アルバス・ダンブルドアがサザークに現れたのは、の失踪から一週間と経たないある夜更けのことだった。戸口に立ったダンブルドアはシリウスの顔を見て、何よりもまず「すまぬ」と言った。一瞬、意味が分からなかったが、チャイムとほぼ同時に玄関口に走った自分が来客の正体を知って落胆しなかったわけがない。少しでも期待させてしまったそのことを詫びているのだと気付いて、シリウスは力なく首を振った。

「……いいえ。それより、どうしてここを? 僕に、何か用ですか」
「ひとまず、入らせてもらって構わんかね。君に、大切な話があるのじゃ」

大切な話。あのアルバス・ダンブルドアが、俺に一体何の用があるというのか。学生時代、まともに話をしたことは一度しかない。それも、リーマスとスネイプの件で校長室に呼び出しを食らったあのときだけだった。ホグワーツ魔法魔術学校の校長、史上最高の魔法使い、『あの人』が恐れる唯一の人物……呼ばれ方は色々だが、どちらにせよ、どこかで遥か彼方の遠い存在だったのだ。だが同時に    いつかは来るかもしれないと、心のどこかで感じている自分も確かにいたような気がした。そのときぼんやりと、付け加えられた記憶だったとしても。

シリウスはさほど広くもない、だが彼女とふたりで暮らすために不快感を覚えなくてすむ程度には余裕のあるダイニングにその老人を招いた。もっとも、彼女と同じ部屋にいて嫌な気分になることなど、今はまだ想像もできなかったが。テーブルを挟んで、正面の椅子にダンブルドアと向かい合って掛ける。本当は、ここに今こうして向き合っているのはこの老人ではなく愛しいのはずだった。考えるだけで、胸が潰れそうだった。

「方々で、の行方を探しておるそうじゃな? 手がかりは見つかったかね」
「……いえ。省も手を尽くしてくれてるそうですけど……まだ、何も」

やはりダンブルドアは、知っているのだ。の失踪は公表されていないし、そもそも彼女が『あの人』に狙われていたことを知る人間すら少数である。シリウスもホグワーツ時代の学友を訪ねるとき、不本意ながら「喧嘩をしてが家出した」と嘘をついて彼女のことを聞き回っていた。一緒に住むってのは難しいことなんだぞ、何でもっと時間を置かなかったんだ、俺なんかその点うまくやってる、一昨日もディアナとホテルでな……というワットの惚気話を遮る気力すら、そのときのシリウスにはなかった。さすがにおかしいと気付いたらしいワットに、本当は他に何かあるのではないかと問い質されたが、逃げるようにして彼の家を飛び出し    それが、三日前のことだ。がたったの一週間で自分との暮らしに疲れて自ら行方を晦ませただなんて、考えたくもなかった。

「結婚するつもりだったと、聞いておる。彼女は君に、お母様のことも    『名前を言ってはいけないあの人』と呼ばれる魔法使いのことも、打ち明けたのじゃろう?」

何とはなしに俯いていたシリウスは、その問いを受けてゆっくりと視線を上げる。ダンブルドアの眼は穏やかだったが、シリウスは嵐の前の静けさを思わせるどこか不吉なものを感じ取っていた。それは彼女の抱いていた不安感を、生々しく思い出したせいかもしれない。お母さんのことも、『あの人』のことも、それに……。

「我々と共に戦ってくれぬか、シリウス」

SURPRISE CALLS

朝と昼と夜

身体が、重い。

目覚めた布団の中でだらだらと寝返りをうち、は時間をかけて澱んだ息を吐いた。部屋の中はまだ真っ暗闇だが、それが必ずしも夜明け前を示すというわけではない。ベッド脇のテーブルに手を伸ばして、その感触だけで杖を探り当てる。小さく明かりを点し、パチンと枕元の懐中時計のふたを開くと、時刻は十一時を回った頃だった。もちろん、正午前のことだろう。ここのところ、明け方の四時過ぎに眠り、十一時過ぎに目が覚めるというのが彼女のサイクルになっていたのだ。
しばらく、布団の中で何をするでもなく、次第に闇に慣れてきた目でぼんやりと天井を見上げる。地下室だというのに天井は高かった。もっとも、階段の段数から察するに、魔法でそう見せているだけという可能性も大だが。どちらにせよ、目に見えて圧迫感のある部屋よりは幾分もましだ。

今日は、夢を見なかった。

(……ほっとしてちゃ、いけないんだけど)

