ルーピンの、秘密。
それは一体何なのだろう。きっとジェームズは、そのことに確信を持っている。だからこそ確かめようとしているのだ。そこに私が踏み込んでも、構わないのだろうか。何もかもを閉ざそうとしているルーピンの領域に、土足で踏み込んでもいいのだろうか。
だが、ジェームズはこの私を信用してああ言ってくれたんだ。たとえそれがどんなものだったとしても、私に受け止めるだけの覚悟があるのならできるはずだと。それを、彼と共有していこうと。このままではルーピンは、いつまで経っても苦しみのループから抜け出せない。もうすぐ二年が過ぎる。ここで何も変われないのなら、この先もずっと変われるはずがない。
覚悟を決めよう。初めて、好きだと思えた男の子。
自分の正直な気持ちに従おう。ルーピンが好き。私はもっと、彼のことを知りたい。
いつの日か、心から笑う彼の姿を見られると信じて。
DOUBLE FACES
満月の夜
あの日以来、ルーピンは目に見えてのことを避けるようになっていた。これまでは教室や談話室で顔を合わせれば軽く言葉を交わす程度には親しくしていたが、こちらの姿を見出すや否や、くるりと踵を返して別の道を選ぶ。やはりもう、無理なのではないか。そうした思いがしきりに頭をもたげたが、はなんとか考えないようにした。それは次の木曜日、少しでも彼に近づけたならその時にまた考えればいい。今はただ、その気持ちを推し量ることだけで。
「リリー、ごめん。私これから、少しチェンバーズ先生に用事があるんだ。先に帰ってて」
ジェームズとの約束の夜。夕食を終えてリリーと二人で談話室に戻る途中、二階の踊り場では足を止めた。不思議そうに振り向いたリリーが、その大きな緑色の瞳をぱちくりさせる。
「あら、珍しい。あなたが質問?」
「うん、ちょっとね……あと、三年生からの選択授業のことで相談もあるし」
「それならマクゴナガル先生に聞けばいいじゃない?」
「そうなんだけど……ほら、防衛術との兼ね合いとかもあるかもしれないし」
「そうね。色んな先生に相談するのはとってもいいことだと思うわ。それじゃあ、また後でね」
にこやかに手を振って、リリーの姿が階上へと消える。それがまったく見えなくなってから、は急ぎ足で階段を下りた。すでにほとんどの生徒たちが寮に戻っていて、途中すれ違ったのはほんの数人だけだった。闇の魔術に対する防衛術の先生に選択授業のことで相談があったのは本当だが、今はジェームズとの約束の場所へ向かうのが先だ。
こっそりと城を抜け出し、暗がりの校庭に友人を探す。
「、こっちこっち」
ジェームズは玄関から少し離れた茂みの奥に隠れるようにして立っていた。こちらの姿を見つけると、控えめに声をあげて軽く右手を上げてみせる。は慌ててそちらへと駆け寄った。
「ねえ、何なの?ジェームズ。これから何が始まるの?」
「まあまあ、そう急かさないで。とりあえず、これ、着てよ。はい」
言ってジェームズが広げた手の中には、何もなかった。いや
違う。久し振りに見る、透明マントだ。
受け取ったマントを言われるままに被ると、中にジェームズも入ってきて、随分と背の高くなった彼の首筋が目の前に見える。近づいたときに時折ふと香るジェームズ特有の匂いに、は脳裏を過ぎった熱を必死に冷まそうとした。
「少しだけ歩くよ。ほら、中庭の隅にある、暴れ柳」
「暴れ柳って……何でそんなところに?」
「まあ、話は後にしようよ。あんまり時間もないんだ」
少しだけ歩幅を大きくとりながら、ジェームズが囁く。はそれについていこうと小走りになって、何とか透明マントからはみ出さないように気を配った。もっとも、いくら今夜は満月で外が明るいからといって、こんな時間にこんな場所で誰かに会うこともなろうが。それでも思わぬところからハグリッドが現れる可能性を捨ててはならない。
だがそれも杞憂に終わった。小屋の横を通るとき、中からハグリッドの鼻歌が聞こえてきたからだ。
暴れ柳は、禁じられた森に近い校庭の端にあった。上級生から聞いたところによると、たちの入学の年に植えられたらしい。非常に貴重な樹木で、扱いも困難なため、薬草学のドレークにしか世話ができない。ジェームズやシリウスを含む多くの男子生徒が、その幹に触れられるかというゲームをして遊んでいたのだが、の入院中にレイブンクローの三年生、ガージョンが危うく片目を失いかけたので、あの木に近づくのは禁止されてしまったとスーザンが教えてくれた。
