「ダンブルドアの話、何で教えてくれなかったんだよ」
「え? だってあの後すぐお前のとこ行くって言ってたし。何でそんなこと気にするんだ?」
「……別に」

素っ気なく返して、シリウスは傍らの親友から大仰に目を逸らした。たとえジェームズにだって、言うものか。が俺以外の誰にも打ち明けなかったというのなら、それをどうしてこの俺が口外したりする。俺だけが知っていればいい。ダンブルドアの醜さなんて    ジェームズたちは、知らなくてもいい。

「二階よ。どうぞ」

夜の十時を回り、混み合った店内を慌しく行ったり来たりしながら隣を横切ったロスメルタが囁いた。振り向いたときには、女主人の緩やかな曲線美はすでに大声を出さなければ届かないほどに遠ざかっている。脇のジェームズに小突かれ、シリウスは彼と急いで奥の階段へと向かった。
そういえば、はマダムのことになるといつもふて腐れた顔をしていたっけ。学生生活も終わりのほうになると、そんな『振り』をしてみせる程度には余裕を持つようになったが。馬鹿だな。マダムは確かに「大人の色気」ってやつを分かりやすく体現した女性だが、だからといってが気にするような存在ではなかったのに。だがそれも、今となってはすべてが    

と別れの挨拶に訪れてから、まだ一ヶ月しか経っていなかった。こんなにも早くホグズミードに戻ってくることを、一体誰が予測しただろう。二階の右手にある部屋は、聖マンゴにフィディアスを見舞うため、彼女とふたりで暖炉を借りた部屋だ。あのあとはマクゴナガルに大目玉を食らって、楽しみにしていたダンスパーティーにも行けなくなって。そのドアノブにジェームズが手を伸ばした、そのとき。

「……ジェームズ? もしかしてジェームズか?」

扉が内側から開き、顔を覗かせた痩せ型の男がジェームズを見て素っ頓狂な声をあげた。ジェームズもまた我が目を疑うかのように、無遠慮に相手の顔を凝視しながらつぶやいた。

「ベンジー? え、な、何でこんなところに?」
「それはこっちの台詞だ。いや、まさか……君も、ダンブルドアに誘われて?」
「え! ベンジーも?」
「ベンジー。そんなところに突っ立ってないで、誰か来たなら中に入れて」

上擦ったジェームズの声に覆い被せるようにして、部屋の中から落ち着き払った女の声がした。ベンジーと呼ばれた中年男は軽く舌を出してから、こちらが通れるように一歩脇に避ける。さして広くはないその部屋にすでに集まっていた十数人の魔法使いが、一斉にシリウスたちのほうを見た。

Mr. and Mrs. Nipher

アルバニア、再び

「ブルーノ? いるの?」

珍しい。いつもは九時を過ぎないと帰ってこないのに。明かりのついた玄関口に入って後ろ手にドアを閉め、ニースは囁くように声をかけた。借りているのはさほど大きな部屋ではないので、四歩も歩けば突き当たる扉を開けばブルーノはすぐそこにいるはずである。脇のキッチンに買い物袋を置き、彼女はそのまま居間へと直行した。

「ただいま。今日は早かったのね。何かあったの?」

ワイシャツ、スラックス姿で死んだようにベッドに横たわるブルーノに歩み寄って、上から覗き込む。朝出かけるときにはきれいに整えておいた彼の黒髪は、今は枕の上で四方八方に広がっていた。しばらく頑なに閉ざしていた視界をブルーノはめんどくさそうに開き、大きな欠伸をひとつ漏らしながら長い指先で頭を掻く。

「ああ、おかえり」
「ただいま。ねえ、どうしたの? こんなに早いの珍しいじゃない」
「ああ……うん、まあ」

なんとも歯切れの悪い返事をして、ブルーノはのろのろと身体を起こした。首元のボタンを外したシャツはしわだらけ、頭の後ろにピンと立った寝癖からすると、それなりの時間、眠っていたらしい。まるでジェームズの髪型と同じだったが、ブルーノはもともと彼ほどに癖のある髪質ではないし、出勤前には毎日きちんと魔法で整えていく。それを軽く手ぐしで落ち着かせてやりながら、ニースはベッドの縁に腰を下ろした。

