どうして、その手を掴んではならないのだろう。

涸れたはずの涙を零しながら、彼は皮肉混じりに自答した。当たり前だ。この手は、この身は。誰かを傷付ける。大切な人をただ苦しめるだけの獣が、誰かの手を取ってはならない。
それでもここへ来てしまったのは    自分が、身の程知らずだからだ。得られると思ってしまった。その権利は誰もに等しくあるというあの人の言葉を信じてしまったから。

それでもここに留まるのは、自分がただ、臆病者だからだ。許されるはずがない。こんなこと    本当は、あってはならないんだ。それなのに。

棄てられない。何も。握り返せないのなら、その手を欲してはならないというのに。

本当は、嬉しかったんだ。本当に    嬉しかったんだ。
でも僕は    君の、君たちの。その温かい手を、掴んではならない。どうせすぐに翻る。得られる確かなものなんて何もない。

分かっている。分かっているんだ。

僕は単なる、愚かな臆病者に過ぎないということ。

One swallow doesn't make a summer

誰もが早合点をする

「……、大丈夫?生きてる?」
「もう……いいの!私のことなんて、放っといて!」
「……荒れてるわね、
「まあ……なんかいろいろあったみたい」

夕食時の大広間はいつものように賑わっていたが、グリフィンドールテーブルの一角では二年生の女子生徒がひとり、まるで悪酔いでもしたように突っ伏してしゃくり上げていた。一昨日からずっとこの調子で、心配した友人たちが他の寮からもやって来たりする。
その中に混じって現れたハッフルパフ寮の女子生徒は、明らかに楽しげな様子で軽快に彼女の肩を叩いた。

「あら、元気がないじゃない!どうしたの?お姉さんに話してみなさい!」
「……バーサに話すくらいならゲロ味のビーンズ十個食えって言われる方がマシ」
「まあ!どうしてそんなひどいこと言うの?失礼しちゃうわね、この子は」

自慢の金髪を指先でくるくると巻きながら、バーサはわざとらしくため息をついた。

    たかが失恋したくらいで」

さも当然のように    だが確実にその効果を狙って    発されたバーサの台詞に、は口腔のスープを盛大に噴き出した。正面に座ったクララが呻きながら身を捩ってそれをかわすのを見、咳き込んで背後のバーサを睨み付ける。事情を知らない大半の友人たちは素っ頓狂な声をあげてに注目し、どうやらバーサの甲高い声が聞こえたらしい他のテーブルの寮生たちも、何やら興味本位でこちらを振り返った。今すぐにでも杖を突き刺してやりたいその相手に、代わりに険悪な視線を叩き付ける。だがバーサは、素知らぬ顔で微笑んだ。

……そ、そうだったの?」
「な、な、違う!違うって!バーサ、変なこと言いふらさないでよ!」
「もう、隠さなくたっていいじゃないの。どうせすぐに広まることよ」
「ホグワーツの突拍子もない噂話の中の八割の出所になってるあなたがそれを言うか?!」
「突拍子もないって、失礼なこと言わないの。私のネタ元はいつだってちゃんとしてるんだから」

誇らしげに顔を上げて、バーサ。

「でもね、。落ち込むことはないわ。どうせシリウス・ブラックなんて女は遊んでポイとするもんだと思ってるんだから」

続いて彼女の口から発せられた言葉に、は目を丸くして硬直した。シリウス?シリウス・ブラック?まさか私、シリウスにフラれたことになってる?なんで?
だからバーサのネタなんて信用できないって言ってるの!

