「!」
ホグワーツに戻った彼女をいの一番に迎え入れたのは、涙で顔をぐちゃぐちゃにしたハグリッドだった。彼に力いっぱい抱き締められそうになり、今回の件で九死に一生を得たというのに、危うく圧死するところだった。
「す、すまねえ……」
心臓が止まるよりも先に彼が自分の腕力に気付いてくれて助かった。咳き込むの肩に優しく手を添えて、ハグリッドは涙ながらに囁いた。
「ほ、ほんとは、見舞いに行こうと思ったんだ……だ、だがダンブルドアに止められた。俺には俺の仕事があるって……は必ず帰ってくるから、信じて待つようにって」
「ありがとう、ハグリッド。クリスマスのプレゼント、ちゃんと届いたよ。私もね、ハグリッドにプレゼントあるんだ。寮にあるから、今から取ってくるね。ちょっと待ってて」
ハグリッドの小屋の前から、城へと向けて歩き出そうとしたとき。
不意に呼び止められ、彼女は器用に片足を軸にしてくるりと振り返った。水玉のハンカチで涙を拭いながら、ハグリッドが声を詰まらせて言ってくる。
「帰ってきてくれて、ありがとうな」
一瞬呆気にとられ、はポカンと口を開けて彼の顔を見返したが。
やがて満面に笑みを浮かべて、空っぽの両手を頭上で大きく振り回した。
「こちらこそ!待っててくれて、ありがとね」
RE-UNITED
つながる、いと
残りのクリスマス休暇は、一ヶ月のブランクを埋めるために全力で勉強しようと思っていた。けれどもがらりとしたグリフィンドール塔に、ジェームズ、シリウスと、さほど親しいわけでもない上級生が二人。
この状況で、一体どうやって静かに勉強しろって?
「!ねーねーねーねー、こっち来て一緒にチェスしようよ!今夜のデザートでも賭けてさ」
「………」
少し離れたところでチェス盤を準備しているジェームズと、その様子を眺めているシリウス。は談話室の隅で先ほどから友人の声を頑なに無視して覗き込んでいる魔法史の教科書から、うんざりと顔を上げた。
「……ジェームズ。私は勉強したいんだって言ってるでしょ!少し静かにしてよ!」
「魔法史なんて君ならあっという間に覚えちゃうよ。それより、ねーねー、チェスやろうってばー」
「うるさい!私は一ヶ月も休んでたの!遅れを取り戻さなきゃいけないの、どっかの誰かさんと違って!」
歯を剥くも、ジェームズはあっけらかんとした様子で言ってくる。
「それならノート借りたらいいよ」
「誰に?魔法史なんて私以外に誰がまともにノート取ってるって?」
「エバンスなら何でもまともに板書してるんじゃない?」
「エっバ……!」
まさか彼の口からそんな単語が出てくるとは思わず、はうっかりと舌を噛んだ。悶える彼女のもとへ歩み寄りながら、ジェームズはにこやかに微笑む。
「彼女なら何でもちゃんとメモしてるだろ。それ借りたらいい」
「はっ……?ちょ、ねえ、あんた何言ってるの?エ、エバンスって……あ、あの私を見るとあの可愛らしい顔を百八十度歪めるあのエバンスさんのことでしょうか?」
「百八十度って……あんまりだよ、その言い方。引っ繰り返っちゃうじゃないか」
苦笑して、ジェームズ。彼は代わりにチェス盤のセッティングを始めたシリウスに一瞥だけで合図してから、どさりと彼女の傍らに腰を下ろした。
「お願いしたら、ノートくらい見せてくれるって」
「あ、あの……ねえ、分かってるわよね?私と彼女が犬猿の仲だということは、もちろん」
「それがそうでもないんだなー」
ジェームズはにやりと笑って、ソファの上で軽く足を組んだ。
「クリスマス、君のところに持っていった『センバヅル』、あるよね?」
「え?う、うん……今も部屋に飾ってるけど、それがどうかしたの?」
「あれって実は、エバンスが君のためにたった一人で作ったんだ」
「ふーん、エバンスが……って、えっ!?」
まさか、まさかまさか。そんなこと、あるはずない。だがジェームズはその笑顔を崩さないし、それが聞こえているはずのシリウスも素知らぬ顔で何も言わない。なんで?なんであのエバンスが、私のためにそんなことをしてくれるっていうの?
