「……うわ、すごい」
は視界一面を埋め尽くすローブやトンガリ帽子姿の老若男女を眺め、呆然と呟いた。
GROUNDSKEEPER
いざ、
父の部屋には昔から暖炉がある。そんなものの取り付けられた日本の家なんて珍しいと、子供ながらに思うことがあった。
だがそれが、今になってようやく分かった。
……父さんは、イギリスのことを忘れられないんだ。
英国へと向かう決意を固めた彼女に父から手渡されたのは、小さな巾着袋に入った灰のような粉だった。
「これでイギリスまで行ける。ホグワーツの先生が手紙と一緒に送って下さったんだ」
身の回りの必要なものを出来るだけ詰め込んだトランクを引きずるは、父の部屋でその袋片手に疑問符を浮かべた。
「何これ?何でこんな粉でイギリスまで行けるの?」
すると父は机の上に置いてあった手紙をこちらに寄越した。それは入学許可書と同じ、ごわごわした質感の紙。広げるとそこにはまた英文がつらつらと書かれていた。
は黙ってその紙を額に押し当てる。脳裏に浮かんできたのは、知らない老人の穏やかな声。日本語だった。
君の家には暖炉があると聞いておる。ふくろうに持たせた粉
フルーパウダーと言うが
それを暖炉の中に一掴み放り込んでごらん。緑色の火が燃え上がる。怖がらずに、その中に飛び込むのじゃ。そしてはっきりと、こう叫ぶといい
「漏れ鍋!」。
はそっと目を閉じた。
君は古びた酒屋のような場所に行き着くじゃろう。そこで君を迎える準備は整っておる。それからのことは、そこにいる男に聞くといい。ホグワーツで、待っておるよ。
その声はすーっと霞んで消えていった。目を開ける。
あぁ、そうか。私はついに。
はこちらをじっと見つめている父を見上げて目を細めた。父は真顔だったが、その黒い瞳の奥が揺らいでいるのを彼女は見逃さなかった。手中の巾着をぎゅっと握り締める。
「お父さん、今までありがとう」
の口からは自然と言葉が漏れてきた。父は少しだけ驚いた顔をした。
「
我侭で、ごめんね。育ててくれて、ありがとう」
なぜか涙が零れ落ちる。あんなに家を出たかったというのに。ばか。今生の別れでもあるまいに。
はこれ以上頬に雫を垂らすまいと瞬きを我慢した。父の姿が視界で歪む。
父はこちらに身を乗り出そうとし
そしてあっさりとそれを断念したようだった。少しだけ眉間に皺を寄せ、再びの瞳を凝視する。
やがて、父はゆっくりと口を開いた。
「身体に気をつけろよ……」
「
うん」
彼女は目を伏せた。床にぽたぽたと小さな染みが無数に浮かび上がった。
「お金は、魔法使いの銀行に預けてあると母さんは言っていた。あっちに着いたらそのお金で必要なものを買いなさい、こちらの世界とは違うお金らしいから」
「
うん、分かった……」
「………」
「………」
あぁ、もう言うことはなかったっけ。
私はついに。こうして。
「じゃあ、行って来ます。お父さん」
は巾着の粉を無造作に掴み出した。それが指の間からさらさらと零れていくのを無視して古惚けた暖炉の中に放り込む。
途端に、そこからぼっとグリーンの炎が噴き出した。驚いて一瞬硬直してしまうが、かぶりを振ってトランクと一緒に目を閉じて暖炉に飛び込む。
「
『漏れ鍋』!」
こうして、は日本から消えた。
「ぎゃ!」
思い切り地面に放り出されたは、その拍子に舞い上がった灰や埃を吸い込んでむせ返った。
「
げほ、うー何これ、最悪……」
腰をさすりながら床に座り込んだ自身を見下ろすと、彼女は驚愕の声をあげた。お気に入りのスカートにシャツを着込んできたというのに、手足と同じように真っ黒になってしまっている。暖炉から飛び出してきたので恐らく全身に灰をかぶってしまったのだろう、はげっそりとうな垂れた。
そこは薄がりの部屋の中だった。木造の個室か。目の前にはお世辞にも綺麗とは言えないベッドが横たわり、その奥には一応テーブルや椅子が申し訳程度に置いてあった。
そのベッドの上に、なんと先客がいた。
「よう、お前さんか。待っとったぞ、ほれ、これでとりあえず顔でも拭けや」
男はそう言ってこちらに薄汚れたタオルを放り投げてきた。こんなもので顔を拭けというのか。曲がりなりにもレディーに失礼じゃないか。そう言い返そうと口を開けようとした時。
あることに気付いて、は呆けた声をあげた。
「……あの、ここは、イギリスなんですか?」
呟く。もちろん、日本語で。
すると男
と言っても優に背丈は父の二倍ほどあり、横幅は五倍程度もある髭もじゃの大男
は、「当然だろう?ここは漏れ鍋なんだぞ?」と言った
日本語で。
「……え、でも……あなた、日本語が喋れるの?」
すると大男は、ハハハっと大きな声をあげて豪快に笑った。その振動で建物が軋んだような気がした。
「俺がそんな器用なヤツに見えるか?英語だって曖昧なもんだぞ?」
「え、でもあなた今、日本語喋っ……」
「俺じゃぁねえ、それは、お前さんが
」
言いながら男は、にやりと口の端をつり上げて笑んだ。
「俺が日本語を喋っとるんじゃなくて、お前さんが英語を喋っとるんだ」
一瞬固まってしまう。だがは、すぐに力ない笑みを零して軽く手を振った。
「何言ってるんですか、私が英語喋れるわけないでしょう?今の今までそんなもん勉強したことないし、単語一つだって知らないんだから」
「今はダンブルドアの魔法が効いとるんだろう。それもいつまで持つか分かんねえが」
怪訝な顔をして男を見やると、彼は暖炉を指差しながら言った。
「お前さん、フルーパウダーで来たんだろう?恐らくダンブルドア先生が粉に少々細工して、その場凌ぎだが英語を話せるようになっとるんだろう」
は目を丸くして手中の巾着を見た。この粉、私をイギリスに運んだばかりじゃなくて英語までぺらぺらに?何これ、最高の道具じゃない!
