大好きだった。思うままに奏でる旋律を自分の鼓膜に刻むのが。それを聞かせた人々が笑ってくれることが。父も母も自ら楽器を手に取ることはなかったが、その美しさを解する心を持った素晴らしい人たちだった。
幸せだったんだ、僕は。この両親の下に生まれてきたこと。魔法の血筋を持っていたこと。ピアノに出逢えたこと。
それをほんの一瞬で、見も知らないあの男が奪い去ってしまったんだ。
僕は絶望した。すべてを失ったと思った。
両親の愛さえも、いつの日か儚い霞のように消えてしまう夢を見た。
Bittersweet Melody
『 と も だ ち 』
趣のある、グランドピアノ。もう何年も弾いてないから忘れてるよ、と言いながら、ルーピンは素人目にはブランクをまったく感じさせない演奏を披露してくれた。ピアノにはほとんど馴染みのないにはその曲目は分からなかったが、それでも彼の奏でる旋律が自分の心の奥底を震わせるのを自覚することはできる。繊細で、どこか儚く、悲しげに……そう、まさに今の、彼のように。
「『悲愴』、第二楽章
ベートーベンの、ピアノソナタだよ」
「すごい、上手!ほんとに何年もやってなかったの?」
「うん。僕がピアノ教室をやめたのは、もう五年以上前になるからね。もっとも」
言って彼は、そっと鍵盤を撫でながら苦笑した。
「こんなにいいピアノを弾いたのは初めてだけど」
そして愛おしそうに目を細め、ゆっくりと眼前の大きなピアノを見渡す。やがてルーピンは椅子の上で身体をこちらに反転させ、傍らに立つを真っ直ぐに見上げた。思わず、どきりとする。まともに彼の瞳を見たのは、久し振りかもしれない。きれいな色だった。
「どうして……僕をここに、連れてきたの?」
「えっ?」
「僕じゃなくても良かったはずだろう?ジェームズだってシリウスだって、昔ピアノをやっていたって言ってた」
「……別に、誰でもいいから聞かせてほしかったわけじゃないよ」
するとルーピンは、訝しげに眉をひそめた。知らず知らずのうちに顔が熱くなってきて、慌てて視線を逸らす。明るい窓の方へと身体を向けて、はガラス越しに晴れ渡った空を見上げた。
「私はただ
ルーピンくんに、弾いてほしかった」
「……どうして?」
ふっと、胸の中に浮かんできた言葉があった。だが、違う。私が言うべきなのは、そんなことじゃない。
「ルーピンくんのこと、知りたかったから」
「……どうして?」
振り返り、相変わらずこちらを見上げて瞬きもしないルーピンの薄茶色の眼を、見つめる。それはどこか、吹っ切れた潔さを感じさせなくもない。
答えを知っているのだ。彼は。
「どうして
そればっかりだね、ルーピンくんは。理由を聞けば、納得するの?」
「さあ。聞かないことには分からないよ。君だって、根拠のないものをすぐに信用したりはしないだろう?」
「言ったって信じないくせに。何を言われたって、ルーピンくんは信じようとしないじゃない!」
意識したわけではない。だが気付いたときには、衝動に身を任せ、身体ごと振り向いたは拳を握って声を荒げた。ルーピンの顔付きが、ほんの少しだけ強張ってその動きを止める。
構わず、はあとを続けた。
「私、昨日あそこにいたの。暴れ柳。ジェームズたちと一緒に。あなたとジェームズのやり取り、ずっと聞いてた」
ルーピンは驚いたようだったが、その表情もすぐに霧散していった。疲れたように瞼を伏せ、顔を下げる。その指先が、鍵盤を離れてそっと彼の膝の上に落ちた。
「分かってるはずだよ。ジェームズたちがあなたのこと、誰にも喋ったりしないって。ジェームズがあなたのこと、心から心配してるってこと。シリウスだってピーターだって……昨日のあのジェームズの声聞いて、それでそんなことに気付かないはずないよ!そうでしょう?ルーピンくん、言ったよね。私が入院したとき、ジェームズたちがものすごく心配してくれたって。それと同じことだよ。ジェームズたちはずっと、あなたのこと心配してた。何でか分からない?好きだからだよ
