「ただいまー。?」
チャイムを鳴らしても反応がないので、シリウスは仕方なく自分で鍵を開けて部屋の中に入った。魔法を使えば一発だが、ここはマグルの管理するアパートなので一応おとなしく渡された鍵を使用している。明かりはついているし、外に待機しているロングボトムも異常はないと言っていたので、特に心配はしていなかった。これまでも、うとうとしていたがチャイムに気付かなかったということは何度かあったからだ。
初めに異常を感じたのは、キッチンを通り過ぎるとき。出かけるとき市場に行くと言っていたから、夕食の材料と思しき食材が置かれているのは良しとしよう。だが、ジャガイモの皮が中途半端にいくつか剥かれただけで何も出来上がっている様子がない。もちろん、まだ出来ていないのかと文句を垂れたり目くじらを立てるつもりはない。だがの予定が特にない日は、六時過ぎに戻れば大抵いつもすでに調理を終えているか、作っている最中だったので、こんな段階で放置されているキッチンというのは初めてだった。
「、どうした? 具合でも悪いのか」
果物をいくつか買ってきてよかった。疲れているときは食事をとろうとしないので、少しでいいからと果物くらいは食べさせるようにしている。一度オレンジを口移しで食べさせようとしたら、他に誰がいるわけでもないのに恥ずかしがってオレンジごと布団の中に潜り込んでしまった。可愛すぎてそのまま襲いたくなったくらいだ。
キッチンやバストイレに繋がる短い通路を抜けると、さほど広くはないダイニングに突き当たる。部屋はこのひとつだけなので同室にセミダブルのベッドも置いてあるのだが、ドアを開けてすぐ見渡せるその室内にシリウスは彼女の姿を見つけることができなかった。
わけが分からなかった。もう一度、狭いダイニングを右から左まで見回し
そこで初めて、背筋が凍りついた。
「おい! は……はどこ行った!」
部屋を飛び出し、アパートの中庭に身を潜めている闇祓いに掴みかかる。ロングボトムはこちらの激しい剣幕にひどくたじろいだようだった。
「はっ……? 待て、落ち着け、シリウス。が……いないのか、部屋に?」
「ああそうだよ! はどこだ、何のための警護だよ! はどこ行ったんだ!!」
「そんな……馬鹿な」
青ざめた顔を引きつらせたロングボトムはこの細身のどこにそんな力があるのかと思わせるほどの握力でシリウスの手を押し退け、飛ぶようにふたりの部屋へと入っていった。そこは扉が直接外へと繋がる一階、警護の闇祓いが控えることになっている茂みのちょうど正面だった。
ロングボトムは素早くバストイレ、ダイニングとすべての空間を調べ、空っぽの居間を見て呆然と立ち尽くす。何度か仕事の準備で闇祓い局に行ったが、そのとき顔を合わせたロングボトムはいつも静かに微笑み、堂々とした佇まいだった。こんなにも狼狽する姿は、見たことがない……。
「……そんな。異常は、なかったはずだ。窓側には防護の呪文を……姿現しの音がすれば、すぐに気が付いたはずだ。まさか、そんなことが……」
そんなことを言っても、今さらどうしようもない。シリウスは込み上げる嘔吐感を手のひらに押し込んで、ロングボトムの胸倉をもう一度掴みあげた。
「どーすんだ、どうしてくれんだ!! が……にもしものことがあったら……信じて任せてたんだ俺は、それを!! どうしてくれるんだよ!!」
「……すまない。すぐに全力をあげての捜索に当たろう。だが、聞いてくれ。姿現しの音はまったく聞こえなかった。この部屋は暖炉もない、無許可の移動キーを作るにしても、大の大人を相手にまったくの無音で事を終えられるとは到底思えない。争った形跡もないし、もしも本当にが連れ去られたのだとすれば、敵は我々の想像もつかないような手段を用いている可能性がある。慎重に動かなければ……彼女の身の安全のためにも」
「わかっ……て……」
声が、出なくなった。ロングボトムの黒いローブをゆるゆると放し、息苦しくなった喉を押さえて咳き込む。その場にしゃがみ込んできつく唇を噛み締めたそのとき、シリウスはある重大なことを思い出した。
「……しまっ、俺、昨日……耳塞ぎ……」
俺は、なんて致命的なミスを犯してしまったんだ。この部屋は壁がさほど厚くないのでセックスをするときだけはいつも耳塞ぎの呪文を使うのだが(それをしないとが受け入れてくれない)、昨夜シリウスは呪文を解除し忘れたまま眠ってしまった。いくら警護の闇祓いといえど、夫の不在にワンルームで他の男と二人きりで過ごさなければならないというのはさすがに居心地が悪かろうということで、警護は部屋の外で行うことになっていた。だから室内で異変が起こればすぐに察知できるようにと一階に部屋を借り、ドアの正面にマグルには気付かれないようにと隠れて見張ることになっていたのだ。それを、耳塞ぎの呪文をかけたまま出かけてしまった。これでは、中で何が起こっていたとしても外のロングボトムが気付けるはずがないではないか。
