「……今、なんて言ったの」

喉の奥から、冷水が伝ってそのまま心臓へと流れ落ちるような。微かに肩を強張らせて問いなおすと、木のテーブルを挟んでちょうど正面に腰かけるその男は、にこりともせずにまったく同じことを繰り返した。

「君を連れて日本に行く。二日後、十三日の夜までに支度を済ませておくように」
「ちょっ……待ってよ。何がどうして、そんな    
「予見者としての『夢見』。それは確かに実在する力だと、わたしも、そして帝王ご自身も信じている。だが、いつ見ることになるかも分からない不確かなものを、何もせずにただ延々と待っているのは愚かだ。これまでに可能なだけの資料は揃えたつもりだが、君は未だ新たな予言を得るには至っていない。どうすれば、我々はアルバス・ダンブルドアを    省を落とすことができるのだ?」

淡々と語るジェネローサスを苦々しい思いで睨み付け、は握ったスプーンを手元の平皿に乱暴に突っ込む。反動で中のオートミールがいくらか飛び散ったが、屋敷の主であるロジエールは同じ長テーブルの少し離れた席で、何事もなかったかのように新聞を繰っただけだった。

「仕方ないじゃない。夢は、見たいときに見たいものを見られる、そんなお手軽なものじゃないのよ」
「だからこそ、我々は努力すべきだ。のときは、ただ待っているだけだった。同じ過ちを繰り返すほど帝王は愚かではない。そこでわたしが君を日本へ連れて行くことをお許しになった」

さも当然のように言ってのけるジェネローサスに、は目眩を覚えてぐったりとテーブルに肘をつく。そうして項垂れている間にも、彼は声の調子を変えることなくさらに先を続けた。

「日本は、『夢見』としての君の能力が由来する国だ。そこに行けば何らかのインスピレーションを得られるかもしれないし、イギリスでは入手できない資料も参照できるだろう。足を運ぶ価値はあると思うね」
「……そんな。わたしは何年も日本にいたのよ。でもだからって特別なことなんか何もなかった。あなたの言ってることこそ不確かだわ。日本だって広いの、それをどうやってわたしに関係ある土地を探すっていうの?」

だが食ってかかったを見返して、ジェネローサスは意外にもにやりと笑ってみせた。嫌な汗が、じとりとの額を湿らせる。彼は、テーブルの下で足を組み替えたらしい。僅かに胸を反らして、告げた。

「幸い、心当たりがある。といっても、日本はわたしにとって馴染みのない国だ。君の案内を請わねばならない。もちろん、協力してくれるね?」

はそれには答えず、オートミールの平皿をぞんさいに脇に押し退けて、聞いた。

「心当たり?」
「ああ。はわたしにいくつか情報を与えてくれていたのでね。それらを向こうの資料と照らし合わせて考えれば、範囲はかなりのところまで絞れるのではないかと思う。何にせよ、このままこんなところに閉じこもっていたところで事態は好転しない    いや、君の配慮には感謝しているよ、エバン」

自分の家を「こんなところ」と言われて気分を害したのではないか。ジェネローサスがそのようなことを気にしていたのだとしたら、思い過ごしだ。ロジエールは口角を少し上げただけで、こちらをちらりと見もしなかった。だがジェネローサスも、本気で心配したわけではないらしい。すぐに意識をへと戻し、言葉を継いだ。

「わたしと一緒に来るんだ、。君は魔女として、そして『夢見』として最善を尽くすことを誓った。我々の提示した可能性には従うべきだ。勝算はある」

は反射的に吐き出しかけたものを飲み込み、何拍かの呼吸を置いてからゆっくりと口を開いた。

「……あなたとふたりで、日本旅行? 仮にもわたしが女だってこと、忘れてるんじゃないかしら。ちょっとデリカシーに欠けてるとは思わない?」
「忘れてはいないよ。君は紛うことなく魅力的な女性だ。だが、わたしが帝王の大切な血縁に手を出すとでも? それでも不安だというなら他に女性を同行させてもいいが    はっきり言って、あのお方が君を任せられると考えている人間はわたし以外にいない。ベラトリクスは君のお気に召さないだろう?」

覚えのある名前を聞かされて、は隠しもせずに顔をしかめる。答える代わりに、叩きつけるような心地で咄嗟に切り返した。

「彼女が気に入らないのはあなたのほうでしょう」
「そんなふうに見えているとしたら、それは彼女がわたしをそのように見ているからだろうな。わたしは彼女に対して取り立てて何も感じてはいない。確かに美女には違いないが、あの手のタイプはわたしの趣味ではない」

