冷たい布団の上に、どさりと背中から倒れ込む。カーラは予め暖めておくことも可能だと言ったが、自ら断った。室温が高いとぼんやりして頭が働かない。ぴんと張り詰めた空気の 中で、神経を研ぎたいのだ。そう、言い聞かせて。
嘘ではない。だが。真実でも、ない。

(……さむ)

もぞもぞと、ポケットに伸ばしかけた手を    ため息とともに、落とす。あるべき場所に、あるべきものはない。七年も共に過ごした半身は、すでに引き裂かれてしまっていた。
カーラ、と。一声呼べばいい。ロジエールが命じた以上、あれはわたしのしもべでもある。暖炉に火を入れさせるくらい、一瞬で事足りる。が、はそうしなかった。のろのろと床へ降り、気だるい身体を引きずって暖炉の前に立つ。そしてポケットのマッチを擦って丸めた紙に火をつけた。太い薪に燃え移り、 パチパチと音を立てて爆ぜる炎をぼんやりと見つめる。やがて顔を上げた彼女は傍らのテーブルに置いた小さな布袋に目をやった。ゆっくりと歩み寄り、腕を伸ばしかけて     思いとどまる。逃げていけはいけない。だが、どうしてもそれに触れる気にはなれなかった。
こうしている間にも、少しずつ、身体の奥で鼓動が速まっていくように感じる。

たまらなくなって、はまだ冷たいままの地下室を逃げるように飛び出した。

Playtime is over

悲劇の幕開け

いけない、遅くなっちゃった。冷たいファイルを抱いて冷たい廊下を足早に進みながら、スーザン・ウィットウェルは大仰にため息を吐いた。今日は、明日フランスの施設から賓客を 迎えるにあたって必要な資料を揃えていた。この一年、さほど大きいとは言えない我が研究所を支え、運営してきたのは君の才覚だなどと、所長の安っぽい口車に乗せられて。 分かっていながらそれに乗る自分も自分だが、まさかこんなにもてこずるとは思っていなかったのだ。時計を見ると、すでに煙突飛行の規制開始時間を過ぎている。いよいよ頭を 抱えながら、暗くなった事務室の扉を勢いよく開いた。
誰もいない。無責任にも全員定時前後には帰宅してしまった。これでわたしがヒステリーを起こして投げ出してしまったら、明日の交流会はどうするつもりなのだろう。だがそれは 裏返せばそれだけ信頼されているということの証で、そのこと自体に悪い気はしなかった。そう、結局のところわたしは人がいい。と、メイには突っ込まれそうなことを考えつつ、 スーザンは部屋の明かりをつけて手前のデスクに分厚いファイルをどさりと置いた。何とはなしに、辺りを見渡す。
広いオフィスではない。十人も入れば息苦しさを感じてしまうだろう。が、それはそもそもここは事務員用であって研究員のオフィスはまた別にあるせいだ。不自由はないし、 これといって不満もない。仕事仲間には恵まれていたし、父が遺してくれたこの日々に誇りさえ持っていた。半年前に龍痘で死んだ父は所長のホグワーツ時代からの友人だった。

(花嫁姿……見てほしかったな、パパには)

もちろん、ひとりで結婚式なんて挙げられるはずがないし、フリーのわたしにはどうしようもないことなんだけど。あんなにきれいなリリーを見たら、つい……ね。
そう。
わたしは数週間前に行われたばかりの旧友の結婚式を思い出して、また深々と嘆息した。が、今度は疲れからではない。あれはまさに文字通り、ため息の出るような素晴らしい パーティーだった。ただひとつ、わたしたちにとって欠くことのできない友人の不在を除いては。
デスクの端に置いたフォトスタンドはふたつ。ひとつには小さい頃の家族写真、もうひとつには、最後のホグワーツ特急で寮の後輩に撮ってもらった六人の写真が納まっている。 いつまでも変わらず、フレームの中で笑い続ける一年前のわたしたち。それを切ないとは思わなかった。この写真を覗いた同僚に、彼女は可愛い、紹介してくれとせがまれたとき、 この子はとっくに手をつけられてるので期待しても無駄、と冗談めかして答えられる程度には、信じていた。彼女は    は、何があっても見つかると。そう、信じなければ……不安で、胸が張り裂けそうで。