だが血の気を失ったシリウスがなんとか立ち上がって声をかけようとしたとき、部屋の中央にある小さなテーブルに近付いたロングボトムはその上の何かを覗き込んでじっとしていた。
「……あの。ロングボトム、さん」
「
シリウス」
こちらに背を向けた彼の呼び声は、静かだった。もはやあの取り乱した様子は微塵もない。ただ取って代わったのは、どこまでも深い諦念の響き。
振り向いたロングボトムの顔付きは、はっきりと暗かった。そのとき初めて気付く。先ほどは見落としていたが、テーブルの上には一枚の羊皮紙と、そして銀色に輝く小さな丸いリングとが置かれていた。
Good-bye, my dear
さよなら
音もなく背後に現れた男の姿を鏡越しに見て、は一瞬にして凍りついた。振り向くことも、声を出すことすらままならない。全身を黒いローブに包み、目深に被ったフードの下から覗く切れ長の瞳は血のように紅かった。鏡の中のその男が前のめりになって密着してきたとき、不意に左の肩に重みを感じては声にもならない悲鳴をあげる。青白い男の指が彼女の肩をそっと掴んでいた。
「会いたかったぞ、。わたしのことが分かるか?」
心臓を、冷えた手で抉られたかのような衝撃だった。直接頭蓋を震わせるような不思議な毒のある声で、男は鏡越しにの顔を覗き込んで唇だけで微笑む。冷たい目だった。それこそ蛇のような
熱のない眼差し。だがこの赤い瞳を、は以前にも見たことがあった。夢の中に、幾度となく現れた……。
「そう、わたしだ。ヴォルデモート卿が、長く焦がれた愛しい孫娘に会いにきたぞ」
何も、口にしていないのに。まるで心の内を読まれているかのような。だが動揺するの頭を優しい手付きで撫でながら、男は可笑しそうに目を細めて笑った。
「そう、わたしはお前の心が手に取るように分かる。怯えているな、? だが恐れることはない。わたしはお前を迎えにきたのだよ。たったひとりの家族、わたしの可愛い孫娘を」
「……ほ、んとうに、あなたがわたしの祖父なら。どうして……今頃、迎えにきたの。わたしにはずっと、父さんしかいなかった。あなたが本当に母さんのお父さんなら、何で今頃になって」
身体中を支配する強烈な悪寒に抗いながらやっとのことで声を発すると、男
ヴォルデモート卿を名乗るその男は、さらに口角を上げて満足そうに微笑んでみせた。髪を撫でる彼の指先は優しかったけれど、それはを畏怖させる役割しか果たさない。シリウスの優しさとは、まるで正反対だった。
「聞いているはずだぞ。アルバス・ダンブルドアが、お前とその父親を隠した。お前が戻ってきていると分かっても、あの老いぼれはしつこくお前の動きを監視していた」
「……それは。あなたが、母さんを利用したように……わたしのことも利用するつもりだったからでしょう。わたしのことなんか……母さんのことだって、家族だなんて思ってもいないくせに」
「思っているさ。思っているからこそ、こうして警護の目を掻い潜って迎えにきたのではないか」
話しているうちに、少しだけ和らいだ恐怖心に目を瞑っては男の手を払い除けた。狭い個室の中でできるだけ距離を開け、背後の壁にぴったりと背中をつける。初めて正面から向き合い、は男の後ろにあるドアからどうやって外に出るかと必死に考えを巡らせた。ここはマグルのカフェだ、彼らを巻き込むわけにはいかない。でもうまく店内に戻れば、ロングボトムが異変に気付いてくれる。
だがそんな彼女の胸中すら読んだかのように、不敵に笑って男は言う。
「なるほど、グリフィンドールで七年を過ごしただけのことはあるな。そのあたりの愚図な魔法使いよりもよっぽど肝が据わっている。気に入ったぞ、」
「……生憎だけど。わたしはあなたについていく気はない。母さんはわたしたち家族を守るためにそうした、でもわたしはそんなことはしない。スリザリンの子孫だろうが夢見だろうが何でも、わたしは抗うって決めたから。わたしには……守らなきゃならない大切なものがたくさんある。あなたがマグルを排斥するような社会を作ろうっていうなら、わたしはあなたとだって戦う。血の繋がりなんか関係ない」
血のにじむような思いで、声を荒げた。本当は、泣き出したい、今すぐにでもここから逃げたい。けれども出口を塞がれている以上、差し迫って次の一手を考えるより他にない。それでも、屈したくはなかった。たとえ相手が、『名前を言ってはいけないあの人』と呼ばれ、誰もが恐れる闇の魔法使いだとしても。血の繋がった祖父だったとしても。この男さえいなければ、もっと明るい世界が
フィディアスは、アルファードおじさんは!