「君は知らないだろうけどさ、エバンス、君のことすっごく心配してたんだよ」
見透かした風に笑って、ジェームズが続ける。
「が入院してから、ずーっと上の空でさ。かと思ったら一人でせっせと何か作ってるもんだから、何なんだろーって思ってたら、あれ
センバヅル、さ」
「で、でも……私たち、な、仲は……控えめに言っても最悪というか」
「それから、君の事件の裁判のことなんだけど」
ジェームズは幾分も声を落として、言った。彼らの他に談話室に誰がいたというわけでもないのだが。
「そこでも、エバンスは証言台に立ってくれたらしいよ。僕は傍聴したわけじゃないから実際に見てはないけどね」
「えっ……えぇ?証言台?ていうかエバンスがそこで、一体何を証言するっていうの?」
「うーん……まあ、話せば非常に長くなるんだけど、さ」
そこでちらりと視線を巡らせて、ジェームズは壁の掛時計を見上げた。
「もうすぐ来るはずなんだけどな……」
「え?なに?何なの、ジェームズ?もっと率直に言って」
「んー、まあ、僕よりも本人たちから直接話を聞く方が確実ってことさ」
ちょうどそのとき。
まるでタイミングでも計ったかのように談話室のドアが開き
姿を見せた二つの人影を見て、は目を見開いた。
休暇中のホグワーツに戻ってきたのは、ルームメートのリリー・エバンスと、ニース・ジェファの二人だった。わけが分からず呆然と立ち尽くすを、どういうわけかジェームズは彼女らと一緒に女子寮へと追いやった。彼自身はそのままそそくさと談話室に戻っていったが。
「な、何で……どうしたの?ニースも……エバンス、も」
三人の部屋へと上がり、呆けた声をあげると。
ずっと、張り詰めた顔をしていたニースの両腕が伸びてきて、の背中を引き寄せた。強く、強く。けれどもニースはその全身がまるで極寒に放り込まれたかのように激しく震えていた。
「……ニース?」
「ごめん……、ごめんなさい、ほんとに……ごめんなさい……」
「な、なに?何が……どうしたの?ニース」
こんなにも激しいものを込めて謝られる理由が思い付かなかったので、はおろおろと当てもなく辺りを見回した。そのとき、二人の傍らに立つエバンスの穏やかな、しかし涙の滲んだ緑色の瞳と視線が合う。奇妙に心臓が跳ねるのを感じて、は慌てて目を逸らした。
ただ、久し振りに触れた友人の背中は、記憶にあるものよりもずっとずっと、温かかった。
「、ごめんね……私が悪いの。私があのとき、ちゃんと断っていればよかったの。私にもっと、勇気があれば……」
「ニ、ニース、何のこと?私、何がなんだか……」
「私なの。あの手紙を置いたの、私なの。私がミス・プライアから頼まれたの。私が……」
「ニース、落ち着いて。あの夜のこと、彼女はまだ思い出せないままだってマクゴナガル先生が」
エバンスがそっと声をかけると、顔を上げたニースは赤く腫れた目でそちらを向いて、小さく頷いた。そんな彼女とをエバンスはすぐ近くのベッドに座らせ、自分もまた隣のベッドに腰掛けて顔を上げる。枕元に美しい千羽鶴を飾った、のベッド。
しゃくり上げながら、ニースは震える手での両手を包み込んだ。
「あの夜……あなたが、怪我をしたあの夜」
「う、うん……」
「あなたは、呼び出されて……五階の、湖の教室に行ったの。ここに、置いてあった……あなた宛ての、手紙を読んで」
手紙?ニースが傍らの引き出しを一瞥したので、その視線を追いかけて首を捻る。だがは、そのときのことを思い出すことはできなかった。
何で……なんで、思い出せないの?
