またか。学期始めの宴会で紹介された新任の教授を見て、はがっくりと肩を落とした。闇の魔術に対する防衛術は一年ごとに担当教官が替わる。今年もまた例年通り、新しい教授を迎えたようだった。上級生に聞いたところによると、この科目はこの十数年、二年以上続いた教師が存在しないという。そうした伝説が生まれるほどに、移り変わりの早い教科ではあった。
「あーあ。チェンバーズ先生、好きだったのにな」
「そう?私はそうでもなかったな。リンドバーグが口うるさくないことを願うわ」
あっけらかんとそう言って、向かいのスーザンがデザートの糖蜜パイを頬張る。はじとりとその光景を眺めたが、すぐにそちらから視線を外してグリフィンドールテーブルをさっと見渡した。
そして、さほど間を置かずに目当ての女子生徒を見つける。容貌は、あまり変わっていなかった。少し、髪が伸びた程度か。姿を見なかった期間を考えると、その間に何度か髪は切ったのだろうが。
プライア。アイビス・プライア。
彼女は同級生の
昨年までは確かに同級生だったはずの女子生徒たちと一緒だったが、その目はひとりだけ、どこか遠くを見据えているかのようだった。周りの友人たちも、心持ち彼女とは距離を置いているような、余所余所しい雰囲気だった。仕方のないところだろう。彼女の仕出かしたことと、彼女だけに下った判決のことを考えれば。
は小さく息を吐いて、何事もなかったかのようにデザートの皿を取った。
Sandman of NEW MAN
闇の魔術に対する防衛術
「『睡魔』という言葉を知っているね?」
変身術の課題で明け方まで起きていたは、うつらうつらしていたところへそんな言葉を聞かされて、瞬時に眠気が吹き飛んだ。知らず知らずのうちに口の端に垂れていたよだれを慌てて拭い、教壇に立つリンドバーグを見やる。年の頃は、三十半ばだろうか。肩口まで伸ばした
というよりは知らぬ間に勝手に伸びたとでもいわんばかりの黒髪を後ろで適当にまとめ、すらりとした長身の痩躯を萎びたローブに包んでいる。他の同期生たちもと似たような反応を示した者が多く、自分のことを言われたのかと不安げに辺りを見回す友人たちの姿がここからもよく窺えた。だが新任教師はまったく意に介した様子もなく、杖を振って黒板に『睡魔』と記す。
「睡魔とは何だ。君、言ってみなさい」
初回の授業で突然指名されたメイは混乱したようだったが、隣のスーザンに縋りながら、なんとか答えを出した。
「睡魔とは……その、眠気のことです。眠気のことを、昔の人たちが魔物にたとえてそう呼びました」
「その通り。グリフィンドールに五点」
教室中から静かな歓声があがる。リンドバーグはにこりともせずに再び話し始めた。彼が言葉を発するだけでやけに威圧感があり、沸き上がったざわめきも漣のように引いていく。これはマデリンが言っていた、「冗談の一つも言えないつまらない男」かもしれない。
「今年は主に闇の生物に対処する方法を学ぶ。これが何か分かるかい?」
言ってリンドバーグは、教壇の下に置いてあった空っぽの鳥かごを持ち上げてみせた。誰もが首を傾げる中、の隣に座るリリーだけが颯爽と挙手する。そのことが多少意外だったのか、僅かに眉を動かしたリンドバーグは視線で彼女を指名した。リリーは手を下ろし、不安げに口を開く。
「先ほどの先生のお話と併せて考えると……サンドマンではないかと、思います」
サンドマン……教科書には軽く目を通してきたつもりだったが、まったく記憶に残っていない。だめだなぁとが頭を掻いていると、リンドバーグはリリーを見て初めて満足げに口角を上げた。
「よろしい。グリフィンドールに十点だ」
さすが、という目でみんながリリーを振り返り、彼女もまた嬉しそうに微笑む。はにかむようなその笑顔が、とても魅力的だった。
さて、といって、リンドバーグが授業を続ける。
「サンドマンとはどういった生物だ?答えられる者
ああ、先ほどの彼女以外に」
目には見えないその生物の正体を言い当てられたのだから、リリーは当然答えを知っているだろう。今度はジェームズが手を挙げた。
「はい。サンドマンは、人間の目には見えない妖精です。眠気を誘う砂の入った袋を持った、老人の姿をしていると言われています」
「その通り。グリフィンドールに五点」
リンドバーグはかごを教壇の上に載せ、杖を持っていない左手でその脇を軽く叩いた。
「この中には一匹のサンドマンが入っている。これを退治するのはさほど難しいことじゃない。今日は初回なので、君たちがどれほどの水準に達しているかを簡単に見させてもらおうと思う」
「でも、先生。サンドマンは目に見えないんでしょう?どうやって倒すんですか?そもそもそこに
本当にサンドマンがいるかどうかすら、僕らには……」
「サンドマンは強い力を持つ妖精ではない。奴らの姿は簡単な呪文で現すことができる。私がこいつを捕獲するときにも、その呪文を使った」
ワットの質問にさらりとそう答え、リンドバーグは教室中のグリフィンドール生を見渡した。
「さあ、この呪文はすでにどこかで習っていると思うが。分かる者
目には見えないものを、現してみせる呪文だ」
「ひょっとして……『アパレシウム』、ですか?」
恐る恐る、リーマスが口を開く。リンドバーグは彼に対し、四度目の加点をした。
「よろしい。『アパレシウム』は通常、透明インクで書いた文字を浮かび上がらせるための簡単な呪文だ。だがサンドマン程度の妖精なら、同様の効果をもたらす。もちろん一時的にだが、見えないことを利点とするこいつらにとってはなかなか厄介な呪文といえる」
そして杖を上げ
いや、と、小さくかぶりを振る。
「すでに習っている呪文ならば、君たちにやってもらおう。誰か、ここで実践してくれる者は?」
はそのとき、大慌てでリンドバーグから視線を外すピーターの姿を見た。目ざとくそれを見つけたらしい彼が、下ろそうとした杖の先をそちらへと向ける。
「君、ここへ出てきて試してみなさい」
「えっ?で、でも、僕……その、ちゃんと透明インク、見えるようにできたこと、なくて……だから、その……」
「いい機会じゃないか。ここで成功させればグリフィンドールに二十点あげよう」
に、二十点?アパレシウム呪文で、二十点?
