ここのところ、慢性的な頭痛がひどい。吐き気もする。夕食のサラダをつつきながら、こみあげてきた嘔吐感を押し戻そうと口元を押さえつけていると、向かいの席に座っていたスーザンが心配そうに声をかけてきた。
「ニース、どうしたの?気分でも悪い?」
「う、ううん……何でもないの、大丈夫」
「ほんと?でも最近ずっとしんどそうだよ?校医に見てもらった方がいいんじゃない?」
「ううん、ほんとに大丈夫だから」
医務室?冗談じゃない
数日前まで、彼女が入院していたところ。自分がそうさせた……私が、あんなことをしたから。
彼女は先日、聖マンゴ病院に移されたという。マクゴナガルは命に別状はないと言っていたが、どこからか情報を仕入れてきた彼が「重体らしい」と友人に囁くのを聞いた。まさか、こんなことになるなんて……ほんの少し、思い知らせてやるだけだと言ったのに。
オートミールをなんとかお茶で流し込んで、彼女はいつものようにスーザン、メイたちと大広間を出た。談話室に戻る途中、階上から下りてきたレイブンクローの上級生数人がこちらの存在に気付いて声をかけてくる。
「ニース、これからティファニーたちのところに行くんだけどあなたも来る?」
「あー……すみません、少し気分が悪くて」
「そう?それじゃあまたね。お大事に」
あっさりと手を振って、彼女らは弾むように階段を駆け下りていった。どうして……どうしてそうやって、平然としていられるんだろう。階段の途中で止めていた歩みをグリフィンドール塔へと再開させながら、振り向いたメイが言ってきた。
「ニース、あなたいつの間にあの人たちと友達になったの?」
「え?あ……少し、前に。たまたま」
「そう
気をつけた方がいいわよ?あの人たち、ジェームズのファンの中でも特に過激なんだって。も、あの人たちにやられたんじゃないかって噂まで出てるくらいなんだから。バーサが言ってた」
ずっしりと胃が沈み込むような心地がして、彼女は不意に立ち止まった。やや遅れてそれに気付いたスーザンとメイが足を止めて、またこちらを向く。スーザンは気遣うように瞼を伏せ、今にも泣きそうな顔で笑った。
「のことは大丈夫だって、ニース。マクゴナガルが言ってたでしょう?きっと良くなって戻ってくるって」
「そうよ、ニース。が退院したら、そのときにきちんと仲直りできるって。だから元気出しなよ、犯人だってすぐに見つかるわ」
「
ごめん」
震える声でそう絞り出し、ニースは沈痛な面持ちで顔を上げた。訝しげに眉をひそめた二人を見て、告げる。
「……やっぱり私、医務室に行ってくる」
「そう……うん、それがいいわね。ひとりで行ける?ついていこうか?」
「ううん、平気。ありがとう……じゃあ、また後で」
スーザンたちの姿が完全に見えなくなるまで一気に階段を下りて、ようやく彼女は息をついた。苦しい……誰も、私を疑ってくれる人はいない。事件の容疑はジェームズ・ポッターやシリウス・ブラックのファンであることを公言している女子生徒たちにかけられていた。彼女がその二人と、とても親しくしていたから。恨まれるとしたらその線か、もしくはスリザリンであることを誇りに思う生徒たちか。いくら組み分け帽子のミスとはいえ、一度彼女がスリザリンに組み分けされたことを、スリザリン生の一部は未だに屈辱だと思っていた。スリザリンとグリフィンドールは遠い昔から反目し、その敵対心は今でも根強く残っている。マグル育ちの獅子女に聖なる蛇を掻き回された
そう思っているスリザリン生は、ごく僅かだが確かにいると聞いた。だからといって、誇り高い彼らがいくらなんでもそこまで馬鹿な真似はしないだろうが。
最後の一段を下り、ずっと足元に落としていた視線をふと前方へ上げる。彼女はその先に、知った人影を見てどきりと心臓が跳ね上がるのを感じた。
A GIRL'S ACCOUNT 2
ニースの告白
ひとりで現れたジェームズは、誰にでもよく見せる人当たりの良い笑顔で微笑んだ。けれどもそれが今のこの状況とあっては、とても笑い返す気にはなれなかった。身体中をぴりぴりした緊張が支配して、何も言えずに立ち尽くす。彼は大仰に肩を竦めて、一歩ずつこちらに歩み寄ってきた。