それは、私の記憶であるべきなのに。
ニースはもう一度大きく身震いし、それを掻き消すようにかぶりを振って、続けた。
「その手紙を……置いたのは、私なの。私が、ミス・プライアに頼まれて……そうしたの」
「え?」
間の抜けた声をあげて、目の前の友人を見つめる。ニースは悪戯の発覚を恐れる子供のそれといえばぴったりの怯えた眼差しで、だが真っ直ぐにこちらを見ていた。
「あなたのことを……あまり、快く思っていない人たちがいて……
ほんの少し、あなたに思い知らせてやりたいんだって……私、それに……手を貸してしまったの……」
「な、何で……私、どうしても思い出せないの。その夜のこと……何で?私、あの人に……一体なにを、しちゃったんだろ。ニース……何で
ごめん、私……何であなたに嫌われちゃったかも、今でもずっと、分からないの。ごめん……無神経なんだよね、きっと。私って。ごめん……でも、分からないんだ……ごめん、何で……私って、そうして知らない間に、知らない人まで傷付けて……何なんだろう、私、何やってるんだろう……」
「違う!違うわ……」
悲痛に、声を張り上げ。
度肝を抜かれて目をぱちくりさせるを、ニースはもう一度きつく抱き締めた。彼女の戦慄がそのまま、どくどくと脈打つ心臓にまで達するよう。
「……あなたは、悪くないの。私が、馬鹿だったの……私が……私にもう少し、勇気があれば」
「ニース……?」
「私が……もっと早くに、あなたと向き合っていればよかった。こんなことになる前に……あなたのせいじゃなかったのに……」
そっとから身体を離して、ニースは涙混じりに囁いた。
「私、ジェームズのことがずっと好きだった」
あまりにも唐突な告白に、は唖然としてぽかんと口を開けた。一度瞼を伏せて、それをゆっくりと持ち上げ、ニース。
「だからあなたに……嫉妬した。あなたが……あなたとジェームズを見ているのが、すごくつらかったの。もう、一緒にはいられないと思った。これ以上あなたの隣にいたら……どうにか、なってしまいそうで」
そんな。そう、だったのか。隣にいながら、私はそんな彼女の気持ちに、少しも気付くことができなかった。
「でも……それは、あなたのせいじゃないものね。私がジェームズを好きになって……あなたたちは入学した頃からずっと、仲良しだったのに。私が勝手に僻んで、勝手にあなたから離れていった」
「ご、ごめん、ニース……私、ちっとも気付かなくて。でも、でもね、ジェームズと私は、全然そんなんじゃ……」
「
分かってる。分かってるの。ごめんね……ジェームズにも、同じことを言われたわ。僕たちは、君が思ってるような関係じゃないって」
ジェームズと。一体いつ、そんなことを話したのだろう。ジェームズは、彼女の思いを知っているのだろうか。
「だけど私は、耐えられなかった。あなたが……どこか遠いところへ、行ってくれればいいのにって、思った」
ちくり、と胸を刺す痛みを覚えて。は窺うように、相手の視線を探る。涙で縁取られた瞼をそっと上げて、ニースは身震いした。
「……怖かった。ミス・プライアの『頼み』を断るのが、怖かったの。あなたは知らないかもしれないけど……ミス・プライアの家は、魔法界でもすごく有名で……彼女のお父さんは、魔法省でも高いポジションにいるって。断るのが、怖かった……私のお父さんも、魔法省に勤めてるの」
だから、断れないと思った。でも。
そう言ったニースの灰色の瞳が、怯えたように収縮して潤んだ。
「でも、私の……もっと、根本的なところにある何かが……あなたが、どうかなってくれればいいのにって……そう、思ったのかもしれない。だから……先輩の頼みを聞いて、あなたが何かされるだろうって、分かっていながら私はあの手紙を