そんなことを言ってるんじゃない。だがジェネローサスも、分かっていてはぐらかしたのだろう。彼は右手のロジエールをちらりと横目で一瞥し、あっさりと聞いてきた。

「もしくは、エバンでもいいが?」
「冗談でしょう。ひとりで済むものにふたりが関わる必要はない。こう見えても暇じゃないんですよ」

やはりどれだけ素知らぬ顔をしていても、こちらのやり取りは細部までしっかりと聞いているらしい。ほとんど間も置かずに返してきたロジエールに、ジェネローサスは初めて顔ごと向きなおって呼びかけた。

「ちょうどお前と同じ年だったときの俺よりはずいぶん暇そうだ」
「オーラーでしょう? 暇なわけがないじゃないですか。それとは別種の問題がいろいろと山積みなんですよ」
「俺もだ。このあとも片付けなければならない仕事がいくつかある。だが俺は日本に行くぞ」

言って、ジェネローサスは椅子の上で必要以上に身体を捻って背もたれに体重の大部分を預けた。だがその鋭い眼差しはまっすぐにを捉えて逃さない。逃げ出したくとも、まるで縫い付けられていた。

「何でもいい。とにかく、わたしと一緒に日本に行くように。十三日の夜、迎えにくる。もしかしたら、何週間か滞在することになるかもしれない。それなりの準備をしておくように。誓って君には手を出さないよ」

for their own cause

大義

「具体的に、話してもらえませんか」

シリウスは相手の意図を探ろうとしばらくじっとその青い瞳を見ていたが、せいぜい冗談ではないのだということくらいしか分からなかったので、潔く口に出して聞いた。もっとも、端からダンブルドアがそのような冗談を言うためにわざわざ訪ねてきたとは思っていなかったが。
うむ、といって少し考え込むように視線を落としたあと、ゆっくりと顔を上げてダンブルドアが語り出す。

「今この国で起こっていることは知っておろうな? ヴォルデモート卿を名乗る闇の魔法使いが、マグルやマグルボーンの魔法使いらを排斥し、魔法族のための魔法族による国造りを進めようと目論んでおる」

ヴォルデモート。その名を知らなかったわけではないし、恐れているわけでもない    ただその響きのおどろおどろしさに、自然と口にするのを躊躇っていただけだ。誓って、それだけだ。膝の上できつく拳を握り締めて、うめく。

「……僕の叔父が、殺されました。フィディアスも……リンドバーグも奴らに襲われて」

するとダンブルドアは、奇妙な表情を浮かべたように見えた。だがそれは、錯覚だったのかもしれない。瞬きを挟んでもう一度目を開けたときには、ダンブルドアは深刻な面持ちで小さく吐息したところだった。

「フィディアス……ああ、とても賢く、非常に勇敢な男じゃった」

    だった、なんて。それでは、フィディアスがまるで。胸中ですら口にするのは憚られて、シリウスは苦々しく唇を引き結んだ。溜め込んだ息とともに、掠れた声を吐き出す。

「……奴らが、のことずっと狙ってたって。のお母さんも……奴らとのことが、あったから。先生は全部、知ってたんでしょう」

ダンブルドアは、確かに揺らいだ瞳を不意に瞼の奥に覆い隠した。こんなにも歯切れの悪いダンブルドアを、シリウスはこれまでに見たことがなかった。アルバス・ダンブルドアは、ホグワーツの校長として    いや、それ以上に何らかの象徴として、常にそこ(、、)に堂々と存在しているような気がしていたのだ。その絶対的な何かが、自分の中でがらがらと音を立てて崩れ落ちていくのを感じた。
の抱いていたものは、ひょっとしてこれだったのだろうか。だとしたら……自分は彼女の何も、分かっていてやれなかったということになる。俺の弱さも、痛みも、彼女はすべて抱き留めてくれたというのに。

ダンブルドアは、微かに俯いたままひっそりと言葉を紡いだ。

「その通り、わしはすべてを知っておった。そのことを、いつ彼女に打ち明けるべきかと何年も悩み続けた」
    だからとお父さんの記憶を必要以上に消したことも、それをたちに黙ってたことも正当化されるっていうんですか」

