「……ジェネローサス・リンドバーグ?」
「そうだ。およそ二十年前、闇祓い局に在籍していた」
ジェームズは淡々と語る上司の広い背中を見ていた。アラスター・ムーディ。強情な変わり者と名高いが、誰もが認める腕利きの闇祓いのひとりである。ジェームズは彼の魔法使いとしての腕も、頭の回転の速さも、闇の魔法使いを憎む強いその信念も、心の底から尊敬していた。確かに、融通の利かないところは大いにあるけれど。
「奴はオーラーの頃から『あの人』に通じていた。の失踪についても、何らかの形で噛んでいるはずだ」
「どういうことですか。どうしてそんなことが……彼の行方は、それこそこの二十年の間、掴めていないわけですよね? それなのにどうして」
逸る気持ちを抑えて、慎重に問いかける。足を止めることこそしなかったが、ムーディの歩幅が僅かに狭まったような気がした。しばしの沈黙を挟んで、言ってくる。
「奴が研修生のとき、奴の指導を担当していたのがこのわしだ。だが何年か経って、の母親の事件があった。そのとき、内部の人間しか知り得ぬ情報が流れていることが判明し、その少し前から不審な行動のあった奴を問い詰めた。奴はそのまま姿を消し、わしは奴がの母親の一件に関与していることを確信した。ミイラ取りがミイラになってしまったというわけだ」
の母親の一件。それはあの日、彼女自身の口から聞かされていた。ヴォルデモートから狙われていたのママは、家族を守るためにヴォルデモートのところに行った。やがては彼を改心させられるかもしれない、いや、そうしなければならないのだと。自分にもしものことがあったとしたら、今度は娘であるが狙われるに違いないから。でも、ヴォルデモートに取り入ろうと……その半ばに、闇祓いと戦闘になって。
ショックだった。どんな事情であれ、彼女のママがヴォルデモートのために働いていたことも、直接的でないとはいえ、彼女を死なせたのが僕の志すオーラーだったということも。だが、彼女は家族のことを思ってそうしたのだ。きっと、最後の選択肢だったのだろうと思う。だから僕たちは、二度と彼女のような犠牲を出さないためにも、杖を振るわなければならないのだと思った。ムーディも、その思いがあるからこそこうして戦い続けるのではないのか?
「奴の弟はの母親と親しかったし、ジェネローサス自身も彼女と何度か個人的に会っている。彼女の情報をヴォルデモートに伝えたのも奴だろう。奴が娘のことを知って何の手立ても講じないほうが不自然だ」
「……あなたは、リンドバーグの事件も彼の仕業だと考えていると伺いましたが?」
ムーディは変わらず人通りのない路地裏を歩き続けたが、返答が少し遅れたのは右手から飛び出してきた小さな黒猫を避けるためだけではないだろう。
「どんな呪文を使ったかは知らんが、奴だ。それは間違いない」
「根拠は。魔法法執行部としては、現在調査中の段階で犯人の特定には至っていません」
刹那、何の前触れもなくムーディが立ち止まった。一瞬だけ反応が遅れ、ちょうど木陰になったその場所でジェームズも足を止める。何かを発見したのかと彼は無意識に神経を研いだが、ムーディは背中を向けたまま無感動に言葉を継いだだけだった。
「杖がなかった」
「……杖? リンドバーグの杖ですか? 彼の部屋からも職場からも見つからなかったと」
「そんな場所に杖があるものか。お前は外出時に杖を置いていくか?」
「いいえ。杖は僕の半身も同然ですから」
「これまで死喰い人が起こした事件の中で、杖を奪われたケースはない。だが、聞いたことがある。フィディアスの杖はリンドバーグ家に代々伝わる北欧の杖作りの作品だ。リンドバーグの血を誇るジェネローサスが、そんなものを放置していくはずがない」
「では、フィディアスを倒した今
そのジェネローサスという魔法使いが、彼の杖を使っているのでしょうか」
ムーディはそれには答えなかったが、確信をもった声音で次のように囁き、再び足を踏み出して薄暗い路地を歩き続けた。
「奴さえ見つけることができればこの局面を打開できる。必ず、探し出す。必ずだ」
ジェームズは黙って彼の後ろに付き従ったが、今は自分の心の内に冷たいものが伝うのを感じて微かに身震いした。ムーディの最後の言葉には、今までに聞いたことのないどことなく危険な響きがあった。
AUROR in charge of the training
アラスター・ムーディ
まさかとは、思っていた。予言を夢に見る、日本の『夢見』。自分はその血を引いているという。魔法の正常に効かない故郷。必ず関係があるはずだというジェネローサスの言葉。