」
「ニース、落ち着いて。大丈夫だから。ここからは私が話すわ」
目に見えて震えだすニースを見て、咄嗟に立ち上がったエバンスがこちらに歩み寄り彼女の肩を抱いた。溢れる涙を拭いながら、ニースが彼女にありがとうと囁く。
ニースの向こう隣に腰掛けたエバンスは、彼女の肩を優しく撫でながらに視線を移した。は思わず身を強張らせる。そもそもどうして、ここにエバンスが当たり前のような顔をしているのだろう。
「手紙を読んだあなたは、あの夜、ひとりで湖の絵画の教室に向かったの。そこで何があったのか、詳しいことは分からないんだけど……私、就寝時間のぎりぎりになって部屋を出て行ったあなたを見て、おかしいと思ってあとをつけたのよ。そしたらあの教室から、慌てて出て行く女の子たちを何人も見かけて
誰もいなくなってからそこに行ってみたら……あなたが、窓の外に……」
は黙ってエバンスの話を聞いた。何人もの女の子。プライアだけではなくて……?何も、思い出せない。五階の湖の教室……ガルダ湖の、絵画。
エバンスは一度言葉を切り、喉の奥に唾を流し込んでから、ゆっくりと続けた。
「……危険な、状態だったと……思うわ。でも、マダム・ポンフリーが手を尽くして……あなたは何とか、持ち直したって。だけど、頭も強く打ったみたいだし……聖マンゴに、入院することに決まって。あなたが聖マンゴに移送されてから、先生たちは、犯人探しに奔走してた」
彼女の息継ぎの間には、ニースの小さな嗚咽だけが聞こえてくる。
「そして……名前が挙がったのが、グリフィンドールの六年生……アイビス・プライア」
エバンスがその名を口にしたとき、ニースは彼女の腕の中で確かに一度だけ身を震わせた。
「あなたを呼び出したとき……教室にいたのは、プライアだけじゃないの。他にもきっと……あなたを快く思っていなかった人たちが、何人か。でもあなたを窓から吹き飛ばしたのはプライアだって……ほんとはみんな、すぐにでもあなたを医務室に運ぼうとしたんだけど……プライアが、それをさせなかった。そう、証言した人たちが何人かいて……だけど彼女たちは、すぐにその証言を撤回したの」
「みんな……怖がってた。家族が魔法省に勤めてる人たちは、特に。モーゼス・プライア
ミス・プライアのお父さんは……魔法法執行部の、次期部長候補だって言われてたから」
「魔法法……執行部?」
「魔法界の、警察のようなところ。魔法省でも最も重要な部署の一つよ」
答えたのは、エバンスだった。彼女はマグル出身のはずだったが。本当に、何から何まで、よく勉強している。
「彼女たちは完全に証言を撤回したし……プライアも、全面的に容疑を否認して。杖を調べることもできたんでしょうけど……ダンブルドアは、魔法省に事件を委ねたのよ。どのみちあれだけの騒ぎになれば、魔法省に届けないわけにはいかなかったでしょうしね」
ああ……そういえば、ダンブルドアはプライアが魔法界の裁判を受けたといっていたか。
エバンスは抱き寄せたニースを一度見下ろして、再び顔を上げて僅かに目を細めた。
「そしてプライアは魔法省で裁判を受けることになって
そこでニースが、証言台に立ったの。彼女にあなたを呼び出す手紙を渡すよう頼まれたって、誰もが拒絶した証言を、公の場ではっきりと」
息を呑んで目を見開くに、エバンスはそれと分からない程度に目尻を緩めた。
「杖を調べるには時間が経ちすぎていて……でも、ニースの証言があって、プライアは有罪になったわ。あなたのそのときの記憶は戻らないっていうし、ニースの証言は有力な鍵になった」
「私だけじゃない