それでも、悪夢にうなされずに目覚めることのできた朝    とりあえず朝と言っておくが    、人知れず胸を撫で下ろす自分がいることを、否定することはできない。はさらにもうひとつため息をついて、ようやくのっそりと上半身を起こした。

「おはよう、。寝覚めはどうかな」
「……最悪よ。女性の寝室に無断で立ち入るのがあなたの作法なの?」
「これは参ったな。君の夢を把握するのもわたしの役目なんでね。調子はどうだい? 必要な資料があればこちらでも手配するが」
「結構よ。資料ならロジエールが揃えてくれるし、これまでの夢だって全部彼に報告してる。聞いてるんでしょう? わたしだって努力してるわ、そう急かさないで」
「わたしは気長なほうだがね」
「『気長』なあなたでももう待てないってこと?」
「短気はむしろ君のほうだ。さあ、食事にするだろう? キッチンにおいで、オートミールでもつつきながら話そう」

杖先に点る仄かな薄明かりの中、ドアの手前で踵を返したジェネローサスには口早に捲くし立てた。

「今日は何も見てないわよ。その話なら帰って。あなたの顔は極力見たくないと言ったはずよ」

それこそ、叩きつけるように。だが振り向いた彼は平然とした面持ちで軽く肩を竦めただけだった。

「それは残念だが、今日はその話ではない。いいから来なさい、あのお方はわたしほど悠長ではないんだ」

その言葉を聞いて、は咄嗟に身体を強張らせた。布団を掴んだ指先に思わず力を入れ、

「……あの人が、来てるの?」
「いや。君に余計なプレッシャーを与えないようにと配慮しておられる。だが、当然、だからといって君が努力を怠っていいことにはならない。君は契約を結んだ」
「分かってるわよ! 努力はしてるって    言ってる……でしょう」

反射的に声を荒げたが、言葉尻は擦れて力なく消える。努力はしている。そう、今夜は夢を見ませんようにと、無為な願いをかけながら。
は左の前腕をネグリジェの上からきつく握り締め、その下に潜むおぞましい印のことを思った。

「とにかく、手早く着替えてキッチンまで。この国を発つ前に済ませておきたいことがいくつか残っているんでね、ゆっくりはしていられないんだ」
「……どこかに行くの?」

ジェネローサスのすらりとした背中に、どうでもいい心地で問いかける。彼は首だけでかすかに振り向いたが、何も言わずに部屋を出て行った。
なぜか泣きたい気持ちになって、は冷たい布団ごと膝を抱えてうずくまる。だがジェネローサスの「手早く」という言葉を反芻し、涙がこぼれるよりも先にベッドを抜け出して部屋着を脱いだ。左腕の黒い刺青は見なかったことにして、さっさと長袖のシャツを着込む。わたしは好きでこんなところにいるわけじゃないし、あの生々しい髑髏を引き受けたわけじゃない。ただ、契約を結んだだけ。憎しみだけを繋ぎとした、浅ましい契りを。
は立ち並ぶ十字架のひとつを前にして膝をつき、静かに重苦しい息を吐いた。次は三人で、と約束したけれど。しばらくは、果たせそうにない。

「……罰が当たったのかな。君をひとりにしたから、最後にはこんな形で自分がひとりになってしまった」

彼女はこの街で生まれ育った。だからといって、彼女をひとりぼっちにさせていいはずがなかったのに。どうして、あんなにも愛した女性を置いてこの国を離れることができたのだろう。そのことだけは、何度思い出そうとしてもどうしてもできない。あのとき、自分はどうかしていたのだ。突然彼女を失ってしまったショックに、ただただ目の前の『真実』から逃げ出したいと    きっと、その一心で。目を逸らしても、それで彼女が戻ってくるわけではないのに。愛する人の死を受け止められないほど、自分はまだ子供だったのだ。

「もう、さんってほんとに子供なんだから」

不意に彼女の笑い声が聞こえた気がして、はっと顔を上げる。当然、そんなものは空耳に過ぎなかった。彼女はもういない。冷たくなったその頬に    震える指で触れたのは、もう十五年以上も昔のことだ。
彼女とは七歳違いだったが、好き嫌いの多い自分を彼女はよく「お子様」と言って笑った。そして限られた時間の中で、少しでも彼の偏食を直そうと料理に工夫を凝らそうとしてくれた。もっとも、彼女は魔法学校ではかなりの優等生だったようだが、料理に関しては頑張れば頑張るほど肩に力が入っておかしなことになっていたのだが。一番ひどかったのは、絶対に嫌だと主張したアボカドとイワシとタコを投入したピンク色のスープだった。どんな味覚をしているのか、がそれを嬉々として「お母さん最高!」などと絶賛したものだから彼女も調子に乗って……。

