無事に期末試験を終え、日本に戻る準備を進める。選択授業の希望も提出し、試験期間とかぶっていた誕生日も友人たちに祝ってもらった。空っぽの寝室を見渡し、よし、と微笑とともに呟く。準備オッケー。
ただひとつ、胸を過ぎる不安がある。
(アイビス・プライア、か……)
夏休みが明ければ、帰ってくる。彼女が。そのことを思うと、胃が落ち込むようにずっしりと重くなるのだ。半年なんて、あっという間だった。
は深々と嘆息しつつ、ひとりその部屋をあとにした。
LAST SLEEP
それは長い眠りか、それとも
「新学期にはミス・プライアが復学します。二度とあのようなことはないと思いますが、もし万が一に彼女とトラブルになりそうなことがあればすぐにわたしに申し出るようになさい」
「……トラブルっていっても。わたし、結局何のことで彼女と口論になったのか……思い出せなくて。彼女は、何て言ってたんですか?」
試験終了後、はマクゴナガルのオフィスに呼び出された。寮監は難しい顔で黙考し、やがて事務的な口調で言ってくる。
「あなたの振る舞いは、
多少目に付く
そういうことです、」
「………」
図に乗っている。そういう……ことか。その通りかもしれない。一年生のときは、確かに自分でも少しやり過ぎたと思う。今年は退院後リリーと過ごす時間が増えたので、ジェームズやシリウスたちの『可愛い悪戯』にはほとんど加わっていなかったが。
口を噤んだに向けて、マクゴナガルは淡々と続ける。
「だからといって、彼女があなたを傷付けてもいいという理由にはなりません。あなたは普段通り、堂々としていればいいのです」
「……はい。そう、ですね」
何のわだかまりもなく顔を合わせるのは、きっと無理だろう。たとえその夜のことを思い出せなくとも。だが同じ寮の中で生活しなければならないのだから、せめて気に留めないよう努めるべきだ。できるだろうか。この談話室に、彼女の目があっても。
顔を上げ、なんとか口元だけで笑ってみせる。
「大丈夫です。多分。ミス・プライアだって、この半年……あのお父さんの監督を受けてきたんだったら、きっと」
すると突然、マクゴナガルの顔に暗い影が差した。滅多に見ない寮監のその表情に、は落ち着かないものを感じて尋ねる。
「あの、先生? どうかしましたか?」
「……プライア氏は」
プライア氏は。彼が一体、どうしたのだろう。マクゴナガルは先ほどまでの表情を小さくかぶりを振って消してから、静かに告げた。
「ミス・プライアのお父様は、年末に亡くなられました。ですから彼女の監督は、代理として彼女の伯父様が」
「……え?」
プライアの、お父さんが。あの、誠実そうなお父さんが? 一瞬、頭の中が真っ白になった。うめく。
「まさか……年末って、だって……わたし、お父さんに会いました! そんな……まさか」
マクゴナガルは、疲れたようにほんの少しだけ首を振った。
「あなたがプライア氏に会った、その三日後のことだそうです」
「そんな……どうして……」
プライア。プライアの、お父さん。茶色い髪を短く刈り上げた、生真面目そうな人だった。大の大人があんなにも必死になって頭を下げてくれたこと。それがたとえ、可愛い娘を護るためだったとしても。わたしは素直に好感を持つことができた。きっと、慕われることも多かっただろうと思う。もしも出会いがああしたものでなければ。いつかまた、出会えたら
と、思わないこともない。それなのに。
「事故……だそうです。ミス・プライアはすでに三年生のときにお母様を亡くしていますから、卒業まではその伯父様のところへ置かせてもらうと連絡がありました」
ほんの一瞬、彼女への同情が芽生えたことを否定する気はない。きつく目を閉じて、は自分に言い聞かせた。こんなのだから、シリウスにお人好しだとか言われるんだ。プライアの家族のことなんて、どうだっていい。どうだって……ああ、そうか……プライア氏は、死んだんだ。