でも……まさか、本当に。
「、見てみろ。これはどうだ」
市内の小さな図書館に西洋人がいればその長身だけでも目立つ。一年前の気恥ずかしさを思い出しながらも、は彼が広げる軽めの本に目を通した。
その見出しは
『泣いた巫女さん』。
「……そうね」
「なんだ、その反応は。知っていたのか?」
は答えなかった。膝に載せた地方史の本を曖昧に覗きながら、首を振る。
傍らに立つジェネローサスは聞こえよがしに嘆息してみせた。
「、困るな。協力してくれなければ。君がこのことを知っていたとすればこの二日間は無駄骨だったということだろう?」
「別に……隠してたわけじゃない。関係ないと……思ったから」
「関係ない? 君の故郷に残る、不思議な夢を見るという女の伝説がか?」
「だって……そんな話、この辺の人間なら誰だって知ってるわ。あの男がそんな分かりやすいところにわたしを送る? 現にあなただって、たったの二日でたどり着いたじゃない」
たったの、というところでやや剣呑な眼差しを見せたが、ジェネローサスはすぐさま唇に笑みを浮かべて小さくかぶりを振った。
「それはこの辺りのマグルの間で、という意味だろう? ダンブルドアの考えそうなことだ。我々がマグルの面から調べることはないだろうと踏んだに違いない。愚かな」
「……まるであの男をよく知ってるような口振りね」
「知っているさ。少なくとも君よりはね」
あっさりと言い放ち、懐から取り出した羊皮紙に何か書き込んでいく。知っている。少なくとも、わたしよりは。ダンブルドア。史上最高の魔法使い。ホグワーツ魔法魔術学校の校長。
ただそれだけのことで
よかったのに。
「……どうするの。そんな、不確かな情報から一体なにをどうやって」
「不確か? 取っ掛かりとしては充分だと思うが。この女のことを調べる。伝承の類も史実もすべて」
気の遠くなるような話に、目眩を覚えて頭を抱える。はもうすでに次のページを繰っているジェネローサスに、投げやりな声で問いかけた。
「わたしが本当に『夢見』だっていう確証でもあるの? その巫女の子孫だなんて……だって巫女っていうのは神様に仕える女性よ。神様だけに一生を捧げるの、
だから結婚はしちゃいけないことになってる。その伝説でだって普通の恋が許されなかったから、だから
」
「何百年も昔の話だ。『事実』がそのまま残っているほうがおかしい。君がもしも『夢見』でなかったとしたら、出会うよりも前にあの方を夢に見たことはどう説明する?」
思わず次の言葉を呑み込んで、きつく唇を噛む。そうだ、彼の言うように、今さら自分が『夢見』であることを疑ってかかっても仕方がなかった。
あの人に初めて会ったそのとき、自分は確かに彼を
知っていた。
気付かぬうちに握り締めていた拳を振りほどいたとき、ジェネローサスは最早こちらのことなど見ていなかった。
「一刻も早くイギリスに戻りたい。あの方が待っておられる。ここにある本は今日中にすべて片付けるぞ、」
「……分かった」
何を言っても仕方がない。この男は、あの人のことしか考えていないのだから。そして自分もまた、そういった契りを結んだのだ。
静かに息をついて、は次の書棚へと場所を移した。
「だから……何度も言わせないで。オーラーは全員出払ってるのよ、他の部署を当たってちょうだい」
「他の部署というが、闇の呪いだぞ? ひとりでいいんだ、誰か呼び戻してくれないか、ベンサム」
「うちは原則として単独行動は認めていない。こっちだって人手が足りないくらいなのよ、どうでもいいようなことにオーラーを使ってるとでも思うの? 時間の無駄だわ、もっと暇な部署に要請して」
呆気なく切り捨てると、男は聞こえよがしに舌打ちして部屋を出て行った。バタン! と乱暴に閉じられたドアからすぐさま視線を外し、手元のファイルを開く。だが中身にほとんど目を通さないうちに燻っていた怒りが弾け、その上に両の拳を力任せに叩きつけた。努力していないとでも思っているのか。誰もが最善を尽くそうと奔走し、誰もが先の見えない暗闇に強烈な不安を覚え、そして苛立っている。
ジェーンは歯噛みしながら立ち上がり、引き出しから小さな巾着袋を取り出した。それを掴んだまま脇の流し台に向かい、コップに水を汲み、ひとまず溜まった息を、深く、長く吐き出す。そして袋の中に常備した錠剤を水で胃へと流し込んだ。これでいい。これであと半日は耐えられる。再びデスクへと戻り、提出された報告書に目を通した。
(死の呪い……巨人、亡者……服従の呪文にかけられてた? よく言うわ、闇の魅力を滔々と語ってたあなたが!)
