父さんは学生時代、イギリスに留学していたんだ。
いろいろな本を読んで、子供の頃から英国には憧れていたし、米国とは異なるその落ち着いた伝統的な雰囲気は、とても魅力的だった。
大学での勉強は順調だった。将来はその大学に残って学者になるんだという夢もあった。
だが、思わぬところで道はまったく違う方向へと向かっていった。それが父さんの人生において汚点だったなんて言うつもりはない。母さんと出逢えて、父さんは本当に幸せだったよ。
FATHER and MOTHER 2
回想
父さんは、イギリスの古城を巡るのが好きだった。特に人里を離れひっそりと佇んでいるその様を見ていると、心洗われるようで。
ある日、父さんはイギリス北部の山奥にある城を目指していた。ガイドブックにも載っていないような、小さなものだ。その存在すら人々には知られていなかったが、父さんはその噂を地元の老人から聞いたことがあった。
深い森の中をひとりで進んでいると、近くでがさがさと音がした。はっとして振り向いた父さんの視界に映ったのは、暗いローブに身を包み、小さな杖を手にした若い女性が二人。父さんはなぜかすぐに『魔女』という単語を思い描いたが、すぐに振り払った。まさかこんな時代に、そんな馬鹿な話はないと。
その二人のうちで、金髪の、どことなくきつい印象の女性が真っ先に声をあげた。
「
マグル!、忘却術を!」
何を言っているのか、分からなかった。それは彼女が英語で捲くし立てたせいというよりは、意味の分からない単語ばかりが使われていたからだ。だがその中に、日本的な響きを持つ名前が含まれていたような気がして、父さんは思わず、呼びかけられたもうひとりの女性のほうをまじまじと見つめた。
「待って、ジェーン。まずは話してみないと」
「ちょっと、なに悠長なこと言ってるのよ!こんなところにマグルがいるのよ?」
マグル?一体何のことだ……要するに、僕がその『マグル』だと言われているわけだろう?
ストレートの黒髪を肩まで伸ばした女性
と呼ばれた彼女は、殺気立つ相棒を落ち着かせようとその肩を軽く叩いた。
「話もせずにいきなり忘却術だなんて乱暴すぎるわ」
「だけど!」
怒鳴りつける女性から一歩手前に進み出て、はまるで世間話でもするように気楽に話しかけてきた。
「こんにちは、ミスター。素敵な天気ですね」
「ああ……そうです、ね」
そうとしか言えず、そう言う。後ろでじれったそうに頭を抱えるジェーンは無視して、はあくまで友好的にあとを続けた。
「こんなところでお散歩ですか?」
「散歩……?いえ、その、このあたりに古いお城があると聞いて来てみたんですが、どうもそれらしいものはないようですね?」
「このへんに城があるなんて一体どこで聞いたの?」
喧嘩腰で口を挟んできたジェーンを脇に退けて、は愛想の良い顔で微笑んだ。
「そうだったんですか。私たち、たまにこの近くまで散歩に来るんですけど、お城の話なんて聞いたこともありませんよ。ねえ、ジェーン?」
対照的に仏頂面をしたジェーンは、そうねと短く答えた。
「散歩って……こんなところまで、散歩に来るんですか?」
「そう、そうなんです。ここから少し離れたところに小さな村があるんですよ。そこまでは列車が通ってますから」
「!」
「あ、いえ、ええと……まあ、そんなところです。あなたはこの近くの方なんですか?」
こんなところに、列車?まさか
最寄りの村までは、自分だって車でやって来たというのに。だが彼女たちは明らかに何かを隠したがっているようだったので、それを敢えて追及しようとは思わなかった。
「いえ。僕はロンドンで……」
「ロンドン?そうなんですか、私もロンドンっ子なんですよ、っていってもシティではないんですけど」
なんだか嬉しそうに話す彼女を見ていると、悪い気はこれっぽっちもしなかった。だがイライラと拳を握ったジェーンはほとんど絶叫のような声で怒鳴った。
「何やってんのよこんなところで悠長にマグルと立ち話なんて明らかにおかしいでしょ!」
「なによ、チョーサー先生がいつも言ってた友好関係を築こうとしてるんじゃない、水を差さないでよ!」
「こんなところであの論理を適用するのはおかしい!」
「そんなことないってば!そうやって身近なところから歩み寄っていけば、いつかマグルたちと同じ社会で生きていけるようになるかもしれないじゃない!」
「あーんーたーはー!そんなの単なる理想論だって言ってるじゃない!現状が千年の歴史の結果なの、今更どうにもならない!」
「そんなことない!現に私はマグルだったもの、それでもこうして魔法使いになれた!」
……待て。
今、なんと言った?