リリーも……ミス・プライアが、少し前に陰でのことを話していたことがあるって……ウィゼンガモットで、証言してくれた」
「ウィ……ゼンガ?モ?」
「魔法省の、最高裁判所のこと」
ニースはまだ潤んだ目を腫らせていたが、言葉ははっきりと、エバンスの腕の中で身体を起こして言った。そしてそっと相手の抱擁を解いて、こちらに手を伸ばし。
「……、ごめんね。ごめんなさい……許してなんて言わない。つまらない嫉妬なんかで……私、取り返しのつかないことを……」
「ニース……やめてよ、そんなの。もういいから」
しきりに頭を下げる彼女にそう告げると、ニースは驚いたように顔を上げて瞬いた。ばつの悪い思いで軽く頭を掻いて、呟く。
「その……ほんとに、その夜のことは思い出せないの。だから、恨むっていっても誰を恨んでいいのかよく分からないし……聖マンゴにいるとき、プライアとお父さんが、謝りにきたの。プライアはともかく、お父さんはすごく誠実そうな人で……私、それでいいやって思った。言いたいことが言えなかったり、なかなか身体も動かせなかったり。すごく、つらい一ヶ月だったけど……こうやって、またホグワーツに戻ってこられたし。半年はあの人に会わなくてすむわけだし、もう気にしてない。それに、きっとニースが断ってたら、あの人、他の人に同じことを頼んだだけだと思う。だから、ニースはそんなに気にしなくていいよ。ほんとに」
「……」
「それより、私の方が……ごめんだよね。ニースの気持ち、ちっとも気付けなかった。ずっと、近くにいたのに。何にも気付けなくて……ジェームズとは、全然そんな関係なんかじゃないけど……でも、きっとすごく、傷付けてたよね、ニースのこと。ごめんね……何も気付かなくて、ほんとにごめんなさい」
「
やめて、何であなたが謝るの!」
声をあげながら、ニースは飛びつくようにしての背中を抱き締めた。まだ、ひどく震えているのが衣服を通して十分に伝わってくる。
「ごめんね……ごめんなさい、……ほんとに、ごめんなさい……」
「……もういいってば。それより……話してくれて、ありがとうね。ずっともう……何も、話してくれないんじゃないかと思ってた。もう、友達に戻れないんじゃないかって思ってた」
こちらの肩から顔を上げたニースは、虚を衝かれたように目を丸くして、信じられないものでも見るかのようにをじっと見つめた。
「……私なんかと、友達に戻ってくれる、の?」
は熱いものが込み上げてくるのを何とか喉の奥に留めて、唇を弓形に歪めてみせる。
「当たり前じゃない。だってニースは、スリザリンから来た私を……最初に受け入れてくれた、大事な友達なんだから」
すると、涙で顔をぐちゃぐちゃにしたニースはに飛びついて慟哭した。彼女のあげた泣き声は、そのままの胸にまで届いて震えた。
相手の背中を抱き返して、その向こうに見える少女へと視線をやる。こちらのやり取りに涙ぐんでいたらしいエバンスははっと目を開いて小さく咳をした。
「エバンスも……ありがとう」
「な、何のこと?」
「……いろいろ。裁判のこともそうだし、私きっと、あなたに見つけられてなかったら今頃……」
「やめて。縁起でもないこと、言うのは」
こちらの言葉を遮りながらも、エバンスもまた同じことを考えていたのだろう。視線を落とし、不吉なものを思い返した感覚に身を震わせた。
「それから……千羽鶴、あれ折ってくれたの……あなたなんだって?」
隣のベッドに置いてある色とりどりの鶴を一瞥して問うと、彼女はもともと大きな眼を一瞬さらに大きく見開いたが、すぐに口元を押さえて眉間にしわを寄せた。きっと、ジェームズには口止めでもしていたのだろう。その反応がおかしくて、しゃくり上げるニースの背を撫でながらは小さく笑った。