「食事は? スープでいいならすぐ作るわよ」
「いや……帰りにすませてきたんだ。すまん」
「あなた、一体何時に終わったのよ」

時刻は夜の七時半、ニースの通常通りの帰宅時間である。部屋に戻ってからシャワーを浴び、簡単な食事を作って……そうしている間に、いつもくたびれたブルーノが帰ってくるのだ。ブルーノの母親は、息子と結婚するのなら仕事になど就かずに夫をサポートしろというスタンスだったが、ブルーノは彼女には自分の夢を追ってほしいのだといって母親と口論したし、ニースはいくら持病持ちとはいえブルーノを過保護にすべきではないという点で彼の父親と意見が一致していた。そこでとうとう母親は折れたのだが、食事には何よりも気を配るようにと厳しく言い含められたので、ニースは二日に一度は必ず野菜たっぷりの汁物を作ることにしている。

ブルーノはしばらくぼんやりと自分の手元を見ていたが、やがて大きく息を吐いて重々しげに口を開いた。

「あのさ……今日の仕事、どうだった」
「え? どうもこうも、いつも通りよ。こんな時代だもの、客足は遠のく一方だし。今日も午後に二十人も来なかったのよ、フローリシュ&ブロッツに客がいないなんて光景は異常だわ、そうでしょ?」
「ああ、そうだな。この国はおかしい。しばらく離れてみるのもいいかもしれない」

ぽつりと漏らしたブルーノの一言に、ニースははたと動きを止める。彼は逃げるようにして目線をさり気なく反対側へと落とした。前のめりになってそちらに回り込みながら、ニース。

「それ、どういう意味?」

だがブルーノは頑なにこちらの追及を逃れようときょろきょろ視線を迷わせ    ようやく、観念したようにもう一度息をついて控えめにニースを見た。悪戯を見つかった子供のような目だった。彼はしばしばこれをやる。些細なことから、それこそ何日も口を利きたくなくなるような腹立たしいことまで。

「……シュコドラに、戻ることになるかもしれない」

シュコドラ。確か、ブルーノが研修生としての一年を過ごしたアルバニアの町だ。それを聞いて反射的に眉間に力を入れると、彼は途端に青くなって心持ち身体を引いた。その隙間を許さず、ぐいと身を乗り出しながらニースはそのまま声を荒げる。

「どういうこと? 戻るってまさか向こうで暮らすってことなの? これからはずっとロンドン勤務だって言ってたじゃない。わたしがロンドンで就職するって言ったら喜んでくれたでしょう?」
「それは……もちろんそのつもりだったが。状況が変わったんだ、アルバニアのマグル政府が実質的な鎖国体制に入った。俺たちの調査にも当然影響があると思う。そこで研修時にマグル対策に当たっていた人間を何人か向こうに送るって方向で話が進んでるらしい。今日早く帰された人間は、その筆頭候補だと……まだ噂の段階だが」
「……そんな。上から正式に話があったの? わたし、そんなの嫌よ。やっとこれからだっていうのに……わたし、今の職場が好きよ。確かにダイアゴン横丁はすっかりさびれて、すごく寂しいところになったけど……でもわたしは、離れたくない。ねえ、そんな話が出ても断れるでしょう? わたし、もうあなたと離れるのは嫌よ」
「俺だって嫌だよ。お前と離れることは……考えてない」
「だったら    

思わず涙声で捲くし立てた彼女の肩を掴み、ブルーノがときどき見せる真摯な眼差しで覗き込んできたので、ニースは次の言葉を飲み込んで縋るように夫の黒い瞳を見た。一呼吸を置いて、ブルーノが静かに話し出す。

「ニースがお父さんの口利きで今の職場に入ったことは知ってるし、店長がお前のお母さんのファンでニースの面倒すごくよく見てくれてることも知ってる。一生働くつもりでフローリシュ&ブロッツに入ったって。でも……本当は心配だ。こんな世の中だ、仕事になんか出したくない。それにダイアゴン横丁は……リンドバーグのこともあるし」

リンドバーグの事件はニースもよく覚えていた。たったの一年とはいえ彼は非常に印象に残る教師だったし、そして何よりにとってとても大切な人だった。彼のために最難関の癒者を目指そうと    それなのに。

「一生とは言わない。俺もそんなつもりはない。だが、ただでさえ行き詰ってる現状からしてマグルも完全な鎖国体制なんてそうそう長くは続けられんだろう。そうしたらまたこっちに戻ってこられる。それまで……一緒に向こうで暮らさないか? 帰ってくる頃には、この国も平和になってるかもしれない」