眉をひそめて固まった父さんを見て、その二人の女性ははっと息を呑んだ。程なくしての襟首を掴んで引き寄せながら、ジェーンがうめく。
「あーんーたって人は余計なことをぺらぺらと……」
「ち、が、今のはあなたも共犯……」
「うるさいわね!あんたがさっさと忘却術かけとかないからこんなことに
」
「よく分からないが」
やっとのことで口を開くと、とジェーンはすぐさまこちらを見た。
「どうやら僕は部外者のようですね。争う必要はありませんよ、僕はすぐに帰ります」
まったくもってわけが分からないが、踏み込んではならないところに土足で踏み込んでしまったらしい。厄介なことになる前に引き揚げようと踵を返すと、不意に背中の上方に異変を感じて歩みを止めた。
「残念だけど、そのまま帰すわけにはいかないわね」
ぞくりとして、首だけで振り向くと
いつの間にか近付いてきていたジェーンが、手にした杖をこちらの背中に突きつけていた。
「……何かの冗談ですか?」
「冗談?フン、気楽なものね。これが何だか分かる?」
「ジェーン!やめてったら!」
切迫した声で叫んだを厳しく見据えて、こちらに杖を当てたままジェーンは吐き捨てた。
「分かるでしょう、こんなところでこんな格好を見られたのよ。こうするしかないじゃない」
「でも、城は魔法で護られてる……そんなことしなくたって」
「こんなところにマグルがいるのよ?万全じゃなかったってことだわ……それなら城だって、必ずしも安全とはいえない」
「だとしたら先生たちが放っておくわけないじゃない。ねえ、もう帰るって言ってるんだからそのまま帰してあげればいいでしょう?そんなことしたら、ダンブルドア先生だってきっと喜ばない」
背中に強く突きつけられたジェーンの杖先が、確かに揺れて
そして、離れた。たかが小さな杖一本。だがなぜかほっと胸を撫で下ろして、父さんは身体ごと二人へと向き直った。
「なんだかよく分かりませんが……あなた方と会ったことは、誰にも言いませんよ。それでいいですか?」
ジェーンは立腹しきった様子で鼻を鳴らしただけで何も答えない。代わりに進み出たは悲しそうに微笑んでそっと瞼を伏せた。
「ごめんなさい……私たちが不注意だったばっかりに、ずいぶん気を揉ませてしまって」
もはや何と答えていいかすら分からなくなっていた。曖昧に別れを告げて、もと来た道を歩き出す。
その後の二人の間には、こんなやり取りがあったらしい。
「……私、あの人を森の入り口まで送ってくる」
「はあ?」
険悪に眉根を寄せて凄みを利かせながら、ジェーンが腕を組む。負けじと舌を出して、は父さんの消えた方向へと歩き始めた。
「待ちなさいよ!何考えてんの、こんなところで会ったマグルをそのまま帰す、それだけじゃ飽き足らず見送りに行くなんて!いくらあなたがマグル生まれだっていっても限度ってものがあるわよ。確かにあなたはマグル生まれだわ。だけど確実に、『マグル』ではないのよ」
振り向いた彼女は、臆することなくはっきりと言い切った。
「私はただ、ひとつひとつの出逢いを大切にしたいだけよ」
そして駆け出した相棒の背中を呆然と見送って、ジェーンは深々と嘆息した。
「マグルって
一体、どういう意味ですか?」
追いかけてきたその女性と並んで歩きながら、彼は散々悩んだ挙げ句、口を開いた。少しだけペースを落とした彼女は、困ったように微笑んで、
「……言ってもいいけど、多分信じてもらえないから」
