本当は、会いにいきたかった。『俺も行く』    喉の奥まで、出かかっていた言葉。けれども言えなかった。医務室に忍び込めたとして、俺はあいつに一体何をしてやれるだろう。なんと話しかけてやれるだろう。それだけの自信がなかった。もしも、なにか下手なことを口走ってしまったら。そう考えただけで、恐ろしくてたまらなかった。普段の彼女になら、何を言っても大丈夫だという安心感があった。多少きついことを言ったって、あいつなら軽く返してくれる。それだけの土台があった。チェス盤を囲みながら、知らず知らずのうちに築き上げてきたもの。いつの間にかチェスの腕を上げたあいつは、ジェームズの言う通り俺を打ち負かすほど強くなっていた。
けれども今の彼女は、聖マンゴに入院しなければならないほど弱っているという。もしも俺の安易な一言が、そんな彼女を抉ってしまったら……それを思うだけで、身体中を氷のような悪寒がほとばしるのだった。

ジェームズに気を遣ったなんて、体のいい嘘。俺はただ、怖かった。あいつに会うのが、怖くてたまらなかった。
    だから。

入院前夜の彼女に会いにいく代わりに、俺は一つの誓いを立てた。あいつは、五階の窓から突き落とされた。そのせいで、あいつは死にかけたのだ。ジェームズがあれこれと面倒な手を使ってまで俺と引き合わせようとした、あのというマグル育ちの女。必ず、犯人を見つけ出す。どういった理由からかは知らないが、そんなものはこれっぽっちも関係ない。あいつはもう少しで死ぬところだったのだ。
それならば    今度は、俺がそいつをこの手で。

TALK about BLACK

ブラック家のこと

「どうするの、あんなことして」
    何のこと?」

素知らぬ様子で振り向くと、そのスリザリン生は向かいの本棚を見上げたままひっそりと呟いた。

「……知ってるのよ。アレ、あなたがやったんでしょう?どうするの、こんな大事になって。いくらなんでも、ここまでやればただじゃすまないわよ」
「そのときはそのときよ」

図書館の奥。ひとけのない、魔法法関連の文献が集められた一角。さらりと返し、彼女は棚から指先で目当ての本を抜き取った。来週から二度目の進路指導期間が始まるのだ。すでに希望の職業は決めてあったが、様々な職種の世界を調べておいても損はないと寮監から言われていた。親の望む道ではなくて、他の可能性も。けれどもマクゴナガルは誤解している。私は、周囲が望むからその進路を希望したわけではない。誇り高く働く父の姿を見てきた。だからこそ。
ブロンドのスリザリン生はそんな彼女の様子を見て眉をひそめ、非難がましい口調で言ってきた。

「私はあなたのことを心配して言ってるのよ?ミス・は危うく死にかけた」
「だけど彼女は死ななかった。ずいぶんと悪運の強い子よね」
「アイビス、分かるでしょう。今の校長はマグル贔屓だわ。あまり派手なことをしていたら、いくらあなただって」
「だとしても、私を退学にはできないでしょう。そんなこと、理事会が黙っているはずがない」
「アイビス、あなた少しおかしいわ。あんな『穢れた血』のことなんて、放っておけばいいじゃない。どうしてそこまで拘るの?そりゃあ、確かにあの子は調子に乗りすぎた。目障りなのは分かるけど、でもだからってこんな事件を起こすなんて……あなたらしくない。こんな、馬鹿なことを」

手にした本を胸元で抱え、細めた視線の先をスリザリン生ではなく真っ直ぐに前方へと注いだまま。彼女は鼻先でフンと笑ってみせた。

「わたしらしくない……そう    かも、しれないわね。馬鹿なことをした」

それだけの自覚はある。けれども、後悔はしていない。
こめかみに手を当てて嘆息したナルシッサは、疲れたように首を振って囁いた。

「……シリウスのせい?あの子が、ミス・と仲良くしてるから?」

彼女は答えなかった。自分でもよく、分からなかったから。口を閉ざしたアイビスに、ナルシッサはもどかしそうにブロンドの髪をかき上げた。

「もう    あの子のことは、放っておいてって言ったでしょう。あの子はもう……無理なのよ。血を裏切るポッターなんかと付き合ったりするから。放っておけばいいの、それでいいんだから」
「ほんとに、それでいいの?」

今度は、間髪容れずに切り返す。すると僅かに険しい顔をしたナルシッサが、音もなく身体ごとアイビスの方を向いた。アイビスも真っ直ぐにそちらを見つめ返して目を細める。

「仮にもあの子はブラック家の嫡男でしょう。気安く混血やマグル育ちに交わって、血筋ってものの重みが分かってない。恥ずかしくないの?あんな子が『ブラック』を名乗っていて。それに、あなたのお姉様    マグル生まれと結婚したそうじゃない」
「……アンドロメダは、もうブラック家の人間じゃない。関係ない、あの人のことは」
「たとえ家系図から除名したって、ブラックの血を継ぐ人間がマグル生まれと交わったという事実は変わらないわよね。魔法使いの純粋な血も、確実に乱れてきてる。許せないのよ、血筋を乱す人間は。いろんな意味であの子をたぶらかすお嬢ちゃんもね。周囲の環境さえ変われば、あの子自身も変われるはずだから」
「……レグルスがいるわ。あの子は、まともに育ってくれてる。おばさまもそろそろシリウスに見切りをつけるはずだと、父が」
「繰り返しになるけど、あの子は仮にもブラック家の嫡男でしょう。あの子の肩にはそれだけのものが載ってるのよ。まだ遅くない。あの子は、変われる。あなたたちが諦めてどうするの」
「………」