しかし本当に服従の呪いをかけられていたかどうかを後になって判定することはほとんど不可能と言っていい。ムーディであればそれでも強引に引っ張ってくるのだろうが、相手によっては後々面倒なことになるのはこちら側なのだ。あの男はそれを分かっていない。非常に有能な闇祓いであることは疑いないが、組織の人間としては多少といわず大いに厄介な存在だった。
(でも……不思議と、教官としてはいい仕事をしてくれるのよね)
それは執行部の中でも高評価されている彼の一面である。教官としての指導力と、そして闇祓いとしての実力。そのどちらも抜きん出ている彼を解雇する理由などどこにもなかった。たとえ組織人として最大の欠陥を持とうとも、この世界は結果だけがすべてだ。彼の指導に耐えられず辞めた研修生もいるらしいが、少なくとも彼女が入省してからは一度もそんな事例を見たことがなかった。
(ま、彼のもとに配置される新入りがそもそもの変り種ってこともあるのかしらね)
どのみち常人であれば彼の指導についていけるはずがない。闇祓いとしての適正試験には、筆記、実技の他にも複数の審査が行われる。さらにホグワーツから特別に届く推薦状も加味して担当の教官を決定するのだ。癖が強いと判断された研修生は優先的にムーディの下に置かれることになっていた。
(……彼も、)
ふと思い浮かんだ男の顔を、きつく目を閉じかぶりを振ることで振り払おうとする。だが一度思い出されたその輪郭を忘れ去るのは容易なことではなかった。ファイルの上にがっくりと両肘をついて、うめく。
(忘れなさい。あんな男のことは。突然行方を晦ませて……それっきり、弟の見舞いにも来やしない)
フィディアスの担当癒にはしっかりと言い含めてある。あの男が病室を訪ねてくるようなことがあれば、必ず知らせるようにと。だがこの二年、それらしい人物が姿を見せることはなかった。期待していたわけではない。フィディアスとてそんなことは望んでいないだろう。だが、それでも。
彼女は知っていたのだ。どれだけ忌み、遠ざけていたとしても
彼はリンドバーグのすべてを捨てることができなかったのだということを。
(彼は、昔からそう。だらしなくて、整理が下手で、何でもかんでも持っていこうとする)
捨てることができないのだ。なにも。どこかでちらりと後ろを振り返ることもある。それでもいいと割り切ったのだ。いや、心のどこかでは引きずることもあったのかもしれない。それでも一緒にいたいと
まとめて引き受けることを決めたのは自分だ。
(でも……耐えられそうになかった。あれ以上は)
彼は彼女のために、心の底から立腹したのだ。絶対の信頼を寄せていたダンブルドアにまで反抗した。わたしが同じ目に遭ったとして、彼はわたしのために怒ってくれるだろうか。そんなことは考えるべきではなかった。は、死んだのだ。愛する家族を守るため。その方法は正しくなかったかもしれない。それでも
彼女は家族のためにこそその替えの利かない命を落とした。
耐えられなかったのだ。あれ以上、彼のそばにいたら。フィディアスだけではない、のことまで憎んでしまいそうだったから。そんなことには耐えられない。心の底から愛した彼らの思い出まで、一度に失うことが恐ろしかった。わたしは逃げたのだ。考えることを放棄し、すべてをダンブルドアに委ねてしまった。彼ならば残されたあの親子にとって、最善の方法を考えてくれる。その期待がたとえ根拠のない薄弱なものだったとしても、ただ信じて託すしかなかったのだ。それなのに、起こった結果について彼に噛み付くなんて厚かましいにも程がある。自分は一体、何をしているのだ!