また逃げるの? そう、言いかけて    思い止まった。違う。彼はわたしのことを心から心配して。でも、慣れ親しんだこの国を離れることなんて考えられなかった。たとえ、すれ違う人々にさえ怯える、こんな時代だとしても。それでもこの国の人間として、逃げればすむという問題ではない。だって、わたしは。
今度はこちらが視線を逸らしながら、震える声で答える。

「……わたしは、いや。仕事のことだけじゃないわ。が……奴らに捕まってるかもしれないっていうのに、わたしだけ安全なところに逃げるなんてできない。わたしには何もできないけど……心まで離れたくはないから。は大事な友達よ、知ってるでしょう?」

すると、どういうわけか何れかのフレーズが彼の耳に障ったらしい。こちらの肩から手を外し、ブルーノは脇を向いて不快感を露わにした。

「『大事な友達』? ああ、知ってるよ。彼女が行方不明になって心配なのは分かる、当然の感情だ。でも……『大事な友達』だ? ジェームズも同じようなものなんだろう、そのジェームズがお前に何を話したか    こんな時代にさらに命を懸けろと」

一瞬、彼が何を言っているのかよく分からなかった。だが不意にその意味に気付いたとき、ニースの中に激しい怒りが膨れ上がった。勢いのままに怒鳴りつける。

「違うわ、ジェームズはそんな言い方しなかった! ただ友達として……わたしたちは、同じようにのことを心配してる友達だと認めてくれたから。だから話してくれたのよ、彼は決して強制なんてしなかった!」
「してるのと同じだ! 『強制はしない、でも自分は参加することにした、シリウスもリリーも』……お前にも入れと言ってるのと同じことだろう!」
「そんな風に聞こえたの? わたしには聞こえなかったわ、あなたはジェームズをよく知らないから」
「ああ、そうだな。俺はああいうお調子者が昔から好きじゃなかった。何でも自分が正しいと思い込んでる」
    この際あなたの心証は置いておいてもらえないかしら。この状況でわたしの友人を貶して何の意味があるの? わたしはこの国を離れるつもりはないって言ってるのよ!」

ブルーノの瞳は怒りとも悲しみともつかない色で揺れている。だがそれを見てもニースの気持ちは治まらず、磁石でも反発するようにベッドを離れて彼に背中を向けた。

「今日はこれ以上話したくないわ。ホテルでも行く」

部屋はワンルームなので、どうしても顔を見たくないという夜は出て行くより他にない。だが床に放り出したバッグを再び持ち上げて踏み出したところで、すぐさま追いかけてきたブルーノがやや強く腕を引いた。振り返らずに、

「話したくないって言ってるでしょ。今日はもう顔見るのもいや」
「なら見なくてもいい。でもこんな時間に出て行くのだけはやめろ    俺はキッチンにでも寝るから」

そう言ってブルーノは薄いブランケットだけを引きずって、言葉通りこちらに横顔すら見せずに居間を出て行った。ニースはしばらくその場に突っ立っていたが、やがて崩れ落ちるように先ほどまで彼が寝ていたベッドに倒れ込む。大好きな彼の匂い    それが今は、憎らしくてたまらなかった。
イギリスを離れなければならないかもしれない、仕事を辞めなければならないかもしれない。そんなことよりも、本心でないとはいえ一番大切な人に友人を謗られたことへの空しさと憤りとが身体中を蝕んでいた。ほんの数週間前、その友人がもっと遅い時間にここを訪ねてきたときのことを思い返す。

(こんな時間にごめん。でも大事な話があって来たんだ。ブルーノにも一緒に聞いてほしい)

ジェームズが何の前触れもなく新居に現れた時点で、ブルーノは穏やかならざる表情をしていたが    もともと彼がジェームズに対してそこまで好意的でないことはニースも知っていた    よほど重大な話なのだということは彼の目を見るだけで分かったので、ブルーノも彼の入室を拒むことはなかった。
あのとき、この部屋で。

(僕はを探し出す。彼女が連中にさらわれたんだとしても    自分からいなくなったんだとしても)

まるでが自らシリウスの前から姿を消したということを、疑っていないかのような口振りだった。

(僕は闇祓いとして、騎士団の一員として、何よりの友達として、彼女を利用しようとしてる連中を許さない。それだけじゃない。省と騎士団のために働くことが結局は家族を守ることにもなるんだ。リリーのためにも、この先生まれてくる子供のためにも。僕は最後まで戦うことにしたよ)
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(10.04.19)