「悲しいことを言うな、。わたしがいなければ、お前の存在など初めからないのだぞ? そうしてお前が、『愛』を知ることもなかった。血は続いていくのだよ、脈々とな」
そう言って男が手元を見たので、は慌てて薬指の指輪を右手で隠した。冷たい炎を思わせる男の赤い瞳からは手のひらで転がすような軽薄さしか感じられない。何を言っても伝わらない、その歯がゆさと恐怖とではその場に崩れ落ちそうになった。すんでのところで留まったのは、『勇気』のひとグリフィンドールとしての、頑なな意地でしかない。
「、わたしと共に来い。この国は真にあるべき姿へと生まれ変わる、そのとき我々のような誇り高き出自の人間が必要なのだ。夫も連れてくるといい、『ブラック』であればじゅうぶんだ」
これまでは。煙のように忽然と現れた得体の知れぬ存在への恐怖が圧倒的に大きかった。だがこんなところで最愛のシリウスを家の名前だけで引き合いに出され、の中に突如として不愉快な憤怒が膨れ上がった。
「シリウスは関係ない! シリウスに何かしたら……絶対に、許さないから」
だが男はまったく動じる素振りも見せず、口角を上げて笑んだだけだった。
「それほど大切な男か。ならば尚更だな。我々に抗えば、未来は明るくないぞ?」
「それはあなたが天下を取ったらの話でしょう。ジェネローサスが言ってたわ、今の魔法大臣は一筋縄じゃいかないって、手強いって。省はあなたの手に落ちたりしない」
「ジェネローサスか。あいつはあの女を買い被りすぎている。所詮はダンブルドアの狗に過ぎん」
ダンブルドア。その名を聞いて、勢いづいていた覇気は急速に萎えていった。その様子を見て取ったヴォルデモートは、ニヤリと笑ってもともと切れ長の目をさらに細める。まるで人間のものでは、なかった。
「それでいいのか、? お前の記憶を奪い、すべてを隠蔽してお前を東のマグル界へ追いやったあの男に従うことになっても。省を信じるということは、そのバックについているといっても過言ではないダンブルドアを信じるということだ。バグノルドはあの老いぼれを生涯の師と慕い、頻繁に助言を乞うている。お前たち親子の処遇についても、当時魔法法執行部の部長だったバグノルドがダンブルドアの意見を聞き入れて周囲を説得した。お前はあの老いぼれを信じて従うことができるのか? 我々に対抗するということはそういうことだ」
背後の壁に縋り、何も言えずに立ち竦むにヴォルデモートは一歩、また一歩と近付き、いつの間にか手にしていた杖で彼女の肩に軽く触れた。覚悟
と言っていいか、分からない。だがはその瞬間、『死』に心臓を鷲掴みにされたような気分になった。死ぬ、と確かに思った。
だが実際は、本当にただ杖先で触れただけだった。だからといって何が起こる気配もない。噴き出す汗の中、わけが分からず目を白黒させるを覗き込んでヴォルデモートは低く笑った。
「殺すはずがないだろう。十四年も待った、可愛い孫娘を」
声はもう、出なかった。ただ酸素を求めて荒々しく呼吸しながら、黙って男の瞳を見返す。その紅の中に、困憊しきった自分の姿が映っていた。ガラス玉のようだった。
「憎くはないか、ダンブルドアが。恋しいだろう、母親のことが。
お前によく似た、『勇敢』な魔女だった。わたしの自慢の娘だ、今でもな」
使うだけ使って、簡単に捨てたくせに。再び込み上げてきた怒りに威嚇するように睨みつけたが、男はゆったりと笑ってこちらの肩から杖を離した。
「取り戻してやろう。の記憶を。十四年前ダンブルドアが身勝手にお前から奪い去った記憶を、すべて」
「……え?」
意味が分からず目を開いたの正面で、ヴォルデモートはなだらかにその呪文を唱えた。
