「じゃあ、行ってらっしゃい」
「うん。二時までには帰ると思うけど、先に休んでていいからね。明日も早いんだし」
「ええ、そうね。分かってる。それじゃあ、行ってらっしゃい」
「うん、行ってきます」

美しく微笑む彼女の唇にそっとキスをして、夜の静寂へと飛び出していく。ああは言ってもきっと、リリーはまた僕が戻るまで起きているんだろうな。彼女はいつだってそうだった。背中を向けて横になってはいても、本当に眠っていなければそれは息遣いで容易に知れる。それでも、ふたりでいることを誓ったのだった。離れていても、互いを思う気持ちを止められないのであれば。
彼女は一度だけ声をあげて泣いたが、あれ以来決して涙は見せなかったし、闇祓いや騎士団の任務で僕が家を空ける度、眩いほどの笑顔で送り出してくれた。けれど僕は、本当は不安ではち切れそうな彼女を知っている。それでも、ふたりでいることを誓ったのだった。彼女のためにこそ、強くなろうと。

「……あれ、アラスターは?」

待ち合わせの路地裏には、職場でも直属の上司であるアラスター・ムーディではなく、年齢を感じさせない凛とした立ち居振る舞いが印象的なドーカス・メドウズが腕を組んで待っていた。彼女は杖を仕込んでいるに違いないポケットに手を突っ込んだまま、横顔だけで小さく息を吐いてみせる。

「急に呼び出しがかかったんですって。まったく、わたしを過労死させるつもりかしらね?」
「そういえば、昨日も朝まで休みなしだったらしいね。ところで、リリーの誕生日に贈ってくれたワイングラスはオーストリア製だったかな?」

そちらにゆっくりと歩み寄りながら何気なく問いかけると、ドーカスは僅かに眉根を寄せて短く言い放った。

「わたしが贈ったのは白のフリージアでしょう?」

その答えを聞いて、ようやくジェームズは心からの笑顔を見せて彼女の傍らに立つ。芝居がかった仕草で両手を広げながら、告げた。

「気を悪くしないでよ。ムーディならこんなとき僕が何の確認もしなかったって知ったら」
「ええ、ええ、分かってるわよ。ただ今夜も徹夜かしらと思うと少しイラッとしただけよ。あの男、わたしに睡眠は必要ないと思ってるみたいだから」
「まさか。ただあなたを最も信頼してるだけだと思うよ。こんなときに頼み事ができるのはあなただけだって」
「ええ、そうね。いつでも応じられるのは仕事もしてないわたしだけだって」
「そんな捻た言い方をしなくてもいいじゃないか。彼があなたを信頼してることに変わりはない」

言うと、彼女は拗ねた様子で視線を巡らせたが、実際のところは満更でもなさそうだった。何だかんだで彼女はムーディのことが好きだ。結婚しないのはそのせいではないかとさえ思ったことがある。もちろん彼女は口が裂けてもそんなことは言わないし、ムーディはきっと彼女が自分を好いているなどと夢にも思っていないだろう。いや、ひょっとしたらこの世の中にそのような感情が存在することすら知らないかもしれない。けれども彼がドーカス・メドウズという魔女に全幅の    と言っていいだろう。ある意味ではダンブルドア以上に    信頼を置いていることは、騎士団の人間であれば誰もが知っていた。

「行きましょう。ディーダラスから連絡があったの。今、リッチモンドの家を張ってると」
「リッチモンド? でも、それはあの事件の被害者じゃ    
「自作自演かもしれない。とにかく、行きながら話すわ。あなたの後にはシリウスが来ることになってる」
「ああ、聞いてるよ」

ジェームズは明日も早朝から仕事が入っているので、騎士団の任務は夜のうちにシリウスと交代することになっていた。シリウスは卒業前からすでに決まっていた闇祓いの仕事を蹴り、騎士団の任務に専念しているからだ。だが半年が経過した今でも、の行方は依然として掴めないままだった。

(一体どこにいるんだ、……)

あいつがくしゃくしゃになった一枚の羊皮紙を掴んで駆け込んできたときのことが、まるで昨日のことのように思い出される。ふたりの部屋に行き、魔法省で状況を詳しく聞き出し、シリウスと手分けしてホグワーツ時代の旧友を訪ねて回った。どんな些細な情報でもいい。だが、卒業後の彼女を知る者はひとりとしていなかった。

(当然か。あんな手紙を残していなくなったが僕らの思いつく誰かに連絡を取るはずがない)