ナルシッサは顔をしかめて閉口したが、黙って見つめ続けたアイビスに根負けして大きく息をついた。

「……どうしてあなたが、そこまでするの?あなたの家にはここ何代も、裏切り者は出てない。そうでしょう?関係ないわ、私たちの家のことなんて」
「あなたのお祖父様には、父がずいぶんお世話になったから。私はブラックの血筋を、心から尊敬してる」
「……そう。ありがとう」

俯き加減に囁いたナルシッサの脇を通り、アイビスは古びた本棚の間を抜け出した。法学の本を探しにくる生徒など、よほどその手の職業を目指していなければまずいない。閑散とした狭い通路を司書のもとへ向かおうとすると、後ろから追いかけてきたナルシッサの声が密やかに耳に入った。

「でも、だからといってあまり馬鹿な真似はしないでほしいの。私たちの家のことは、私たちで考える。だから血を軽んじる連中につけこまれるようなことだけは、やめて。私はあなたの生き方を、尊敬してきたのよ」

足を止めたアイビスは、しばらく彼女の言葉を頭の中で噛み砕いて考えた。振り返らずに、告げる。

    ありがとう」
「あんたに、話がある」

談話室に戻るつもりはなかった。図書館からグリフィンドール塔に続く通路から少し外れたところに、ゆっくりと本を読むには適した隠し部屋がある。あまり入り浸っていては必要な情報を逃してしまうこともあるので、よほど疲れているときか集中したいときにしか使わないが。まさにその部屋の扉を探っているとき、咄嗟に声をかけられて彼女はさり気なく伸ばした手を後ろに引っ込めた。声を聞いただけで、それが誰なのかを悟って振り向く。唇だけで微笑んで、彼女は廊下の向こうから現れたグリフィンドール生を見やった。

「あら、ミスター・ブラック。うれしい、人気者のあなたが訪ねてきてくれるなんて」
「白々しいんだよ。あんたなんだろう。をあんな目に遭わせたのは、あんたなんだろう」

前置きすらなくそう吐き捨てたシリウスを見て、彼女は胸中で嘆息した。なっていない。これがブラック家の嫡男がとるべき態度か。情けない。ブラック家も、堕ちるところまで堕ちたな。

「何のことかしら。証拠でもあるの?」
「あんたがあいつを呼び出したことは分かってるんだ。何が目的なんだ。があんたに何をしたって?」
「言いがかりはよしてちょうだい。生憎だけどあなたの戯言に付き合っているほど暇ではないの」
「俺はあんたを絶対に許さない。は、もう少しで死ぬところだったんだ。もしもまたあいつに手を出すようなことがあれば、そのときは俺があんたを    
「殺すって?」

覆い被せるようにして囁き、彼女は声を潜めてくすくすと笑った。カッと頬を赤く染め、シリウスが唸る。

「なにがおかしい」
「なにって……あのお嬢ちゃんに、それだけの価値がある?ブラック家の嫡男が殺人を犯すほど。マグル育ちのお嬢ちゃんの敵討ちなんて……いくらなんでも、そこまで馬鹿じゃないでしょう?」
    くだらないんだよ、そういうの」

嫌悪感を剥き出しにして、シリウスはそう吐き捨てた。くだらないのは、どっちなの。それはただ反発することしか知らない、愚かな犬の形相に過ぎない。

「ブラック家がどうだとか、マグル育ちがどうだとか。そういうの全部、くだらないんだよ。あんたが殺しかけたのは紛れもなく俺たちの同級生なんだよ。あんたは人を死なせかけたんだ!」
「知らないと言ったはずよ。口の利き方を習わなかったのかしら。ブラック家も堕ちたものね」

鼻先で嘲笑うと、険悪な顔をしたシリウスは眉間にますますしわを濃く刻み込んだ。

「関係ない……家の名前なんて、俺にはこれっぽっちも関係ない!」
「関係ないはずないでしょう。あなたは確かに、『ブラック』という星の下に生まれたんだから」

言って、アイビスはそれまで壁に向けていた身体ごと同じ寮の後輩に向き直ってそのあとを続けた。

「いい加減に目を覚ましたらどうなの。いつまでも子供みたいな理屈ばかり並べて、ご両親を困らせて。ブラック家の人間としての自覚に欠けてるんじゃない?弟を見習ったらどうなの」