暴れ柳の射程圏内から少し離れたところで立ち止まったジェームズが、周囲を注意深く見回してからやっと透明マントを脱ぐ。そして柳の方を向いてそっと口を開いた。
「遅くなって悪い。リーマスは?」
まさか暴れ柳にでも話しかけているのだろうかとが訝ったとき、近くの茂みの中から誰かが立ち上がった。満月の明かりを受けてそのシルエットは容易に捉えることができる。小柄なピーターに
細身の、シリウス。そうか、彼らも一緒なのか。
「な……おい、ジェームズ。何でがここにいるんだよ!」
非難の声をあげたのはシリウスだった。こちらを指差し、早口に捲くし立てる。その様子には少なからず苛立ったが、マントを軽く畳んでポケットに突っ込みながらジェームズが切り返した。
「僕が一緒に来てくれるように頼んだんだ。だってリーマスのこと、すごく心配してる」
「だからって、こんなことにそいつを
」
「ピーター、リーマスはまだ?」
シリウスの言葉を途中で遮って、ジェームズが尋ねる。ピーターはおろおろとシリウスの顔色を窺いながらも、「うん、まだ来てないよ」と答えた。
「ジェームズ、話はまだ終わって
」
「話なら後でもできるだろう。早く隠れよう、リーマスが来る」
有無を言わせず、ジェームズはそこで一方的に会話を打ち切った。顔をしかめながら、シリウスが先ほどまで隠れていた茂みに腰を下ろす。とジェームズもそのすぐ近くの背の低い茂みに同じようにして身を潜めた。
声を落として、問いかける。
「……ねえ、一体何なの?ここにルーピンくんが来るの?」
「そう。リーマスは、必ずここを通る。それは間違いない」
「何なの?意味が分かんないよ……ここを通る?通って、どこに行くっていうの?こんな時間に、何のために」
ジェームズはしばし沈黙し、やがてひっそりと言いやった。
「……何度か、君に話したことがあるよね。リーマスは一年の頃からずっと、具合の良くないお母さんのお見舞いに帰ってるって」
「え?う、うん……まさか、それが今夜なの?それがルーピンくんの悩みとなにか関係があるの?でも何で、こんなところを
」
「しっ!静かに」
そのときまで、気付かなかったのだが。
反射的に言葉を切ると、どこからか急ぎ足が地面を擦る音が近づいてきた。急いていながら、罪人が息を押し殺して移動するように。必死に己の存在を消しながら、こちらへと接近してくる。
後ろ暗い心臓の高鳴りに自分も同じようにして息を殺し、は足音の持ち主が視界の中に現れるのを待った。いつの間にか厚い雲に覆われた空が地面に黒い影を落とし、その輪郭を捉えることは難しくなっていたが。
来るべきその人物を知っていたからかもしれない。にはそれが、同じ寮の同期生、リーマス・ルーピンであることが分かった。
どうしていいか分からず、傍らのジェームズを盗み見る。彼は首だけでこちらを向き、動くなという意思表示に小さく首を振ってみせた。
だが、そのとき。
近くの茂みから微かに、だが確かに木の枝か何かを踏みつける音がして、続け様にシリウスの抑えつけた罵声が聞こえてきた。
「バっカ野郎!てめ……」
大袈裟なまでにその音に反応したルーピンは、ほとんど飛ぶように振り向いてこちらの方向を見た。頭を抱えたジェームズが、声には出さずに深々と嘆息する。誤ってピーターが落ちていた枝でも踏んだのだろう。
しばらく彼らの隠れる茂みを慎重に観察してから、ルーピンがひっそりと、喉から震える声を絞り出す。
「……シリウス、かい?」
もまた抱えた膝に額を押し付けて、脱力した。誰も動かない。ごまかせるのならば、どうかこのまま。
だがルーピンは諦めて立ち去ろうとはしなかった。その場に立ち尽くしたまま、どこか負の確信を帯びて、呟く。
「……何となく、そんな気はしてたんだ。ジェームズもいるんだろう?それに、ピーターも」
気付いている。ルーピンは、ジェームズたちがここへ来ることを知っていた。
それでもジェームズたちはしばらく石のように動かなかったが、やがて観念したように頭を振ってジェームズが茂みから彼の前に姿を現した。月明かりの遮られた暗闇でも分かるほど大仰に肩を竦めながら、一歩、また一歩と少しずつルーピンの方へと近づいていく。
だがジェームズは数歩歩いたところで、ぴたりとその歩みを止めた。
「なーんだ、分かってたんだ。僕らが今夜、ここに来るって」
「何となく……ね。まさかほんとに来るとは思わなかったけど」
ルーピンはそこで、自嘲的に声を震わせた。
「
ここに来たっていうことは、もう……分かってるんだろう?君たちは。僕の、正体」
正体?僕の、正体?