逃げ出したい、と思った。けれども、身体は思うように自分の言うことを聞いてくれなかった。
「や
っと、ひとりになってくれた。待ってたんだよ、ずっとね」
彼が、自ら進んで会いにきてくれた。本当ならどうしようもないほど、幸せなひとときだったはずだ。それなのに、どうして。
「話をするのは久しぶりだね、ニース。どこかで場所を変えて話したいんだけど、いいかな?」
首を振ることも頷くこともできずに、彼女は石のように固まってただ彼のことを見ていた。それでも構わないということだろう、踵を返したジェームズがこちらに背を向けてずんずんと大股で歩き出す。ついていかなければならない。胸を締め付ける圧迫感に押され、彼女は小走りで彼のあとを追いかけた。そうしなければ見失ってしまいかねないほど、彼のペースはとても速かった。もうずっと以前のこと、たまたま廊下で遭遇した彼と二人で談話室に戻るときは、あんなにも自然に歩幅を合わせてくれたのに。そのことが当時の私には、涙が出るほど嬉しかった。だけど、分かっている。彼はもう、決して私に向けて笑いかけてはくれない。彼はそう、『そのこと』に気付いたのだ。さもなければ、今頃どうして彼が私を訪ねてくることがあろう。
ジェームズは授業ですらほとんど使わない寂れた空き教室に彼女を導いた。窓から差し込む月明かりは、満月を数日前に迎えたばかりでまだずいぶんと明るい。けれどもやはり相手の顔を見るにはいささか薄暗く、彼女は灯りをつけようとポケットの杖に手を伸ばした。
それを、ジェームズの静かな声が遮った。
「灯りは、つけないで」
「……ど、どうして?」
意表を突かれて訊き返すと、彼はさほど声の調子を変えずにひっそりと言ってきた。
「僕は……君の顔を、見たくないんだ。だから」
意味が分からず、ただ衝撃に心臓を鷲掴みにされてニースは息を呑んだ。振り向いた彼の顔はちょうど逆光になっていて、その表情は窺えない。けれども彼が決して微笑んでいるわけではないということは、その声音だけで知れた。
「……ひょっとして、僕らの思い違いなら謝る。君が本当に無関係だというんなら、それでいいんだ。でも、もしも君があの事件に関与してるんだったら」
僅かに震えた声をいきり立たせるようにして、彼はゆっくりと続けた。
「君の顔を見たら
僕は君に、杖を向けてしまうかもしれないから」
氷で背中をなぞられたような感触に、身じろぎひとつできずに立ち竦む。やはりそうだ、彼は何もかも、分かっている。気付かれると思っていた。きっと気付いてほしかった。それでもやはり、彼だけにはこんな惨めな自分を見られたくなかったのも事実だ。様々な思いが目まぐるしく身体中を駆け巡っていく。ニースが口を噤み、何も言えないでいるうちに、ジェームズはごそごそと何やら懐から小さなものを取り出して掲げた。それを見て、彼女はひときわ心臓が高く早鐘を打つのを感じた。
「これは例の夜、に宛てられた差出人不明の手紙だ。就寝前に五階の湖の絵の教室に来るように書かれてる。事情があって僕がある人から預かったんだ。この筆跡に僕は覚えがないけど……だけど君なら、知ってるはずだよね?ごくごく限られた時間の中だったら、それがどんな人の手をたどってきたかを遡ることのできる魔法があるってこと」
彼女は答えなかった。きつく瞼を閉じ、ただあの夜感じた自分の手のひらの震えを思い出して、ぞっと身震いする。ジェームズは手紙を掴んだ腕を下ろし、もはや愛想をほとんど投げ出した口調で言い切った。
「残念だけど、ニース。この手紙には君の手を経た形跡が残ってる。マクゴナガルだってそのことに気付いてないはずはない。きっと、待ってるんだろう。君が悪い子じゃないって知ってるから。君の方から打ち明けてくれるのを待ってるんだろうと思う」
マクゴナガルが、ここ最近何か言いたげな眼差しを時折向けてくることには気付いていた。でも……言えるはず、ないよ。そんなこと。だってまさか、こんなことになるなんて、私は