『アパレシウム』は一年生の変身術の授業で習った呪文であり、さほど難しいものではない。それを成功させただけで、二十点?なんて滅茶苦茶な先生なんだとは思った。それとも自信のなさそうなピーターを見て、元気付けるつもりにでもなったのか?
ざわつく寮生たちが注目する中、緊張しきったピーターがリンドバーグの待つ教壇へとよたよたと近づいていく。その後ろ姿を見て、ジェームズとシリウスは声を潜めてなにやら楽しげに話し合っていた。
「まずは、杖の振り方を復習しようか。みんなも杖を出して」
言われるまでもなく、全員がすでに杖を机の上に出していた。杖を使わない授業は
たとえば魔法史がその筆頭だが
面白くないという考え方が一般的なので、杖を仕舞えと言われない限りはみんなどの授業でも最初から最後まで、杖はとりあえずノートの横に置いている。全員言われた通りに杖を持ったが、アパレシウム呪文の復習とあって、誰もが退屈そうだった。
たどたどしく杖を振ったピーターに、リンドバーグは表情を変えることなく一通りの杖の動きを繰り返す。そして発音に対しても何度か指導をし、ついにピーターがかごの中のサンドマンに呪文をかける瞬間が訪れた。教室中に、ぴりぴりした緊張が走る。失敗するか、それとも
。
「ア
アパレシウム!」
そのとき。
パン、と爆竹が弾けるような音がして、不意をつかれたたちは慌てて耳を塞いだ。一番驚いたのはピーター本人で、彼はそのまま後方に倒れ込み、尻餅をついた。だが瞑っていた瞼を開き、リンドバーグの傍らにある鳥かごを見やると
。
「よし、十分だ。約束通り、グリフィンドールに二十点」
先ほどまで確かに何もなかったはずの
いや、見えなかったはずの鳥かごの中で暴れ回る小さな小さな老人の姿を見て、リンドバーグは満足げにそう告げた。
「ピーター、良かったね!一度に二十点ももらえるなんて!」
リンドバーグはあっという間にホグワーツの人気者になった。愛想があるとはいえないが、些細なことでも点をくれ、生徒に分からないところがあれば分からないところまで遡って丁寧に教えてくれる。授業内容のレベルが低いとスリザリンやレイブンクロー生は野次ったが、その中で彼の指導方法を気に入っている生徒たちも少なくないことをは知っていた。
振り向いたピーターは、頬を紅潮させながら意気揚々と声をあげる。
「うん、僕、あんなに点数もらったの生まれて初めてだよ!」
「たかが『アパレシウム』だろ。できて当たり前だっての」
「そんなこと言って。こいつ、ピーターが失敗する方に今夜のデザート賭けてたんだよ?」
仏頂面のシリウスを示して、ジェームズがにやりと笑う。ピーターが満面にショックの色を浮かべるのを見て、眉をひそめたリーマスがそれをたしなめた。
「ピーターは一生懸命だったのに、君たち、そんなことしてたなんて」
「いいだろ。どっちみち失敗するか成功するか、二つに一つだったんだから」
「そういう問題じゃないよ」
「ごめんごめん、僕らが悪かったよ。ごめんよ、ピーター。僕は君が成功するって信じてたよ!」
「クソ、ジェームズ、自分だけ調子のいいこと言いやがって!賭けようって言い出したのはお前だろうが!」
歯を剥いたシリウスの拳をひょいとかわして、ジェームズが軽く舌を出す。項垂れるピーターの肩を宥めるように叩いて、は嘆息混じりにシリウスを見やった。
「もう、いいから……早く行こうよ、次の授業」
「次?次って何だったっけ?ええと……エバンスは?」
がひとりでいることを不思議に思ったのか、きょろきょろと辺りを見回して、ジェームズ。もう一つため息をついては自分の手元の教科書を示した。
「次、選択授業でしょ?リリーはマグル学に行ったよ。ジェームズも同じ授業だったよね?」
「え、あ、そっか!マグル学!やー、楽しみだな。それじゃあ、僕、もう行くね。お先」
元気よく手を振って、ジェームズが飛ぶように走り去っていく。その後ろ姿を見送って、シリウスは不可解そうに顔をしかめた。
