「、まだ起きてるんだろう? 寝る前に一杯どうだ」
薄れかけた意識の彼方から、声がした。布団をかぶって丸くなっていたはそれと分からない程度に目元をこすって顔を上げる。上から覗き込むジェネローサスは両手に紙コップを握り、やや驚いたように片眉を動かしてみせた。
「なんだ、寝ていたのか? すまん」
「……起きてたわよ。テントの中では半径二ヤード以内に近付かないでって言ったはずだけど」
「了承したと言った覚えはないよ。心配するな、何もしない」
「そんなこと、誰が証明してくれるっていうの。わたしはあなたのことなんて信用してないのよ」
睡魔に負けそうになっていたなどと、この男の前で認めるのは嫌だった。が、この二日、ろくに寝ていないのだ。身体が貪欲に睡眠を欲している。それでもは意地だけでそれを振り切り、よろよろと重たい上半身を起こした。ジェネローサスが持参したテントは一見、二、三人が入ればすぐいっぱいになってしまいそうな小さなものだったが、実際は予め魔法で広げられ、ワンルームほどの広さがあった。ふたりの布団はその端と端、可能な限りの距離を置いて敷かれている。彼はその布団を抜け出して、今やのすぐ脇に膝をついていた。
「蜂蜜酒だよ。昨日もあまり寝ていないだろう。少し飲めば落ち着く」
「……要らない」
「飲みなさい。君の体調管理もわたしの仕事の内だ」
彼はときどき、こういった口の利き方をする。それは自分にとって腹立たしいことのはずなのに
こうしてなぜか、胸が締め付けられるのはきっと。
小さく苦笑を漏らし、薄暗い光の中でジェネローサスが肩をすくめる。
「思えばわたしの出すものを口にしてくれたことは一度もないな。何も入ってやしないよ。君はあのお方の大事な血縁だ」
それでも唇を引き結び、頑なに目を逸らすに、ジェネローサスはまた呆れたように息を吐いた。ちらと視線を動かした彼女を見て、
「闇祓い部署にいたとき、自分以外の人間に出されたものは絶対に口にしない上司がいてね。そいつを思い出した」
闇祓い。彼とジェームズが……大切な人たちを、守るために。
俯き、再び口を閉ざしたの傍らにゆっくりと腰を下ろし、ジェネローサスはそれとなく彼女に背中を向ける形で座りなおした。
「昔話をしようか。多少は仲良くなれるかもしれないよ」
聞きたくなんかなかった。何を聞いたとしてもこの男がフィディアスを襲った事実は変わらない。彼が目を覚ますことも。この男と親交を深めることなんて、ありえない。
そんなことには構わず、ジェネローサスはひとりで滔々と語りはじめる。
「昔むかし、魔法族の社会とマグルの社会とが同じものを示していた頃。ガムラ・ウップサーラという町に、ほぼ現在のスウェーデンに相当する国を治めているマグルの王族がいた。
彼がその王家に巡り会ったのはまったくの偶然だった。いや
運命と呼ぶべきかもしれない。何にせよ、彼は王家の姫君に見初められて宮殿に上がることになった。彼は魔法使いの家系だった。身分の違いからふたりが結ばれることはなかったが、彼は王家のために生涯を懸けた。その息子も、その息子もさらにその息子もみんなだ。その一族は命を賭してスウェーデン王家に仕えた。やがてその功績が認められ、彼らは国王より直々に名前を授かった。『リンドベルイ』
英語読みにすれば、『リンドバーグ』だ」
いきなり、何を言い出すのか。はようやく顔を上げて男の静かな後ろ姿を見つめた。振り向く気配がなかったので、視線をそのまま固定する。たとえ背中であっても、こうして近くでジェネローサスを凝視することはこれまでほとんどなかった。
「やがては失われる物質ではない。未来永劫繋いでいくことのできる、最も栄誉ある賜物だ。『リンドベルイ』。彼らはその誇りと共に王家への忠誠をより強固なものとした。そして王家の滅亡と共に滅んだ。運命すら共にした」
