聖マンゴ病院に個室を用意されたは、毎食後くそ不味い深緑色の薬と、一日三度、各一時間ほどのリハビリをこなしていた。ダンブルドアから知らせを受けた父はすぐさまイギリスに飛んできて、が退院するまで傍を離れないと言い張った。
娘のベッドの端に顔をうずめて、泣きじゃくる父。そんな彼の姿を見て、は一日も早く退院できるように頑張ろうと心に強く思った。本当に大切な人を目の前にしたとき、発する言葉は必要ない。触れ合ったその温もりだけが不可欠な『言葉』なのだと知った。
リハビリは、少しばかり右脳を損傷したために痺れの残る左半身の運動と、発声の練習。地面に落下した際にできた外傷はすでに完治しているので、あとはきちんと喋れるようになったら……この薬を三度きちんと飲めば、脳内の損傷も回復するという。だからあとはリハビリを続けて、以前と同じように自由に動けるようになったら……。
A GIRL'S ACCOUNT 1
涙の理由
クララたちの誘いを断り、リリーはひとりで図書館に来ていた。あの光景を見て以来……どうしようもなく、胸を掻きむしられるように感じることがある。触れた窓枠の帯びた熱、飛び散った紅。死んでいると思った
爪先から一気に力が抜けていき、しばらくは立ち上がることもできなかった。けれども、行かなければ。寮監……マクゴナガルのところへ。私は見てしまった。真っ白な雪の上に無残に伏した、ルームメートの姿を。
ため息をつき、窓際の席で広げた教科書を閉じる。頭に入らない……思い出すのはあの夜の、昏睡状態に陥った彼女の姿だけ。
どこかへ散歩にでも出かけようか。そう思って筆記具を仕舞おうとしていると、ふと背後に気配を感じて彼女は咄嗟に振り向いた。そこにいたのは、見知った三人の男子生徒だった。大嫌いな
けれどもいつか、自分のもとを訪れるだろうとは思っていた。
「何かご用かしら?」
答えは分かりきっていた。それを敢えて、問い掛ける。本人たちの口からそれを聞きたかったのだ。
ポッターは傍らのブラックと一度だけ視線を合わせてから、神妙な面持ちで口を開いた。
「君に少し訊きたいことがあるんだ。ここじゃなんだから……場所を変えたいんだけど、構わない?」
リリーは胡散臭そうにじとりと彼の顔を睨み付けたが、やがて吐息とともに視線を逸らして、いいわよと返した。彼女が筆記具を片付けるのを待ってから、ついてきてといってポッターが歩き出す。それをブラックと、そしておどおどと不安げにこちらの様子を窺っているペティグリューが追いかけ、リリーはさらにその後ろについていった。
図書館を出て、しばらく無言のまま黙々と歩き続ける。ポッターはやがて傍の適当な空き教室に彼女を誘い、全員が中に入ってから、しっかりと扉を閉めた。
ポッターとブラックは何やら考え込むようにしてじっと窓の外を見つめ、そんな二人をペティグリューは困った様子で交互に見ている。リリーは少しだけ離れたところで彼ら三人の様子を眺めていた。
お調子者でかっこつけやの、ジェームズ・ポッター。傲慢で、いかにも人を小馬鹿にしたようなシリウス・ブラック。そんな二人にへらへらと追従する、ピーター・ペティグリュー。どいつもこいつも、大嫌いだった。
けれども今は。いや、彼らがその言葉を口にするのなら。自分の知っていることを、すべて話してもいいと思った。
ようやく心を決めたのか、自分の頬をぱしんと叩いたポッターはこちらに向き直って思い詰めた様子で言った。
「あの……エバンス、君が怪我してるを見つけてくれたって聞いたから……詳しい話を、聞きたくて。話してくれないかな。あの夜、何があったのか」
リリーはそんなポッターの眼を真っ直ぐに見据えてから、彼の傍らにいる二人にも顔を向けた。ペティグリューは不安げな、けれども真剣な眼差しでこちらを凝視し、ブラックはその瞳に冷ややかな炎を燃やしている。彼女はポッターへと視線を戻したが、時折それをさり気なく脇へと逸らしながら例の夜のことを語った。あまりにも真摯な彼の眼差しが、少しだけ恐ろしかったのだ。
「私……就寝前にひとりで部屋にいたの。そこで本を読んでいたら……が、戻ってきて。だけど私、彼女とはあんまり仲良くないから……だから声もかけずに、ずっと読書を続けていて。でも、彼女、どこか様子がおかしかったの。手紙か何かを読んで……急にコートを掴んで、部屋を飛び出していった。もう就寝時間ぎりぎりなのによ?だから私、がまたおかしなこと企んでるんじゃないかって思って……それで、こっそり彼女のこと、追いかけたの」
ブラックがあからさまに顔をしかめるのが分かったが、リリーは構わずあとを続けた。
「でも、談話室を出たときには、もう彼女の姿は見えなくなってて……迷ったけど、でもまた面倒を起こすつもりなら、止めなきゃと思ったの。これ以上バカなこと、させられないって。それでのこと探して、しばらくグリフィンドール塔の近くを歩き回ってたんだけど……しばらくして、五階の教室から何人もの女子生徒が慌しく出てくるのが見えたのよ」