「マグル学……ねぇ。あいつも変わってるよな、ガキの頃はわざわざマグルのピアノ教室なんかに通うし」
「いいじゃない、別に。シリウスはもっとマグルのこと勉強すべきじゃない?」
それは何気なく、口にしただけなのだが。
その言葉に異様なまでに反応したシリウスは、険悪に目を細めてこちらを睨み付けた。
「何でお前にそんなこと言われなきゃなんねーんだよ」
「え、は?何でって……なによ、そんなに怒らなくてもいいじゃない」
「別に怒ってねーよ」
「怒ってるじゃん!そんなヤクザみたいな顔して言われたって説得力ないし!」
「ヤクザ……?」
複雑な顔で曖昧に笑って、リーマス。シリウスはそのままの形相でフンと鼻を鳴らし、肩を怒らせてひとりで早々に立ち去ってしまった。
「なによ、何なのよ、あれ。ねえ、私、そんなに悪いこと言った?」
「さあ……僕にはよく、分からないけど」
困ったように肩を竦め、リーマスが言った。
「でも……そうだね。ほら、シリウスは名のある魔法使いの旧家の出だから。のさっきの言い方だと……『魔法使いのお坊ちゃんが、もっと外の世界のことでも勉強しやがれ』とでも聞こえたのかもしれない」
「えっ!私、そんなつもりなんてこれっぽっちも……」
「ないのは分かってるよ。シリウスだって、君がそんな子じゃないって分かってるはずだよ。でもね、。シリウスはああ見えて、意外と繊細なんだよ。ちょっとしたことでも、傷付きやすいやつなんだ」
繊細で、傷付きやすい。確かに、そうかもしれない。家庭のことを持ち出されて、幾度となく拳を握るシリウスを一年生のときから見てきた。分かっている、はずだ。私だって。でも、リーマスにそれを指摘されると……。
「うん……そうだね。もっと、気をつけるように……するよ」
「だからって、あまり神経質になりすぎる必要はないと思うよ。シリウスだってもっと、大人にならなきゃいけないんだ。きっと」
じゃあ、僕らも行くね。そう言ってリーマスは、ピーターと共にジェームズやシリウスが消えた方向とは反対側の廊下に爪先を向けた。
「は古代ルーン語だったよね?」
「え……あ、うん。そう」
「僕らは数占い。それじゃあ、シリウスやラルフによろしく」
ああ……シリウス。そうだ、彼も同じ授業を取っているのだ。教室まで一緒に行こうと思ったのに。どうしていちいち、こんなことになってしまうのだろう。
リーマスたちと別れ、重々しい足を引き摺って教室へと向かう。確か、四階。一度も使ったことのない、隅の小さな教室。それだけ受講生も少ないということだろう。
目の前の階段を上りはじめたとき、後ろから声をかけられては立ち止まった。
「!ちょうどよかった、これから選択授業だろう?」
振り向くと、駆け寄ってきたのはグリフィンドールの同期生ラルフだった。ラルフ・サイラス。一年生のときから、顔を合わせれば言葉をかわす程度の間柄ではあった。
「うん、そう。ラルフも古代ルーン語なんだよね?私もだよ!教室まで一緒に行こう」
「おう。そう、それで悪いんだけどさ、教科書見せてくれないか?」
「はあ?」
なにをいってるんですか、このひとは。
「教科書って……持ってないの?」
「そう。なんか、家から持ってくるの忘れちゃったみたいでさ。明日にはふくろう便でおふくろが送ってくれることになってるんだけど」
「ば……馬鹿ですか?教科書忘れてくるって……何やってるの?」
「そう言うなって。だから、今日だけ、な?」
両手を組み合わせて、上目遣いに懇願してくる。その姿に心を動かされて、というわけではないが、は軽く頬を掻きながら嘆息した。
「……仕方ないなぁ」
「ほんとか?助かった、恩に着る!、ありがとうな」
教科書を、しかも今年から新たに始まる授業の教科書を家に忘れてくるなんて、なんておっちょこちょいなんだ。ピーター以上じゃないか。
だが、ありがとうと言われて悪い気はしない。呆れ顔で笑いながら、はもう一度だけ繰り返した。
「
もう、仕方ないなぁ」