一面に広がる、緑色の閃光。その光景を思い出して、きつく目を閉じる。だが記憶はなおさら鮮明になるばかりで、は脈打つ胸を何度も何度も激しく打ちつけた。
同時、部屋の扉が外から無遠慮に開いた。
「どうした、食事が冷めるぞ」
「いらない」
「昨日も食ってないだろ。一口でもいい、何か食べろ」
「なんで……なんで、平気なのよ!」
それは昨日もこの男に言った。ロジエールは平然と、同じことを繰り返す。
「あんたに覚悟が足りなかった、それだけだろ」
「覚悟って……なによ。盗むだけなのに、なんで、どうしてあんなに、あっさり? 無関係なマグルを、なんで……そんなの、何のための……」
なんで、どうして。たったひとりで暮らす、孤独な老人。代々受け継がれてきた『家宝』を、それが、何なのかも知らずに。何も、知らなかったのに。
殺す必要なんてなかった。ただ記憶を消せばよかったのに。やっとのことで絞りだしたの言葉に、あの男はいつもと変わらない調子でこう言った。
(記憶操作は強力な開心術にかかれば破られることもある。帝王が君の記憶を取り戻したように。今回の旅は隠密行動だ、形跡を残してはならない)
それが、何だっていうんだ。その呪文を、は生まれて初めて見た。そして二度と、絶対にもう見たくなんかない
緑色の光……死の、呪いを。
こいつは、この男は。こうやって、フィディアスのことも。
(わたしが憎ければ骨の髄まで憎めばいい。言っておくが、君は主の血縁ではあるが、わたしの主ではない。君に何ら個人的な感情など持ち合わせてはいない)
(……それは結構なことね。契約さえ終われば、躊躇なくわたしのことも殺せる)
(それが必要ならばね)
やはり、この男は
。
ほんの少しでも、フィディアスの面影を感じてしまった自分が、どうしようもなく腹立たしかった。
この男は、フィディアスの兄弟なんかじゃない。関係がない。思うようにならなかった彼に、あのときと同じ呪いをかけた。『名前を言ってはいけないあの人』、
『闇の帝王』の配下
広間での立ち位置からして、側近かと思われる
そうしたただの、殺人者だ。
わたしはわたしのためにあの男に復讐をする。だが、それが終われば
。
「あんたもああやって……躊躇なく、殺すのね」
絞り出した彼女の蔑みを聞いても、入り口にたたずむロジエールは、眉ひとつ動かさなかった。
「それが必要ならな」
GOOD family background
ディスアドバンテージ
年が明け、凍えるような夜風が肌を刺す、睦月の晩。
・とジェネローサス・リンドバーグは、とある日本人マグルの邸宅を目指し、姿くらましを続けていた。
この二ヶ月間、日本各地を点々として様々な資料を当たっていた。そして奈良時代に地方の歴史を記録し、天皇へと献上された『風土記』の中にある、夢見の女と不可思議な鏡の物語を見つけた。
その鏡は飛鳥時代の終わりには、大蛇の眠る不吉な鏡として葬り去られたという。
だが、後世の文献に同じ鏡のことだと思われる記述が残っている。その鏡こそ神の似姿であり、破壊されたのではない
隠されたのだと。
そして鏡の消失とほぼ同時期に、都から追放された一族の逸話。
ジェネローサスの仮説はこうだ。夢見の存在は、このあと公的な記録書には一切登場しない。このとき追放された一族が夢見の家系であり、彼らと共に消えたとされる鏡こそ、夢見としての本来の力を呼び覚ますきっかけとなるに違いない。
反論する気力はもはや残っていなかった。今は一日でも早く、この旅を終えてイギリスへと戻りたい。そのためならば、どんな些細な可能性にでも賭けてやる。
だがその決断を、程なくしては後悔することとなる。マグルたちが寝静まったあと、踏み込んだ屋敷の中で目の当たりにした、緑色の光。
はっと目を見開いたは、そこがロジエール邸の地下室であることに気付いて、肺に溜め込んだ息を吐いた。どうやらソファに横たわり、そのまま眠ってしまったらしい。
覚えのないブランケットが床に落ちているのを見て憂鬱に腕を伸ばすと、そこに忽ち、屋敷しもべのカーラが姿を現して叫んだ。
「様! お目覚めで!」
