一足先に談話室へと下りていったジェームズが血相を変えて戻ってきて放った言葉は、彼らを浅い眠りから引きずり出すには十分だった。
「大変だ!シリウス、ピーター、起きろ!」
「ん……あと、五分……五分だけ……」
ピーターが天蓋ベッドの周囲のカーテンから右手だけを出して弱々しく振ってみせる。そのベッドを乱暴に蹴りつけて、ジェームズ・ポッターは渾身の力で怒鳴った。彼がこんなにも取り乱しているのを見るのは初めてだと思う。青白い顔をしてベッドの上でネクタイを締め終えたリーマスは、何事かと目を見開いてジェームズを見つめた。
「が……が、重体なんだ!」
しばしの沈黙を挟み、ピーターが悲鳴とともにカーテンを引き倒してベッドから転がり落ちるのが見えた。カーテンに阻まれて見えないが、シリウスのベッドも大きく軋むのが聞こえたので、彼も大慌てで起き上がったのだろう。案の定、カーテンを開けたシリウスはいつもの寝起きの悪さをまったく感じさせないほど、驚いた様子でジェームズの次の言葉を待っていた。
リーマスはそんなルームメイトたちを交互に眺め、彼らの心配の渦中にいる同じ寮の女子生徒のことを、ぼんやりと脳裏に思い起こそうとした。
in the hospital wing
放さないで
手のひらにひんやりした温もりを感じて、は自分が掴んでいるのがあの十字架のネックレスだと気付いた。何も見えない。聞こえない。どこまでも続く闇の中、ただ一つ確かなのはそのことだけだった。
何度か腕を伸ばして何かを掴み取ろうとしたのだが、その手は空を切って空しさだけが残る。ここは、どこ。私は
一体、だれ?
「」
突然、名前を呼ばれては振り向いた。そう
私は、だ。・。。
振り向いたその先で笑ってくれていたのは、相も変わらず情けない顔をした父で。けれどもその眼差しが、今のには掛け替えのない宝物だった。
「お父さん、私
」
飛び込もうとして駆け出した父の胸が、何の前触れもなく唐突に消えた。前のめりになりながら、は空を切った両手を見下ろして呆然と立ち竦む。父さん、お父さん
どこ?私を置いて、どこに行ったの?
それからしばらく、当てもなく歩き通したと思う。誰か、誰か来て。私をひとりにしないで。
涙で腫れた目を開いたは、誰かが頭上からこちらの顔を覗き込んでいることに気付いた。温かい何かにくるまれて、私は眠っている。けれども確かに、自分の寝顔を見下ろして優しく微笑む女性の姿を、目の前に見たように思った。歌っている。静かに、歌っている
ロンドン橋……。
「……お母さん?」
呼びかけた途端、眼前の光景がぱっと消えた。再び何も見えない闇の中に引き戻され、愕然とする。いやだ。ねえ、お母さんでしょう?お母さん……私には、お母さんが必要なの。私には、お父さんには。私たち、お母さんがいないと。
そのとき、ふと背後から腕を掴まれ、は目を見開いた。恐怖はない。ただ根拠のない確信だけが強く湧き上がってきた。
「……お母さん?」
お母さんでしょう。分かってるよ、だって私は、この匂いを覚えている。お母さんだ。母さんが、そこにいる。
けれども振り返ろうとしたを、どこからともなく降ってきた男の声が阻んだ。
「
行っては、ならぬ」
誰なの。どうして、どうして私とお母さんの間を引き裂こうとするの。
邪魔しないで。私は、ずっとお母さんと一緒にいたいの。今までも、きっとこれからも。
けれどもの腕を掴む手が、優しくそっと離されて、遠ざかる。そのことを知って、は涙をこぼしながら振り返った。いやだ、行かないで。
私を一緒に、連れていって!