みんな、ルーピンくんが好きだからだよ!」
彼は何も言わない。ただ膝の上で握り締めた拳を、微かに震わせて。
「ジェームズ、言ってたよ。もしそれがリーマスじゃなかったら、
そういう目で見てたかもしれない……でも、リーマスだから。それがリーマスだからこそ、リーマスがリーマスだってこと以上に大事なことなんてないって。みんな、好きなんだよ。あなたのこと。あなたがどんなに友達思いな人か、知ってる。もちろん……私だって、そうだよ」
少しだけ掠れた声をごまかすように、さほど間を置かずに続ける。
「
嬉しかったんだよ、ほんとに。何気ないときに、何気なくルーピンくんが声かけてくれるの……私、ほんとに嬉しかったんだよ」
だから。だから。はこみ上げてくる涙を無理に抑えつけ、告げた。
「だから
ルーピンくんも、もたれかかっていいんだよ。ひとりで苦しまなくたっていいんだよ。つらいときはつらいって言ったらいいんだよ。嬉しかったら嬉しいって言えばいいし、悲しいときは悲しいって言ったらいい。言いたくないことは言わなきゃいい。でもそれでそんなにつらそうな顔ばっかりしてるんだったら、ちょっとくらい迷惑かけたって誰かに話せばいいじゃない。少なくともジェームズたちは、あなたが狼人間だからってそのことで何か言ったりなんかしない。それは、私が保証するから」
違う。ちがう。私が、本当に言いたいのは。
「……私だって、そうだよ。何も、できないかもしれない。でも、それでも……話を聞くくらいなら、できるんだから」
精一杯の。それは、今の私にとって精一杯の。
「私を、信じて」
他に、何を言えば良かった?
沈黙が続き、自らの出過ぎた行いを悔い始めた頃。
顔を上げたルーピンの瞳から、はまるで滝のように涙が流れ落ちるのを見た。あまりの事態に度肝を抜かれ、目を見開く。彼は膝の上で拳を握り締めたまま、激しく身体を震わせていた。
「……本当は……やめたく、なかった」
「え……?」
「本当は……ずっと、続けたかったんだ。僕は……ピアノを弾くことも、教えてくれた先生のことも大好きだった……」
彼は再び視線を落とし、広げた両手で顔面を覆った。傷だらけの、優しそうな手。その下から、くぐもった声で言ってくる。
「でも……六つのとき、家の近くの山で噛まれたんだ……あの、狼人間に。両親は癒者を呼んでできるだけの手を尽くしてくれたけど……狼人間の噛み傷には、解毒剤なんてない。僕は……月に一度、自分でも何がなんだか分からない
獣にならざるをえなかった」
ルーピンは堰を切ったように話し続けた。まるで数年の間、言葉そのものを奪われていたかのように。
「満月の夜は……必ず近くの病院の、地下牢に閉じ込められた。とても家にはいられない。かといって外に出れば今度は
僕が誰かを噛んでしまう……獣の時間、理性なんてないんだ。僕は……
あいつはただ、人間の肉の感触を求めて彷徨い続ける。僕は隔離されるしかなかった」
想像を絶する苦しみ。どれだけ推し量ろうとしても
私は決して、ルーピンを理解できない。そのことが無性に歯痒かった。でも、それでも。話を聞くことくらい、できる。
「両親は……できるだけ、僕を家から出させないようにした。息子が狼人間になってしまっただなんて
君には分からないかもしれないけど……魔法社会の狼人間への目は、あまりに厳しすぎる」
「……ジェームズが、言ってた」
僅かに顔を上げたルーピンは、頬の涙を粗く拭いながら、自嘲気味に笑った。
「そうだろうね。両親は変わらず僕を愛してくれたけど
僕は、ピアノ教室もやめざるをえなかった。僕は外に出られなくなった……もう両親にとって僕は、『自慢の息子』じゃなくなった」
「そんなこと