ポッターがはっと息を呑む。そう、と相槌を打って、言った。
「五階の、湖の絵の。私が見たのは、少し離れたところからだったから……それが誰かは、はっきりとは見えなかったんだけど。でも、おかしいなと思った。あんな時間に、一体何をしてたんだろうって嫌な予感がして……私、行ったの。その教室に。もう誰も残ってなかったけど、だけど
なんていったらいいのか……胸騒ぎがして……窓の外を、見たわ」
そのときの光景をまた思い出して、リリーはぞっと身震いした。かたく目を閉じて、二、三度頭を振る。
「が……倒れてたの、窓の外、校庭に!真っ白な雪が……血の色に染まってた……私、わたし、が死んでるって、そう思った!」
「てめえ、縁起でもないことを
」
「シリウス、やめろよ!……ごめん、エバンス。つらいことを思い出させて……いいよ、もういい。ありがとう、僕たちは……」
歯を剥いたブラックを鋭い声で諌め、ポッターが心底申し訳なさそうに彼女の話を止める。けれどもそれを敢えて無視し、リリーはさらにそのあとを紡いだ。
「教室の、窓ガラスの一つが……まだ温かかった。レパロ呪文で直したものは、しばらく熱を持つから……だからそこからが突き飛ばされたんだって、私には分かったわ。あのときに見た人たちが、きっと
だから、私はすぐにマクゴナガル先生の部屋に行って……それで、ダンブルドア先生や、マダム・ポンフリーを……」
「分かった、よく分かったよ、エバンス。もう十分だから……つらかったろうね、ごめん……ごめんね。だからもう、泣かないで
」
「泣いてなんか!」
怒鳴りつけてから、ようやく彼女は自分が泣いていることに気付いた。頬を濡らす涙がこぼれ落ちる前に冷えて顎まで伝う。どうして、どうして私が泣かなければならないの?こんな人たちの前で、どうして!
袖で必死に涙を拭ってから、リリーは懐から乱暴に取り出した一通の手紙を突き出した。きょとんと目を丸くして、ポッターが訊いてくる。
「……それは?」
「が持ってた、例の手紙。これを読んで、彼女は部屋から出て行ったの。もちろんダンブルドア先生たちにも見せたわ。だけどこれは、あなたたちが持っている方がいいと思うから」
するとポッターは瞬時に目を開き、すぐさまその封筒を受け取って中の羊皮紙を抜いた。彼が広げたそれをブラックとペティグリューも脇から覗き込んで見る。一人だけ目立って小柄なペティグリューは少なからず背伸びしなければならなかったが。
やがてそれを自分の懐に滑り込ませたポッターは、再びこちらに顔を向けて小さく笑んだ。それは普段の冗談めかした彼の姿からは想像もできないほど哀しげな笑顔だった。
「ありがとう、エバンス。つらい記憶だろうに……聞かせてくれて」
「……いいえ。知っていることを、話しただけだから」
「おい、ジェームズ、ピーター、行こうぜ!」
ブラックはあっという間に教室の出口まで移動し、荒っぽく残りの二人に声をかけた。リリーは思わずむっと顔をしかめたが、苦笑いしながらそちらを一瞥したポッターが「ごめん、あいつちょっと無神経なんだ」と軽く頭を下げる。なによ、あなたたちみんな、同罪なんだから。自分の都合ばかり考えて、やっぱり身勝手な人たちね。
ペティグリューはすでにブラックのところへ移動し、ポッターも二人を追おうとそちらに身体を向けた。だが彼女とすれ違う直前、ぽつりと独り言のような声音で
けれども確かに彼女の耳に届く大きさで、呟いた。
「をあんな目に遭わせた犯人は、僕たちが必ず見つけ出すから」
だから君は、心配しないで。そう言って走り去るポッターの足音が、次第に遠ざかっていく。
「ああ
そうだ」
教室を出て行く寸前、足を止めたポッターが振り向いて声をあげた。
「、学期末のこと……反省してたよ。もちろん、僕らも。迷惑かけて、ほんとにごめん」
振り返ろうとして、リリーはそれをなんとか押し留めた。夕陽の沈みゆく橙の空を窓ガラス越しに見つめながら、吐き捨てる。
「そういうことは、私じゃなくて寮のみんなに言うべきだわ」
「うん……そうだね。でも、ほら。君の言葉って、いつでも痛いところを突くだろう?もずいぶんまいってたから。もちろん、良い意味でね」
「おいジェームズ、早く行こうぜ!」
「あーうん、すぐ行く」
ブラックに気のない返事を返し、ポッターは最後にこう言い残した。
「だから君たち、なかなか良い友達になれると僕は思うんだけどな」
そしてバタバタと慌しい足音を残し、嵐のように去っていく。ひとり残された教室の中、差し込む夕陽を横顔に受けてリリー・エバンスは大仰に息をついた。
勝手なことを、言わないでちょうだい。
そんなこと、あなたに決められたくなんかない。