意味が分からずは茂みの中で目を見開いたが、ルーピンはそんなことを知る由もなく、いくらか強張った声音でそのあとを続けた。
「どうする?みんなに吹聴するかい?」
「どうして
そう、思うんだい?」
そう尋ねたジェームズの声には、溢れんばかりの痛みが込められているような気がした。ジェームズが……こんな風に、声を出すんだ。
ルーピンは、その問いかけこそが馬鹿げているといわんばかりの調子で言った。
「どうして?だって、そうだろう。僕は本来なら、こんなところにいちゃいけない存在なんだから。こんなことが知れたら……僕はここにはいられないし、僕の入学を許可したダンブルドアだって……きっと、ただではすまない」
「それでどうして僕らが君のことをみんなに話したりするなんて思うんだ」
ジェームズは同じ質問を繰り返しただけだったが、今度はルーピンは答えなかった。黙した彼の表情は、雲の陰に隠れて窺えない。は茂みに身を潜めたまま、じっと二人のやり取りを見つめていた。
どういうことなのだろう。ルーピンが本当は、ここにいるべき存在ではない?ホグワーツに入学すべきではなかった
そういう、意味なのだろうか。どうして。だって彼は、魔法を使うことができる。ただそれだけで、この学校に入学する権利は十分にあるはずではないか。魔法界のことを何も知らずに育った私ですら、受け入れてくれた場所なのに。
「……すまないね。もう、行かないと。君たちに、取り返しのつかないことをしてしまう前に」
ルーピンは、これ以上話すことなどないとばかりに呟いて、ジェームズに背を向けた。少しずつ、少しずつ、暴れ柳の方へと近づいていく。
危ない
そう叫んで飛び出そうとしたその瞬間、ルーピンが何やら杖を動かすと、枝を振り上げた柳がぴたりとその動きを止めた。は腰を上げかけた中途半端な姿勢で唖然とその光景を見据える。彼はそのまま、ゆっくりと大木の根元へと歩を進めていった。
やがてジェームズが、声に悲痛な音を滲ませてその後ろ姿に呼びかける。
「見くびらないでほしいな」
まるで時間でも止まったかのようにぴくりとも動かない暴れ柳の幹に手をついたルーピンが、その木とまったく同じように硬直する。ジェームズは勢いを増しながら、その場で大きく両手を広げて先を続けた。
「そのつもりなら、とっくの昔にそうしてるよ。だけどそうはせずに僕らが直接ここに来た理由を一度考えてみてほしい。何のためにダンブルドアが君の入学を許可したのか
そうやってひとりで抱え続けるだけなら、僕らルームメートなんて、友達なんて必要ないってことじゃないか。誰も要らないってことなんじゃないか!」
彼は乱れた呼吸をなんとか整えてから、ほんの少し目を離した隙に唐突に姿を消したルーピンへと、最後に声を張り上げた。
「待ってるから!だから
僕らのところに、帰ってくるんだよ!」
まったく状況は分からない。分からないのだけれど。
ジェームズの叫びに詰まったものが胸に触れるだけで、はこみ上げてきた涙を抑えることができなかった。ジェームズの思い、そして
ルーピンの、思い。その本当のところに、少しだけ。
ほんの少しだけ、近づけたような気がした。満月の、夜。
「彼は
狼人間なんだ」
聞かされた話は、あまりに突拍子のないものではあった。狼人間。ルーピンが、狼人間?