」
「いいんだ。ただ、聞いてほしい」
の言葉を遮って、ルーピン。
彼はもう泣いてはいなかった。赤く腫れた目を天井へと向けて、小さく息を吐く。
「子供の頃から楽しみにしていたホグワーツへの入学も、諦めた。狼人間が入学を許可された例はない……生徒、職員……誰にとっても、危険すぎる」
「でも……ルーピンくんは」
「それはダンブルドア校長のお陰だよ。彼はホグワーツの歴代校長の中でも最も偉大で
型破りな人だと、言われてる。ダンブルドアは僕に……ちゃんとした措置さえ取れば、こんな僕にも魔法教育を受ける権利があると言ってくれた」
昨夜のルーピンとジェームズとのやり取りを思い出し、はようやく合点が行った。僕の入学を許可したダンブルドアだって、きっとただではすまない……。
「僕は……毎月、満月の夜にはあの暴れ柳の下から続いている隠し通路を通って、ホグズミードの古い屋敷に行くんだ。そこは外から完全に遮断されているから、変身した僕がどれだけ暴れ回っても……誰も傷付けずにすむ。そうやって僕は、ずっとこのホグワーツで過ごしてきたんだ」
ホグズミード。確か、ホグワーツ特急が到着するあの駅がある、魔法使いの村。三年生になれば、決められた週末に出かけることができるという。
そんなところでルーピンはずっと、たったひとりで。
「僕は、まさかこの体質のことを……誰にも、話すつもりなんてなかった。でも、ルームメートのジェームズたちが、僕が月に一度ベッドを留守にすることに気付かないはずがない。僕は言い訳を考えたよ」
「お母さんの具合が良くないって?」
「
そう。でも……君も知っての通り。元々ジェームズとシリウスは、とても頭が良いからね。いつかは気付かれるだろうと思ってた……でも、彼らは何も言わない。僕も、何も言わない。それでいいと思ってた。お互いに気付かない振りをすれば
誰も、傷付かないですむ」
「それは違うよ」
強い口調で反論し、は目を見開いてこちらを向いたルーピンに告げた。
「ジェームズたちは傷付いてた。いつかルーピンくんが自分から話してくれるって信じて。自分たちには何もできないんだって苦しんでた。ルーピンくんだってずっとひとりで抱え込んで……傷付いてたんじゃない。ジェームズの言う通りだよ。何のためにダンブルドアがあなたの入学を認めてくれたの?同じこと、考えてたはずだよ」
ルーピンの薄茶色の瞳が、浮かんだ涙に揺れる。
「怖かったと……思う。私にその気持ちが分かるはずないけど……でも、相手の心なんて見えないから。見えないものを信じるって、一番難しいことだと思う。でも、信じてほしかった。ジェームズたちのこと。私……あんなに真っ直ぐな人、他に知らないよ。信じていいと思う。信じて、甘えたっていいと思う。あなたが気にしてるほど、ジェームズたちはあなたの体質のことなんて気にしてない」
数秒ほどの沈黙を挟んで。
ようやく徐に口を開いたルーピンは、消え入りそうな声で、言った。
「……どうして、だい?」
「えっ?」
「どうして……君が、そこまで?僕は君に……何も、してあげたことなんてないのに。どうして……そんなに……」
「言ったはずだよ」
どうして。どうして。それ、ばかりで。
不可解さに眉根を寄せたルーピンに、はっきりと言い放つ。
「私、嬉しかったの。ルーピンくんが何気ないときに声かけてくれるのが、ほんとに嬉しかったの」
そして伸ばした両手で、彼の冷えた右手を握り締めた。その震えを、すっぽりと包み込むように。
「それだけじゃいけない?それだけのことでルーピンくんの役に立ちたいって思っちゃだめなの?」
「……さん」
呟いたルーピンの眼に、再び涙が滲む。彼は空いた左手で必死にそれを押さえつけると、何を思ったか突然喉の奥で忍び笑いを漏らした。
「なっ、何がおかしいの!」
「いや……ごめん。なんだか……幸せだなって、思って」