「………ひとの、寝覚めを、その、キーキー声で、台無しに、しないで」
「申し訳ございません! ですがカーラは様をお呼びしなければ! お食事のご用意ができてございます!」
「……分かった、から、もう、喋らないで。ここに、運んで」
「それはできません! 様は厨房にお越しになるのです!」
ただでさえ寝覚めが悪いところへ、この甲高い声で、刺激されて。は屋敷しもべの首ねっこを掴んで、容赦なく引き寄せた。
「どうしてよ。今日は大事なお客様が見えるんじゃなかったかしら? わたしがいたらややこしい話になる」
「いいえ! 様にもご同席いただくよう、カーラはエバン様から仰せつかっております!」
「………」
まったく怯む様子もなく訴えるカーラにさらに反論しようと口を開きかける。が、この屋敷しもべに何を言っても仕方がないと気付いては深々と息を吐いた。彼女はあくまで奴隷に過ぎない。契約に生涯を縛られ、その理不尽さに気付くこともない哀れな生き物でしかない。いや。
(哀れ、とは言い切れないのかも)
これは常々感じていることだが、彼女は純粋にロジエールを慕っている。契約云々を論じなくとも、喜んで主人に仕えているように見えるのだ。ホグワーツの厨房で働いていた屋敷しもべたちもまた、
ときどき訪れるわたしたち生徒に心から誇らしげに給仕をした。が、ジェネローサスに言わせればそういった例はむしろ稀だそうだ。奴隷は奴隷だ。いかなる権利を認められることもなく、
ただ従順に労働をこなすことにしか価値を認められない。当然、
人道的な扱いを受けることもない。それでも彼らは主に忠実に仕えることを誇りとするが、あまりに苛酷な命令を
下されたとしてもそれをおとなしく受け入れるしかないのだ。『奴隷』とはそういうものである。
が、エバン・ロジエールという人間は由緒ある旧家に生まれながらも、その点において非常に特殊であるとジェネローサスは語った。
(自分が一生をかけて仕えなければならない人間を心から尊敬することができるなら……それは、幸せな生き方なのかも)
ねえ、カーラ。
あなたは自分の運命を、呪ったりなんてしないのでしょうね。
「分かった。すぐに行くわ」
その小さな身体を手放して呻くと、カーラは嬉しそうに耳をパタパタさせて一礼し、バチンと音を立てて姿くらましした。
(運命……)
いや、違う。
たとえ自分がどんな背景を背負っていたとしても。
これは、自分自身が選び取った生き方なのだ。
重たい身体を引きずるようにして立ち入った厨房は、想像以上の先客を迎えていた。いつもはロジエールとふたりか、彼が外しているときにはひとりで黙々と食事をする長机。ほとんど
軟禁状態のにとって、いくらロジエールといえど今は貴重な話し相手だった。そのテーブルの空席が、五つ以上埋まっている。暗黙の了解で定位置になりつつあった彼女の椅子には、
見たことのない年若い女が煌びやかな礼服に身を包んで座っていた。誰もが一斉に、入り口に現れたのほうを見やる。ロジエール家の面々はともかく、テーブルを挟んでその向かいに並ぶどうやら親子と思しき三人は、決して好意的とは言えない視線をもって。
が、その夫婦と娘との間には、なにか決定的な違いがあるような気がした。
「、こちらに」
思わず呆けていると、ロジエール
エバンに突然ファーストネームを呼ばれ、自然と表情が強張る。が、彼にも何らかの意図があるのだろう。特に反抗することもなく、
はおとなしく彼の隣へと歩を進めた。今日は予め、大事な来客があると聞かされていた。無難に話を合わせて乗り切ったほうがいい。
がその場で軽く頭を下げると、ロジエールはこちらを示しながら、向かい合う親子に淡々と説明をした。
「こちらが以前よりお話していたです。いささか事情がありまして、わたしの恩のある方より預かっています。彼女に関してはわたしに責任がありますので、今はこの屋敷に住んでもらっておりますが、
くれぐれもご心配はなさらぬよう。むしろエリーザには、彼女の良い話し相手になってもらえればと思っています」
怪訝そうな顔をしたのは、娘
エリーザか?
