彼に連絡をとるのは    何年ぶり、だろう。まさかこんな形で便りを送ることになろうとは、予想だにしなかったけれども。彼はどんな反応をとるだろう。あのあまりにも不器用で寡黙な、東洋の青年は。いや、彼もまた、年を重ねたのだ。自分と同じように。
いや、彼が自分と同様にして年をとったというのは恐らくは的確でなかろう。彼は父親なのだ。あの子を、あんなにも立派に育て上げた、『素晴らしい』父親。自分とは決して違う、真の強さを兼ね備えたはずの、青年。自分にはそれがない。得られなかった。だからこそ自分は、あの頃と同じ    卑怯な、ままの。
だがこればかりは避けられなかった。会わねばならない。この職に在る人間として、避けて通ることは決してできやしない。

覚悟を決めて、彼は重苦しい身体を引き摺るようにして校長室をあとにした。

IMPEDIMENTAL GIRL

あるひ、とつぜん

医務室で目を覚ましたは、同級生のリーマス・ルーピンが立ち去った後、ベッドの周囲に巡らされたカーテンの向こうにいるはずの校医に声をかけようとして    思うように声を出せないことに気付き、愕然とした。あ、あの……あ、あ、ア……。
固まった唇を意地だけで抉じ開けて紡ぎだそうとした言葉は、かすれた咳になって漏れた。

「げっ……ごほ、ごほっ……」
    ミス・?」

虚を衝かれたように声をあげ、校医はすぐさまカーテンを引いての前に姿を現した。何度か大広間で見かけたことがあるが、何の先生かまでは知らなかった。優しそうな顔付きが、今は真剣そのもので真っ直ぐにを凝視している。なんとか声を出そうとしたものの、やはりうまく言葉を伝えられないでいると、すかさず校医が口を開いた。

「気分はどうですか、ミス・。どこか痛みますか?」
「ア……あ、う……せ、せた……」

あああ、ちがう。せ、せなかが。いたむんです。とても。
校医は厳しい眼差しで一瞬だけ眉をひそめたが、すぐににこりと微笑んでの身体に丁寧に布団をかけなおした。

「心配は要りませんよ。じきに良くなります。何か口に入れますか?お腹が空いているでしょう    
「ア……!」

どうして、どうして思うように声が出せないんだろう。何があったのか、まったく思い出せない。怪我?病気?わたし……死ぬ、のかな……。
こちらに背を向けてどこかへ行こうとしていた校医は、が発したかすれた叫びに振り向いて目を細めた。

「何か口に入れないと。まだオートミールくらいしか食べられないと思いますが、すぐに準備してきますから。マクゴナガル先生にも連絡しておきましょう。さあ、あなたはゆっくり休んでいなさい。何も心配は要りませんよ」

にこりと穏やかに笑んだ校医は、医務室の隅にある扉から、どうやら自分の事務所らしい部屋へと引っ込んでいった。心配するな、なんて。自分がどうしてこんなところにいるのか、なぜ満足に声も出せないような状態になってしまったのか。何も分からないまま、自分の思うことを何も伝えられないまま。どうやって、ゆっくり休むことなんてできるだろうか。聞きたいことは山ほどあった。それなのに、何も喋れない。伝えられない。こんなにもつらいことがあるか。は白い天井を見つめ、見開いたその瞳から一つだけ、大粒の涙をこぼした。

お父さん、私、死ぬのかな。そうしたら、すぐにイギリスまで駆けつけてくれる?死ぬ前に一度、不器用なそのやり方で抱き締めてくれる?
でも、私は耐えられるかな。父さんを前にしても、言いたい台詞を何ひとつ伝えられないことに。お父さん、好きだったよ。ありがとう、大好きだったよって言えなくても。当たり前のように扱えてきた、言葉の数々を。伝えられなくても、分かってくれなくても。

温かいオートミールを持って戻ってきた校医は、杖を振っての枕を大きく膨らませ、上半身をゆっくりと起こさせた。身体中がみしみしと音を立てそうなほど痛むが、やはり口から出せるのは打ち震えたうめき声ばかりで。食欲はほとんどなかったが、無理やり口を抉じ開けられて何口かオートミールをのせたスプーンを突っ込まれた。その後、さらに薬だといって涙が出るほど苦い緑色の液を飲まされた。不味い、と告げようにもうまく発声できずに口を噤んだだが、顔を見ただけで感情は伝わったらしい。校医は苦笑し、良薬は口に苦しですといってまだ半分以上残っているオートミールの皿と空っぽになったコップを持ってくるりと踵を返した。
少しオートミールを食べると、自分がよほど空腹だったということに気付いての腹はぐうと鳴ったが、だからといってまったくといっていいほど食欲は湧かなかった。気持ち悪い……もう大丈夫だと校医はルーピンに言っていたが、それは空しい嘘なのではないか。私はこのまま死ぬのではないか……言いたいことも言えないまま、涙を流して死んでいく。泣けるのならまだいい。その涙を見届けてくれる誰かがいるのなら。病気だったのかな。背中がひどく痛むから、どこか高いところから落ちたのかもしれない。そのときに頭を打ったのかも……何も、思い出せない。お父さん、ねえ、私どうしたらいいんだろう。先生、お父さんに連絡はとってくれたのかな。来て、くれるかな。ねえ、ジェームズ。ピーター、シリウス……ニース。忘れてないよ。倒れる前のことは思い出せないけど、みんなのことは、忘れてないよ。
会いたくてたまらなかった。みんな、大切な友達だった。ホグワーツへやって来て、私に充実した毎日を与えてくれた人たち。会いたいよ、ジェームズ。私、このまま死にたくない    