一年生のとき、少しだけ人狼に関する項目を防衛術の授業で習ったことはあった。人狼に噛まれたときの対処法。人狼には二種類あって、先天的なもの、そして噛まれた際に起きる、後天的なものがある。有用な治療法はなく、噛まれたときには適切な薬草で傷口を洗い、毒の広がりを僅かに食い止めるしか手がない。
月に一度、満月の晩に獣へと変化する。それは人間の肉を求めて彷徨い、単独で生活する者が多いという。それはその性質上、仕方のないところだろう。
教科書に載っていたそのいかにも獰猛な獣の絵と、脳裏に思い出される同期生の顔とがまったく一致しない。
「まさか……そんな、こと」
「僕らだって、最初は疑ったさ。そんなこと、あるはずない。僕らの部屋に
狼人間が、一緒にいるだなんて」
ジェームズたちの寝室に上がったは、視線だけを動かして空のベッドを見た。ルーピンの、ベッド。それぞれのベッドに腰掛け、ピーターはおどおどとルームメートたちの顔を見回し、シリウスは疲れ切った様子で膝に項垂れていた。
「でも、僕らは毎日同じ部屋で過ごしてるわけだからね。そりゃあ、いつかは気付くさ。リーマスが留守にするのはいつも
」
「満月の夜」
ジェームズの言葉を遮って、シリウスが呻く。そう、と神妙に頷いて、ジェームズはまたに向き直った。
「でもそんなこと、本人に直接聞くわけにいかないだろう?『リーマス、もしかして君って狼人間かい?』」
「………」
「言えるわけないよ。そうだろう?それにリーマスは……そのことでずっと、苦しんできたはずだから。知ってる?人狼ってさ、大昔からずっと魔法使いから差別されてきたんだ。僕らが言えた義理じゃないけどね。僕らだってきっと
その一端を担ってきたことには、変わりないんだから」
それに、と言ってジェームズは苦笑いした。
「それに、きっとそれがリーマスじゃなかったら
僕はやっぱり、そういう目で見てただろうね。狼人間だっていう、ただそれだけの理由で。リーマスだからこそ思ったんだ。そんなことは、リーマスがリーマスだっていうこと以上に大きな意味なんて持たない。分かり合えるはずだって。それが分かるだろうと思ったから
だから僕は、君をあの場に連れて行ったんだよ」
そして自分の隣に座らせたの肩に手を置いて、ばつの悪い笑みを浮かべてみせた。
「二年経っても、僕らはリーマスの心を開かせられなかった。ただ、彼の方から打ち明けてくれるのをじっと待ってたんだ。でも、がいてくれて分かった。待ってるだけじゃ、何も変わらないんだって」
「え?私は、何も……」
「ううん。僕が今回動こうと思ったのは、君がいたからだ。君とリーマスに、うまくいってほしいと思ったからだ。それにだったら
ひょっとして、リーマスの心を動かせるんじゃないかって思った」
するとシリウスとピーターは揃って不可解な顔をした。案の定、気付いていなかったらしい。だがそれよりもジェームズの言ったことが気になって、は聞き返した。
「何で?私、そんな……ジェームズが思ってるほど、すごい人間じゃないよ」
「はすごいよ。でも今はそういうことを言ってるんじゃない。君だって分かると思うけど、人って自分を好きな人の声が特に心に響くようにできてると思うんだ。だからもしかしたら……今のリーマスには、の言葉が一番届くんじゃないかと思ったんだ。だから
」
「え、なに?どういうこと?まさかって、リーマスのことが好きなの?」
素っ頓狂な声をあげたのはピーターだ。シリウスも虚を衝かれたように目を見張り、こちらのやり取りに釘付けになっている。そのことが無性に恥ずかしく、は首を回して二人の顔が見えないように目を伏せた。
小さく笑って、ジェームズが続ける。
「だから、。お願いがあるんだ」
「な……な、なに?」
「僕たち、もう共犯だろう?」
だから、といって、ほんの少しだけこちらに顔を近づけてきた。
「リーマスのこと
温かく、包んであげてほしい。彼にはそれが必要なんだって、僕はそう、信じてる」