……暇だ。
ベッドの上に横になったまま、は陽光の差し込む窓の外を見た。この閉鎖的な空間に閉じ込められて、すでに一週間だ。まだ満足に身体を動かすこともできず、脳にも若干の記憶障害があるということで、家族と、ごくまれに様子を見にくる寮監以外は面会謝絶の状態が続いている。担当医のプレストンいわく、どちらもリハビリで完全に回復するだろうとのことなのでその点はあまり心配していないのだが、如何せん日に三時間の簡単なリハビリがあるだけで、他にすることがない。孤独死するとしたらこんな気分なのだろうなと考えながら、はまた寝返りを打とうとして背中に走った激痛に「ぎぇ!」と潰れたうめき声をあげた。それでも私には、家族がいる。待ってくれている友達がいる。だから独りなんかじゃ、ないんだ。
from the heart
真夜中の約束
授業の後、ジェームズにシリウス、ピーターを呼び出したマクゴナガルは、が聖マンゴ病院に少なくとも一ヶ月は入院することになったと告げた。あまりの事態に愕然として、しばらく言葉を失ったジェームズが思いきって口を開く。
「そ、そんなに悪いんですか?だって、マダム・ポンフリーはとっても優秀な校医だって……去年の試合で骨折したチャールズなんて、ものの数時間で完治して……」
「ポッター、今回はまったく状況が違います。予断を許さない事態です。聖マンゴで治療を受けなければ、まず学校には復帰できないでしょう。彼女には専門的な処置が必要です」
ぴしゃりとそう言ったマクゴナガルに、ジェームズは傍らのシリウスとちらりと目を合わせた。が、一ヶ月以上入院……聖マンゴの治療を受けなければ、授業にも復帰できないほどひどい状態。そんな……ピーターは間抜けなほどぽかんと大きく口を開け、青ざめた顔で身じろぎもせずにじっとマクゴナガルを見上げていた。
「
誰が……あいつを、そんな目に?」
ひっそりと声をあげたのはシリウスだった。普段は横に流した長めの前髪がいつの間にか目元を覆い隠し、その整った鼻筋に影を作っている。マクゴナガルは唇を引き結んでてきぱきと答えた。
「それは現在調査中です。あなたたちは自分たちの学業に専念するように。は、必ず良くなります。ポッター、あなたは今年のクィディッチ杯で、去年の汚名を返上するのでしょう?」
マクゴナガルの視線を避けるように目を逸らし、ジェームズは俯いた。確かに……そのつもりだった。ロジエールとの勝負もある。クィディッチの開幕戦はいよいよ明日に迫っていた。けれどもがこんなことになり、その犯人が分からないまま試合などに専念できるだろうか。彼女のことが気になって気になって、最後のチーム練習でもスニッチを逃がしてしまい、事情が事情だけにチームメートたちもあまり強くは言えないようだったが、キャプテンのセオドアだけは「そんなことでどうする。が入院して、お前が点を稼がなきゃ一体誰がお前らの学年末の失態を取り戻すんだ!」と怒鳴った。
「じゃあ……先生、お願いです。が聖マンゴに入院する前に、一度だけ彼女に会わせてください。そうしないと僕は、明日の試合にもきっと集中できません。お願いです、先生、に会わせてください!」
ジェームズはそのとき確かにマクゴナガルの瞳にうっすらと涙が浮かぶのを見たが、それでも彼女は頑として首を縦に振らなかった。
「……気持ちはよく分かります、ポッター。ですがは今、とても人に会える状態ではありません。一ヵ月後には、元気な姿でここに戻ってくるでしょう。ですから今回だけは、彼女のことは少しだけ脇に置いて試合に臨んでください。あなたはチームの要となるシーカーなのですよ。あなたのペースが乱れたら、開幕戦をスリザリンに勝利させることになるのです。そんなこと、も決して喜ばないでしょう」
のことを持ち出されてジェームズは顔を上げた。……そう、僕は彼女と約束した。必ず勝つと、スリザリンに、そしてロジエールに。純血生まれということを鼻にかけて、魔法界のことを知らずに育ったというだけでを馬鹿にする低俗なやつら。『ブラック家』を離れたシリウスにこんなところに来てまでそのしがらみを思い出させる、忌々しい人間。僕はあいつに勝つと誓った。そうしたら二度と、やシリウスには構うなと。