今さら、涙など出ない。泣いていい道理もない。だが知らず知らずのうちに目尻ににじんでいた涙に気付いてジェーンは深く息を吐いた。ふと瞼を開くと、幾重に重なった資料の隙間から飛び出た一枚の羊皮紙が目につく。また頭が重くなってきた。
(あの男は……この忙しいときに、何をしてるの!)
優秀なのだ。あの男は。確かにそのことは認めよう。疑い様もない。だが、ひとつだけ真剣に直してほしいところがある。それは根拠のない思い込みだけで勝手に単独行動をとることだ! もちろん、各自の判断というのは闇祓いに不可欠だ。咄嗟の事態に対応できなければすなわちそれは死を意味する。そういった世界だった。その意味においてもアラスター・ムーディという男は実に優秀な成果を収める。だが、しかし。
ジェーンはもう一度、腹の底から大きく息をついた。ページからの報告書である。本来ならばムーディとふたりでこなすはずの仕事を、ひとりで。その間、あの男が何をしていたかというと。
(ジェネローサス・リンドバーグ、ですって?)
馬鹿馬鹿しいにも程がある! 声には出さず、ジェーンは息巻いた。足元の引き出しに一瞬だけ手を伸ばしかけたが、思いなおして引っ込める。意味がない。そんなことにはまったく意味がない。
彼はジェーンが魔法法執行部に配属されたとき、すでに有能株として評価されていた若手の闇祓いだった。ムーディが彼を可愛がっていたことは彼女もよく知っている。何しろジェネローサスは
フィディアスが縁を切ったといえ、義理の兄には違いなかったから。お互い、それを表に出すことはしなかった。職場では旧姓を名乗っていたので、ひょっとしたら彼は知りもしなかったかもしれない。取り立てて親しさを強調することもなく、単なる職場の人間に過ぎなかったけれど。
その彼が、ある日唐突に姿を消した。の事件からしばらく経ってからのことだ。事件、事故、あらゆる可能性が打ち出される中、ムーディだけは確信をもってこう言った。・の一件に噛んでいたジェネローサスが、自ら行方を晦ませたのだ。奴は悪魔に魂を売ってしまった。そう主張する彼の根拠はあまりに薄弱だった。信じたくないのではないか。自分が目をかけていた部下が理由もなく失踪するということは。自分を裏切るような真似をした人間を憎むだけの正当な理由が欲しかっただけなのではないか。そう指摘されたときの彼の瞳の危うさは今でも覚えている。背筋が凍るようだった。
やつを教えたのはわしだ。やつの考えることはわしが一番よく分かっている。
結局、誰も取り合わなかった。あのジェネローサスがこともあろうに闇の魔法使いに唆されるということは有り得ないというのが執行部の結論だった。月日が流れ、所在不明のまま彼の籍は省から抹消された。誰もが彼のことを忘れていく。その中で、ムーディだけは執念深く彼のことを追い続けた。
(執念……ほんとに、そうとしか言い様がないわね。よりによってフィディアスまで彼にやられただなんて)
あの男は、どこまでもジェネローサスのことを忘れられないでいるらしい。その気持ちは、分からないでもないが。だがこんなときにまで、仕事をすっぽかして彼を追うことだけはやめてほしい。そんな暇があればさっさと『あの人』を見つけ出してこの際限のない不安と憤りから解放してほしい。だがそれでも、あの男は言うのだ。ジェネローサスさえ見つけられれば、決定的な突破口になると。あの男を素直に従わせることなど、できるはずがないのだ。
(でも、あなたは知らないのよ。確かに純粋な愛情じゃなかったかもしれない。でも、フィディアスは心から家族を憎んでたわけじゃないし……それに、ジェネローサスだって)
彼がどうして、弟の友人であるを売るような真似をしなければならないのか。どうして闇の世界に堕ちなければならないのか。
自分が彼を一番よく分かってるですって? あなたがあの兄弟の、一体何を知っているというの?
その場にいない男を呪ってジェーンは口汚い悪態を吐く。だがそれで気持ちが治まるわけでもなく、歯噛みしながら未処理の書類に目を通していった。何を言ったところであの男がそれを聞くわけではない。ならば思い悩むだけ損なのだ。こちらが回した仕事さえ確実にこなしてくれればいい。そしてその上で、それ以上の成果を上げて戻ってくる。それでいい。それがアラスター・ムーディという男だった。