「ほんとに、ありがとう。びっくりしたけど、嬉しかった。私、今回のことで……いろんな人に、生かされてるんだっていうのが分かった気がするの」
取り戻せない記憶があるということに、もどかしい苛立ちを覚えることもあるけれど。それはつまり、思い出さない方がいいということなのかもしれない。分からない。今はまだ、何も分からないけれど。
顔を上げて呆然とするニースと、そしてエバンスとを交互に見やり、は心からの思いを口に出した。
「ありがとう。みんな、ほんとに
ありがとう」
ニースは再びの肩に額を倒して号泣し、涙を堪えて毅然としていたはずのエバンスでさえ、その顔を歪めて思い切り声をあげ、泣き出した。
「私ね
あなたのことが、大嫌いだった」
三人で、静かにそれぞれの布団に潜り込み、寝静まった後。
彼女が眠っていないであろうことは、予測できていた。泣き疲れたニースの寝息の間に、意識を保った彼女の無音の呼吸が聞こえてくるような気がしたからだ。は答えなかったが、それでも構わないということなのか、あるいはこちらが聞いていることを知っているのか。彼女はそのまま、吐息のような声音であとを続けた。
「だけどそれは……そう、思いたかっただけなんかじゃないかって、今は思うの」
寝返りを打ったのか、ニースのベッドの方から微かに布団の擦れる音がした。
「出逢いは『最悪』だったし、あなたたちの勝手な行動にも嫌気が差してた。だけど本当は……あなたのそういうところに、惹かれてたのかもしれないって」
は驚いて思わず布団の中で首を動かした。そうしたところで明かりを消した部屋の中、彼女の姿が見えるわけでもなかったが。
彼女は少し、笑ったようだった。
「私には、ないものだから。私にはない輝きを、あなたは持っていたから。その表現の仕方は、あまり賛同できるものじゃないけど……でも私には、そんなあなたの輝きが眩しかったの。きっと」
どく、どく、と。慣れない鼓動が胸を打ちつける。エバンスが。あのエバンスが、私に惹かれていたって?
だがまさかと言って笑い飛ばせるほど、彼女の声は冗談じみたものなどではなかった。手に余る子供を慈しむ、そうした響きを帯びて。
「だけどどうしても、素直になれなかった。傍で見ているからこそ、許せないところだってあったわ。うまく言えないんだけど……惹かれているからこそ、許せないことってあるでしょう?」
ふと。思い浮かんだのは、シリウスだった。だいすき。だいきらい。すき、きらい。そうしたところで揺れることも、少なからず、ある。一年生の頃、あんなにも拒否反応を示していたのはきっと、心のどこかで彼への好意を感じ取っていたからなのだろう。本当にどうでもいい相手ならば、強烈な感情など決して生まれない。
好きだからこそ、見えないもの。好きだからこそ、許せないもの。
「……ごめん、ほんとに。学年末は……ちょっとやり過ぎたし、言い過ぎた。……ごめん、なさい」
「あら。もっと反省してるのかと思ってたのに、あなたにとっては『ちょっと』なの?」
彼女はそう言ったが、言葉に反してその口振りはどこか楽しげだった。そのことに安堵して、は無意識のうちに唇を緩める。
どうやらこちらに背を向ける形で寝返りを打って、エバンスはそっと囁いた。
「分かればいいのよ。次からはもっと、楽しいことをやってちょうだい」
その言葉には目をぱちくりさせたが、こちらに何も言わせないうちに彼女はそこで話を終わらせた。
「おやすみなさい、」
暗がりの中、カーテンの隙間からほんの少しだけ差し込んでくる月明かりに目を凝らして。は彼女の丸まったシルエットだけを見つめながら、呟いた。たとえ彼女が聞いていなかったとしても。
「……おやすみ、リリー」