でも、、それは君が傍にいてくれたからだ。君を見ると安心するんだ。君とシリウスとずっとこの先も、馬鹿やって笑いながら過ごしたいといつも思う。夏季休暇で二ヶ月離れていたって平気だった。でももうすぐに会えると思うと自分でも驚くほど胸が弾んだ。心地良い、距離。
大親友だと僕は笑う。けれどもそんな言葉ではどこか的外れなような、不思議な感覚も覚える。なんと呼べばいいんだろう。僕は君を、という名前でしか永遠に呼べないように思えた。同じなんだ、シリウスと。でもどこかベクトルが違っている。だから僕には、その二人ともが同時に必要なんだ。
がいない。どこか遠いところで苦しんでいる。それなのに、僕は彼女に何もしてあげられない。そのことが歯痒くて、たまらなかった。本当は今すぐにでも飛んでいってあげたい。ただ声をかけることしかできないとしても、抱き締めてあげることしかできないとしても。
その夜、消灯時間も過ぎ、カーテンの隙間から差し込む月の光を受けてピーターが寝息を立てているその切れ間に、ひっそりとシリウスの声が聞こえてきた。
「
起きてるんだろ、どうせ」
「……ああ」
眠れるはずがないだろう。ジェームズは頭までかぶっていた布団を首まで下ろし、ひっそりと答えた。
「……行けよ」
「ん?」
「行ってくりゃいいだろ。何のためのマントだよ」
シリウスがそう言ってくるのは予測していた。いや、マクゴナガルにの話を聞いてから、ずっと待っていたのかもしれない。ほんの少しだけ、それを後押ししてくれる何かを期待していた。
「……いいと思うか?会いにいっても?」
「ハッ。いまさら何いい子ぶってんだ。だめだってマクゴナガルに言われたろ?」
そうだな、と笑ってジェームズはベッドから起き上がった。クローゼットから厚手のコートとマフラー、手袋、そして丸めたまま放り込んだ透明マントに手を伸ばす。
相変わらず規則的なピーターの寝息を聞きながら、彼は横になったまま動かないシリウスとリーマスを一瞥してそっと部屋を立ち去った。
クィディッチの練習をするため、真夜中に寮を抜け出すことには慣れていたが、そのときはこっそり階段を下りて城の外に出ればあとは人目を気にせず飛べばよかったのでまだ楽だった。こんな時間に外を眺めている人間なんていないし、いたとしても自慢じゃないが自分のスピーディな飛び方を見てもただの鳥としか思わないだろう。
校医のポンフリーが医務室にいるのなら厄介だ。けれども忍び足で踏み込んだ室内にはどうやらそれらしい姿は見えず、ジェームズはほっと胸を撫で下ろした。それでも透明マントだけは身体にまきつけたまま、ゆっくりとのベッドを探す。目的のそれはすぐに見つかった。四方をカーテンに囲まれたベッドは奥の一つしかない。
(あんまりびっくりして声でも出されたら困るけど……)
まあそのときは怖い夢でも見たと言ってくれるだろう。『怖い夢』を見て飛び起きるの姿を想像して小さく噴き出しながら、ジェームズは抜き足差し足で目的のベッドへと近づいていった。
そっとカーテンを開けて、の寝顔を見つける。昨日は満月だったので、カーテンの隙間から差し込んでくる月光だけで十分にその表情を見ることができた。ジェームズは静かにマントを脱ぐ。談話室のソファで何度か眠っているを見たことはあるが、一見したところ、そのときとはさほど変わらない様子に見えた。
(……どこがそんなに悪いんだろう。それとも……脳に障害でもあるのかな)
それならば、聖マンゴに入院までするというのも頷ける。意識障害、記憶障害……どうしよう、もしも僕たちのことを、が忘れてしまっていたら?いやだ、そんな
、目を覚ましてくれ。僕の顔を見て。僕の名前を、呼んで。
突然込み上げてきた涙が目尻を伝ってこぼれ落ちたとき、小さくうめいてがゆっくりと瞼を開いた。通じた、という思いが胸の奥で湧き上がると同時に、どうしようもない恐怖が溢れてくる。『だれ』
もしも、彼女の口からそんな台詞が出てきたら。
だが驚いたように目を見開いた彼女の喉から出てきたのは、案じたその二文字ではなかった。
「ア……、あ」
「……、僕だよ、分かる?」
「……ゼ、……ゼ……ジェ、」
「そう、うん、そう。僕だよ、ジェームズ。良かった、……」
『ジェ』
ただそれだけのことだったが。良かった……覚えてくれていた。けれどもしばらくして、彼は何かがおかしいということに気付いた。ジェ、ジェ……それを繰り返すばかりで、は一度もきちんと僕の名前を呼んでくれない。
