シリウス・ブラックは魔法省からの帰り道、何度か彼女とふたりで歩いた道を無意識にたどりながら進んでいた。今夜は空が明るい。ほとんど満ちた月が煌々と輝き、ささやかな都会の喧騒を黙って見下ろしている。卒業して初めての満月    もう、一緒に過ごしてはやれない。

何でこんなことになったんだ。薬指の指輪をなぞりながら、きつく唇を噛む。あのあと魔法法執行部の人間が何人かきて部屋を捜索していったが、彼らはが自らの意思で行方を晦ませたのだろうと結論付けた。馬鹿な。どうして彼女が出て行かなければならない。奴らに連れて行かれたんだ、こんなことをしている間に、早くを探してくれ。だが彼らは無慈悲に言い放った。現場に争った形跡はない、彼女の書き置きも、無理やり書かされたにしては筆跡に乱れが見られない。彼女の私物がほとんどきれいになくなっている。どれをとっても、彼女が自ら進んで姿を消したとしか思えないと。思い当たる節はないのかと。

そんな馬鹿な話があるか! いや、これが一年前だったとしたらひょっとして、彼女は自分に愛想を尽かせて出て行ったのかもしれないと考えたかもしれない。だが、今は違う。家族になろうって、約束して。それからふたりで築いてきた一年がある。おじさんのことがあったときも、傍で支えてくれた。抱き締めてくれた。フィディアスのことがあるからおあいこと、彼女は優しく笑ったけれど。
彼女のためにも、俺は自分にできることをやろうと思ったんだ。フィディアスはにとって、魔法界の兄のような存在だった。彼女のためにも    おじさんのためにも。彼女の大切なものは、俺にとっても大切だ。フィディアスのためにも、犯人は必ず俺自身の手で捕まえてやると誓ったんだ。これからは、ふたりで歩いていこうと。

それなのに、どうしてこんなにも突然が自分から出て行かなければならない? 結婚指輪が届いたとき、彼女は本当に嬉しそうだった。ブランドは彼が婚約    と言っていいのか?    指輪を買ったところと同じものにしようかとも思っていたのだが、デザインも可愛いし、スラッグクラブで友達だったハッフルパフ生の家族が経営してるから、とが推すので、ロンドンのマッカリースに決めた。は柔らかい捻りが可愛いと喜んでいたし、シリウスはそれでいて指にしっくり馴染む適度な重厚感が気に入っていた。
その翌日に、その指輪を置いて失踪するなんてことがあるか? 連れ去られたんだ    いかにも自ら姿を消しましたという、偽装工作をされて。そう思うと、耳塞ぎの呪文を解除し忘れた自分にこれまでにないほど激しい憤りを感じた。あんなミスさえ犯さなければ、異変に気付いてロングボトムがすぐさま対処してくれたに違いないのに。俺のせいだ、俺のせいでが奴らの手に。

気付かないうちに、アパートまで帰り着いていた。彼女と探した部屋、彼女と暮らした部屋。彼女がいないと分かりきっている    それでも、ここを引き払うわけにはいかなかった。もしも彼女が戻ってきたら。そのとき俺は、待っていてやらなければいけない。
重い足を引きずってドアの前に立ったシリウスはすでに慣れたマグルの鍵を取り出して開けた。取っ手を引いたそのとき    暗闇だと思っていた室内から明かりがこぼれて、思わずその場に立ち尽くす。だが次の瞬間には、シリウスはもつれそうになった足を気持ちだけで前へと踏み出し部屋の中へと駆け込んでいった。

!? 帰ってたのか、    

だがダイニングに飛び込んだ彼を迎えたのは、この五日、待ち焦がれた相手ではなく。

「お帰り、シリウス。勝手に上がらせてもらってすまなかったね」

の父親    俺の『父親』になるはずの、男だった。

FATHERHOOD 2

サザークの夜更け

「すみませんでした……黙ってて」

の椅子に腰かけたまま、腕を組み、目を閉じてただじっとしていた。その眉間には見慣れないしわがくっきりと刻まれている。テーブルを挟んで向かいに座ったシリウスは息の詰まる思いで逃げるように下を向いた。俺が守ると心に誓ったのに。必ず幸せにすると    一年前のあの日、この人に。

「どうして、あの子なんだろうな」

ようやく口を開いたは、ぽつりとそう呟いてさほど高くはない天井をゆっくりと仰いだ。

「魔法族ではないわたしには、あの子がどんな魔法使いなのか、それは分からない。だが普通の女の子だ。普通の……友達と泣いて笑って、君のような、一生を共にしようと誓う男性に巡り会えて。魔法社会では十七歳で成人だというが、日本の我々の社会で十七歳といえばまだ子供だ。わたしはしばらくこちらにいたことがあるから、十八歳で成人だという社会を知ってはいるが。それでも、わたしから見ればまだまだ子供だ    いつまでも、あの子はわたしの子供なんだ」