目を見開いたダンブルドアの表情は、それまでのものとははっきり異なっていた。まるで雷にでも打たれたような顔をして言葉を失っている。そのことにかえって面食らい、シリウスは目を瞬いた。
恐る恐る、といった様子で、ダンブルドアが聞いてくる。

「一体、誰がそのようなことを?」
「違うんですか。は、マクゴナガル先生から聞いたと言っていました」
「……そうか、ミネルバが。そうか」

疲れたように目を伏せるダンブルドアを見て、シリウスの中に初めてその老人に対する怒りが込み上げてきた。彼女の言っていたことは本当だったのだ。あのときどうして、信じてやらなかったのだろう。いや、疑っていたわけではない。だが、何かの間違いではないかと思ったのだ。あのアルバス・ダンブルドアが、勝手に誰かの記憶を奪ってそのままにしているだなんて考えられなかった。しかし今や、その信念は呆気なく崩れ去った    ダンブルドアは、否定しなかった。
そんな身勝手な真似をしたあんたに、そんな顔をする資格なんかない。

「何で記憶を消したりしたんですか。たちに、何でほんとのこと話さなかったんですか」

ダンブルドアは相変わらず瞼を下ろしていたが、テーブルの上で組んだしわだらけの自分の手を見つめているであろうことは分かった。そしてひたすら沈黙を保っている。苛々と頭に血が昇り、声を荒げるために酸素を吸い込んだところで    静かにダンブルドアが、口を開いた。

「……どこまで、聞いたかのう。彼女の母親が死んだあと、わしと、他にも彼女から家族のことを任されておった者とで何度か話し合いをした。そして我々は、彼らに真実を伝えないことに決めたのじゃ。『そのときは』、ということじゃ。彼女の夫は    つまりの父親は……お世辞にも芯の強い男には見えなかった。我々の偏見だったかもしれぬ。それでも彼が、妻の死の真相を知って取り乱さない保証などなかった。我々はそのことを恐れた……真実(、、)は、あまりにも残酷なものじゃ。もしも彼がそのことで正気を失ったとしたら、娘の面倒は誰が見る? 彼女にはこの先まだ何年も、親の庇護が必要じゃ。そこで我々は、彼らに本当のことは秘め……ただ彼らの身の安全だけを考えた。そして彼らを古くからの魔法に守られた日本の土地へ送ることにしたのじゃ。真実は……彼女が成長してから話せばいい、彼女ならば受け入れられるだろうと」
「記憶のことはどうなんですか。お母さんの記憶を何年分も消したんでしょう。そこまでする必要なかったはずだ」

即座に問い詰めると、ダンブルドアは再び黙り込んだ。煮えたぎる怒りが身体中でさらに温度を上げ、前のめりになったシリウスは拳でテーブルを叩きつけて怒鳴った。

「勝手なこと言うな! お父さんが真実に耐えられるかどうかなんてあんたに分かるもんか! あんたはお父さんを知ってたのか? 俺は知ってるぞ    お父さんは立派な人だ、強い人だ。が……いなくなったって分かっても……俺なんかよりずっと、しっかりしてて。お父さんならちゃんと受け止めたはずだ。それをあんたは勝手に……あんたにそんな権利あったのか。あるはずない、誰にも……そんなもんあってたまるか!」

だが続け様に罵声を浴びせられたダンブルドアは、それこそ不思議な表情をして視線を上げた。どこか悲しげで、それでいて懐かしんでいるようにも見える。場違いだ、ありえない    怒り狂ったシリウスの神経をさらに逆撫でするように、ダンブルドアは穏やかに言った。

「同じじゃな。フィディアスも、君とまったく同じことを言ってのけたよ」

不意を衝かれて、目を見開く。フィディアス。そんな……それじゃあ、まさか。

「そう。……の母親から家族のことを任されておった、そのうちのひとりがフィディアスじゃ。フィディアスと、当時、彼の妻だった魔女とがの後見人を引き受けておった。我々三人は、何度もたちの処遇について話し合った。フィディアスは彼らに真実を伝えて保護すべきだと主張し    それを、我々が妨げたのじゃ。氏に耐えられるとは、到底思えなかった。そのことが原因でふたりは別れた」

ダンブルドアはさらりと言ったが、シリウスの中でばらばらだったパーツが突然うまく組み合わさったような気がした。ベンサムはそのことでを恨んでいたのか。それで親友の娘であるはずのにあんな風に冷たく当たっていたのか。でもそれは、のせいじゃないだろ。彼女は被害者だ。を恨むなんて、お門違いもいいところだ…………。
ダンブルドアはそこでようやくいつもの調子を取り戻したように、再び静かに話し始めた。