そしてこちらが何か言うよりも先に、進んで話題を変えた。
「それより、ロンドンからいらっしゃったんですよね。どちらのご出身なんですか?」
「いや、僕は留学生で……マイルエンドのレジデンスに住んでるんです」
「留学生?」
きょとんと目を開いて、彼女はその黒い瞳にきらりとした好奇心を覗かせた。
「それじゃあ、ご出身は?」
「僕は日本から。こちらに来てまだ三年ですが」
すると彼女は今度こそ嬉しそうに目を輝かせて身体ごとこちらを向いた。
「日本?実は私、生まれも育ちもサザークなんですけど、母が日本人で、小さい頃からずっと日本に行ってみたいって思ってたんです」
彼女は心持ち、こちらに身体を寄せながら言ってきた。見上げるようなその眼差しに、思わずどきりとする。
「私、しばらくは無理なんですけど、七月にはロンドンに戻るんです。良かったら、日本のお話いろいろ聞かせてもらえませんか?」
このときにはまだ、それが本当に実現するとは思ってもいなかった。またなといって、二度と会わない名前だけの知人のようなものだ。ただ寮の住所を手渡して、木々の途切れにさよならを告げた。
やがて忘れた頃に、父さんのもとに一通の手紙が届いた。あの日、森の奥で出逢った、黒髪の女性からだ。・。住所は、彼女の言っていた通り、ロンドン南部のサザークになっていた。中には、八月いっぱいまでは実家にいるので、その間に父さんの都合さえよければ、一度一緒にお茶でもどうかという旨のことが書かれていた。別段断る理由もなかったので、私はイエスの返事を出した。
そして二人で食事をしたのをきっかけに、父さんたちは手紙のやり取りをするようになった。日本のこと、父さんのこと
彼女は何でもよく知りたがったが、自分の所属は決して明かそうとしなかった。一度だけ、君は今何をしているのかと尋ねたことがあったが、言葉を濁す彼女を見て、父さんもそれ以来、問いかけることをやめた。
何度か会って、それなりに手紙を交換して。一年程の月日が過ぎた。彼女に出逢って、二度目の夏。大事な話があるといって私の部屋を訪ねてきた彼女は、ひどく深刻な面持ちで、こう切り出した。
「ずっと……言わなきゃいけないと、思ってたんだけど」
私、本当は魔法使いなの。
自分でも不審に思うほど、私は驚きはしなかった。付き合い始めの頃に打ち明けられていたならば、それこそ引っくり返るか、何を馬鹿なことを言っているのかと嘲笑ったかもしれない。だが何も語らない彼女の向こうに過ぎる何かに気が付く程度には、私たちはすでに近づきすぎていた。
もちろん、実際にその『魔法』とやらを見せられたときには、さすがに言葉を失ってしまったけれど。
彼女が言うには、魔法使いはかつての隆盛時代に比べればその数は明らかに激減したが、今でも世界中に数多く存在しているという。だが彼らが『マグル』と呼ぶ非魔法族からは隠れて生活しているので、双方の行き来はほとんどない。けれども魔法族は『マグル』と交わることでその血を引き継いできたし、マグルの中にも稀に魔法の素質を持って生まれてくる者がいる。だから本当は互いに相手の存在と価値を尊重し合いながら生きていくのが本来あるべき姿なのだというのが、彼女の持論だった。
「私の母も、マグルだったの」
ごくごく普通の
いや、正確にいえばさり気ないセンスを光らせた『マグル』の格好で軽く瞼を伏せて、彼女はあとを続けた。
「だから初めて自分が魔女だと聞かされたときは、ずいぶん驚いたわ。だけどホグワーツから派遣されてきた……案内人っていうのかな