それでも、もしかしたら    その微かな望みに賭けたのだ。しかし彼女の痕跡を、たどることはできなかった。なぜ、どうしてなんだ、

シリウスは頑なに否定した。彼女が自らの意思で自分の前から姿を消したなんて。だがジェームズは、あの書き置きが彼女の残したものだと信じていた。部屋には争った形跡がなかった、手紙の筆跡は彼女のものであり、無理に書かされたような乱れもない。そんなことではない。あれはの書いたものだ。あいつを愛する彼女が自ら考え、したためたものだ。
短い手紙だった。だがその一文一文に、シリウスを思う彼女の優しさがにじみ出ていたから。あいつだって、そのことを心のどこかで感じ取っているからこそあの手紙を捨てられないのではないか? ただ、信じたくはないだけ。そしてジェームズは、親友にそのことを無理やり認めさせようとはしなかった。を心から愛するシリウスにとって、あまりにも残酷な事実だ。僕だって、彼女がもし本当に自ら進んで行方を晦ませたのだとしても、いつの日か再び僕たちのところに戻ってきてくれると信じていた。だから。

(だから……絶対に見つける。君が自分じゃ出てこられないっていうなら、何があったって僕が必ず見つけ出す)

だって君は約束したんだ。シリウスと一生を共にすることを。僕がどれだけ心の底から安心したか、君は知っているのか? 僕の両親だってその吉報をまるで我が子のことのように喜んだ。シリウスの幸福は僕の幸福だし、シリウスの痛みは僕の痛みだ。を失ったあいつの喪失感は、きっとそのまま    ではないにせよ    僕の胸の内にもある。
君は想像したことがあるか? 自分が消えたあとの僕たちの気持ちを。リリーは君のことを、まるでもうひとり妹ができたみたいだと学生時代からしばしば僕に話したものだ。彼女がたった一度だけ声をあげて泣いた、その涙が君のためのものだったことを知っているのか? 君は自分という存在が僕たちにとってどれほどのものか、ほんの少しでも考えようとしたか?

彼女が『あの人』    いや、ヴォルデモートに狙われているということを聞いて、正直、驚いた。そのことで彼女がずっと悩んでいたと、そんなことにも気付けなかった自分が本当に恥ずかしかった。七年も一緒にいたというのに、彼女はただ、卒業そして将来のことを思って沈んでいるとばかり思っていた。あの日本旅行からリリーと付き合うようになって、舞い上がって。僕は掛け替えのない友達の変化にも気付けなかったのだ。
だから彼女からそのことを打ち明けられたとき、僕は心に決めた。そばにあることが当たり前なものなんてどこにもない。大切なものを、大切にできる人間になろう。リリーだけじゃない。僕には家族、友達……大切な人たちがたくさんいる。そのすべてを守り抜くことはできなくても、彼らを日々大切に思える人間になろう。支えてくれることへの感謝を忘れず、その変化に敏感でいようと。そしてリリーへの思いもまた再確認したのだ。
の失踪は、そんな矢先の出来事だった。

「ご苦労様、代わるわ。中の様子はどう?」

さほど広くもない一軒の家を囲む茂みに身を潜めるディーダラスとベンジーに近付いて、ドーカスが尋ねる。ジェームズは振り向いたベンジーに暗闇の中で微かに笑いかけてから、上着越しに胸元のお守りを握り締めた。の情報を持つ人間があの中にいるかもしれない。今や望みは、敵の中にしかなかった。

present to the mind

きっかけ

ロジエールに渡された小振りのリュックに最後の荷物を詰めて、は無機質な部屋の中をぐるりと見渡した。壁に貼りつけたカレンダーによれば、この屋敷に住み着いてすでに四ヶ月が経過している。それが長いのか短いのか、にはよく分からなかった。時間の流れを感じられないほど彼女は長く地下に閉じこもっていたし、顔を合わせる人間もごくごく少数に限られていたからだ。研ぎ澄まされるどころか、あらゆる感覚が麻痺していくような気がした。脳裏に、あの人の静かな声が木霊する。

(余計なものは入れるな。必要な神経だけを研げ)

外部の喧騒を離れ、落ち着いた環境の中でただ『夢』を見ることだけに専念しろと。だがそればかりではないだろう。魔法省、そしてダンブルドアが、行方を晦ませた彼女のことを探しているのだ。今や最後のひとりとなった『夢見』を、決して人目に触れないようにと。ほとんど軟禁状態だった。だが彼女はそのことに同意している。自分自身も、外に出ることが怖かった。
黒いセーターの上から左の前腕をきつく    それこそ引き裂かんばかりに掴み、歯がゆさに唇を噛む。あの男が悪いのだ。すべて、人の人生を翻弄しても厚かましく正面に立ってみせたあの男が。だからわたしが、思い知らせてやる。自分の為すことはすべて正しいのだと信じるあの男に。