彼女の心を読んだかのように、男は肩を竦めてみせた。
「あんまりその粉に期待するんじゃねえぞ?元々他の国の言葉が喋れるようになる機能を持ってるわけじゃねえんだ、一時的なもんだろうから、まぁ英語は勉強するこったな」
その言葉に思わず頬を膨らませて男を睨み付けると、彼はまた大きな口を開けて笑った。
「ははは!いやぁ、やっぱりお前さんはの子供なんだなぁ!その拗ねた顔なんか、入学した頃の奴さんにそっくりだ!」
「え?」
は途端に間の抜けた声をあげた。呆然として男を見やる。
「……あなた、お母さんのこと知ってるの?」
どくん、と心臓が跳ねた。
男は笑い過ぎて出たらしい目尻の涙を軽く拭いてから優しい笑顔で言った。
「あぁ、お前さんのお袋さんはホグワーツの首席だった。頭はひどくキレたし、正義感の強い
そして、優しい子だった……」
全身に衝撃が走る。は黙って男の言葉を聞いていた。
「俺はお前さんのお袋さんが学生だった頃からもずっとホグワーツの森番をしちょる、ハグリッドっちゅうもんだ。ルビウス・ハグリドッド。あんたを迎えるようにとダンブルドア先生に頼まれとる」
「ダンブルドアのことは知っとろうな?」と訊かれ、かぶりを振ろうとした時彼女は思い出した。
校長アルバス・ダンブルドア。
「……ホグワーツの校長先生だ!」
「おお、そうだ。あんなに偉大な魔法使いは後にも先にも出ないぞ?よーく覚えとくんだな」
そう言って嬉しそうに笑うハグリッドをボーっと見つめていると、彼は少し経って不満そうな声をあげた。
「お前さんは自己紹介をしとくれんのか?」
「あ、ごめんなさい、私はです……」
するとハグリッドはすぐにあの優しい笑顔に戻って、灰まみれのを色々と手伝ってくれた。しばらくしてからその店
漏れ鍋というらしい
の主人だというトムと顔を合わせ、彼女は遅めの昼食を摂った。
彼に聞きたいことは山ほどあった。ホグワーツのこと、ハグリッド自身のこと。
そして何より
母のこと。
しかし煙突飛行の旅やあまりの環境の変化で肉体的にも精神的にも疲れていたは、知らぬ間にベッドの上で寝息を立てていた。
その晩は夢を見なかった。
ハグリッドは一旦ホグワーツに戻り、そして翌朝再び漏れ鍋を訪れたらしい。は薄汚れたパブの一角でトムによって運ばれてきたトーストを齧っていたところだった。
「!昨日はよう眠れたか?」
頬張っていた口腔のパンをミルクで飲み下しながら彼女は振り返って声の主に笑いかけた。
「おはよう、ハグリッド。うん、もうぐっすり」
「そうか、そりゃ良かった!」
彼は彼女のちょうど向かいの席に腰を下ろして笑った。それと同時にの朝食も完了。彼女が「ごちそうさまでした」と呟くと、ハグリッドはおもむろにその懐から小さな袋を取り出した。に手渡す。
「……何これ?」
首を傾げるに、ハグリッドは軽くウィンクしてみせた。
「開けてみろ。で、それを着けてればお前さんにはとってもいいことが起こる」
「……は?」
眉根を寄せつつ袋を開けると、中には小振りな十字架のネックレスが入っていた。クロスの部分に小さなガラスのようなものが埋め込まれている。
待て。まさかこれは。
「……ハグリッド、ひょっとして私に惚れたの?」
ハグリッドはしばし目を丸くしていたが、すぐに心底可笑しそうに吹き出した。
「はははは!こりゃいい。お前さん、その突拍子もないこと考えるとこもにそっくりだ!」
「だ、だって、男の人が女の人にアクセ渡すって、それくらい重要なことなんだから!」
「ははは!分かった、分かった。つまりだな
」
そう言ってハグリッドは、優しい瞳で彼女の顔を覗き込むように椅子に座りなおした。
「
それはな、がずっと身に着けてたもんなんだ。だからお前さんに返す。そんだけのこった」
は目を見開いて、眼前の大男を凝視した。これを。母がずっと着けていた?
にはこの十年、母がいないようなものだった。ただ写真を見ていても、それが母だと実感することは難しく。もちろん、母親だと思っていた、今もそうだ。
けれどもし、今ここに母が現れたとすれば。「お母さん」と自然に呼べるかは謎だった。
そんな遠くの存在だった母の身に着けていたものが、今こうしてこの手の中にある。
ひどく不思議な感覚に襲われた。
その十字架をぎゅっと握り締めている時、彼女の脳裏にふと疑問が浮かび上がってきた。
「……何で母さんのネックレス、ハグリッドが持ってるの?」
「俺が持ってたわけじゃねえ。ダンブルドア先生がから預かってたそうだ。はダンブルドアを心から信頼してたから
それで、だろう、きっと」
そのダンブルドアという人は、母のことを教えてくれるだろうか。
頭の奥で優しく喋ってくれた老人のことを思い起こし、彼女はそうであって欲しいと願った。
「ダイアゴン横丁にでも行くか」
十時を少し回った頃、そう言ったハグリッドがゆっくりと腰を上げた。