「どういうことだ、モーゼス」
「ああ……私にも、何がなんだか」
二人の男が足早に進んでいるのは、殺風景な廊下の一角だった。時折頭上を伝書ふくろうが行き交い、辺りにふんを撒き散らすものもいる。顔をしかめてそれらを避けながら、彼は胸中で毒づいた。だからふくろうを屋内で使わせることには入省した当初から反対していたのだ。
「
アイビスが殺人未遂だと?」
「ありえん……まさかそんな、あの子が」
「お前の感想を聞いているわけではない」
叩きつけるように言って、彼は傍らの男を睨み付けた。相手は茶色い髪を短く刈り上げた、中年の
とはいっても、自分よりは数歳年下だが
魔法使いだ。普段は落ち着いた形相が、愛娘が大罪を犯したかもしれぬとあって今ではすっかり強張って狼狽しきっている。そのことにどこか心地良さに似たものを覚えるも、自分にとってもまた厄介な案件であることは疑い様がなかった。
「お前も、ただでは済まんと思え」
「……分かっている」
低く、唸るように囁いた男の声を背に聞きながら。
彼は通い慣れた執行部の扉を開いた。
A STIRRED STIR
めぐり、めぐり、めぐる
聖マンゴ魔法疾患傷害病院。魔法界において
すなわちこの国において、最も優れた医療機関。本格的に活動するにあたって、できることならばこの施設もまた押さえておきたい要所ではある。これだけの大病院だ。癒師に扮して紛れ込むこと自体は、さほどの困難にはあたらない。
慣れた足取りで建物の廊下を突き進む彼の耳に、不快な音が届いた。子供。はしゃぐ、子供の声。
「ジェームズ!ダメだってば!」
どうやらはしゃいでいるわけではないらしいが、耳障りのする雑音だと思えばそれほどの大差はなかった。要は何も知らない子供が無意味に発する音に過ぎない。気になったのは、それがこの隔離病棟において聞こえてくるということだった。
「ちょっとくらいなら大丈夫だって。も時には外の空気を吸ってみるべきだよ」
「だって先生がまだダメだって。もっと反射神経を取り戻しておかないと、いきなり後ろから呪いかけられちゃうんだって……」
「はあ?聖マンゴなんかで一体誰が?心配ないって、ここは安全だよ」
安全。ハッ。笑わせてくれる。今ここでこの俺が杖を取り出して振るったらならば、その子供は一体どんな反応を見せるだろう。その隙も与えずに仕留めるだけの自信はあったが。たかが子供だ。何も知らない
こんな病院が安全だと豪語する、何も知らない子供に過ぎない。
だが、今日は事を起こしてはならない。あの方はあくまで、『偵察』をご命令になったのだ。下手に騒ぎを起こして警備を強化されては、後々面倒なことになりかねない。
冷えた風の通る角を曲がったところで、彼はちょうど先ほどの声の主らしい子供と鉢合わせになった。
「うわ!あ……ど、どうもすみません」
子供
二人いるうちの、少年の方がこちらの白衣を見て慌てた様子で頭を下げた。眼鏡。ぼさぼさの黒髪、子供のくせになかなかスタイリッシュな眼鏡。可愛げのない。もう一人は、コートを羽織っているがその下はどうやら寝巻きのようだった。少女。黒い髪を肩口まで伸ばした、少女。どちらも十歳を少し超えた頃合いだろうか……ホグワーツ入学直前か、まだ一、二年ほどの子供だろう。大したことのない、どこにでもいるようなガキだ。
だが、どういうわけか。彼はその少女の顔を、どこかで見たことがあるような気がした。
「あ、あの……」
恐る恐る、少女がこちらに顔を向けて、聞いてくる。
「プレストン先生は、今、お部屋にいらっしゃいますか?」
見惚れていたわけではない。もちろん。こんな子供の面に。色気もへったくれもあったものじゃない。どこにでもありそうな顔というものは、どこかで見たことがあると感じるものだ。彼は不自然に開いてしまった間を埋めるようにして、乾いた唇を指先でなぞりながら言った。
「ああ……すまないが私は隣の棟から帰ってきたばかりでね。君は確か……この病棟の
」
「あ、えっと、です。三〇七号室の、・です。プレストン先生が担当で……その、ちょっとお聞きしたいことがあって……」
「平気だって、。ちょっとだけならさ。先生、、この病棟から出ちゃダメだって言われてるみたいなんですけど、でももう二、三日で退院できるっていうんだからほんのちょっとくらい、外の空気を吸いに出たっていいですよね?」
「ジェームズ!ダメだってば!この病棟内だけ散歩って言ったじゃない」
ああ、うるさい。これだから子供の相手なんてまっぴらごめんだっていうんだ。
「先生の言うことは聞くものだって学校で習わなかったかな?」
笑顔の裏側に感情は押し留めて、彼は愛想よく微笑んでみせた。二人の子供は顔を見合わせて、ばつの悪い様子で笑い合う。きっと教師の言うことなど聞きやしない碌でもない連中なのだろう。自分も似たようなものだったかもしれないが。
「もう少しの辛抱じゃないか。今日はおとなしく部屋に戻った方がいい。せっかくのクリスマス、何かあってからでは取り返しがつかない」
少年はすっかり落ち込んだ様子で項垂れ、少女が元気付けるように根気よくその背を叩いた。まったく、子供ってやつは泣いたり笑ったり……とにかくうるさい生き物だ。
もと来た道をとぼとぼと戻っていく二人の子供の姿を見送り
彼は突然、頭の中に弾け散ったとある記憶の一片にたどり着いた。まさか……あれは、あの顔は。
「ま
待て!」
思わず、声を荒げて呼び止めてから。
