リーマスのこと、温かく包んであげてほしい。
(そんなこと言われたってな……)
はひとりであてもなく城内を歩きながら、深々と息をついた。
ルーピンは今日の朝食の時間には現れず、顔を傷だらけにしてやって来たのは二時間目の変身術の時間だった。敢えてジェームズたちとは離れた席を選び、素知らぬ風で先生の話を聞いている。三時間目以降もずっとそうで、彼は決して昨夜の出来事には触れないつもりでいるようだった。
ジェームズたちの推測では、彼は毎月満月の夜になると、あの暴れ柳の下にある隠し通路かなにかでどこかへ移動し、変身しても誰も噛まずにすむようにと計らっているのではないかということだった。さすがに変身しているときは誰の手にも負えないので、そうするより他に彼がホグワーツに入学できる手段がなかったのだろうと。
(そんなの……寂しすぎるよ)
けれども、変身した人狼は衝動だけで人間の肉を求める。人狼に噛まれてしまえば、その人物もまた獣になるしかない。
二重の孤独だと、は思った。自分の身体を傷付けてひとり過ごす夜の孤独と
誰にも打ち明けられずに歯噛みする、日々の孤独と。
どうにもできないかもしれない。人狼に噛まれたらまともな対処法はないと、すでに退職したが防衛術のグルーバーが言っていたのだ。それならば私なんかに、できることはないのかもしれない。
それでも。二重の苦しみを、一重の苦しみにすることはできるかもしれない。
気合を入れるつもりで自分の頬を軽く叩き、談話室に向けて踵を返そうとしたそのとき。
は確かについ先ほどまで何もなかった石壁に、真新しい扉が現れたことに気付いて目を見張った。決まった時間に別のところへ繋がる階段や、お願いしないと開かない扉、ただ扉の振りをしているだけの壁など、ホグワーツには実に様々な仕掛けがあったが、壁に忽然と新しい扉が現れるのを見たのはこれが初めてだった。周囲に誰もいないことを確認してから、そっと、真鍮の取っ手に手を伸ばす。そしては、覚悟を決めてその扉を開けた。
そこは普通の教室程度の大きさの、単なるがらんどうだった。質素な内装に、窓から差し込む陽光が淡く煌めいている。いや、違う……部屋の奥には
。
「……あ」
室内を見回して
それに気付いたは、知らず知らずのうちに間の抜けた声をあげていた。
A CASUAL VISITOR
あったりなかったり
とうとう、知られてしまった。
いや、頭の良い彼らのことだから、とうの昔に気付いてはいたのだろう。ただ、何も言わなかった
何も言わずに、友達でい続けてくれた。
『待ってるから。だから、僕らのところに』
ジェームズ。
ありがとう。だけど、僕は。
あの男に噛まれてからというもの、僕は当たり前にあるべきものを次から次へと失っていった。家族の愛さえ疑う夜もあった。ダンブルドアの使いだというハグリッドが入学許可書を持って現れたときも、僕は彼の言葉を決して信じようとはしなかった。
信じなければ、何物からも裏切られることはない。
けれど、彼は自らが巨人の血を引いていることをこっそり僕だけに打ち明けてくれた。巨人もまた古くから迫害されてきた。だからこそ分かるんだ。ホグワーツで学べ。学べばそこから新しい道が拓ける。ただ閉じこもっているだけでは何も変わらないのだと。
だからこそ僕は、この二年必死になって勉強してきた。なのに。それなのに。結局は何も変わらないじゃないか!
分からないんだ、ハグリッドには。いくら巨人の血を引いているとはいえ、彼は決して獣になることはない。自分の正体を隠してただ普通の生活を送っていればそれだけですむ。でも、僕は……。
ジェームズたちは、僕の獣の時間を知らないから。だからあんなことを言っていられるんだ。僕の本当の姿を知れば、一体誰が恐怖を抱かずにいられるだろう。人は相容れないものを見下すことで容易に飲み下そうとする生き物だ。それなのに、そのときにまだ、彼らは僕の隣にいてくれるというのか……?
ありえない。期待してはならない。そんなこと、あるはずがないんだ。
均衡は、崩れた。お互いに、知らぬ振りを続けていればよかったのに。
「ルーピンくん!」
「
」
それは不意打ちだった。いや、単に自分が考え事をしながら歩いていたために反応が遅れただけかもしれないが。
とまれ、視線を上げた先にある階段から、知った少女が身軽に駆け下りてくるのが見えた。
・。
リーマスは反射的に逃げそうになったが、それを悟った少女は鋭い声音で止めた。
「待ってよ、ルーピンくん!」
何なんだ?