「わしはヴォルデモート卿を知っておる。奴が水面下で動いているときから警戒はしておったが、次第に勢力を強めるにつれ、こちらも具体的な策を講じねばならぬと考えた。前魔法大臣のドナルド・ルースは国際魔法協力部の出身で外交ばかりに力を入れておったし、そして何より    ヴォルデモート卿に対抗できる魔法使いというのは、恐らくわしの他にはおらぬ」

そんなことを恥ずかしげもなく言ってしまえるのは、彼が実際にそれだけの力を持っているからだろう。だがシリウスは気に入らなかった。苛々と歯噛みし、眼前の老人を厳しく睨み据える。ダンブルドアは淡々とあとを続けた。

「そこでわしは信頼できる仲間に声をかけ、共にヴォルデモート卿の計画を挫くための行動を開始した。しかし、奴も非常に巧妙な手を使う。現魔法大臣のミリセント・バグノルドは我々の活動に協力的で、彼女自身も省内でヴォルデモート陣営との対立姿勢を明確にしておるが    如何せん、分が悪い。奴らはあるときは脅迫、あるときは巧みな話術、またあるときは服従の呪いによって着実に勢力を拡大しておる。蔓延る恐怖、不信……そのような負の感情は、心の守りを容易に弱めてしまうものじゃ。我々はより強い絆によって、それに対抗せねばならぬ。我々と共に戦ってほしい、シリウス」

シリウスは彼のなだらかな演説を、どこか残酷な嘲りでもって聞いていた。隠しもせずに失笑し、告げる。

「絆? あなたにそんなことが言えるんですか。の信頼を裏切って……俺たちは信じてたんだ。あんたがそんなことする人だなんて思ってなかった」

そして椅子を引き倒すほどの勢いで立ち上がり、荒々しく吐き捨てた。

「あなたに協力するつもりはありません。帰ってください」

しかし椅子にかけたままのダンブルドアは、落ち着いた様子で、決定的にこちらの心臓を揺さぶる言葉を。

「では、のことはどうするつもりかね。彼女がすでに奴らの手中にあるとすれば、の救出は我々にとっても最優先課題じゃ。そうでなくとも彼女の身の安全は守らねばならぬ。我々に協力してほしい。ひとりで当てもなく闇雲に探し回るよりも、共に力を合わせたほうが可能性はあると思わんかね」
「……闇雲じゃ、ない。ジェームズが闇祓い局にいる。何か情報があれば伝えてくれる」
「そのジェームズだが、彼は我々の活動に非常に好意的じゃ。力を貸すと約束してくれた」

さらりと放たれたダンブルドアの言葉が、シリウスの胸に深々と突き刺さる。苦々しさに拳を震わせながら、

「……あんた、ずるいよ。そんな卑怯な人だと思ってなかった」

驚いたことに、そこで初めてダンブルドアが恥じ入ったように瞼を伏せた。だがその姿を見ても、シリウスの心は決して安らがなかった。奇妙な居たたまれなさに、視線を落とす。

「そうじゃな。わしは人が思うよりもずっと卑劣で臆病な人間じゃ。それでも、自分が今なすべきことをなさぬことほど罪深いことはないと思うておる」

そのダンブルドアの告白は、あまりにも衝撃的なものだった。ダンブルドアが、卑劣で臆病? そんなこと……考えたこともなかったのだ。これまでは。
だが確かに彼は、そこに史上最高の魔法使いアルバス・ダンブルドアではなく、ただひとりの儚い老人の姿を見た。しかし瞬きを挟んで次に目を開いたときには、毅然と立ち上がったダンブルドアはテーブル越しにまっすぐシリウスの瞳を見つめていた。

「わしを信じよとは言わぬ。を愛する君にとって、彼女を欺き続けたわしはもはや信ずるに値せぬ人間じゃろう。だが不和の誘発に長けたヴォルデモート卿に対抗するには、我々はばらばらでいては弱いのじゃ。共に戦ってくれぬか、シリウス。わしのためではない。君の愛する者のためにこそ、そうしてほしい」

その眼差しの強さに、思わず息を呑む。そこには彼の知る    いや、知っていると思っていたあのアルバス・ダンブルドアの姿があった。先ほどまで燃え上がっていた怒りが、今は胸の奥底で燻っていた。
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(10.04.10)