不思議そうに振り向いた子供の顔を見て、彼は自分がいかに愚かしいことをしてしまったかに気付いた。我を忘れて理性よりも先に感情に従ってしまうなど
あってはならないことだ。私はあの方から、一体何を学んできたのだ。
だがこちらを向いたその少女の顔を目の当たりにしては、高鳴る鼓動を抑えることは到底できそうになかった。速まる呼吸を何とか落ち着かせながら、告げる。
「……少しくらいなら……そうだな、十分にしよう。確かに外の空気を吸うことは大切だ」
すると少年はぱっと目を輝かせて傍らの少女を見た。少女は当惑した様子でこちらと少年とを見比べたが、やがて困ったように笑いながら少年に向けて「分かったよ」と言った。その顔が。その、笑ったときの目元が。唇が。
「プレストン先生には私から伝えておこう……誰かに咎められたら、アストン先生が許可したと言いなさい。君の名前は……あー、何といったかな」
身体ごとこちらを向いた少女は、はにかむように微笑んで、言った。
「です。・。ありがとうございます
ええと、アストン……先生?」
ああ、その眼だ。その口だ。
口元にじわりと広がる笑みを抑えることなく、今度は確実に二人の子供の背中を見送った。まさかこんなところで、偶然にも出会えるなどとは思ってもみなかったが。これは思わぬ収穫だった。
いや、違う。これは決して『偶然』などではない。
胸の底から溢れ出る興奮と戦慄に、彼は無人の廊下でひとり激しく身震いした。
先生。私、どうしても言わなければならないことがあるんです。
本当は、もっと早くに言うべきでした。言わなければなりませんでした。ごめんなさい。本当に、ごめんなさい。
私です。あの日、を教室に呼び出したのは私なんです。私が彼女のところに、手紙を置いたんです。が
何かをされるだろうということを知っていながら、そうしたんです。
頼まれたんです。ミス・プライアに。然るべきところで、きちんと証言します。どんなことでもします。償えるなら、私はどんなことでも受け入れます。
だから、先生。どうか。お願いします。
を、どうか助けてください。
その日、一人の少女がウィゼンガモットで裁判にかけられることとなった。
事の始まりは、一九七二年十一月十二日、推定時刻二十一時前後。ホグワーツ魔法魔術学校にて。一人の少女が、生死に関わる重大事件に巻き込まれた。少女の名前は、・。同校の二年生、グリフィンドール寮所属。何者かに五階の窓から突き落とされた可能性あり。幸い発見が早く、被害者は一命を取りとめ現在聖マンゴ魔法疾患傷害病院にて療養中。年内には退院する見込み。
重要参考人として挙げられたのは、同校の六年生、グリフィンドール寮所属のアイビス・プライア。犯行時刻、彼女と共に被害者と五階の教室で会っていたという何人かの生徒の証言による。その全員が口を揃え、被告人が主犯であると述べた。もっとも、その多くはすぐに証言を撤回し、裁判所で証言台に立つことを拒んだのだが。
まったく、面倒なことをしてくれた。
少女は存外、素直に犯行を自供したという。突き飛ばすつもりなんてなかった。咄嗟に魔力が暴走し、それを抑えることができなかったのだと。なるほどありそうな話ではあった。少女は魔法界でも名の知れた旧家の生まれだ。代々強力な魔法使いを輩出している。大人の魔法使いでさえ、あまりにも強大な力を持つ者は時としてそのパワーを自身でコントロールできなくなることがあるものだ。自分の仕出かしたことへの恐怖と、自分自身を制御できなかったことへの羞恥
それらが邪魔をして、どうしても言い出すことができなかったのだと、先日の取調べで少女は語った。
けれども、被告人の容疑は過大なるものだ。それ相応の処分を下さねばなるまい。いくら未成年とはいえ、過失とはいえ
たとえ相手が、卑しい生まれの子供だったとしても。法というものは、いつだって融通の利かないものだ。
必要な書類に目を通して、重い腰を上げようとしたそのとき。部屋の扉が外側からノックされ、彼は素早い手付きでそれらを仕舞いながら、声をあげた。
「入れ」
扉はすぐに開いた。姿を見せたのは案の定、美しい立ち居振る舞いをした妻だ。いつだって、自分の誇りであり続けてくれた
この先もそれは永劫に変わらないであろう、献身的な。愛すべき、エーダ。
「あなた……お願いがあるんです」
部屋に入るなり、挨拶もなく突然妻がそんなことを口にするのは稀だった。だが同時に、予測できたことでもある。立ち上がり、こちらへと遠慮がちに歩み寄るエーダの腰を抱き寄せて、彼はその耳元にそっと囁きかけた。
「どうした。何でも言ってみろ」
「あなた……ねえ、お願い。あの子を
アイビスのこと、何とかしてやって」
それもまた、想定されうる範囲内だったが。
抱き締めた妻の身体をそっと割れ物でも扱うかのように離すと、彼は小さく微笑んで、言った。
「努力はしてみよう。だが、いくらお前の頼みでも……彼女の仕出かしたことは、重大だ。モーゼスの首にも関わる。その上、私があの子を庇うようなことをすれば」
「あなたは……ええ、分かっています。あなたは一裁判官として、中立に判決を下さなければいけませんものね。それでも……ねえ、お願い。あの子は、純粋な血筋を護ろうとしたの。それが……たまたま、不幸な結果になってしまっただけで……ねえ、お願い。あの子はとても、いい子なのよ。だからお願い。魔女としてのあの子を、潰さないであげて」
愛する妻の言葉に逸早く反応し、彼は腕の中に抱いた彼女の大きな眼を見下ろして、聞いた。
「……どういう意味だ?」