彼女の失踪を初めて知ったのは、ポッター夫妻の結婚式が終わったあとのことだ。ニースが国外に脱出したことは知っていた。親友の結婚式に戻ってこられないかもしれないと いうことも、薄々感付いていた。ブルーノは学生時代から彼女のことをこれでもかというほど大事にしていた。仕事の都合だとは言っていたが、今のこのイギリスにパートナーを 行かせる気にはなれないだろう。だがそれだけでなく、信じられないことにリリーと最も仲が良かったの姿がない。彼女の夫    正式に籍を入れたという報告はまだだったが、夫婦と呼んで差し支えはないだろう    であるシリウス・ブラックは 新郎の付き添いとして出席しているのに。
当然わたしはそのことを聞いた。リリーたちの歯切れは悪かった。とても悪かった。だが彼らは口を揃えて、は付属学校の大切な実習が入ったため急遽来られなくなった。もしかしたらあとで遅れてやって来るかもしれないが、彼女の意向もある、先に進めておこうと言い、 わたしもそれ以上は詮索しなかった。彼らが何かを隠していることは一目瞭然だが、ここで問い詰めてはせっかくの式が駄目になってしまう。人生に一度、大切な人と運命を共に することを誓う大切な儀式。それを台無しにしたくはなかった。同じく事情を知らされていないらしいメイ、マデリンらと顔を見合わせながらも、わたしはとニース不在のまま、おとなしく会場へと入った。

そして、親族と、ごくごく近しい友人のみのささやかな、だがきっと一生忘れないであろう思いのこもった温かい式を終えたあと。夫妻は控え室に、神妙な面持ちでわたしたち三人を 呼んだ。シリウスやリーマス、ピーターはこの場にはいなかった。

「今日、駆けつけてくれた君たちには……話しておかなきゃいけないと思う」

そう切り出したジェームズは、が一年前の夏から行方不明だという衝撃の事実をわたしたちに伝えた。いや……想像だにしていなかった、と言えば嘘になる。リリーの結婚式に、どうして親友のがいないの? 去年のクリスマスカード、だけからは返信がなかった。付属学校の授業が忙しいのだろうと、勝手にそう決め付けていたけれど、本当は。
そういえば、卒業してすぐの夏    近くまで来たのだといって立ち寄ってくれたリリーに、のことを聞かれたことがあるような。わたしはずっと、何も知らずに。

「でも、心配しなくていい。省も、それに僕たちだって全力で探してる。は僕たちが必ず見つけるよ、だから君たちは何も    
「そんなこと言って、もう一年以上経つんでしょう? が……がどうなってるかなんて……」
「マデリン!」

震える声で絞り出した親友を、未だかつてないほどに、鋭い声で妨げる。びくりと身を竦ませてそのまま泣き出したマデリンをメイが抱いてあやすその傍らで、スーザンは先ほどの式で キャッチした白とピンクとブーケをきつく、きつく握り締めた。これは、わたしじゃない。リリーが手渡しでに贈るべきものだ。彼女がいなければ、ポッター夫妻は恐らく歩み寄ることすらなかっただろう。たとえこの一年、消息が掴めなかったのだとしても……最悪の可能性なんて、 絶対に口にしてはいけない。
こちらの視線に気付いたらしいジェームズが、今まで以上に表情を引き締めて言ってくる。

「大丈夫。彼女は無事だよ。彼女には……利用価値があるからね」
「ジェームズ!」

今度声を荒げたのは、それまで思い詰めた面持ちで黙り込んでいたリリーだった。諌めるような厳しい眼差しで夫の横顔を睨み付ける。が。ジェームズは迷った挙句、そちらには あえて視線を向けなかったらしい。微笑みすら浮かべて、まっすぐにわたしたちを見渡した。

「君たちも知っての通り、彼女はとても優秀な魔女だ。僕だったら、みすみす……とにかく、僕は信じてる。だから君たちも、僕たちのことを信じてほしい。彼女は僕たち魔法省が必ず 探し出して連れ帰る。約束する」
「わたしたちに隠し事してるのが分かりきっていて? それでわたしたちには無条件に信じろっていうの? がいなくなったことだってずっと隠してきたんじゃない」

涙を流しながらも、噛み付くようにマデリンが言い返す。リリーたちは気圧された様子で若干身体を引いたが、すぐさま体勢を整えたジェームズは、マデリンの敵意にも似た気迫を 真正面から受け止めてはっきりと言い切った。

「今はまだ、これ以上のことは話せない」
「……リリー。リリーはどうなの。わたしたち……も、みんな子供の頃から友達でしょう? わたしたちだってのことが心配でたまらないのよ?」
「マデリン……分かってる、分かってるわ。でも」
「マデリン! 頼むから、僕の話を聞いてくれ」