彼女の顔を覗き込み、ジェームズは小声で囁きかけた。
「?僕の名前、覚えてる?ジェームズだよ、ジェームズ。、僕の名前、言える?」
「……ゼ……ジェー……ジェ、ジェ……」
分かった。彼女は、言葉を失っている。
は今にも泣き出しそうな顔で、何度も何度も「ジェ」を繰り返した。もういいよ、といってジェームズは首を振る。ああ、そうだったのか。だからマクゴナガルは、彼女を誰にも会わせまいとした
。
「……もういいよ、大丈夫だから。君の気持ちは分かったから。僕の名前、呼んでくれようとしてるんだろ?嬉しいよ、が一生懸命なの、ちゃんと分かるから」
どこかで聞いた台詞だと思いながら、微かに笑いかける。そして震える彼女の頬にそっと両手を添えると、溢れ出したの涙が彼の手のひらに垂れた。ああ……僕たちの知らない間に、君はこんなにも苦しんでいたんだね。何も知らなくて、ごめんね。何もしてあげられねくて、ごめん。
「そうだ、。クィディッチの開幕戦、明日なんだよ。君は聖マンゴに行っちゃうみたいだから見られないだろうけど……でも僕たち、絶対に勝つからさ。いい知らせ、届けられるように頑張るよ。だからも約束して。必ず元気になって帰ってくるって。僕たち待ってるからさ。大丈夫、絶対に良くなるよ。聖マンゴってさ、僕のおじいちゃんが若いときに杖が逆噴射して声が出なくなったときもちゃーんと元通りに治してくれたんだって」
これは今のには効果的なようだった。見開いた眼でじっとこちらを見上げ、頷こうとして
身体も自由が利かないのだろう、苦しそうに顔を歪めた。
「よし、じゃあ約束だ。僕はクィディッチがんばる。だからは、治療に専念して。元気になって、またここで会おう。約束だよ」
ジェームズはマントをベッドの縁に置き、の上で上半身を屈めた。驚いたように瞬きした彼女の額に、こつんと軽く自分のおでこを押し当てる。今にもキスしそうなほど近づいた彼女の睫毛が鼻先に触れた。けれども決して唇を合わせることはなく、ふっと身体を起こしてきょとんとした様子の彼女に微笑みかける。するとは、痛みが残るのだろう
口元を歪めながらもつられたように笑い返してきた。
大丈夫。その約束があれば、僕はそれを果たしさえすればいいのだから。彼女は必ず戻ってくる。そのときに、勝ったよと拳を掲げてやればいい。そのためならば、僕は明日もスニッチを目がけて飛べる。ロジエールよりも早く、ロジエールよりも速く。
びっくりした。
ジェームズの立ち去った医務室の一角で、はどきどきと高鳴る己の心臓を叱咤した。目覚めたその瞬間、目の前にジェームズの顔があったときはまず驚いた。そしてすぐに、ここから消えてなくなりたいと思った。思うように身体を動かせず、ろくに言葉も喋れない今の情けない自分を、どうしても友人には見られたくなかったのだ。『僕の名前、言える?』
呼びたかった、とても。ジェームズ……私の大切な、友達。親友という言葉では足りないほど、私にとっては大きな。
けれども、言えなかった。ジェームズ
その、名前を。呼べなかった。つらくて、情けなくて、歯痒くて。けれども彼は、それすらも優しく受け止めてくれた。僕もクィディッチがんばるから、だからも。治療に専念してと。声が出なくなったというジェームズのおじいさんも完治したという、聖マンゴ病院。
行ってこよう。絶望するためではなくて。ここに、この城に帰ってくるために。またジェームズたちと、笑いながら過ごすために。
立ち去る直前、振り向いた彼は言った。本当はシリウスとピーターも来たがっていたんだけど、大勢じゃ見つかったときに面倒だから無理を言って僕だけで来たんだ。それが真実か否かはともかくとして、その心遣いだけで嬉しかった。
(……キス、するのかと思った)
内緒話でジェームズと息がかかるほど顔を近づけたことは、これまでも何度かあった。だがこんな薄明かりの中、あんなにもまともに正面から詰め寄られては。実際、もう少しだけ顔を浮かせればキスできる距離ではあった。
心臓が止まるかと思った
けれども特に何事もなく、ただ子供同士が約束をするときのように、軽く額を合わせただけで。拍子抜けしたのも事実だが、同時に奇妙な心地良さも残った。
私、ジェームズのことが好きなのかな。
分からない。分からないけれども。
でもそんなことは、今ここで結論を出す必要もないことだろう。