!さっきの見たよ!君があんなにかっこいいなんて思わなかった!男の鑑だ!」

嬉しそうな顔をしてそこに立っていたのは、ジェームズ・ポッターだった。既にローブに着替えており、ポケットに挿している杖がやけに目につく。彼の後ろにはもう一人黒髪の少年が立っていた。

「ポッター!こんなところで何やって……」
「やだなぁ、。僕にはジェームズって名前があるんだ。名前で呼んでくれよ」
「いや、そんなことはどうでもいいけど、男の鑑って何よ!男のって!」
「僕もこれからは君を見習ってもっとかっこよくなるよ!見たかい?あの陰湿少年、そそくさと逃げちゃってさ」
「人の話を聞け!」

は荒っぽく怒鳴りつけたが、少なくとも自分に敵意を持っていない知人が現れたことに安堵してほっと胸を撫で下ろした。ニコニコと上機嫌のジェームズはの前に座る少女に顔を向けたが、少女はあからさまに嫌そうに顔を歪めている。

「さっきは災難だったね、の強烈パンチを食らうなんて。僕はジェームズって言うんだ、君は    

パン!

少女は手元のトランクを思い切り拳で叩きつけると、を物凄い形相で睨み付けて立ち上がった。もジェームズも、目を丸くして固まっている。
少女は吐き棄てるようにに向かって叫んだ。

「私、あなたとも、あなたのお友達とも仲良くなれそうにないわ!」

そしてジェームズとその背後の少年を押し退けてコンパートメントを去っていった。
その後ろ姿を呆然と見つめつつ、ジェームズは間の抜けた声をあげた。

「……僕、何か彼女の気に障るようなこと言ったかな?」

答えたのは、ジェームズの後ろの少年だった。

「お前そりゃ、自分を殴った相手に向かって『かっこよかった』なんて言う奴が来りゃ、誰だって嫌な思いはするだろ」
「そうか!悪いことしたなぁ」

少女が去っていった扉を見やりそう漏らしたジェームズは、やがて「中入ってもいいかい?」と言いの向かいに腰掛けた。もう一人の少年もコンパートメントに入ってきて、彼女の斜向かいに座った。

「それにしても久しぶりだね、!こんなに早く再会できるとは思わなかったよ。結局どんな杖になったんだい?」

はトランクから一本の杖を取り出してみせた。イチイの木、一角獣のたてがみ、二十七センチ……だった気がする。

「へえ〜、これは振り応えがありそうだ。うん、には合ってるかもしれないね」

彼が話しかけてくる間にも、はジェームズが連れてきたもう一人の少年のことが気になっていた。ちらちらと盗み見るようにしていると、一瞬その少年と目が合って慌てて顔を逸らす。
ようやくそれに気付いたのか、ジェームズが彼女の杖をこちらに返してきながら言った。

「あぁ、紹介するのすっかり忘れてたよ。こいつはシリウス・ブラック。僕の幼馴染なんだ」

少年はにこりともせずにを見つめていた。その綺麗なグレイの瞳に吸い込まれそうになる。
ブラックは……正直言って、かなりかっこよかった。すっと透った輪郭に、鼻のラインも綺麗だし、整った眉に切れ長の瞳。足も馬鹿みたいに長い。でも少しくらいは、愛想笑いでもしてくれたらいいのに。ひょっとして何か、怒っているのだろうか。は目線を彷徨わせながら口を開いた。

「……は、初めまして。です。よろしく」

よろしく、とブラックは言わなかった。どこかツンとすました感のあるこの少年には戸惑った。ジェームズも初めて見る種の男の子だったが、彼とはまた全くタイプが違っていて、どう接すればいいのかよく分からない。
ジェームズが呆れ顔で助け舟を出してくれた。

「シリウス、そんな仏頂面してないで何か話してあげなよ」
「あ?仏頂面なんてしてねえ」
「君は一度一日中鏡と睨めっこしてみるべきだと僕は思うね」
「大きなお世話だ」

そう言ったきりブラックはまた口を閉ざしてしまった。だが、じっとこちらの様子を見ている。興味がないわけではないのだろう。それ故になおさら厄介だった。まだ無関心を装ってくれたらこちらも無視できるのに。
ジェームズが困ったように笑った時、ブラックがボソッと呟いた。

「……は、やっぱりこっちの魔法とは違うのか?」
「え?ん?何?」

前半がよく聞き取れずに訊き返すと、ブラックは少しだけ声を大きくした。

「……そっちの魔法は、ヨーロッパの魔法とは違うのか?」
「え?あぁ……」

は唇を尖らせてしばし考え込んだ。そして。

「んー……私よく分かんないの。だって入学許可書が届くまで、魔法のことすら知らなかったし」
は確かお父さんがマグルなんだよね?」

ジェームズの言葉に、頷く。ちょうどその時、コンパートメントの前を車内販売のカートが通りかかった。

「あ、ちょうど良かった!も何か食べる?奢るよ」

そう言って立ち上がったジェームズを見て、はかぶりを振った。

「いいよそんなの悪いし。私もお金持ってるし大丈夫だよ」
「いや、奢らせてよ、ね?」

「僕は女性には優しいんだよ」とウィンクしてみせるジェームズに向けて、は思い切り溜め息をついた。

「さっきは男の鑑だとか言ったくせに」

ジェームズが高らかに声をあげて笑う。
彼のことはこの数十分で少なからず慣れた。お母さんとの約束も守れそうな気がする。だが、彼の連れてきた少年と馴染むにはまだまだ時間がかかりそうだとは思った。
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(07.07.07)