まさにそのとき、どこからか自分を呼ぶ声がしてはぱっと目を開いた。続けて、抑えつけたような寮監の怒鳴り声が聞こえてくる。が已む無く拘束されている医務室のドアのすぐ向こうからだった。

、元気かーい!」
    ポッター、静かになさい!は今誰にも会うことができません。次の授業もあるでしょう、あなたたちは早くお戻りなさい」
「先生、でも僕たち、のことが心配で……ほんの少しでいいんです、に会わせてください!」

ジェームズ……涙が出るほど嬉しかった。会いにきてくれた。ありがとう。たとえ会えなくても、そのことを思うだけでの胸にはじわりと温かいものが広がっていった。『僕たち』……ひょっとして、ピーターたちも来てくれているのかな。しばらく黙り込んだ後、マクゴナガルがひっそりと答えるのが聞こえてきた。

「……あなたたちの気持ちは、よく分かりました。ですが今は、授業に戻りなさい。私が今からの様子を見てきますから、彼女と会えるかどうかはその後にまた話しましょう。何しろ、状況が状況ですからね……」

もう一度ジェームズの声が聞こえるまでには、少し時間がかかった。落ち込んだ様子で、分かりました……と呟くのが聞こえる。そして    やはり、何人かで一緒に来てくれていたのだろう    ばたばたと複数の駆け足が立ち去る音がしてからやがて、静かに医務室のドアが開いてマクゴナガルが入ってきた。反射的に目を閉じて、眠った振りをする。マクゴナガルは忍び足で一度のベッドに歩み寄ってから、校医のオフィスに繋がるドアを軽くノックした。

「ああ、マクゴナガル先生    
「ご機嫌よう、ポピー。の容態はどうですか?」

ポンフリーはが眠っていることを確認するように首を伸ばしてから、ひそひそとマクゴナガルの耳元に囁いた。

「やはり……脳内を少なからず損傷しているようです。外傷は薬を服用すれば一週間で完治するでしょうが、右脳の損傷は聖マンゴの専門医に看てもらった方が確実かと。言語能力に支障をきたしています。ここでは用意できる薬にもリハビリにも限度がありますから」
「……右脳を?」

マクゴナガルは口元を引きつらせ、ひっそりと寝息を立てるを見て眉をひそめた。

「では……すぐにでも、聖マンゴに連絡をとった方が?」
「はい、それがいいと思います。の家族にも連絡を。確か彼女の実家は……日本、でしたね?」

ポンフリーのその言葉に、マクゴナガルは一瞬背筋を駆け抜けた悪寒をごまかすようにして軽く咳払いした。

    ええ。ふくろう便では時間がかかりますから、使いを送ることにします。聖マンゴの件は私から直接ダンブルドアに。空きがあれば明日にでも移送できるでしょう」
「……せ、あ……ア、」

せんせい。そう声をあげようとしたのだが、うまく言葉が出てこずには弱々しく唇を噛んだ。マクゴナガルとポンフリーはぱっと顔を上げて彼女を振り返る。マクゴナガルはいつものその堂々とした風格からは想像できないほどに取り乱した様子で慌しくのベッドまで駆け寄った。

……気分はどうですか、どこか痛むところはありますか?」

校医と訊くことは同じだが、寮監の言葉の方がより胸に染みては涙のにじむ目を伏せた。先生、ごめんなさい。思い返してみれば私はいつだって、あなたに迷惑ばかりかけて。いい生徒じゃなかったですよね。ごめんなさい、本当にごめんなさい。楽しみにしてた寮杯、スリザリンに取らせてしまって本当にごめんなさい。

「ア……あ、た……ど、ウ……」
、無理をして声を出さなくてもいいですよ。大丈夫、すぐに良くなりますから。魔法界で一番大きな病院で、少しだけ治療をして、ほんの少しリハビリをすればまた元通りの学校生活に戻れますよ。心配しなくても、大丈夫です。聖マンゴ病院に勤めているグレゴリー・プレストンは私の教え子です。とても、有能な癒者ですよ。ご安心なさい」

