『例のあの人』
『闇の帝王』によって取り戻された記憶は、長年が抱いてきた疑問の数々を、きれいに解消してくれるものだった。あれは、夢なんかじゃなかった。全部、わたしの
本当の記憶だったんだ。
幸せだったのに。お父さんがいて、お母さんがいて、ムーンがいて。わたしは本当に幸せだったのに。
「こんばんは、ミスター・」
あの夜。戸口に現れた摩訶不思議な老人を、わたしとムーンはドアの陰からこっそりと見ていた。見たことのない変な服に、三角の帽子なんかかぶって。
「、ムーンと奥に行ってなさい」
「えー。ねー、お母さんはー? まだー?」
「そのうち帰ってくるから。さ、いい子は奥で待ってなさい」
「えー」
居間を追い出されてわたしは口を尖らせるけれど、一足先に廊下に出たムーンが奥の寝室へと引っ込むからわたしも仕方なくそれを追いかけた。
胸騒ぎはしたんだ。なんとなく。だからムーンとベッドでゴロゴロしながらも、耳だけはじっと凝らして。
ばたん、と、大きな音がしたのはそれからしばらく経ったあとだった。
「お父さん!?」
ムーンと揃って廊下に飛び出したわたしは、居間のドアを開けて呆然となった。シンクの手前で倒れている父と
ソファの前で、黙ってそちらを見つめる長身の老人と。
激しく吠え立てるムーンの傍らで、わたしは身動きがとれなくなった。
やがてゆっくりと、老人の冷たい眼差しがの瞳をとらえる。
これだ
これがわたしの、
いちばんこわいもの。
「オブリビエイト」
その呪文を、果たして彼が唱えたのかどうか。
どちらにしても。
覚えているのは、そこまでだった。
CONCESSION
選ばれた五人
「
わたしの可愛い孫だ」
薄暗いシャンデリアに照らされた室内は、広い。広いはずだった。が、中央に置かれた縦に長い大きなテーブルと、それを取り囲む数十人もの男たち
もちろん男だけではないが
のせいで圧迫感さえ感じられる。それでもどこかひんやりと冷たい、そんな夏の一夜だった。
自分へと向けられる無音のざわめきを他人事のように感じながら、は傍らの男へとささやかに一礼する。まるで王座のように華美な椅子に深く腰かけたその男は、満足げに口元を歪めて微笑んでみせた。
「よくお戻りになられました、様。闇の帝王はあなたのお帰りを何年も心待ちに」
「何年も、ではない、トラバーズ。十何年も、だ」
上座に腰を据えたたちからほんの数人を挟んで座る男の言葉を、帝王がゆっくりと、一言一言を確認するかのように訂正する。
トラバーズは申し訳ありませんといってすかさず頭を下げたが、帝王はむしろそのことを愉しんでいるようだった。左手に握った杖をときどき明かりに透かすようにかざしながら、
「構わん。お前には本当に感謝しているのだ。あの老いぼれに何年も隠されていたを、こうして見出したのはお前だからな」
それを聞いたは視線だけを動かしてもう一度トラバーズを見たが、彼は俯いたまま動かない。もそれ以上こだわることなく、再び帝王へと注意を戻した。
帝王がその両腕を広げて、ゆったりと配下たちに語りかける。
「が戻ったには理由がある。我々は契約を結んだ。その条件を呑むために、みなにも協力してもらわねばならん」
「我が君に……条件など」
帝王の傍らに掛ける、いかにも尊大な魔女が吐き捨てる。他の死喰い人らもざわついたが、にとってそれは彼方に吹く風と同じだった。わたしの目的は、ただひとつ。
主に促されて、はその場で立ち上がった。
「わたしはある男に復讐するためにここに来た。聞いていると思うけど、わたしは闇の帝王と同様、サラザール・スリザリンの、そして東方の予言者の血を引いてる。
魔女として、予言者として、わたしは帝王のために力を尽くすわ。だからここにいる全員、約束して。もう誰も殺さないと」
すると部屋中の至る所から、「ご冗談を」と、不快な笑い声が聞こえた。一際甲高い声を出して笑った女の隣で、帝王もまた冷酷な笑みを浮かべてみせる。
「、話が違うぞ。お前の『大切な者』には手を出さないという条件だったはずだ。誰も殺すなと、それはいくらなんでも行き過ぎというものだ」
「なら、わたしがこの場で『大切な者』を並べあげたとして、それをここにいる全員が記憶できるとでも? 見たところ
さほど利口そうでない顔も、たくさんいるようですが?」
見下げる空気が憤然としたものに変わっても、帝王は表情を崩さなかった。むしろこの場でが不遜な態度をとることが面白いらしい。愉しげに声をあげて笑った。
「いいぞ、。その調子で何でも言うといい。さて、そうだな……ジェネローサス」
「はい、我が君」
の右隣に腰かける、それまで微動だにしなかった魔法使いが恭しく頭を下げた。
「と折り合いをつけるためにはどうすればいいと思う?」
「……そうですね。わたしからの提案といたしましては」
静かに右手を挙げたジェネローサスが、その透った指先を広げる。
「五人、でどうでしょう」
「五人?」
「ええ。様のおっしゃるとおり、何人も並べられたところでその名を記憶できる人間は一握りでしょう。五人がせいぜい関の山かと。彼女の予知夢に関しても、いつまでに見られると確実性のあるものではありません。
譲歩できるのは、五人まで。その五人には決して手を出さない
いかがでしょう」
五人? は眉根を寄せてジェネローサスを見たが、帝王は興味深そうに腕を組んだ。ジェネローサスは調子を変えずに、さらに、
「様が予言者として目覚しい成果をおあげになればそのときは数を増やす……我々もその名を覚える努力をする。いかがでしょうか」
「待って、五人なんて聞いてない! わたしそんなこと
」
「あら、いい案じゃありませんか、様? そうすれば早く
良い夢が見られるかもしれませんよ?」
「珍しく意見が合ったな、ベラトリクス」
「フン」
高慢に鼻を鳴らす女、ベラトリクスと、ジェネローサスを、は交互に睨む。たった五人を、数多の友人たちの中から選べと?
残忍な喜びに浸る死喰い人らの前で、闇の帝王は満足げに胸を逸らした。
「なるほど名案だな。、不満があるのなら一日も早く成果を出す努力をしろ。さすればお前の『大切なもの』は保障されるし、目的を達成することもできる。我々の夢も叶う。互いの益になるではないか」
夢……命をなんとも思わない殺戮者たちの、夢。それを、わたしは。
でも。
「……分かりました。努力します、
我が君」
「。お前は残された、わたしのたったひとりの家族だ。もっと気安く呼んでもいいのだぞ?」
「いいえ。これは、わたしなりのけじめです」
戦慄く右手で、左の前腕をつかみ、かぶりを振る。この印を焼き付けられたとき、心に誓った。こんなものを背負わせる者を、決して家族などと思うものかと。これは絆などではない。血で贖う契約なのだ。
ナイフのように鋭い眼光をあげて、帝王が冷たく微笑む。
「では、、聞かせてもらおうか。我々は一体どこの誰に手を出さなければいい?」
たったの五人。
ここに選ばれるか否かで、生死を左右される誰かがいるかもしれない。
そんな、馬鹿げたこと。
それでも、今のわたしにできるのは、これしか。
何十もの卑しい眼差しを一身に受けながら、サラザール・スリザリンの末裔・は、慎重に五つの名前を口に出した。