何をせずとも時間というのは勝手に流れていくもので、季節はいつの間にやら春を迎えていた。リリーに借りたノートのお陰で入院中のブランクは何とか埋まりそうだったが、元々苦手だった魔法薬学の遅れを取り戻すには多大なる努力が必要だった。それも薬学が得意なリリーに手伝ってもらい、放課後の地下牢教室を借りて何度か二人で実験をした。リリーはスラッグホーンのお気に入りなので、彼女が頼めば教室や薬品の使用許可もあっさりとおりる。は心底彼女に感謝しながら、イースター休暇の前にもう一度復習しておこうということで再び二人で地下へと向かっていた。
いつものようにスラッグホーンに許可を願い出て、薬学の教室へと向かう。が扉を開けようとしたとき、中からガシャン!と大きな音がして二人は思わず顔を見合わせた。
そっとドアノブを引くと、出口から最も離れた机の向こうに男の子の背中が見えた。調合でもしていたのか、少なからず淀んだ空気の中、慌てた様子で器具を片付けている。彼は首だけで振り向いて、戸口からでも十分に窺えるほどあからさまに顔を歪めてみせた。床に落ちた大鍋を乱暴に拾い上げ、その中に広げた教科書を突っ込む。
スネイプは片手でその鍋を抱え込み、何も言わずにさっさと教室を出ていった。傍らを通り過ぎるとき、汗ばんだ薬品の臭いがこもった空気に流れて鼻の奥を不快に刺激する。
完全に彼の足音が聞こえなくなってから、は吐き捨てるように呟いた。
「もう、換気くらいしてけっていうの!」
だが彼女の後ろから入ってきたリリーは、困ったように笑いながら静かにドアを閉めた。
「仕方ないじゃない。調合は高度なものになれば温度管理だって難しくなるんだし」
「そーれーでーもー!せめて使い終わったら換気していくのが礼儀じゃない?」
「そうね。だけどまあ、今日は急いでたみたいだし、大目に見てあげましょうよ」
「……何であんな奴の肩なんて持つの?スネイプだよ、スネイプ!そりゃ出会い頭にいきなり呪いかけようなんてさすがに思わないけどさ、でも」
「。あなたそういうところ、直した方がいいと思うわよ」
その声にさほど強いものが込められていたわけではないが、不意に喉を掴まれるような感覚を覚えては口を噤んだ。詰るでもなく、リリーはただ、静かに続ける。
「そりゃあ、あなたに対する彼の態度が快いものだとは思わないけど。でもだからって、彼があなたに何かした?そういう思い込み、良くないと思う」
「そ、それはそうかもしれないけど……でもあいつ、怪しいじゃん。闇の魔法とかいっぱい知ってるんだって。今だって、こんな時間に一人で実験なんて……」
「『勉強熱心』がまるで悪いことみたいに聞こえるんだけど?」
「そんなこと言ってるんじゃ……」
「さあ、早く終わらせて私たちも帰りましょう。ニースが寂しがるわ。、私、材料庫に行ってくるから大鍋の準備しておいてね」
リリーは近くの机に教科書を置くと、すぐに教室の手前から繋がっている隣の倉庫へと消えていった。は眉をひそめつつ、持ってきた大鍋を渋々とセットする。
リリーのわけ隔てない周囲との接し方は尊敬できるものだったが、それがスネイプにまで適用されるとなれば話は別だった。スネイプは一年生の頃から、どこか人間そのものと相容れないような、そんな奇妙な感覚を彼女の胸に植えつけた。外見だけでなく、内側だけでもなく。そのどちらにも異常なほどの違和感を覚えるは、今ではまったくスネイプに近づかなくなっていた。ジェームズやシリウスも、ここ最近は好んで彼に呪いをかけようとはしない。クィディッチ開幕戦でジェームズとロジエールの一年越しの抗争に決着がついてから、スリザリンの連中がにちょっかいを出すことがなくなったせいかもしれない。それほどにスネイプは、誰にとっても『異常』な存在のはずだった。それなのに。
リリーは、神かなにかか?まさか、そんなことは信じていないが。
わけの分からない薬品や材料の数々を持って戻ってきたリリーの笑顔はいつものそれに戻っていたので、も軽く頭を振ってあの陰鬱な同期生のことは忘れることにした。
Breaking into THE LOOP
触れてはならない場所
「ルーピンくんって、いつもそうやって外ばっかり見てるね」
本当に気付いていなかったのか
。
彼は虚を衝かれたように、大仰に狼狽してこちらを向いた。図書館の、奥の奥。本棚の陰になって、よほど魔法経済に関心のない生徒ならばまずは立ち入らないであろう区画に彼の席はある。無論、公に指定されたものではないが、自然と足が向く先がいつも決まっているのなら、そこには暗黙の了解というものが出来上がる。誰が見ていなくとも、そこはいつの間にか、彼の指定席となる。
彼は目を丸くしたまま、瞬きも忘れたようにじっとこちらの顔を凝視した。
「どうしたの、さん。こんなところに」
「ええと……邪魔、だったかな」
「いや、そんなことはないよ」
そう言って微笑んだ彼の瞳に、どこか愛想笑いのようなものが垣間見えた気がしては慣れた痛みが胸にちくりと刺さるのを感じた。ルーピンに声をかけると、しばしば受け取る印象。次第に慣れていく、けれどもずっと、慣れることはできそうにない。
「ルーピンくんこそ、どうしたの?なんか……ぼーっと、しちゃって」
口に出してから、ふと、思い当たる。まさか、彼は。いや、違う。それとはまったく……違うのだ。そんなことは、少し考えればすぐに分かる。彼が悩んでいるのはきっと、そんなことではない。だがそれは、単なる私の希望的観測だろうか?