(……いや、待て、おかしい)

頭の奥に鈍い痛みが走り、はきつく目を閉じて息を吐いた。ときどき、こうして発作のように気味の悪い頭痛に苛まれる。夢にでも見たのか、あるはずのない記憶を思うとき。元気に駆け回る幼いと、その手を握って微笑むと。そんなはずがないのに。彼女が死んだのはちょうど二十歳のとき、が一歳の冬だった。

「病気、かもしれないな。今も、まだ心のどこかで……君と過ごせたはずの日々を思い描いて」

それでも何とかやってこられたのは、あの子がいてくれたからだ。あの子の笑顔は、彼女の笑顔だ。次第にその笑顔を失わせていったのは……他でもない、自分自身だっただろう。得体の知れない苛立ちに、当たってしまったことも一度や二度ではない。たったひとりで    娘とどう向き合えばいいか、分からなかったのだ。
それでもは、素直でまっすぐな女の子に育ってくれた。魔法学校に入ってからというもの、目に見えて表情が明るくなっていった。彼女もこうして笑っていたのだろうなと、君を思い返すことも増えた。

そしてあの子は    子供の頃からいつも傍にいてくれた、シリウスと。

「教えてくれ、。あの子はどこにいるんだ? 僕のことはいい、だがシリウスは……。わたしには分かる、あの子はわたしによく似ているんだ。不器用で、口下手で、周りとうまく協調できず。とても見ていられないよ。シリウスには、が必要なんだ。にもシリウスが必要のはずだ。それなのに、あの子はどこへ行ったんだ?」

どれだけ声をかけても、答えは返ってこない。彼女はそれだけ遠いところに行ってしまったのだ。もう、十五年も前に。分かっているんだ。それでも、こうして呼びかけることをやめられない。死ぬまで隣にいてほしかった。

白んだ空を見上げて、ゆっくりと立ち上がる。いつまでもこうしていても、何も始まらない。魔法省もシリウスも、みんなあの子のことを探してくれている。魔法使いではない自分には、彼らのようなやり方はできない。それでも確かに父親として、たったひとりの家族として自分にもできることがあるはずだ。いや、何事かを為す責任がある。

「必ず……今度はあの子と来るよ、

の入院やフィディアスの事件があったとき、ここに立ち寄りはした。だがと一緒に墓参りをしたことはない。次は三人で、と、約束したばかりなのに。
シリウスとの間に何らかの問題があったとすれば、それも仕方がない。わたしの何某かに嫌気が差して縁を切りたいと言ってきたのならば無理やりに連れ戻そうとは思わない。だが、話はしておきたかった。はわたしの、大切な娘だ。愛した彼女との、たったひとりの。残された家族。有耶無耶のまま、失いたくはなかった。彼女とのことのように    もう、逃げたくはないのだ。彼女を置いて日本に逃げ帰ったことを、わたしがどれだけ悔いているか。だからせめて、最後くらいは。一度くらいは。

(長い間、お世話になりました。わたしは遠くに行くことにしました。イギリスにきても無駄です、だから探さないでください。わたしのことは忘れて、日本で平和に暮らしてください。他の女の人と幸せになったって、お母さんももう怒らないと思います。だからどうか、幸せになってください。お元気で、さようなら)

先月、いつものように仕事先から帰宅すると一通のエアメールが届いていた。からの手紙はいつもムーンがくたくたになって運んでくるので、おかしいとは思ったのだ。突然の絶縁宣言    その少し前、結婚の報告にふたりして帰ってきたばかりだというのに。ほんの一週間の間に、娘の身に何が起こったのか。わたしはそれを知るためにきた。このままでは、死んでも死にきれない。他の女性と幸せになれと? 馬鹿な。今さら、他の誰かを愛せるとは到底思えない。縦しんば愛せたとしても、あの頃には唯一の利点だった若ささえ最早ないのだ。もう、傷付き、傷付ける関係など新たに築く気力はない。
わたしはを探し出す。最後の家族。そして向き合って話をする    わたしが望むのはそれだけだ。

研究者を目指していた頃はイギリスでジョージ・フォックスを専門にしていたので、もちろん宗教の勉強はそれなりにしていたのだが、自分自身が特定の宗教を信仰したことはない。だが彼女は母親がこの教会に勤めるクリスチャンだったため、ときどき十字を切って祈りを捧げることがあった。記憶の中のその動きを一度だけ真似てから、は墓石に背中を向けてひっそりと歩き出す。明け方のロンドンは心なしか薄ら寒かった。
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(10.03.17)