「ねえ、あなた」
それはひとりで談話室に戻るときだった。どうということもない、ただの日常の一こまに過ぎなかったはずなのに。
彼女は確かに、ひやりと背筋が凍えるのを感じながら、ゆっくりと振り向いた。
「
ひとつ、お願いがあるんだけど」
LETTER from NO ONE
『事故』
結局、今年の誕生日にもニースにはプレゼントをあげられなかった。ひょっとしたらと準備していたネックレスも、渡せずじまいだ。このまま、一言も口を利けないまま終わってしまうのかな……。がっくりと項垂れ、けれどもどこかで潔い諦めを抱きながら、は部屋に入った。ニースが不在なのは分かっていた。放課後、談話室で、夕食後はメイたちの部屋に集まって温かいものでも飲みながら話そうと言っているのが聞こえたのだ。リネットたちにおやすみを告げたは、今日は早めに寝ようと思って就寝時間になる前に自室に戻った。既に着替えているエバンスはこちらをちらりと見ただけで何も言わず、ベッドに横になったまま本を読んでいる。も無言で自分のベッドに向かい、引き出しからパジャマを取り出そうとした。
そのとき、引き出しの上に封筒が一つ置かれていることに気付いた。不審に思って、そっとそれを手に取る。表には見慣れぬ文字で『・様』と書かれていたが、裏には何もなかった。
何だろう……はふとエバンスを見たが、かぶりを振って封筒に視線を戻した。聞けない。エバンスには、決して聞けない。
首を傾げながら、は封を切って中の羊皮紙に目を通した。そこにある短い一文を読み上げて。
しばし悩んだ挙げ句、はコートとマフラーを引っ掴んで足早に寝室を後にした。
こんな時間に寮を出るのは、きっと去年のクリスマス休暇以来だ。談話室に残っていたリネットたちには「こんなに遅く、どこ行くの?」と聞かれたが、「ちょっとねー」と軽くかわしては廊下に出た。もう十一月だ。城内はすっかり凍え、校庭は既に純白の雪景色。手袋も持ってくれば良かったと後悔したが、就寝時間まではもう二十分しかない。早く戻ってきなさいよーという太った婦人に生返事を返しては最寄りの階段を下りた。
匿名の手紙には、素っ気無い口調でこう書かれてあった。『・様。あなたに大切なお話があります。あなたの秘密を大切なお友達にばらされたくなければ、今夜の就寝三十分前、五階の湖の絵の教室まで来てください。お待ちしています。』
私の秘密?一体何だろう
思い当たるものはないし、気味が悪いので無視しようかとも考えたのだが、それでもし……何か重大なことだったら
行くしかない。そう腹を決めて、は指定された教室へと向かったのだ。
途中で何人かの生徒とすれ違ったが、みんな寮に戻るところだった。こんな時間に寮とは反対方向へ向かっているなんて……先生やフィルチに見つからなかったのは幸運だった。透明マントを借りれば良かったかな。いや、ジェームズにこれ以上、心配はかけられない。それに談話室を出るとき、ジェームズたちは既にいなかった。
例の絵画の前まで来て、はようやく足を止めた。何度もこの前を通り過ぎることはあったが、気に留めて眺めたことはほとんどない。綺麗なエメラルド色の湖面に映る城塞がきらきらと揺らめいていて、空は限りなく澄み渡っている。ときどきその青空を鳥の群れが掠めていくのを見て、はマグルの世界のように、絵画というものが一瞬の時間を切り取ったものであればなお美しいだろうに、と思った。絵の下には小さく、『ガルダ湖にて』と書かれていた。
ごくりと唾を飲んでから、その絵の隣にある教室のドアをそっと開ける。中は薄暗かったが、窓から差し込む月明かりに照らされ、はそこに予想以上の人数が集まっていることに気付いて驚いた。優に……十人以上は、いる。まさか
何が起こったんだ。わけが分からずパニック状態に陥るに、中の誰かがひっそりと声をあげた。
「こんばんは、ミス・」
「あ……あなたたち、なに?誰なの?一体、私に何の
」
「まあ、遠慮せずに入って。お話はそれからにしましょう」
逃げ出そうかと思ったが、足が凍えて思うように動けそうになかった。下手をして逃げるよりも、きちんと話をつけて戻った方が……平和的に済ませられる、はず……。杖がポケットにあることをこっそりと確認してから、は恐る恐る、教室の中へと足を踏み入れた。すると集まった女のうちの一人がつかつかとこちらに歩み寄ってきて、ドアを勢いよく足蹴にして閉めた。なに、なに!まさかリンチ?これが噂のリンチ?恐怖で目尻に涙を浮かべながら、は横目でその女を凝視した。他の女たちは何も言わないし、動きもしない。この女がリーダー格……ということか。こちらからは逆光になっていて女の顔は見えないが、はそれが同じ寮の上級生ではないかと思った。確か一度、談話室で声をかけられたことがある……名前は、確か……。
「来ていただけて嬉しいわ、ミス・」
「……あの、ご用件は?」
心持ち身を引きながら問いかけると、女は突然の腕を乱暴に掴んで引き寄せた。予想外にその握力が強く、痛みに顔をしかめるが、女はそのままを引っ張って人だかりの中心へと連れて行った。そこで荒々しく腕を払われ、は反発の声をあげる。
「ちょっと……いきなり何するんですか!あなたたち、一体なんなんですか!こんな時間に何の
」
そこまで捲くし立てたところで、は先ほどの女が咄嗟に右手を上げるのを見た。そして次の瞬間には、左の頬に鈍い痛みが走って歯を食い縛る。女はを叩いた平手を下ろしながら、大袈裟にため息をついた。
「あなた、バカ?」
ば
何なの?突然こんなところに呼び出して、いきなり殴りつけて、『あなた、バカ?』……なに、一体なんなの?私が一体何をした?