「座っても、いい?」
「ああ……うん、もちろん」
とルーピンとの間に挟まれた机の上には、何も載ってはいなかった。羊皮紙も羽根ペンも、一冊の本さえも。彼はただ浅く頬杖をついて、まるで魂でも抜けたかのように窓の外を眺めていただけだ。彼は時折、何かのサイクルのようにそんなことをする。ひとりでふらりと図書館にやって来て、吸い寄せられるようにこの席に辿り着く。そして何をするでもなく、黙って外を見ている。図書館に足を運ばない日も多々あって、がらんとした夕暮れ時の教室で、同様にひとり佇む姿を見かけたこともある。
この三ヶ月、彼のことばかりを目で追って分かったことといえば、それだけだった。何かを思い悩んでいる。だがそれが、一体何なのかは分からない。
知りたかった。それを。彼をこんなにも苦しめているものは、一体。ジェームズはきっと、そのことに気付いているのだ。けれど、言わない。彼は決して、強いたりはしない。
「あ……あの、ね」
言葉が、出てこない。ここに来る前、あんなにも練習したはずなのに。
出だしから言葉を詰まらせて俯くを、ルーピンは不思議そうに見つめている。その沈黙に耐えかねて、やっとのことで彼女は口を開いた。
「えーと、その……急にこんなこと言って、変かもしれないんだけど」
「うん?」
彼が少し、困った顔で首を傾けるのが好きで。
きつく、胸が締め付けられるような感情というのは
きっと。
「ルーピンくん……悩んでることがあるんなら、吐き出しちゃった方がいいと思うよ」
「……え?」
彼は心底驚いた様子で、目を見開いた。心持ち後ろに身を引いて、呆然としている。おかしなことを、しているのかもしれない。だが、何もできない自分というものが歯痒くてたまらなかった。こうなったら、乗りかかった船だ。最後まで、漕ぎ出してしまおう。
「ごめん……余計なお節介かもしれないんだけど、でも、でもね。心配なんだ、すごく。ジェームズもきっと……心配してると、思う。口には出さないけど、シリウスだってそうなんじゃないかな。私に話してなんて、言わないよ。そんなに図々しくは……ない、つもり。でも、ルーピンくんにはジェームズとかシリウスとかピーターとかラルフとか、いっぱい友達がいるんだから、打ち明けてみたらいいんじゃないかな。人に話すだけで楽になるって、あると思うよ。きっと、大丈夫」
安直な、言葉だったかもしれない。それが人を傷付けるのかもしれない。けれども今のルーピンには、そうした言葉こそが必要なのだと
そうした思いに、囚われたのだ。
視線を落としたルーピンは、しばし口を閉ざして俯いたままだったが、やがてひっそりと、これだけの静寂の中でさえほとんど聞き取れないほどの声音で、呟いた。
その声は心なしか、揺らいでいた。
「……君は、どこまで
知ってるの?」
それはまったく予期しなかった台詞だったので、図らずも反応が遅れた。瞬いて、なんとか口を開く。
「どこまで知ってるって……知らないよ、何も」
知らないの、なにも。あなたのことは、まだ何も。
視線を上げたルーピンの眼は、遠慮がちな不安と疑念に満ちていた。初めて見る……瞳。まるで、捕食されることを恐れる小動物のような。
兎のようなと言われたら、ルーピンは一体どんな顔をするのだろう。
「ほんとに……何も、知らないよ。でもジェームズは、気付いてるんじゃないかな。ジェームズって、ほら、すごく鋭いところがあるから。私も……彼に隠し事する自信は、ないな」
あなたを好きだということも。ジェームズはあっという間に見抜いてしまった。
彼は再び下を向いて、黙り込んだ。目元を覆い隠す少し長めの前髪が、小刻みに震えている。
次にルーピンがこちらを向いたときには、は自分のしたことを深く悔いた。傷付いた獲物の眼球が、そこにはある。
「気持ちは……嬉しい、よ。でも僕のことは
放っておいて、もらえないかな」
到底嬉しそうではない声で、ルーピンは最後の言葉を告げた。