声には出さずに、訝る。・。ジェームズやシリウスたちの友人。シリウスがジェームズの兄弟だとすれば、彼女はジェームズの大親友だろう。そうした語が適していることは誰だって知っている。どういう事情からかわざわざ日本の実家から通い、入学時の組み分け騒動で一気に有名人になった。美人というわけではないが東洋人らしく少し小柄で、可愛らしい顔立ちに表情が豊か。魔法史が好きという変わった嗜好の持ち主で、変身術と闇の魔術に対する防衛術は学年でもトップクラス。年末の入院騒ぎでも城中の関心を集めた、常にどこかで噂の種になりそうな生徒ではあった。
そんな彼女が、僕に一体何の用なんだ?
数週間前に、突然図書館で声をかけられた。それ以前から顔を合わせれば多少言葉を交わす程度の仲ではあったものの、わざわざ図書館のあんなに奥まで彼を訪ねてきて言った台詞は、こうだ。
『ルーピンくん……悩んでることがあるんなら、吐き出しちゃった方がいいと思うよ』
驚いた。そんなことを言ってきたのは
彼女の他に、ジェームズただ一人だったから。
どうして、君が?同室のジェームズならいざ知らず
どうして、君なんだ?
彼女のことは、可愛いと思っていた。女の子というだけなら他にも可愛らしい、美人だったりする子は少なくない。それでも彼女に惹かれたのは、単にジェームズの友達で、知らず知らずのうちに傍にいたからというだけではないのかもしれない。
ジェームズ・ポッターと、・。
この二人には共通する、人を強く引き寄せる何かがあるのかもしれない。
彼女は彼の目の前に立つと、ずっと走ってきたのか息を切らせながら顔を上げ、笑った。
「今からちょっとだけ、私に付き合ってもらえるかな」
はルーピンを連れて、八階の廊下へと戻った。確かに、この場所だった。だがあるはずのところにあの扉はなく、彼女は狼狽しきって右往左往した。
「あ……あれ?おかしいな、確かにここにあったのに……」
「何があったんだい?」
責めるでもない、ただ純粋な問いかけ。
は居心地の悪さに身悶えながら、おずおずとルーピンに向き直った。壁を指差して、告げる。
「ここにね、部屋があったの。さっき初めて見つけて」
「部屋?こんなところに?」
「うん……隠し部屋かなにかかなって思うんだけど。でもさっき、どうやって見つけたのか自分でも分からなくて。あああ……どうしよう」
「そこに何か、あるの?」
それはごく当たり前の疑問だったのだろうが。
答えようかどうしようか迷って、は先ほど確かに引いた取っ手の辺りを手探りした。何も、ない。
「うん、ちょっとね。ルーピンくんに見てもらいたくて」
曖昧にごまかして、ぐるりと首を巡らせる。場所を間違えたかな。いや、そんなことはない。思い出せ。さっきここを通るとき、私は一体何をした?
は近くの壁をすべて調べようと、訝しげに眉をひそめるルーピンの脇を通って周囲を行ったり来たりした。お願い、出てきて。ルーピンの心の闇に、少しでも近づきたい
。
「あ
さん!」
鋭い声をあげたのはルーピンだった。はっとして、振り向く。彼の指差した先には、彼女が確かに先ほど見つけた扉が突如として現れていた。
「ほんとだ……たった今、急に。どうやったの?」
「えーと……私もよく分かんないけど。とにかく精一杯お祈りしてた感じかな……?」
は取っ手を引いて、先にルーピンを中へと導いた。そのすぐあとに入って、そっとドアを閉める。
ルーピンもまた先ほどのと同じようにしばらくは部屋の存在そのものに感嘆していたようだったが、やがて隅の大きな黒いものに気付くと、はっと息を呑んで沈黙した。
「やってたんだよね、ピアノ」
そこは外の空間とはまったく隔てられた、二人だけの世界だった。聞こえてくるのは、自分の穏やかな鼓動だけ。それともこれは、彼のものなのだろうか?そうした錯覚すら覚えてしまいそうなほど、静かな部屋。何物にも遮られることのない。
「聞かせてほしいな、ルーピンくんのピアノ」