ずいぶん長い間、眠っていた気がする。頭が、身体中が重たい。そっと目を開けたは、ずきずきと痛むこめかみを押さえて視線を巡らせた。視界に映るのは、落ち着いた色彩の混ざった白い天井。彼女は温かいベッドの上に横たわっていたが、四方をカーテンに遮られて周囲の状況を把握することはできなかった。
……どこだろう、ここ。グリフィンドール寮、ではない。カーテンの色が違う。まるで嗅いだことのないような不思議な臭いがした。いや……少し、魔法薬学の教室に似ているか。薬草の匂いが混ざっている。
とにかくここがどこなのか、はっきりさせよう。そう思って起き上がろうとしたが、全身に激しい痛みが走っては無音の叫びをあげた。いたい、いたいいたい!何で、どうして?私……怪我してる?そのときはっとして、は改めて周囲に視線を巡らせた。この臭い……そうだ、薬学で一度、調合したことがある。打撲傷の痛み止め。医務室に違いないと察しをつけて、は四方を囲まれたカーテンを開こうと、恐る恐る右手を伸ばした。
そのときだった。どこかから慌しい足音が近づいてくるのが聞こえ、は反射的に頭まで布団をかぶって息を潜めた。足音はどうやらのベッドのすぐ傍で立ち止まり、ガチャガチャとガラス瓶の擦れる音がする。つんと鼻を刺す消毒薬の臭いが強まり、は現れた誰かが傷か何かの手当てを始めたのだと思った。
「また、ずいぶん派手にやったものね」
現れた人物は一人だと思っていたので、ひょっとして自分に呼びかけられたのかと思ってはぎくりと身を強張らせた。けれどもが口を開くよりも先に、その女性に答える声があった。
「……いつも、すみません」
その声が知っている男の子のものだったので、は少なからず驚いた。ルーピンだ。そういえば彼は身体が弱いらしく、たびたび医務室のお世話になっているようだが……「派手にやった」とは?ルーピンは傍目にはとても穏やかな性格で、『派手にやる』ようには見えない。それともそれは仮の姿で、本当はジェームズ並みかそれ以上のやんちゃ坊主とか……?
が布団の中で考え込んでいると、ルーピンがふと怪訝そうな声で言った。
「あの、マダム……そこに誰か……いるんですか?」
「ああ、あなたはバタバタしていたから聞いていないかもしれないわね。グリフィンドールのミス・よ。確かあなたの同級生だったと思うけど」
は今度こそ頭までしっかりと布団をかぶって、なんとか自然な寝息を演出しようとした。不安げにルーピンが囁く。
「あの……それじゃあ僕は、どこか別の部屋で手当てした方が……」
「その必要はないわ、ミスター・ルーピン。ミス・はもう丸三日も眠っていて、まだしばらくは目が覚めないと思いますから。あなたは心配しなくても大丈夫よ。それより早く脇腹の傷を見せなさい」
はい、と従順につぶやくルーピンの声を聞きながら、は布団の中でひとり、目を白黒させた。ど、どういうこと?私が、丸三日も眠り続けていたって!
は眠りにつく前に自分が何をしていたかを思い出そうとしたが、脳裏に浮かんでくるのは遠い日の断片ばかりだった。ジェームズと二人でダイアゴン横丁をぶらぶらと歩いたこと、学期末、シリウスと忍び込んだスリザリン寮から大慌てで逃走したこと。しばしば揶揄の声をかけてくるロジエールたち、苛立つエバンスの顔、クリスマスに打ち上げた花火、楽しそうに微笑んだダンブルドア、唇を真一文字に結んだマクゴナガルに、酔っ払ったハグリッド。ニースの冷ややかな眼差しに
手を伸ばした先にある、あの人の温かい笑顔。
肝心なことは何ひとつ思い出せず、込み上げてくる頭痛に苛まれてはひとまず記憶をたどるのを断念した。ルーピンが今まさに手当てしているのだろう、消毒薬の臭いがきつく鼻を刺した。
「あの……さんは、大丈夫なんでしょうか?その……友達からは、重体だって聞きましたけど」
重体!?いや、ちょっと待て!重体ってそれ……死にかけってことでしょう?重傷が文字通り、『重い傷』で、重体っていうのは今にも死にそうっていう……ま、まさか!だって私、まだ生きてるんだよね?
「ええ、ここに運び込まれた当初は……私も、どうなることかと思いましたよ。はまだ若いですから、なんとか持ち直しましたが。もう大丈夫ですよ」
ですがまだしばらくは入院してもらうことになりますね、と校医はてきぱきと言った。何で、どうしてそんなことに……私、一体なにがあったんだろう。
「……お大事にと、目が覚めたらお伝えください」
そしてルーピンは、処置を終えたのか、ひとりでひっそりと医務室を出て行ったようだった。校医がカーテンの向こうで何やらガチャガチャと片付ける音がする。はすぐに声をあげて校医に自分の状況を聞こうと思ったが、口を開くのも億劫でそのままベッドにすべてを委ねた。そっと瞼を伏せて、今は迫り来る睡魔に身を任せる。
今のは自分のことで手一杯で、そのときのリーマス・ルーピンの様子を気に留める余裕など、まったく持ち合わせてはいなかった。