が叩かれた頬を押さえて呆然と立ち竦んでいると、彼女を取り囲む女たちが次々と口を開いた。
「あんた、あれだけ派手なことしておいて、呼び出される覚えもないっていうの?」
「ほんと、バカもここまでくると称賛ものね」
「何でこんなのとブラックくんが一緒にいるか、さっぱりよ」
思いがけない名前を聞いて、は咄嗟に眉をひそめた。
「……シリウスは関係ないんじゃないですか?何なんですか、あなたたち!」
「関係ない?」
に手を上げた女が、ふんと鼻を鳴らして吐き捨てた。
「図々しくもミスター・ブラックと一緒にいるあなたが、『関係ない』?どの口叩けばそんな台詞が出てくるのかしら」
「ほんと。ポッターくんにブラックくん……あんたには似合わないのよ。どんな手使ってポッターくんに近づいたの?やたらとベタベタしてるようだけど」
べ……ベタベタ?ジェームズと私が、ベタベタ?
は殺気立った女たちから逃げようとしたが、四方を囲まれてまったく動けそうになかった。まさか……まさか、まさかそんな。
「あ、あなたたち……まさかシリウスとジェームズの、ファン、とか……そういうこと?」
「あんたには関係な
」
「
そう。ここに集まってるのはみんな、ミスター・ブラックやミスター・ポッターを好きな子ばかり。みんな、本気なの。へらへら友達面して二人を独り占めしてるあなたとは、違う」
先ほどの女が、不思議と通った声で呟いた。ジェームズやシリウスを、好きな女の子たち。二人が人気者だということはもちろん分かっていたし、何十人という女子生徒がこの一年半の間に入れ替わり立ち代わり、彼らに告白していることも知っていた。ジェームズと付き合っているのかと知らない子に聞かれたこともあるし、妬ましげな眼差しで見られることにも慣れていた。でも、まさかこうして集団の中に呼び出される日が来ようとは……そこまで深刻な事態だなんて、気付きもしなかった。
はこんなにも大勢の女子生徒に囲まれて萎縮したが、それでも『友達面』という言葉には苛立ちを隠せなかった。
「あなたたちがジェームズやシリウスを好きだっていうんなら邪魔はしないし、好きにすればいい。でも、何でこんなことするんですか?私にどうしてほしいんですか?好きなら勝手に告白なり何なりすればいいじゃないですか。私はただの、『友達』なんですよ?」
「『友達』?」
鸚鵡返しに呟いて、女は高らかに笑ってみせた。胸を反らして、声をあげる。
「あなた、やっぱりバカ?男と女の間に純粋な友情なんて存在すると思ってるの?『友達』、『友達』
そんな言葉で取り繕って、当然のようにミスター・ブラックたちの傍に。目障りなのよ、ねえ、そうでしょう?ウェンディ」
を叩いた女が問い掛けると、集団の中から進み出てきた女子生徒が真っ直ぐにこちらを見ているのが分かった。この顔は知っている
ウェンディ・ラブクラフト。一年生のとき、シリウスと付き合っていたレイブンクローの。
ラブクラフトは微かに肩を震わせ、今にも泣き出しそうな声音で叫んだ。
「あなたが……あなたがいるから、シリウスは自由になれないのよ。あなたが縛り付けてるから、シリウスは他のところを向けないのよ。あなたのせいよ、あなたがシリウスから離れないから!」
「ちょ……待ってくださいよ!私がシリウスを縛り付けてる?私が?私がどうシリウスを縛り付けてるっていうんですか?私は、四六時中シリウスと一緒にいるわけじゃない。シリウスがあなたから離れていったのなら、それはあなたたちの問題でしょう!」
「何ですって!あなたがシリウスを巻き込んだんでしょう?スリザリンに忍び込むとき、あなたがシリウスを引きずり込んだんでしょう!あなたのせいよ、だからシリウスはあんなバカなこと……」
「あれは!私たちがバカだった……あれは、私たちがみんなで決めたこと。友達だから……私たち、みんなが悪戯仲間だから!」
ラブクラフトが次の言葉を吐き出そうと息を吸ったとき、軽く手を上げたグリフィンドールの女がそれを遮った。やはりこの集団のリーダー格であることは間違いないようだ。彼女の右手には、いつの間にやら杖が握られていた。
「口で言っても分からないようね、お嬢ちゃんには」
「……アイビス、それはさすがに
」
そうだ、アイビス。グリフィンドールの、アイビス・プライア。彼女は握った杖を構え、真っ直ぐにを指した。
「誓える?これからは必要以上にミスター・ブラックとミスター・ポッターに近づかないと」
心臓が急激に熱を奪われていくような、そんな感覚。杖を突きつけられは身動きがとれなかったが、それでもこいつらの言いなりにだけはなるものかと思った。ジェームズは、シリウスは、私の大切な友達だ。どうしてそれを、見も知らないこんな連中に制限されなければならない!