昼間にジェネローサス
もとい、『ロジエール』に会ったことはシリウスには隠してくれと、はロングボトムに懇願した。学生時代のあれこれで結婚前に最後の話し合いをした、泣いたり怒ったりしていたのはそのためだ。でも最終的にはうまく納まったから、心配は要らない、シリウスにも余計な不安を抱かせたくないので黙っていて欲しいと。ロングボトムは少しだけ渋い顔をしたが、そういうことなら仕方がないと言って了承してくれた。結婚前にできるだけトラブルを解消しておくのはいいことだ、うまくまとまってよかったと。
カフェに行く前に市場で買っておいた材料を改めながら、ぼんやりと考える。メニューを決めてから買い物に行くわけではない。今日はジャガイモとミンチがあるからコロッケにでもしようか。他に必要な材料はストックがある。あとは卵スープ、サラダ……毎日レシピを考えるって、大変なことだな。シリウスは、お前だってすぐに学校が始まるんだから無理しなくていい、惣菜でも適当に買ってくればいいとよく言ってくれるけど。
ジャガイモの皮をピーラーでいくつか剥いたあと、はどっと疲れたような気がしてシンクに両手をついた。わたし、何をやってるんだろう。こんなもの作ったって……それでシリウスの傷を、和らげられるわけでもないのに。
考えたら、涙が止まらなくなった。中途半端にキッチンを放り出して、はダイニングに戻る。ベッドに横になろうかとも思ったが、昨日シリウスと愛し合ったばかりの布団だと思うと触れてはいけないような気がした。カーペットを敷いた床にぺったりと座り込み、少し落ち着くまで涙が頬を濡らすに任せる。
もうシリウスには会えない
会っては、いけない。
のろのろと立ち上がって、荷物を詰める。最初は必要最小限のものだけ持って行こうと思ったが、それではシリウスに余計な後始末をさせることになってしまうと思い直した。仕方なく、学生時代のトランクに自分のものはほとんどすべて放り込み
だが、最近準備した養成学校の教材だけは置いていくことにした。持って行っても意味がない。わたしはもう完全に、シリウスたちの前から姿を消さなければ。ごめんね、シリウス。ごめんなさい。
トランクの蓋を閉めてから、泣き出したい思いでダイニングを見渡す。自分のものはほとんど収納スペースに入れていたので、さほど目立った変化は見られなかった。ぱっと見ただけでは気付かないかもしれない。は最後に、出しておいた羊皮紙に少しだけ文字を書いた。短い手紙だった。
シリウスにプレゼントされたものはたくさんある。本当は、持って行きたくなんかなかった。大好きな彼のことを、それだけたくさん思い出してしまいそうだったから。でも置いて行ったら、やはりそれだけ彼につらい思いをさせてしまうだろうから。そのことのほうがにはつらかった。わたしのことなんか忘れて、他の幸せを掴んで欲しかった。
でもこれだけはどうしても
持って行けない。
「ごめんね、シリウス。何にもしてあげられなくて……ごめん」
好きで好きでしょうがないの。でもわたし、やっぱり無理だった。
羊皮紙の上に外した結婚指輪を添えて、濡れた頬を拭う。
最後にもう一度、一週間だけシリウスと暮らしたさほど広くはない部屋を振り返った。
「……さよなら」
バチンと音がして、ロングボトムが駆け込んでくるまでにははすでにこの部屋にいないだろう。それでいい。・は自らの意思で姿を消したのだと。忘れてくれたらいい。憎んで、忘れて。何のしがらみもない『普通』の女の子と出会って、また恋をしてくれたらいい。
だがは首にかけた十字のネックレスを握りながらも、心の中ではまだ最愛のシリウスのことを思っていた。