だが周りではすっかり彼女がシリウスにフラれたことになっているようで、同情、好奇心、嘲笑……あらゆる眼差しが遠巻きにを取り囲んだ。どれだけ否定したところで、声を荒げれば荒げるだけ、それこそ私は『哀れな女』になってしまうだろう。

(……まあ、ルーピンくんにフラれたってことがバレるよりはマシか)

告白する前から、破れてしまった。あのときのルーピンの眼を、どうしても忘れることができない。
はこっそりと視線を動かして、グリフィンドールのテーブルのほとんど中央から折ってちょうど反対側に座っている男の子たちの集団を見やった。こちらの騒ぎには気付いているだろうが、内容までは聞こえていまい。いいんだ、これで。初恋は、実らない。どこかで聞いた気がする。
忘れてしまおう、もう。ジェームズたちにも話せないというのなら、それを私がどうこうできるはずもないんだ。

何もできない。私は、好きな人を前にしても、その人のために何もしてあげられない。
それでどうして、好きだなどと言えるだろう。

ごめん、ジェームズ。私、挫けちゃったよ。

さよなら、私の初恋。さよなら、ルーピン。ごめんなさい。

意気地なしの私を    どうか。
「君、シリウスにフラれたんだってね」
「……分かって言ってるなら、殴るよ」
「いや、ごめんごめん。ちょっとしたジョークだよ」
「ふーん……ジェームズって、そういうこと言うんだ」
「だからーごめんってば」

縁がなかったのだろうと、リリーは言った。この世の中にはきっと、『運命の人』がいて、その誰かに出逢うまで、人は誰もがそれを繰り返すのだろうと。あなたは魅力的な女の子なのだから、自信を持てばいい。いつかきっと出逢える、その日のためにと。そんなことを恥ずかしげもなく言ってくれるようになったリリーに、も次第に強く惹かれるようになった。
あなたは私にないものを持っていると、彼女は語った。彼女もまた、確かに私にはないものを持っている。そう、思う。だから惹かれ合う。だから。

そう思える人を、得られるのだろうか。そう思える人を、ルーピンはいつか見つけ出せるのだろうか。この人なら、と。この人でなければと、思えるような。

「それで    ダメだったの?」

は傍らのジェームズから顔を逸らして瞼を半分ほど下ろした。軽く肩を竦めて、

「なんていうか……告白したわけじゃないんだけど、自信なくなったっていうか」

ジェームズはあっさりと言い返してくる。

「そりゃあ、そんなに簡単にはいかないだろ。不安なんだ、誰だって。気持ちを伝えてないんなら尚更。リーマスに何を言ったの?」

本当のことを言おうかどうしようか、迷った。考え込んだ末、彼女はそれとは別のことを口にした。

「ルーピンくんは    何を抱え込んでるんだろう」

ジェームズの顔から、少しずつ、本当に少しずつ表情が消えていく。至極些細な変化だったが、それを見落とさない程度には二人の距離は狭まっていた。

「何も、知らないんだ。ルーピンくんのこと。そんなに仲良しでもないし、私に話して欲しいなんて思ってない。それでも、誰にも話せない秘密ってどんなこと?ジェームズたちにも……誰にも、話せてないんでしょう?きっと。ずっと……ひとりで、抱え込んでる。でも私、何もしてあげられない。どうしたらいいのか……分からないよ」

手探りで、何も見つけられなくて。人を好きになるということ。相手の心に、どこまで手を伸ばしていいのか。それを恐れて、私はここで足踏みするしかない。

    

ゆっくりとこちらを向いたジェームズの瞳が、真っ直ぐにを捉えて煌めく。

「来週の木曜日、夕食の後にこっそり校庭においでよ。もちろんエバンスやニースたちにも内緒で」
「はあ?なに、急に……夕食後って」

は眉をひそめたが、ジェームズは大真面目な顔をして繰り返す。

「来週の木曜。誰にも知られずに。リーマスのことをもっと知りたいなら」

その最後の台詞に、は次の反論を飲み込んだ。

「僕の勘違いかもしれない。確証はない。だけど次の木曜、僕はそれを確かめに行こうと思ってる」

彼が何を言っているのか、よく分からなかった。だが口を挟まずに、じっとその先を待つ。
ジェームズは数秒ほどの沈黙を挟んで、告げた。

「だから、君が本当にリーマスのことが好きで、それだけの覚悟があるんだったら    僕と一緒に、彼の心の闇を探しに行こう」
BACK - TOP - NEXT
(08.01.18)