あの日、トランクを引きずったが姿現ししたのはマグルの大通りを少し奥に入った薄暗い裏路地だった。そこに待っていたロジエールは、本物の(、、、)ロジエールであることを瞬時に知る。なぜなら、ほんの数時間前に会っていた実際の(、、、)ジェネローサスは、彼のすぐ傍らに、彼自身の姿を    もっとも、その姿さえ自分の知らない誰かのものだという可能性もあるが    とって立っていたからだ。彼はやはりあのいけ好かない笑みを浮かべ、ロジエールの一歩手前へと進み出る。

「よく来たね、。待っていたよ」
「そんなことより、いいの? あなたは自分の顔じゃ外に出られないんでしょう」
「ご心配なく。ここはマグル街だ、目立った特徴もない。オーラーの巡回地域として、優先度はかなり低いほうだよ。主人の大切なプリンセスをお迎えするんだ、今回ばかりは素顔で会うのが礼儀だと思ってね。つけられてはいないだろう?」

それには答えず、は腕を組んでこれ見よがしに脇を向いた。彼の芝居がかった物言いがひどく気に入らなかった。だが気にした様子もないジェネローサスを横目に睨みつけて、低く告げる。

「わたしは、あなたたちを信用したわけじゃない」

ジェネローサスは目を細めてニヤリと笑い、畏まったように軽く腰を折ってみせた。

「もちろん。これは契約だ。共に手を組み、それぞれの目的を達するための。その後で君が何を決断しようと、我々の関するところではない。心得ているよ」

へつらうようでいて、実際はあっけなく突き放している。彼の態度は気に入らなかったが、同時にそれがある意味では心地良くもあった。最愛の人たちを捨てた自分には、その程度の処遇が相応しい。
すでに薄れつつある記憶の中で自嘲気味に笑うと、部屋の外でバチンという音がして続け様に甲高い子供のような声が聞こえてきた。

様、ジェネローサス様がお見えです。準備が済んだら厨房に上がってくるようにと」
「分かった。すぐに行くと伝えて」
「畏まりました」

身体が、重い。いつだってそう。だが、こんなところにいつまでもうずくまっているわけにはいかない。わたしは自らこの道を行くことを決めたのだ。その後のことは    今考えたところで、詮無い。『今』、できることをするだけ。
は魔法で容量を広げ、軽量化したリュックを左の肩にかけ、すでにカーラの消えた廊下へと踏み出した。静かすぎる通路を、足音ひとつ立てずに前へと進んでいく。それはまるで無人かと思えるほど広いこの屋敷の中で、自然と身についたことだった。
キッチンにはやはり、手前の椅子に腰かけたジェネローサスと、そこから少し離れたところに背中を向けて座るロジエールと。は何も言わずにテーブルを挟んでジェネローサスの向かいに荷物を下ろした。彼もまた小さなリュックをひとつ、荷物はそれだけのようだった。

「こんばんは、。約束の日だが、準備はいいかな」
「ええ。いつにしたって気が進まないのは変わらないから、いつでもいいわ」

こちらがどれだけの皮肉を口にしても、ジェネローサスはまったく意に介さない。それでも、言わずにはいられなかった。いつかこの男の喉元にも、杖を突き刺してやることを夢見て。ジェネローサスも、当然そのことには気付いているだろう。そのときはたとえ『敵』になるとしても、今は狂おしいほどのこの憎悪を押し込んで、手を組むことを決めたのだった。ごめんなさい、フィディアス。ごめん……。

「では、長居は無用だな。留守は任せたぞ、エバン」
「はい。くれぐれも、お気をつけて」

声をかけられたロジエールはすかさず起立し、恭しく一礼した。ロジエールはの見る限り、普段はのろのろと覇気がなく、『由緒ある家を後世へ引き継ぐ』ために一体何をしているのか、そもそも本当に具体的な何かをしているのかすら定かではなかったが、今は離れに住んでいる両親や、ときどきこうして屋敷を訪れるジェネローサスに対しては、驚くほど真摯な態度を見せることがあった。これが背負うものを背負った人間の、あるべき姿なのか。いつか彼の語った、彼らにしか分からない痛み。シリウスの、痛み……。
だがそれは、誰もに言えることなのではないか? わたしの痛みだって、あんたに分かるわけがない。大切なものを捨てなければならなかった、わたしの気持ちなんて。そうさせたのは、あの男だった。