。
ジェームズはより一層声の調子を落とし、すっかり冷ややかな声で続けた。彼のこんな声を聞くのは、まだ一年少しの付き合いだが言わずもがな、初めてのことだった。そしてそれは、十分に予測できたことだった。だって彼は……ジェームズは彼女を……。
「だけど僕は、そんなものを待つつもりはない。は僕らの、大切な友達だ。シリウスは、をあんな目に遭わせた奴は俺が殺すって殺気立ってる。僕も正直、そうしてやりたいくらいだよ」
ニースは涙のにじむ目を開いて、月光を背に受けた彼のシルエットを見つめた。そう……そう、でしょうね。あなたは、あなたたちは……決して誰も寄せ付けないほど、強固な絆で結ばれている。分かっていたよ、あの頃から。だから、私は。
「君がを五階から突き落としたなんて思ってない。だけど君は、知ってるんだろ?あの夜何が起こったか、誰があんなことをしたのか。話してくれ
君だって、の大事な友達だったんじゃないか。それなのに、どうしてこんなことを……」
「……私だって」
ようやく絞り出した声を、彼女はやっとの思いでそのまま勢いに任せて吐き出した。
「私だって、を憎みたくなんかなかった。でも、だけど……耐えられなかったの、あなたが……あなたが、のことばかり見てるから!」
言ってしまった。けれどももう、引き返すことなんてできない。私は一年生のときからずっと、あなたのことだけを見てきた。頭が良くて飛行術も上手、とても人気のあるジェームズを個人的に紹介してくれたには感謝しているし、彼と同じ時間を過ごすことができたのも彼女のお陰だと思っている。のさばさばしたところは大好きだったし、これからもずっとジェームズとと、穏やかな時間を共有できたらと思っていた。
けれどもとうとう、その思いよりも嫉妬心の方が勝った。同時に、どうしようもない苛立ち。は、ジェームズのことが好きなのだと思っていた。それなのにクリスマス休暇明けから、彼女はブラックとも親しくするようになった。仲良く一緒に悪戯をしたり、談話室でよくチェス盤を囲んでいたり。ジェームズは?あなたは、ジェームズのことが好きなんじゃなかったの?それを今更、あのシリウス・ブラックまでも?どういうこと?
あなたは一体、誰のことが好きなの!
なら、仕方がないと思った。がジェームズと付き合うのなら、それも仕方がないと思っていた。それなのに……何が『友達』よ。そんな言葉で飾り立てて、あなたは結局私から何もかも奪っていくだけなのね。だから、だから私は
。
「あなたのことが、好きだった……だけどあなたが見てるのは、いつだってだった。あなたたちの傍にいるのがつらかったのよ……私、もうの隣にはいられなかった」
ジェームズの影は身じろぎひとつしなかった。静まり返った教室に、自分の乱れた呼吸だけが無情に繰り返されていく。ニースは重たい頭を二、三度振ってから、かすれた声を発した。
「と離れてから、しばらくして……声を、かけられたの。寮の上級生……学年末のの減点のこと、気にしてたみたいで……ほんの少し、思い知らせてやりたいから……その手紙を、に渡してきてほしいって言われて、それで
」
「『ほんの少し』?」
鸚鵡返しに繰り返し、組んでいた両腕を振り解いたジェームズが突然声を荒げて怒鳴る。その凄まじい剣幕に、ニースは思わず小さく悲鳴をあげて後ずさった。
「『ほんの少し』だって?は死にかけたんだ!頭を強く打って
まともに言葉も喋れてなくて……自分たちが何をしたか分かってるのか!がどれだけ苦しんでるか、君たちに分かるもんか!」
「わ、私は……その場にはいなかったから……よく、分からな
」
「そんなこと、関係ない!君が渡したこの手紙を読んでは就寝ぎりぎりにひとりで出かけていったりしたんだ。君がを殺そうとしたなんて言うつもりはない。でもこんなこと……バカだよ、そんなこと引き受けるなんて!学年末の減点は、だけの責任じゃないのに……何でなんだ。僕らだって共犯なのに、どうしてなんだ!」
……分からないの?本当に?あなたにはいつだって、のことしか見えていないのね。