何も言えなかった。ただ、胸を抉られるようだった。この人はその大切な『子供』を、信じて俺に任せてくれたんだ。それなのに。日本を離れて、たったの一週間でこのザマか。何をやってるんだ、俺は!
仕事なんてどうだってよかった。が狙われていると分かってから、すぐに希望を取り消すべきだった。自分のために俺が仕事を諦めるなんて、彼女が嫌がることは分かっていた。それでも、こんなことになってから後悔したってもう遅いじゃないか。彼女の反対を押し切っても、ずっと一緒にいてやるべきだったのに。『あの人』が捕まってから、いくらでも自由になれたじゃないか。ほんの少し我慢すればよかった。そのあと何年    いや、何十年と、お互いに納得のいく形で一緒にいられたはずなのに。そうしなければならなかったのに。

「……省が、全力で捜索してくれています。俺もとにかく心当たりのあるところはしらみ潰しに探してますから……は必ず、見つけます。だから」
「君の考え付くようなところにが行くかな」

のこんなにも冷え冷えした声をシリウスは聞いたことがなかった。彼は自分でもそのことに気付いたのか、さり気なく調子を和らげながら付け加える。

「あの子は自分からいなくなったんだよ。そう簡単に見つかるような場所に身を隠すとは思えない」
「でも……」

まさか、が自分から出て行ったと本当に信じているのだろうか。たったひとりの『家族』だと思ったのに。だがはテーブルの上に広げた彼女からの手紙を再び手に取って苦々しげに覗き込んだ。

「何があったかわたしは知らない。だがこの手紙からは……の、並々ならぬ覚悟が感じられる。わたしはそれを知るためにきた。何があっても、わたしはあの子の父親だ」
「でも……その手紙だって、が奴らに書かされたものかもしれない」
「シリウス、信じたくない気持ちは分かる。だがこれはの手紙だよ。あまり    話をしてこなかった。あの子のことを、一から十まで何もかも知っているとは言わない。だがこれは、あの子が自分で書いて寄越した手紙だよ。あの子が何を思ってこの手紙を送ってきたのか、君を置いて出て行ったのか……その上、そんな危険な連中に狙われてるんだとしたら、早く見つけてやらないと」

言いながら、は肘をついて項垂れるように手の甲へ額を押し付けた。深々と息を吐き、疲れたようにうめく。

「知らされなかったのは、わたしが魔法族ではないからか? この国がそんなにも危険な状況だということを何も知らずに、のうのうとあの子を送り出して」
「……それは。はいつも言ってました、お父さんに心配かけたくないって。日本にいれば、知らなくてもすむって。今回のことは、俺が連絡すべきだったんです。俺たち、もう未成年じゃありませんから……省に連絡義務はありません。俺が言わなければいけなかったんです。黙ってて……ほんとに、すみませんでした」

お父さんのことを、考えなかったわけではない。だが、彼女を守れなかったことへの歯痒さと、怒りと、悲しみと、寂しさと、空しさと、申し訳なさと    あらゆる負の感情がぐるぐると巡って、今は何をする気にもなれなかった。今はただ、学生時代の友人たちをがむしゃらに当たってなんとか手がかりを求めようとしていた。そうしている間に、彼女を見つけられるかもしれない。そうしたらお父さんには、余計な心配をさせなくてすむと。

二度、仕事上がりのロングボトムが部屋に寄ってくれたことがある。自分も決して手隙ではないが、できるだけのことはすると。彼はいくら耳塞ぎのことがあったといえの一件を少なからず自分の落ち度だと思っていたし、これにはシリウスも驚いたのだが    ロングボトムはこの夏の間に、彼らの上級生であるアリス・ローチと結婚するらしい。彼女はまだ研修の身分なのでの警護についたことはないが、が第一級に準ずる警護対象と聞いてとても心配していたという。そんな中、ロングボトムの担当時間に彼女が行方を晦ませた。近く『家族』となるアリスのためにも。力になりたいと、言ってくれた。
若手闇祓いの中でも有能株で通っている彼の申し出は素直に有り難かった。同時に、何年経ってもあんたたちはフィディアスを襲った犯人を捕まえられないじゃないかとも思った。アルファードおじさんを殺した人間だって……それなのに、の行方を掴めるとでもいうつもりか。苛立っていた俺は感情的になって当たり散らした。ロングボトムは俺の気が納まるまで黙って耐えていた。かえって空しくなって俺は怒鳴るのをやめた。非はロングボトムではない    俺のほうに、あったのだ。を失わせたのは、俺自身だ。