だけではなかったが、ロジエールは顔色ひとつ変えずにあとを続ける。
「彼女はこうして屋敷の中でこそ普通の生活をしていますが、少々厄介な病を抱えていて外出は控えさせているんですよ。ずっとわたしの相手ばかりで息が詰まってるいるでしょうから。
ときどきエリーザにも話をしていただけると助かる」
「それはそれは、エバン殿の頼みとあれば。なあ、エリーザ?」
父親が即座に答えたが、その肌は心なしか青ざめているように見えた。俯きがちなエリーザが、程なくして「はい」と消え入りそうな声で囁く。するとロジエールは驚くほど朗らかに
微笑んでテーブルのゴブレットに手を伸ばした。
「ありがとうございます。今後とも、末永くお付き合いをさせていただきたく存じます。さあ、両家の繁栄を祈って」
彼の呼びかけに応え、誰もが次々とゴブレットを手に取る。するとの前にも唐突に同じものが現れたので、仕方なく肌に合わない優雅な乾杯に加わった。
ほとんど喉を通らなかった堅苦しい晩餐を終えて来客を見送ったあと、自室に戻ろうとしたをロジエールが呼び止めた。すでに彼の両親は離れに戻ってしまっている。近付いてきたロジエールは凝り固まったとばかりに肩口を回しながら、気楽にに声をかけた。
「疲れただろう。一緒に茶でもどうだ」
「これ以上あなたといて余計に疲れさせる気?」
「そう言うなよ。聞きたくないか? 今の家族のこと」
「……話したいなら、勝手に話せばいいでしょ」
すげなく言うと、ロジエールはやれやれと肩を竦めたが、機嫌を損ねた風でもない。むしろ愉しげに唇を歪めながら、傍らの壁にそっと背を凭せ掛けた。
「オジアス・ガンプ。分かっているだけで十六世紀まで正統な起源を遡ることができる純血一族の当主とその家族だ。が、二代前の当主が相当な浪費家だったらしくてな。今は
かなり厳しい生活を強いられてる」
「……へえ。そうは見えなかったけど?」
「そうでもない。確かに上着はそれなりに気を配ってるみたいだったが、襤褸は足元に出るもんだ。このままではいずれ見栄すら張れなくなるだろ」
足元、か。なるほど。見ていなかった。が、それなりの家柄であることはその立ち居振る舞いを見るだけで知れた。ガンプ一家の装いを思い出すために巡らせていた視線を戻すと、
ロジエールはさり気なくそれを避けるように薄く瞼を下ろす。
「結婚することになると思う。といっても、エリーザはホグワーツの七年だ。早くてもまだ半年先のことだがな」
「……そう」
なんとなく、そうではないかと思った。厨房に入った瞬間に、これは見合いの席かと思ったほどだ。が、改めてそのことを聞かされたは嘆息混じりにこめかみを掻いた。
「……あのねぇ。何で婚約者の家族にいちいちわたしのことなんか紹介するわけ。あからさまに不信感丸出しだったじゃない」
「変に隠し立てしてあとでバレたらそのほうがイメージ悪いだろ。こういうのは堂々と、先手を打っとけばいいんだ」
「堂々とって……婚約者の家に得体の知れない女が住み着いてるのよ、どう考えたってイメージ悪すぎでしょ。あんたの恩人の頼みだなんてそんな曖昧な説明……」
「
ガンプは気付いてるよ。俺の
恩人が誰かってことくらい」
彼の声音の変化に気付いて、外しかけた目線を戻す。その青い瞳のやりきれなさに、我知らず息を呑んだ。
「……ガンプも、あの人の?」
「いや。だが俺の立場くらいあの人は分かってるよ。それでも俺を
『ロジエール』を選んだんだ。そのことで文句なんか言える筋合いはないだろ」
反射的に、声を荒げそうになって。そのまま萎むように、口を閉ざした。結婚なんて、そんなものではないと思っていた。そう思っていたはずの自分はすでに彼方へ置き去りに
してしまったようだ。愛だけで生き方を語れる世界……そんなものは、もう。それならば、圧倒的な不利を知りつつ落ちぶれかけた一族の再建をロジエールに託すガンプのことも、
そうと知りながらその娘と契りを交わそうとするロジエールのことも、わたしは。
乾いた唇を軽く噛み締めたあと、荒みかけた胸の内を覆い隠すように、はくるりと身を翻した。
「心配しなくても、彼女が嫁に来る頃までにはこんなところ出て行けてるようにするわ。それじゃあ、おやすみなさい」
「……ああ。おやすみ」
足取りは、重い。が、そもそもこの屋敷に身を置いて一度でも軽かったためしがない。これがわたしなのだ。ロジエールがどんな結婚をしようとそんなことは関係ない。わたしは一生
ひとりでいる。緑色の、あんな光景を見てしまったのだからそれは尚更だ。ただ
それだけの、こと。
疲れた背中に静かな視線を感じたまま、は地下に宛がわれた自室へと戻っていった。