彼に導かれて踏み込んだ魔法の世界を目の当たりにして……分かったの。本当は、私が何にも知らないだけで、この世にはまだまだたくさんの世界があるんだってこと」
彼女はその澄んだ眼差しで、真っ直ぐにこちらを見つめてきた。
「私……その、たくさんの世界を
これからずっと、あなたと一緒に見ていきたい」
そして私たちは、互いの世界を持ちながらも共に生きていくことを決めた。マグルの町に部屋を借りて、父さんはそのまま大学へ、母さんは魔法使いの世界に仕事を持っていた。魔法学校の卒業生だった彼女はロンドンの魔法銀行に就職したばかりで、毎日朝早くから出て行ったけれど、休みの日は二人で過ごす時間を忘れなかった。
「魔法学校って……まさか、この?」
握り締めた手紙をちらりと見て、遠慮がちに声をあげる。父はぼそぼそとしゃべり続けていた口を不意に閉ざし、噛み締めるようにしてやがてまたゆっくりと話し始めた。
「そうだ。ホグワーツ魔法魔術学校。スコットランドの人里離れた山奥にあって……十一歳の夏、お前と同じように、母さんもある日突然その手紙を受け取ったのだと言っていた」
「それじゃあ……私も、魔法使いなの?そこで勉強すれば……ほんとに、魔法が使えるようになるの?」
父が答えるよりも先に、机上のふくろうが、まるでその通り!と言わんばかりにほーほー鳴いた。
「……何で、何で今まで何も言ってくれなかったの?そんなこと……急に言われたって。そんなの……」
尻すぼみにがぼやくと、父は嘆息混じりに下を向いた。
「……すまなかった。だが、お前が生まれて何年と経たないうちに母さんが死んで……魔法界との繋がりはぱたりとなくなったし、私はイギリスでやっていく自信をなくして……日本に戻ってきた以上、二度とあの世界と関わることもないだろうと思っていた」
「それでも……好きだったんでしょう?大好きな、お母さんのいた世界だったんでしょう?」
顔を上げ、はっと目を見開いた父と、正面から向き合って。
「お父さん……私、この学校に行ってみたい。お母さんのいたところ……新しい、世界」
恐れていた言葉を聞いたのだろう。目を伏せて、しばし考え込むようにしてから父は徐に口を開いた。
「本当に、そうしたいのか?魔法学校は七年間。そちらに行けばこちらの学校
中学校、高校と通えなくなるし、魔法学校卒業の履歴ではこちらの世界での就職は難しいだろう。言葉はどうする?友達には、どう説明するつもりだ?」
友達。そんなもの……今の、私には。すべてを投げ捨てて、また一から、やり直したかった。
だがうまく言葉を選べずに口ごもっていると、沈黙を破ったのは父のほうだった。
「……分かった。お前にはずっと……何も、認めてはやれなかったからな」
は驚きのあまり、声を失ってただ呆然と瞬いた。ただし、といって、父はひっそりとあとを続ける。
「ただし
自分の選択には、責任を持ちなさい。後悔するなとは言わない。誰でも悔いながら、成長していくものだと思う。だが、自分で選んだ以上は、何が起きても受け入れる強さを持ってほしい。つまずいたときは……頼りないかもしれないが、父さんはいつでも、ここにいる」
信じられなかった。これが
語ることを拒み、頑なにすべてを閉ざそうとしてきた父だなんて。だが確かにたたずむその姿は、紛れもなく父のものだった。
「……ありがとう、お父さん」
いつの間にやら父の肩に乗ったふくろうが、ほーと満足げに鳴いた。