「ひとつ、黙っていたことがあるんだ」

沈黙がしばらく続いたあと、ロングボトムは深刻な面持ちでそう切り出した。

の行方が掴めないのは問題だが、執行部は彼女が君との問題を抱えて家出したくらいにしか思っていないから上には話さなかったんだ。関連があるか分からないし……だが君は、まったく心当たりがないんだろう?」
「……ないよ。前の日に指輪が届いて、だってすごく喜んでたんだ。本当は……明日、一緒に婚姻届も出しに行く予定だった。フィディアスの誕生日だ」

言うと、ロングボトムはひどくばつの悪い様子で視線を泳がせたが、すぐに振り切るように顔を上げて口を開いた。

「となればあの日、君が留守にしている間に『何か』が起きた可能性が高い。その時間、彼女の最も近くにいたのがわたしだ。思い当たる節があるとすれば    彼女はあの日、男と会っていた」

    意味が、分からなかった。しばらく呆然と目を見開いたあと、強張った唇を動かそうと努力する。それでも、喉から肝心の声が出てこなかった。男。が男と会っていた? 誰だ。一体、何のために。そんなこと、今の今まで何も言わなかったじゃないか! 込み上げるもどかしさに、苛立ちだけで声を荒げる。

「何で黙ってたんだよ! 何もなかったって……市場に行っただけだって、あんたそう言ったじゃねーか!」
「頼まれたんだよ、彼女に。君に心配かけたくないって、決着はついたんだって。だから黙っていた。すまない……君に二重のショックを与えかねないと思ったんだ」

ショックじゃない、はずがない。が男と会っていた    その上、自分にそのことを隠そうとした。疚しい関係ということか? そして彼女はその夜……俺の前から、姿を消した。

「こんなこと、上に話したら……彼女が自分の意思でアパートを出たと、余計に確信を強めるだろう。だが、わたしはアリスに君たちのことを聞いた。彼女が他の男と逃げるなんて、しかもこれだけ自分のために警護態勢が敷かれている状況で。そんな身勝手な真似をする子ではないと    わたしも、そう思いたい。そうだろう、シリウス?」

今は何も、考えられなかった。が俺に隠れて男と会っていた。彼女がいなくなったのが、その日の夜。無関係にしてはあまりにタイミングが良すぎるように思えた。
の『浮気』を疑ったことなどない。彼女のほうから好きになるという意味では。だが学生時代から彼女を好きな男は自分が知る限りでも多くいたし……分からない。彼女がいない現状では、悪い考えばかりが次々と浮かんできて。指輪を着けて彼女は喜んでいると思ったけれど、心の中では実は重く感じていたのかもしれないとか。卒業前に、警護付きはつらいと言っていたことがある。遂にその日々に耐えられなくなって出て行ったのかもしれないとか。駄目だ    の思いを、信じられなくなってきている。どんなときも、母親よりも母親らしい広い胸で抱きとめてくれたのに。彼女を信じられないとしたら、俺は他に何を信じればいいというんだ?

「……誰だよ。誰と会ってたんだ」
「名前は教えてくれなかった。だが、ホグワーツの同級生だと言っていたな。ビクトリア・エンバンクメントのカフェ・ノルディックで三十分ほど会っていたと思う。自然なマグルの服装で、わたしの目測では身長は君とほぼ同じくらい、肩幅はそれなりにあるが細身、ブラウンの髪を少し流して……」
「待て、待て待て……ちょっと待て」

俺と同じくらいの背で、細身、茶髪? マグルの恰好を自然にできるやつ? 口で言われても分からないし、身長と細身以外はどうにでもなる要素でしかない。シリウスはロングボトムの説明を遮って押入れのトランクを引っ張り出した。バートに送ってもらった写真を封筒ごとロングボトムに手渡して、口早に捲くし立てる。が学生時代から綴じていたアルバムは彼女の失踪と共に行方を晦ませたが、卒業後にバートが送ってくれた封筒には用とシリウス用の写真が一緒に入れられていたため、そのままになっていたのだ。

「この中にいるか? グリフィンドールの後輩が送ってくれたんだ。のもあるから、ひょっとしたら」

が他の男と逃げたなんて、考えたくもない。だが彼女が自分の知らないところで男と会っていたというのなら、そいつが事情を知っている可能性も無きにしも非ずだ。今はどんなに些細な情報でも欲しかった。
    心臓が張り裂けそうになるほど、恋しかった。愛しかった、会いたかった。彼女は俺を見捨てたりしない。俺にはしかいないと分かっていて。そんなことをするはずがない。そう信じなければ……俺は。

「この男だ。そうだ、間違いない」

何枚か繰って、目を見張ったロングボトムが指差したのはシリウスが多少とも予測したうちの誰でもなかった。

「……嘘だろ」

信じられない思いで、うめく。ロングボトムが示したのは、キングズ・クロス駅で最後にとジェームズと三人で撮ってもらった写真の、ごくごく小さな背景の一部に過ぎないエバン・ロジエールだった。
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(09.12.28)