どうして。どうして、そんなことになってるの?私に何があったの?病気なの?私は本当に、元通りの生活が送れるようになるの?教えて、私が知りたいのはそれなの。慰めの言葉だけなら、そんなものには意味がない。ねえ、お願い。誰か教えて。けれども今の私には、それを伝える術がない。まともに言葉も喋れない、思うように身体も動かせない。魔法界で一番大きな病院に入院することになる……ほんとに、本当に私はこの城に戻ってこられるの?いやだ    私には、ホグワーツしかないのに!
なんとかこの思いを伝えようと必死にマクゴナガルの眼を見つめたが、寮監は涙混じりにこちらを見返すばかりで他に何も言わない。
そのとき、再び医務室のドアが開いて振り向いたマクゴナガルとポンフリーはあっと声をあげた。

「アルバス、たった今あなたのところへ伺おうと    
「そうか、それは幸運じゃった。そろそろミス・が目を覚ます頃かと思うてのう」

現れたのは半月眼鏡の奥で青い眼をきらりと輝かせたダンブルドアだった。は反射的に起き上がろうとしたが、まさか急激に動けるはずもなくうめき声をあげただけで呆気なく息を吐く。ダンブルドアはさっと軽く右手を上げてそんなに微笑みかけた。

「これこれ、君はゆっくり横になっておるのじゃ、ミス・。さもなければわしがポピーから怒られてしまうのでのう。気を遣う必要などまったくない、わしのことは小石とでも思うておくれ」

いや、いやだ。教えて、先生。私、どうしてこんなところにいるんですか?私、病気なんですか?怪我したんですか?何があったんですか?私、ほんとにまたここに戻ってこられるんですか?
伝わるはずがないと思ったが、根気強くダンブルドアの眼を見つめていると、ふむと小さく唸った校長は豊かな白いひげの奥で柔らかく笑った。

「案ずるでない、ミス・。君は飛行術の時間にちょっとした事故で箒から落下してしもうてのう。そのときに軽く頭を打ち付けた故に、少しだけ脳に怪我をしてしまったのじゃ。じゃが聖マンゴという魔法使いの病院でちゃんとした治療を受け、専門のリハビリを頑張ればまたこの学校に戻ってみんなと勉強することができるよ。君は知らないかもしれぬが、聖マンゴ病院というところはヨーロッパでも屈指の癒療機関でのう。わしの古い友人も何人か働いておる。とても信頼できるところじゃよ。大丈夫、君は必ず良くなるよ。わしが保証しよう」

は欲していた答えを的確に与えてくれたダンブルドアに驚いてじっと相手の顔を凝視し、マクゴナガルとポンフリーが衝撃的な面持ちで彼を見つめていることには気付かなかった。この人は本当に、相手の気持ちが読めるのかもしれない。は本気でそう思った。

「さて、君の顔を見たら安心したよ。わしは早速、聖マンゴに手紙を送ろう。君のお父様にも知らせねばのう。君は自分の身体のことだけを考えて、ゆっくり休んでおくれ。ポピー、あとのことは頼んだよ。ミネルバ、これからわしの部屋まで来てくれるかな?」
「え、ええ、もちろん……」

穏やかに微笑んだダンブルドアは、そっとの頭を撫でて、不安げなマクゴナガルとふたりで医務室を出て行った。ポンフリーはその後ろ姿を見送ってから、こちらに向き直って告げる。

「……と、いうことです。しばらく聖マンゴ魔法疾患傷害病院に入院ということになると思いますが、ダンブルドア校長のおっしゃったように、あなたは必ず良くなります。だからあまり心配せずに、ゆっくり治していきましょう」

やっとのことで微かに首を縦に振ったは、静かに微笑んでみせた校医を見てそっと瞼を閉じた。そうか、そうだったんだ。私、箒から落ちたんだ……あんなに下手くそだもんな。去年よりはずいぶんましになったけど、それでもまだ乗り手が怯えていることが分かるのか、今年度に入ってからもときどき箒が不規則な動きを見せることがあった。スリザリン生の野次にいちいち反応していたら身体が持たないが、苦手な飛行術のときだけはやはりやつらの冷やかし笑いに遭うと身体が強張った。飛行術の授業は二年生で終わる。早く三年生になってほしいと願いながら過ごす日々の連続だったのだ。
しばらく休めという神様の合図かもしれない。そう自分に言い聞かせて、はダンブルドアの言葉を信じ、入院したら一日も早くホグワーツに戻れるように、またジェームズたちと過ごせるように一生懸命リハビリに励もうと心に決めた。
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(07.11.24)