学年末の減点なんて、単なる引き金の一つだった。彼女はそれ以前からずっと、ジェームズやブラックのことで上級生たちに目をつけられていたのだ。けれども彼女自身が転寮という一騒動からホグワーツ中の有名人になり、ジェームズたちとつるんでいることも多かったせいでこれまではなかなか近づけなかった、ただそれだけのことに過ぎない。学年末のスリザリン侵入騒動でついにブラックファンの嫉妬心に火がついて今回の事件に至ったのだろう。私は詳しい話を聞かされてはいないが、あながち外れてもいまい。
ジェームズは彼女が後ろに下がった分を詰め寄ってきて、低めた声で唸った。
「
誰なんだ。君にこの手紙を渡した上級生っていうのは」
「……それは」
あのときの冷ややかな上級生の眼差しを思い出して、ニースは口ごもった。『まさかとは思うけど、誰にもばらしたりしないわよね?』
もしも……もしも、ジェームズに話したら。もしも、プライア家に目をつけられるようなことがあれば。ひょっとして。
だがさらに一歩、こちらへを足を踏み出したジェームズはよどむことなく言い切った。
「ニース。僕に君を傷付けさせるような真似をさせないでくれ」
「
」
がくりと、膝から力が抜け落ちるようだった。すんでのところで踏み止まり、やっとの思いでその名を口にする。魔法界で生き抜くためには、覚えておいても損はないその家の名前を。
ジェームズは月光を背に受けたまま、しばらく何も言わずにその場にたたずんでいた。やがて、右手の中でくしゃくしゃに握り締めた封筒を乱暴にポケットに突っ込み、大股で出口へと向かっていく。涙をこぼしながらその後ろ姿を見送ると、教室を立ち去る直前ぴたりと足を止めた彼は、振り返らずにひっそりと囁いた。
「……君の気持ち、気付いてたよ。こんな僕のことを好きになってくれて、本当に嬉しい。だけど僕は、今は誰とも付き合うつもりはない。だから気付かない振りをした。そのことが君を追い詰めたのなら、今回のことは僕にも責任がある」
だけど、といったジェームズの声が奇妙に上擦って震えた。
「は……何も、関係ないはずだ。何でが、こんな目に遭わなきゃならない?が僕の友達だからか?僕が君の気持ちに気付かない振りをしたから?あの日、僕がたまたまに出逢ってしまったから?がグリフィンドールだからか?どうして、ばかりがこんな、つらい目に遭って……」
「……違う、ジェームズは何も悪くないわ!」
「だって何も悪くない!それなのに、どうして……」
扉に手をかけたジェームズの肩が、傍目にも見て取れるほどに大きく揺れていた。まさか……まさかあのジェームズが、泣いている?彼女を思って、涙を流している?
思わず彼のところへ駆け寄り、ニースは小刻みに震える手のひらで、ほんの少しだけその肩に触れた。
「……考えてたんだ、ずっと。もし……もしもがいなくなったら、って」
ジェームズは掴んだ扉に顔をうずめて、密やかに嗚咽を漏らしていた。あのジェームズが……泣いている。
「そんなの、僕らの日常じゃない。僕にはが必要なんだ。のいないホグワーツなんて考えられない。ニース……君だってほんとは、そうなんじゃないのか?もしも……もしもがいなくなったら……君はその先、笑って過ごせる?」
問われ、彼の肩を掴んだニースは言葉を失った。のいない、ホグワーツ。寮に戻っても、永遠に彼女に会えないグリフィンドール塔。
……。
たまらなくなって、ニースは溢れ出す涙をこぼしながら、ただ闇雲に「ごめんなさい」を繰り返した。ごめん、ごめんなさい、本当にごめんなさい。だから
帰ってきて。
そっと彼女の手を払い、ひんやりした袖で乱暴に目元を拭ったジェームズは一歩廊下へと踏み出して、再び口を開いた。
「それから、誤解しているようだから言っておくけど」
そしてほんの少しだけ、横目でこちらを向いた。だからといって彼の表情が、こちらから読めたわけではないが。
「僕とは、君たちが考えてるような関係じゃない。分かってもらおうなんて思ってない。だけどそれだけは、の名誉のためにもはっきり言っておくよ」