きっと、耳にたこができるほど聞かされているのだろう。その整った顔を思い切り歪めてみせるシリウスに、さらに追い討ちをかけてゆく。

「付き合う相手は選んだ方がいいわよ、ブラック。たとえば    そう、目下話題沸騰中のあのマグル育ちのお嬢ちゃんだとか」

すると、こちらの意図を瞬時に解したらしい。なるほど噂通り頭の回転だけは速いのだなと感心しながら、彼女は向かいの少年が呆然と瞬きを繰り返すのをどこか冷めた心地で見ていた。

「まさか……そのために?俺からあいつを遠ざけるために    そのために、をあんな目に遭わせたって、そう言いたいのか?」

答えずに、アイビスはただにこりと微笑む。愕然と目を見開いたシリウスは、やがて凄まじい形相で激しく怒鳴り散らした。

「ふざけんな!あんたがブラック家への借りかなにかであの家の連中のことを気にかけるのは勝手だ!でも俺に構うな、俺が誰と付き合おうとそんなこと、あんたに関係ないだろ!あんたに俺の友達を傷付ける権利があるのか!もし……もしもあいつが、あいつが死んだら……俺は間違いなくあんたを殺すぞ!許さねえ……俺は絶対にあんたを許さねえ!」
「そう。分かってくれなくて残念だわ。私はあなたのことを心配して言っているのよ」
「ふざけんな!あんたに心配される謂われなんてない……二度と俺たちに関わるな!お前らと話してるだけで、吐き気がするんだよ!」
「シリウス    無駄だ。もうこれ以上、この人に何を言ったって聞かないさ」

どうやら、近くで様子を窺っていたらしい。悪趣味な。どこからか湧き上がってきたジェームズ・ポッターが今にもこちらに飛びかかってきそうなシリウスの袖を掴んで引き戻した。

「あとはマクゴナガルたちに任せよう。僕らにはどうすることもできない」
「チクショウ……チクショウ、ふざけやがって!チクショウ!」

一筋の涙を流し、シリウスはしきりにそれだけを繰り返した。無能な、犬。吠え立てることしか知らない。取るに足らないもののために、誇りを捨て去った涙をこぼす。これが父の尊敬する、『ブラック家』の姿か。
いや    違う。少し、道を踏み外しただけ。もう一度レールに戻すことができるのならば、彼はきっといずれ。

こちらを憎悪の眼差しで睨み付けたままのシリウスを引き摺って立ち去ろうとしたポッターの後ろ姿に、彼女は最後の言葉を投げかけた。

「あなたのせいよ、ポッター」

足を止めて振り向いたポッターの瞳に、少なからず影が落ち込む。

「あなたが余計なことを吹き込んだから。だからシリウスは、本来あるべきレールから逸れてしまった。あなたのせいよ。あなたがブラック家の中を無神経に掻き乱していったのよ」
「てめえ、もういっぺん言ってみろ!それ以上言ったら、本当に殺すぞ!」
    いいんだ、シリウス。僕は気にしてない」

ひっそりとそう呟いたポッターは、うっすらと涙の浮かんだ目を細めてじっとアイビスを見据えた。

「覚悟しておくんだね。マクゴナガルもダンブルドアも、決して家の名前なんかに屈するような人たちじゃない。必ずそれ相応の処罰が為される。自分たちがにしたことの意味を、よく考えてみるんだね」
「それはどうかしらね、ポッター。そもそも私は、後ろ指を指されるようなことは何もしていない」
「てめえ……まだそんなことを!」
「シリウス、やめろ。どのみち僕らにできることはこれ以上ない。あとはマクゴナガルに任せよう、行こう……」

二人の後ろ姿が完全に見えなくなってから、アイビスは背後の壁に凭れかかって大きく息をついた。彼女の家も代々続く純血の一族だったが、莫大な財はすでに先祖の代で食い潰されていた。資金繰りに困っていた父を援助してくれたのが、ナルシッサ、そしてシリウスの祖父だったという。以来、父はプライドを棄ててブラック家を深く信仰するようになった。高貴なるブラック家    父から聞かされる、偉大な物語の数々。けれども実際にその家の嫡男を見て、驚いた。これが、『ブラック』の?
悪い虫がついたのだ。ジェームズ・ポッター。ポッター家もまた純血の家系だったが、一代前にマグル生まれと交わってからその血筋は純粋ならざるものとなってしまった。つまらない考えをブラック家の人間に植えつけた……そしてホグワーツに入学したかと思えば、今度はマグル育ちの何も知らない東洋人だ。どれだけ純血の名前を汚せば気が済むのか。の片親は魔法使いだというが、入学許可書が届くまで魔法の存在すら知らずに育ったらしい。そんなもの、マグル生まれと大差ない。無知なマグルのお子様……ブラックの名にこれ以上の傷をつけさせるものか。
私は何も悪いことなどしていない。純血の血を護る者として、当たり前のことをしただけだ。シリウス・ブラック。ただ、朱に交わってしまっただけ。目障りな虫さえいなくなればきっと、彼はブラックの跡取りとして。

大丈夫。証拠など何もない。私を咎められる人間など、いるはずがないのだ。
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(07.12.16)
ジェームズは純血ですが、この連載ではハーフの設定です。