「へ?」
「……幸せ者だよ、僕は」
その言葉を聞けただけで。胸から溢れ出してくるのは、きっと。
の手をそっと離したルーピンは、再びピアノに向き直って鍵盤に指を添えた。だが音は鳴らさず、囁く。
「
怖かったんだ、僕は。僕の正体を知ったら……みんなきっと、僕から離れていってしまう。僕はまた、ひとりになる」
彼はその手を膝の上に戻し、ゆっくりとこちらを見上げた。
「でも、違った。心を閉ざしている限り、僕はずっとひとりだったんだ」
ルーピンの眼が、透き通った色を浮かべての胸を捉える。こんなにも純粋な瞳の色を。私は、今まで知らなかった。
「気付かせてくれたのは……君だよ。本当に
ありがとう」
しゃくり上げそうになるのを何とか堪え、は激しく首を横に振った。違う、ちがうよ。ありがとうを言いたいのは、本当は。
「一つだけ
確認しておきたいんだ」
ひっそりと。柔らかな眼差しで少しだけ瞼を下ろしたルーピンが、口を開く。は急いで目尻を拭ってから改めて彼の方へと向き直った。
顔を上げたルーピンの瞳と、視線が交わる。心臓が、不自然に脈を打つ。
「僕たちは……友達、なんだよね。きっと」
意味が分からず、は目を見開いた。友達。ともだち。僕たちは、ともだち。きっと。きっと……?乾いた喉に、うまく言葉が出てこない。
「え、それは……なに、どういう、意味?そんなの……決まってるじゃない。私たち、友達でしょう?」
友達。トモダチ。私たちは、友達。自分の言葉に、ちくりと胸が痛む。
本当に、それでいいの
?
だがルーピンはの答えを聞いて、ほっと安堵したように目元を緩め、微笑んだ。
「そう……だよね。うん、ごめん。変なこと、聞いて。ありがとう。そう言ってもらえて
嬉しかった」
「……ううん。当たり前……だよ。そんなの」
そのとき確かにこの胸を苛んだ痛みに、そっと手のひらを握る。だが表情だけは平生を装って、目の前の少年へと笑いかける。リーマス・ルーピン。初めて好きになった男の子。それは決して誰にも分からない苦悩にとりつかれた
狼人間という存在。
だがたった今、愛おしそうに手元の鍵盤をなぞるその姿は繊細な心を抱いた単なる少年に過ぎなかった。
「もう一曲……聞いてもらえるかな」
「うん?喜んで」
はにこりと微笑んで、ピアノに向かうルーピンの横顔を見つめた。秘密を打ち明けた彼の表情は、とても穏やかに落ち着いていて。
これでいいんだ。これで。彼の苦しみが、ほんの少しでも和らいだとしたら。
「『カッコウワルツ』
僕が初めて家族の前で弾いた……思い出の、曲なんだ」
そう言って彼が奏でたのは、とても軽快なメロディーだった。
本当に、嬉しかった。僕がピアノをやっていたと覚えてくれていたことも、つらいときはつらいと言えばいい、少しくらい迷惑をかけたって、もたれかかればいいのだと言ってくれたことも。こんな言葉をかけてもらえる日が訪れるだなんて、夢にも思わなかった。しかも
まさかあの、彼女の口から。
彼女のことは、可愛いと思っていた。明るい、いい子だと思っていた。できることなら傍にいたい。もっと、ずっと。でも僕は
僕には彼女を引き付けるだけの魅力も、彼女を繋ぎ止めるその資格さえもない。だから諦めた
何を意識するよりも早く、諦めていた。
それだというのに。
「僕たちは……友達、なんだよね。きっと」
彼女はその質問に少し戸惑ったようだったが、さほどの間を置かずに言ってきた。
「そんなの……決まってるじゃない。私たち、友達でしょう?」
友達。トモダチ。
そうか。そう……だよ、な。
「うん、ごめん。変なこと、聞いて。ありがとう。そう言ってもらえて
嬉しかった」
嘘だ。本当は、僕は。
上等のグランドピアノ
何度も夢に見たそれに向き直りながら、彼は心の中だけでそっと呟いた。
僕は一体、彼女に何を期待していたのだろう。