心の中に漠然とした空虚が押し寄せるも、まったく実感が湧いてこない。死んだ。死んだ? あの人は確かにあのとき、わたしに頭を下げて謝ったじゃないか。彼はあのとき、確かに生きていたはずなのに。
もういない。もう。彼はあのときは確かに生きていて、今はもういない。
そうだ。母さんもまた、死ぬより前にはああして生きていたはずなんだ。それとも
誰もが死んでいて、さも生きているかのような振りでもしているというのだろうか。
(……なに言ってるんだろ、わたし)
混乱している。プライアのお父さんが、知っている人間が死んだと聞かされただけで、こんなにも頭の中が掻き乱される自分がいる。
「……先生」
そっと、口を開くと。小さな眼鏡の奥から鋭い眼差しでこちらを見つめ、マクゴナガル。
「何ですか?」
「先生は……
先生も、母のことはご存知だったんですか? わたしの母は、・です。わたしが一歳のときに、亡くなりました」
マクゴナガルは、しばらく身じろぎひとつしなかった。だがやがて、さり気なく視線を外しながら、
「
覚えていますよ。わたしが初めてこの学校で教鞭を執ったとき、そのクラスにいたのが彼女でした」
「え……そ、そうだったんですか?」
「ええ。あなたのように、彼女もまた多少規則を無視する傾向がありましたが」
そう言うマクゴナガルの口調がどこか懐かしむようだったので、そのことに安堵しながらは続けた。
「先生……人って、どうして死ななければならないんでしょう? 死ぬって何ですか? 分からないです……わたし、何で母が、死ななきゃいけなかったのか。わたし……いろいろ、教えてほしいことはたくさんあったのに」
涙を誘うような悲しみではない。母を失ったのは、物心がつく前だったのだから母の記憶などはない。ただ、夢に見る。三人と、一匹の犬とで明るく暮らす家族の夢。同じような夢を繰り返し見るのは、それがよほど理想の家族の形なのだろうか?
マクゴナガルは、傍目にはまったく表情を変えずに。だがよほど、考えてはくれたのだろう。しばらく黙してから、ひっそりと。
「確かに……あなたのお母様は、それをあまりに早く迎えることになりました。無念だったろうと思います。幼いあなたを、残して」
ですが、と言ってマクゴナガルは明瞭にあとを続けた。
「人は、あなたの言うようにいつか必ず死にます。それは、わたしたちの手の届かないところにあるものです。避けられたはずの死もあるでしょう。ですがそれは、単なる時期の問題に過ぎません。死なない人間などいませんし、仮にいたとしてもそれはとても味気ないことです」
「……味気ない?」
永久に生き続けるということは、味気ないという言葉で片付けられるようなことだろうか? それならば今この瞬間、わたしたちが生きているということそのものが味気なくはないと一体誰に言い切れる?
「今はまだ分からないとしても……不確かだからこそ、永遠ではないからこそ、一見平凡に思えるこの日常を大切に生きることができるのだと
お母様の早すぎる死は、いつかあなたにそのことをはっきりと教えてくれると思いますよ。わたしも、そしてあなたも、明日もこうして生きていられるという保証はどこにもないのですから。あなたの手の中に今あるものを、大切になさい」
そういう、ものだろうか。釈然としないものを感じつつ、はそれ以上何も聞かなかった。壁の時計を見上げ、マクゴナガルが僅かに眉を上下させる。
「もうこんな時間ですか。長くなりました
ミス・、寮まで真っ直ぐ戻るように」
「それじゃあ、また新学期にね」
「ええ。手紙、書くわ。、あなたも書いてね」
「うん、分かった。ペネロペ、大変だけど頑張って働いてね」
言うと、リリーの鳥かごに入った茶ふくろうは涼しい顔で、ほーと一声鳴いた。共鳴するように、かごの中のムーンも似たような声を出す。二羽は主人が仲良くなったせいか、ふくろう小屋に行くとよく隣同士で羽を休めていた。
どうしてペネロペという名をつけたのか。少し前にそのことを尋ねると、リリーはにっこりと微笑んで答えた。