「いやよ。友達を制限されるいわれなんてない。ジェームズがいたから私はここまで来られた。シリウスがいたから。二人とも、私には大事な友達だもの。会いたいときに会うし、話したいときに話す。そんなこと、あなたたちに指図されたくない!」
すると杖を構えた女は、肩を竦め、冷ややかな声で切り返した。
「どうして、グリフィンドールなのかしらね?あなたみたいな人は、スリザリンに行けばよかったのに」
「やだ、アイビス。こんな子、うちの寮だってお断りよ」
「ああ、そうね、ごめんなさい。でも、スリザリンからこんな子を押し付けられて、正直うんざりしてたのよ、私たち。ちょろちょろと目障りで……魔法使いの礼儀も知らないこの無知なお嬢ちゃんのせいで寮杯までふいになった」
「あら、それは別にいいじゃない。どのみち寮杯は私たちのものになるはずだったのよ」
「フン。言ってくれるわね、タバサ」
プライアとそのスリザリン生のやり取りに、ずしりと胃が重くなった。スリザリン。スリザリンから押し付けられた。うんざり。こんな子。魔法使いの礼儀も知らない、こんな無知な子。グリフィンドールには要らない。
杖先を僅かに動かし、プライアが低めた声で囁いた。
「もう一度だけ聞くわよ。今後、必要以上にあの二人には近づかないと
約束してくれる?」
かっとなったは、涙が頬を伝うのも構わずに喉から声を絞り出して叫んだ。
「いやよ!私にはジェームズたちしかいないもの!ジェームズがいないと、シリウスがいないと……私は、ここでやっていけない!」
「そう
それなら、仕方ないわね。ミスター・ポッターも、お気の毒に。あなたみたいな厄介な女に騙されて。マグル生まれにしては多少魔法が使えるからってあまりいい気になってるんじゃないわよ。マグル生まれはそれらしく日陰でうずくまっていればいいの」
言って、プライアはにも見覚えのある杖の振り方をした。はっとして杖を取り出そうとするも
間に合わない。
「インペディメンタ!妨害せよ!」
「アイビス
!」
周りの女たちが悲鳴をあげるのを、はまるで他人事のように聞いていた。視界に靄がかかり、胸元に鈍い衝撃が走る。杖を構えたプライアの姿が目の前から遠ざかり、吹き飛ばされたの身体は窓を突き破って教室の外へと放り出された。
何も考えられない。雪の積もった校庭に背中から落下したが気を失う前に最後に見たのは、少しだけ欠けた満月
あの月が満ちるまで、あと数日。
五階の窓から身を乗り出した女子生徒たちは、あまりの光景に唖然として言葉を失った。
「ちょ……アイビス!あなた、何てことを
何もこんな……」
「
同罪よ」
青ざめたアイビスは杖を握り締めたまま、その場にいる全員に聞こえるよう、声を絞り出した。
「少しくらい痛い目に遭わせてやらないとああいう子は分からないって、そういう結論だったでしょう……同罪よ、あなたたちみんな、同罪よ」
「でも……まさかこんな!」
「事故よ!これは
こんなつもりじゃ……」
「早く……早くを、医務室に運ばないと!」
雪の上に横たわったままぴくりとも動かないを見下ろして、別の女子生徒が叫んだ。そちらを壮絶な眼差しで睨み付け、アイビスが怒鳴る。
「なにバカなこと言ってるの!こんなことが知れたら……どうなるか、想像できないの?」
「でも、このままじゃ彼女、確実に
」
彼女の言葉を遮るようにして、アイビスは割れた窓ガラスに杖を向けた。レパロ、と唱え、の突き破った窓を元通りに直す。アイビスはもう一度教室内の女子生徒を見渡し、声を低め、言った。
「今日、私たちはここへ来ていない。何も見ていない
分かったわね?」
でも、と言いかけた少女を睨み付け、黙らせる。そして全員を追い出して、アイビスは最後にルーモス呪文で照らした教室内を見回した。私たちが今夜ここに存在したという証拠を、残してはいけない。大丈夫
誰も何も、証明することはできない。たとえ一人の女子生徒が、ここで命を落としても。