徐に、ジェネローサスの顔がこちらを向く。その青白い視線に囚われても、今度は目を逸らさなかった。単にタイミングを逸したに過ぎなかったのだが。
「史実
というより、伝承として残っているのはそういう話だ。ユングリング家に仕えた魔法使いの一族はその滅亡と共に消滅した。が、それは正しくない。我々はこうして今も生きている」
「何が言いたいの?」
「みっともなく生き延びたとは思ってほしくないね。我々は王族に認められたことへの強い矜持がある。再び強大なる権力を支え、主が理想の国家を造り上げる助力をすることが夢だ。それは『リンドベルイ』を賜った王との誓いでもある」
「……だからあの人の下についたっていうの? あなたが何のために死喰い人になったかなんて、わたしには関係ないのよ」
「伝承が必ずしも真実とは限らない」
どこかあっさりと切り捨てるように言い放ち、ジェネローサスが立ち上がる。そして彼女のすぐ脇に紙コップのひとつを置き、くるりと拘りなく背中を向けた。
「とにかく明日からはあのミコとかいう女の素性を調べる。一口でも飲んで早く休むことだ。おやすみ」
自分の蜂蜜酒を一口で飲んだ彼が布団に入り、枕元のカンテラの光量を落とす。ほとんど輪郭しか分からなくなった周囲を見渡して、はうんざりと瞼を伏せた。
腹が立ったのだ。無神経に『リンドバーグ』の話をする彼にも、いつも言い逃げのように会話を終わらせる彼にも。そんな彼を心の底から憎めない自分にも
健在だった頃、フィディアスのことをもっと知ろうとしなかった自分にも。
結局のところ、わたしは兄のように慕っていたはずの彼のことを、何ひとつと言っていいほど知らなかったのだ。
One of the GODS
『神』の足跡
『泣いた巫女さん』の逸話が残る、稲荷神社。
一年前の夏、彼らと共に祭りを楽しんだ
そして彼と、家族になることを誓い合った……遠い日の。
こんなところ、帰ってきたくなかったのに。
「何もないな」
ジェネローサスに言われるまでもなく、そこには今や、鳥居と白狐、さほど長くもない石段を登った先にある、小さな本殿が残るのみだった。当然、人もいない。
引き止めるを無視してジェネローサスは無遠慮に本殿の扉を開けたが、そこには腕に抱えきれる程度の神棚が置かれ、中には
何も、なかった。
「これが『神』の姿か?」
鼻で笑って、ジェネローサス。虫唾の走る感触をなんとか抑えつけながら、は平静を装って答えた。
「ここは大した規模の神社じゃない。伝説では確か、『国の使いが来るような大きな』
恐らくここではない、どこか別の場所の話がたまたまこの辺りに残っているだけかも」
「……なるほど。一理あるか」
あごに手を添えて、ジェネローサスはぐるりと境内を見渡した。念のため、といって細部を調べるが、かえって面白いほど、何もない。
歩き出した彼の後ろを、距離を取ってついていく。それでも、静まり返った石段をただ降りていくだけでは、この男の声を防ぐことなどできない。
「君は『神』を信じているか、?」
「……別に。わたしは無宗教よ」
「は信じていたよ。いや、神とは少し違うのかもしれないが」
母の母
祖母はロンドンの教会に勤めていたという。当然、たとえ魔女だったとしても、母がその考えを継いでも不自然ではないだろう。
ただ、それは日本の『神』とは、違う。
「神、天使、悪魔……そんなものはマグルしか信じない。奴らの作り上げたものだからだ。奴らには目に見えないものが多すぎる。
全部それを勝手な空想で形にして、大層な名前を冠して。そんなものに何億人って人間が信仰を唱えるんだ。それで何が救えるって? まったく、反吐が出るね」
「だったら
あなたたちの大切な『信仰』とやらで、何かを救えるとでも言うの?」