「わたし、妹がいてね。ペチュニアっていうの。それで」
「そ、それで?」
それがどうやって『ペネロペ』に繋がるか分からず、鸚鵡返しに聞き返す。彼女は小さく噴き出して、言った。
「それで……ええと、そうね。妹の名前から、最初の一字だけもらったの。『ペ』。あとは……語感ね、なんとなく」
「ふーん……妹さんのこと、好きなんだね」
そう言われたときのリリーの眩いほどの笑顔は、そのことを如実に物語っていた。
「ええ、大好きよ」
幸せ者だな、妹さん。お姉さんに、こんなにも思われて。
妹……か。兄弟って、やっぱりいいものなんだろうな。
「そういうは、どうして『ムーン』なの?」
自分のことを聞かれるとは思っていなかったので、「へっ?」と間の抜けた声をあげ、目をぱちくりさせる。その様子を見てくすくすと笑うリリーに照れ笑いを返し、は考えながら口を開いた。
「えーと……そうだね、わたしも何となくといったら何となくなんだけど……月かな、やっぱり」
「月?」
「そう。わたし、月が好きなの。満月。ムーンを買いにいったその日、ちょうど満月だったから、そのことがすごく頭の中に残ってて」
あ。言いながら、はっとする。そうか、あの夜……彼は。リーマスは。きっと。それがそのまま顔に出ていたのだろう、リリーが不思議そうにこちらを覗き込んできた。
「どうしたの?」
「あ……ううん、なんでも」
適当にごまかして、首を振る。そうだ。わたしは結局……リーマスのこと、何にも知らずに。何も分からずにずっと、ここまできたんだ。
何か、してあげられることはないだろうか。
「リリー……リリーって、魔法薬学が得意だよね?」
「え? ええ、まあ……授業の中では、好きな方よ。それがどうかした?」
「ええと……魔法の薬で、狼人間って治せないのかな?」
「えぇ?」
素っ頓狂な声をあげて、リリーが僅かに仰け反る。彼女のそうした様子を目の当たりにすることは珍しく、こうした状況でなければこちらが驚いてしまっていたかもしれない。
「なに? どうしたの? ……突然、そんなこと」
「え、ええと……大したことじゃないんだけど、その……ほら、あの! 去年、グルーバー先生の授業でちょっと狼人間のこと勉強したでしょう? それで、あの後ほんの少しだけ本とか読んで、こういう人たち、何とかしてあげられたらいいなって思って」
「……」
「だって、そうでしょう? あの人たち、好きで人間を襲ってるわけじゃないもん。本当は誰も傷付けたくないのに、身体が言うこと聞かなくて、苦しくって……だからわたし、その人たちを治す薬とか呪文とか、あれば何だってするのに。自分の身体が……自分の気付かないうちに、人を傷付けてるなんて……」
自分が迂闊な発言をしていることにも気付かず、溢れ出す思いを止めることもできなかった。リーマス、リーマス。ごめんね。偉そうなことを言っておきながら、結局わたしには何もしてあげられることはないんだね。
俯き、唇を噛み締めるを、リリーはそっと抱き締め優しくその背を叩いた。は目を見開き、息を呑む。
「……リリー」
「わたし、好きよ。あなたのそういう、優しい気持ち」
「別に……そんな、大したもんじゃ」
「そうね。確かにグルーバー先生の言ってた通り、人狼の治療法っていうのは今はないでしょうね。わたしもあのとき、少し本を読んだの」
「……だよね」
がっくりと、肩を落とす。分かっていた。分かってはいたのだ。だが。
項垂れるに小さく笑いかけ、リリーは励ますように言った。
「落ち込むことはないわ。今はまだないっていうだけで、永遠に不可能だなんて誰も言ってないんだから」
「でも……できるのかな、いつか。狼人間って……魔法使いから、差別されてるんでしょう?」
「他の誰にもできないなら、あなたがそれを見つければいいじゃない」
さも当然のように言ってくるリリーには目を見張った。見つける? わたしが、その方法を?