「姿現しに自信はあるね?」
「ええ……人並みには。まさか、姿現しで日本まで?」

三人で玄関口へと向かう途中、は平然とそんなことを聞いてきたジェネローサスに早口で問い直した。彼は振り向きもせずに鼻先で笑ってみせる。

「他にどんな方法が? 君の実家に煙突飛行が繋がっていたのは一時的な特別措置だと当然知っているね? 移動キーは省の厳重な管理下にあり、未承認のキーは察知される可能性がある。それとも、箒で九千キロを渡るかい? なかなか楽しい旅路になるだろうね」

彼にしては珍しい皮肉を受け、は目線を落としてそのまま口を噤む。ジェネローサスは正面玄関の手前で足を止め、ようやくこちらに向きなおって淡々と言葉を続けた。

「まずは君の故郷に向かう。誘導してほしい」
「……それは無理よ。知ってるでしょう、あの町はわたしたちの魔法がうまく作用しないと。そんなところに姿現ししようと思ったら、それこそ『ばらけ』どころじゃすまないかもしれないわ」
「知っているよ。言ったはずだ、だから我々は君を見つけることができなかったと。君の町に直接、ではない。まずは近隣の町に下りる。そこからはマグルのやり方で移動すればいい」
「………」

非常に、気が進まなかった。この男を、父と暮らした故郷    シリウスたちと最後の夏を満喫した町に、連れて行くというのは。侵させたくはない、領域だった。

「……心当たりがあると、言ってたわね。まずはそこに行ってみたほうが手っ取り早いと思うけど」

駄目元で、提案してはみたが。ジェネローサスはこちらの意図などお見通しとばかりに愉快そうに目を細めた。

「生憎だが、スタート地点は君の故郷だ。これは動かせない」
「どうして? 心当たりがあると言ったのはあなたよ。勝算があると」
「ああ。勝算はある。だが、言っただろう。わたしは日本のことは何も分からないんだ。取っ掛かりとして、まずは君の故郷に足を運ぶ必要がある」

疑わしげに眉をひそめるを見返して、ジェネローサスはあっさりと補足してのけた。

「ダンブルドアが、我々の推測できるような場所に君たちを送ったとは考えられない。だが、人間の発想というものはまったく無関係なところから生まれたりはしないものだ。とりわけ、それほど強力なパワースポットであれば候補地は限られていたはず。から得た情報を基に日本の史料を遡れば、君たちのルーツにかなり近いところまでたどれるだろうと確信している」

にはジェネローサスの計画が途方もなく果てしない作業に思えた。そんな曖昧なもののために、憎むべきこの男とふたりで旅に出ようとしているのか。考えただけで気が遠くなる。だが彼は、あくまで正気のようだった。それとも、それほど確かな情報を母から得ていたとでもいうのだろうか。

「……分かった。やってみる。但し、約束は守ってもらうわ」

声を低めて、念を押す。ジェネローサスは一瞬不可解そうに眉根を寄せたが、すぐに思い当たったように、

「ああ。我々は契約を結んだ。約束は守る。今回の目的は『夢見』としての君のルーツを探ること、それだけだ」

信用などしていない。この男はすべてが演技で塗り固められている。だがは何も言い返さず、浅く通したリュックの紐を肩にかけなおした。横目でジェネローサスを睨み付け、吐き捨てる。

「『ばらけ』ても知らないわよ」
「信頼しているよ、

彼はそれを、気楽に口にしただけなのだろうが。
一瞬、呆けたように目を見開き、はごまかすようにジェネローサスの前へと進み出た。ふたりに背を向けたまま、素っ気なく捲くし立てる。

「早く掴まって。いつまでもこんなところでグズグズしてても仕方ないでしょう」
「そうだな。では、エバン。を借りていく」
「もともとわたしの所有物ではありませんから。収穫を期待しています。お気をつけて」
「ああ。責任を持ってここまで連れ帰るよ。問題があれば連絡する」

そう言ったジェネローサスが、後ろからの右腕を掴んだ。強くもなく、弱くもなく。だからどうというわけではない。わたしはただ、三つの『D』    すなわち、どこへ、どうしても、どういう意図で、を強く意識するだけでいい。余計なことは考えなくていい。

(この人が誰に似てたって……関係ない。彼とは所詮、違う人間なんだから)

父と暮らした日本の故郷へ、どうしても、わたしのルーツをたどるため。それがわたしの目的を果たすために、どうしても必要だから。

(信用なんかしてない。わたしたちはただ契約を交わしただけ。それ以上でもそれ以下でもない)

それなのに。
不意に、涙がこぼれそうになったのだ。信頼していると言って彼が見せた笑顔    それがほんの一瞬だけ、意地悪く笑う彼の弟に見えて。わけの分からない感情で、胸が潰れそうになった。
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(10.05.07)