冷えた心地で、思わず口にする。短い石段を降りきったところで、徐に振り向いた彼の瞳は、背筋が凍るほど冷たく思えた。
「我々はマグルのように愚かでも、グリフィンドールのように傲慢でもない。だが守らなければならないものはある」
「………」
こちらが何も言い返せないうちに、ジェネローサスが踵を返して歩き出す。残りの五段を飛び降りて、はほとんど小走りで男のあとについていった。
夢を
見そうになって。
抗うように、目を覚ます。そんな夜を繰り返し、日本へ留まっていた。
イギリスの地下に閉じこもる日々に比べ、昼は日差しの下といえる分、いくらかマシだろうか。
否。
毎日毎日毎日毎日、この男の監視の目にさらされ。
彼は何も言わない。夢を見ろ、その努力をしろと
それさえも近ごろは口にしなくなった。ただその暗い瞳に、無言の圧力をこめて見つめるだけ。
彼は、寝ていないのではないか? そんな思いに囚われたのは、一度や二度ではない。結局は困憊して眠りにつくが目を覚ますとき、上半身を起こしたジェネローサスは必ず横目でこちらを見ていた。始めは気味が悪くて仕方なかったが、次第に別の感情が芽生えていった。
眠ることもしないのか。食事は、ほとんど何も食べないで過ごそうとするに勧めるため、自分もしっかりと摂る。だがそれ以外の、人間としての基本的な欲求
つまりは、そういうことだ
のおおよそ二つを無視している。
それとも彼女が一、二時間眠るその間に、それこそ魔法のように、すべて済ませてしまっているのか。ありえない。そんなこと、人間ならば
。
(……なに、言ってるんだろう)
この男は、弟を殺したのだ。たったひとりの家族、それを、殺そうとした。
人間ではないのだ。今さら、そんなことを。
「大丈夫か」
姿くらましを終え、地面へ降り立ったがふらついたのを、ジェネローサスは肩を抱いて支えた。意地だけで振り払い、すぐさま距離を取って、はつぶやく。
「なんともない。気にしないで」
「大丈夫でなくとも、君はそうは言わないだろう。無理はわたしがさせないが。あのお方が君を案じておられる」
また、それか。『あのお方が』『あのお方が』
あなたには、自分の意思がないのか。かつてそう問うたに、ジェネローサスは言い切った。わたしの主は、あのお方だけだ。あのお方の意思を実現するために、すべてのことを為す。そのために、わたしは生きているのだと。
そんなことに、何の意味があるのか。弟を殺してまで、そんなことを遂げるのに、何の意味が。
だが、意味を求めても仕方がない。理解できるはずがない。フィディアスを、アルファードおじさんを
そんな連中のことを、理解できるはずが……。
……彼らのことを、裏切ったのは……。
「ついに来た」
夜の帳が下りたころ、低い家々が立ち並ぶあぜ道の一角に、ふたりは並んで立っていた。一見するだけで、眼前の日本家屋は隣家と一線を画す広さであることが分かる。
母屋に離れ、かつては庭園と称されたのかもしれないが
今や荒れ果てた、庭。軒下の奥、障子を通して煌々と明かりが漏れてくる。
傍らに立つジェネローサスの息が、わずかに高揚したのが分かった。
「しばらく様子を見よう。マグルが寝静まってから実行する」
「……わかった」
嫌な感覚が、肌をなぞる。なんだろう、これは。昨夜このあたりには珍しく、雪が降った。だからというわけではなかろうが。
この二ヶ月間、日本各地を点々とした。マグルの資料のかなり大部分を読破しただろう。そしてついに、一つの仮説にたどり着いた。
その鍵を握る人物が、この屋敷に、いる。
この男と過ごす旅は、早々に終わりにしたい。そのためならば、時間を惜しんで歩き回ったし、本を読みあさったし、ない知恵を振り絞った。
それなのに。
とてつもなく、嫌な予感がする。凍える夜風だというのに、杖を握る手のひらが、少し、汗ばんでいた。