「今までも、人狼の治療法っていうのは模索されてきたと思う。でもそれは、魔法使いが彼らを恐れているから。真剣に、彼らのことを思って研究してきた人たちが、一体どれほどいるんでしょうね? その気持ちを強く持ったあなたなら、彼らには見つけられない何かを見つけ出せるかもしれない
そう、思わない?」
「………」
はしばらく何も言えず、ただ黙って眼前の友人を見つめていた。その透き通った瞳が、自分の背を押してくれるような気がした。崩れるように微笑んで、告げる。
「ありがとう、リリー。なんか……ちょっと、自信が出てきた」
「そう? 良かった。力になれることがあったら、何でも言ってね」
リリーの言葉のひとつひとつが、自分の力になっていく。リリーだけではない。誰もの言葉が、わたしの背中を押してくれる。勇気を与えてくれる。
何も、できないかもしれない。それでもわたしには……この気持ちが、確かにある。強く。リーマスの力になりたい。
キングズ・クロス駅に到着し、リリーと別れたその足で漏れ鍋へと向かう。今年もまた一時的に煙突飛行ネットワークを繋いでもらい、そこから日本へ戻ることになっていた。
プラットフォームを抜け出す直前、はふと、見覚えのある顔を見つけたような気がしてその場で足を止めた。だが振り向いたときには、すでにそこには誰もいなかった。往来のど真ん中で立ち止まったため、忙しなく行き来するマグルたちが迷惑そうに彼女を避けながらそれぞれの目的地へと急ぐ。首を傾げながら、彼女もまた重いトランクを引き摺って歩みを再開した。もしかしたら、魔法であっという間に姿を消したのかもしれない。
レグルス・ブラック。
ちょうど一年前の夏、ダイアゴン横丁で出会ったその少年は
ジェームズいわく
ブラック家の伝統に漏れず、スリザリンに組み分けされた。何度か城内で擦れ違うことはあったのだが、その度にさり気なく、本当にさり気なく、凄まじい形相で睨み付けられた。そう、あのとき彼がジェームズに向けたもの、そのものの視線で。
だが実の兄と遭遇したときはというと、彼はまったくといっていいほどその表情を変化させなかった。それはシリウスも同様で、彼らはまったく赤の他人、いやそれ以上に無関心を装って、互いに一言も口を利かずにそのまま擦れ違うのだった。初めてその光景を見たときは、目を疑った。なぜ? 兄弟じゃないか。
それほどに……血筋を巡る考え方の相違というものは、兄弟間にまで決定的な確執を生むのだろうか。
(……分かんないよ、ちっとも)
は胸中で独りごちながら、鳥かごを掴んだ左手で漏れ鍋のドアを押し開けた。先ほど一瞬だけ見かけた光景を脳裏に思い浮かべる。
レグルスと、その背を誇らしげに撫でる中年の女性と。あれが彼のお母さんだろうか?
(そんなに嫌そうな人には見えなかったけど)
両親のことを語るときの、シリウスのしかめっ面を思い出す。むしろそれは嫌悪だった。それともあの笑顔を、彼女は長男には向けないのだろうか?
(ますます分かんないや……)
投げ出すような心地で、はカウンターのトムに声をかけた。
「ただいま、トム! 帰る前に、アップルソーダ、一杯ちょうだい!」
「……あれか?」
「ああ、あの子供だ。間違いない」
「それなら、今すぐにでも
」
「駄目だ。あの方のご命令を聞かなかったのか」
鋭い口調で囁き、彼は目深にかぶった帽子の下から僅かに黒い瞳を覗かせた。
「あれは単なる子供に過ぎん。連れ戻ったところでまだ何の役にも立たんだろう」
「だが、このまま奴らの手元に
」
「お前にガキの趣味があるとは知らなかったな」
「………」
顔をしかめて黙り込んだ相棒に向け、失笑する。
「冗談だ。気を悪くするな」
「……お前の冗談なんて、慣れてるさ」
「悪かった。だが、あの方のご命令だ。今はまだ手を出すな」
呟いて、彼は無音でブーツの踵を鳴らし、霞のようにその場から消えた。