戸惑うリリーに食ってかかろうとしたマデリンの前に、ジェームズが両手を広げて立ち塞がる。そのことにかえってマデリンは神経を逆撫でされたようだったが、それでもジェームズの 真摯な瞳にその場でようやく踏み止まった。静かに息を吐いて、ジェームズ。

「マデリン。スーザン、メイ。君たちがリリーと……とどれだけ仲良くしてくれてたか、僕だって知ってる。僕だってずっと君たちと一緒に学んできたんじゃないか。でも、分かってくれ。今は何も話せなくても……いつかこの 暗い時代が終わりを迎えて、また君たちと    と一緒に笑い合える日がきたら。そのときは、必ず話す。包み隠さず君たちにも全部話す。だから今は、これで許してほしい。お願いだ。信じて……のこと、待っててあげてほしい」

深々と頭を下げたジェームズに倣って、美しい白無垢姿のリリーまでもが必死になって懇願してくる。こんな旧友たちの姿を見て、これ以上のことが聞けるだろうか。そうだ。彼らは いつだって、わたしたちを裏切るような真似はしたことがなかった。たとえこんな時代だとしても    彼女たちを信じられずに、一体何を拠り所にして生きていけばいいと いうのか。
マデリンがそれ以上は突っかからないことを確認してから、スーザンは新郎の前へと一歩近付いて声をかけた。

「もうやめなさいよ、ふたりとも。今日の主役はあなたたちじゃない。そんなにへこへこしないの、せっかくのドレスが泣いてる」

すると、弾けたように顔を上げたリリーがこちらの視線を捉えて涙の潤んだ瞳で微笑んだ。彼女にそっと笑いかけてから、驚くジェームズを見やり、告げる。

「分かったわ。わたしは、あなたたちを信じる。実際、もっと前に知らされてたとしても……わたしにできることなんて、多くはなかったと思うし」
「そんなこと……」
「ごめんなさい。あなたたちだって、ずっと悩んできたのよね」

躊躇いがちに発されたリリーの言葉を遮るようにして言うと、ポッター夫妻、そしてマデリンもまた気まずそうな顔で瞼を伏せた。本当は、こんなはずではなかったのだ。一生に一度の、 記念すべき一日に。みんなして、こんな暗い顔をして。こんな、はずでは。

が帰ってきたら、今度は友達だけで盛大にパーティーでもやろ? そのときはわたしたちがセッティングするし! ね、ふたりとも?」

その場の空気を打ち壊すように、一転して陽気な声を出したスーザンに、マデリンもメイも不意を食ったように目をぱちくりさせる。が、メイはすぐさまこちらに同調し、ぎこちない ながらも笑顔を浮かべてリリーたちを見た。

「そうそう! あ、よかったらうちの店にも来て! 中は狭いけど味だけは保障するし。今度はクララやディアナたちも呼んで、そうね、ぱーっと!」
「それいいわね! メイのお店、一回だけ行ったけどケーキなんか絶品! だから」

だから。やりきれない表情でこちらを見つめるジェームズたちに、はっきりと告げる。

「信じて、待ってる」

信じる。意識せずとも当たり前にあったはずのそれが、たとえ揺らぎそうに脆く思える時代でも。

(パパ、わたし……時代のせいにはしたくない)

激しく咳き込み、血を吐きながら口にした父の最期の言葉を胸に抱いて。

「……ありがとう、スーザン」

そう言って再び頭を下げたジェームズの燕尾服姿を思い出し、小さく噴き出して笑う。不似合いだというわけではない。むしろ、かなり様になっていたと思う。が、もともとの顔立ちや 身体の線の美しさからして、隣に並んだシリウスのほうが大人びて見えてしまうのは運命としか言えない。わたしたちの記憶の中で、永遠に無邪気に笑い続ける、ジェームズ・ポッターとは そういう男だった。それがたとえ、ポーズだったとしても。そのことを、わたしたちが知っているのなら。

残りの仕事を手早く済ませると、スーザンはデスクの上を軽く整理して足早にオフィスをあとにした。このところ防犯対策とやらで、煙突飛行ネットワークは夜の十時以降、一般には 利用を制限されている。仕方がないので今夜は姿くらましで帰るしかなさそうだ。所内から直接家まで戻ることも可能だが、万が一にも薬品庫にでも突っ込んでしまったら洒落に ならない。念のために建物の外に出てから姿くらまししようと思っていた。
その途中、とある一室の前を通り過ぎようと    

「……!」

スーザン・ウィットウェルは、声にもならない声を、聞いたような気がした。
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(16.04.20)