サザークはロンドンの中心部から地下鉄で十五分という好立地でありながら、下町ということもあってか家賃がさほど張らない。平日でさえ賑わうマーケットから徒歩五分、それなりに歴史を感じさせるアパートの一室に彼らはしばらく腰を据えることにした。
部屋を借りて、一週間。なんとか大雑把に荷物の整理を終え、ふたりは徒歩十分の教会を訪れている。
「
あ」
教会の中庭に設けられた墓地を誰の案内もなく歩くと、先にの名前を見つけたのはシリウスだった。墓花も何もない。長く来訪者などなかったのだろう。は十字の前にしゃがみ込んで、母が生前に好きだったという薔薇の小さな花束を置いた。
「……ごめんね、お母さん。なかなか来られなくて。おばあちゃんも、ごめん」
いつかは必ずという、思いはあった。七年もかかってしまった。母がここに埋葬されてしばらくは、父もそれまで通り娘と一緒にロンドンに暮らしたという。だが、耐えられないと思って日本に逃げ帰ってしまったと
父はそう、涙混じりに語ったけれど。本当は、ダンブルドアが。あの人がわたしたちの記憶を変えて、イギリスを離れるように仕向けたのだ。母を……独りぼっちに、させて。
「お父さん。わたしもシリウスも八月から忙しくなるから、しばらく挙式は無理だけど。でも落ち着いたら絶対呼ぶからね。だからそのとき、三人で一緒にお墓参りしよ。お母さんにも報告しなきゃ」
日本の実家を発つ前、は父にそう約束した。母と祖母が眠るという教会の住所を渡してもらい、最後の煙突飛行を使ってロンドンへ。祖母はクリスチャンで、この教会で長く働いていたらしい。
(そんな人が、ほんとに『あの人』と?)
俄には信じ難い話だった。『例のあの人』と血の繋がりがあるという話は、意図的に隠したわけではないがタイミングを逃してシリウスたちには話していない。こちらに戻ってきてから一度『アジト』に行ったとき、自分が『あの人』に狙われているらしいということはジェームズにも話したのだが。
魔法省の護衛は、夜間は必ずつけるが、日中はシリウスと一緒にいられないときだけ申告制で魔法法執行部が手配してくれることになっている。やはり省も人手が足りていないらしい。そこで厳重警戒は夜間のみとし、日中はまさに見習いオーラーにならんとしているシリウスに任せるというわけだ。そして極力、外出は控えること。とはいっても、も八月からヒーラーの養成学校に通うので(二ヶ月も休ませてはくれない)、その準備でどうしても出かけなければならない日が多かったのだが。
「行ってらっしゃい」
これまでも『漏れ鍋』で何日も一緒に過ごしたことはあるが、やはりひと所に暮らすというのはまったくの別物である。『漏れ鍋』にいたときは一緒に出かけることがほとんどで、行ってらっしゃい、行ってきますと言うことも滅多になかったので、仕事の手続きや下準備で部屋を出て行くとき、シリウスはいつも感じ入ったようにぎゅうとの身体を抱き締めた。そして優しく鼻先にキスをする。
「勝手にほろほろ出歩くんじゃないぞ? 夜までには帰るから」
「はーい。ちょっと市場に行くだけだから、大丈夫」
「それ、俺が帰るまで待てないの?」
「すぐそこだし大丈夫だよ。シリウスが帰ってくるまでにご飯作っとくからね」
「……分かった。気をつけてな」
「うん。シリウスも、気をつけて行ってらっしゃい」
間近で見上げて微笑みかけると、シリウスは放しかけたの腰を引き寄せて今度は唇に軽く口付けた。
「うん。行ってきます」
ドアノブに添えられたシリウスの左手には、細身のプラチナリングが輝いている。昨日届いたばかりのマッカリース製だ。も、学生時代はさすがに指輪をつける勇気はなかったが、今は薬指にペアのリングをはめている。七年生のときにもらったものは相変わらずトランクの中に仕舞いこんであった。
シリウスと入れ替わりに部屋へ顔を覗かせた闇祓いを見て、はあっと目を見開く。
「ロングボトム、さん」
「やあ、お久しぶり。覚えていてくれたんだね。今日は夜までわたしがつくよ。ニ十時からはページだ、よろしく」
「あ、はい……こちらこそ、よろしくお願いします」
それはフィディアスの事件があったとき、聖マンゴまで連れて行ってくれた若い闇祓いだった。突然のことに取り乱す自分を、優しく宥めてくれた。犯人の逮捕を、約束してくれた……。
ロングボトムは後ろ手に扉を閉め、玄関口に佇んだまま嘆息混じりに言ってくる。静かに微笑んではいたけれど、どことなく疲れた顔をしていた。
「あれから二年か。未だに約束を果たせずにいる。申し訳ない」
「……いえ。省も、お忙しいみたいですし……仕方、ありません」
俯き加減にぼそぼそ答えると、ロングボトムはぎこちなく頭を掻きながらに背中を向けた。
「外にいる。旦那に聞いたんだが市場に行くそうだね。他に外出の予定は?」
「あ、あの……ロングボトムさん」
届けはまだ出していないので、正式には夫婦ではないのだが。はどきどきと速まる鼓動を服の上から押さえつけて、振り向いたロングボトムに告げた。
「今日、友達と会う予定になってて……買い物のあと、少しだけ出かけてもいいですか?」
what we desire
望まないこと
イギリスの魔法界は今やどの街も閑散としたものだったが、そんなことを知る由もないマグルの大通りは夏の人いきれに溢れていた。目的は、テムズ川に面した緑の旗を掲げる小さなカフェ。心地良い陽光に、テラス席もすべてしっかりと埋まっている。
だがは中の窓際のテーブル席に見慣れた顔を見つけ、心底気分は乗らなかったが重たい足を引きずるようにしてカフェへと入っていった。警護のロングボトムはそれと分からない程度の距離でついてきているはずである。構やしない。どのみちシリウスは、わたしを絶対にひとりにはさせてくれないのだから。
「来てたのね。でもわたしは、彼を連れてきてって言ったはずだけど」
二人席の向かいに回り込み、テーブルの上にハンドバッグを置きながらは低めた声で問い詰めた。六年生の誕生日にシリウスからプレゼントされたものである。すると、ラフなポロシャツに身を包み、いかにもマグルそのものですと言わんばかりのロジエールは、まだ運ばれてきたばかりと思しき紅茶を少し脇に退けた。
「やあ。待っていたよ、。何か飲むかい?」
待て。あんた今、『』って呼んだ? 待て、待て待て、ちょっと待て。なにかおかしい。なにか……そこでようやく思い当たって、は口元の筋肉を引きつらせながら呻いた。声。その声は、確か。
「……ジェネローサス、なの?」
「ご名答。言ったはずだね、わたしは自分の顔で表に出ることができないんだよ。何を飲みたい? 頼んでくるよ」
「結構です。自分で行きます」
つっけんどんに返して、はバッグごと掴んでカウンターへと向かう。この店はスイーツが充実しているようで、ずらりと並ぶケーキに目移りしそうになりながらも、彼女は冷たいカフェオレだけを注文した。
ポリジュース薬だ。上級魔法薬学の授業でスラッグホーンに習ったことはあるが、実際に調合したことはない。材料は並大抵では入手できないほど貴重なものだし、この薬が悪用されるようなことがあれば大問題になると。だがレポートは羊皮紙一巻き分も書かされたのでその内容はそれなりに覚えている。効果は、一時間。ジェネローサスがいつから服用しているかは分からないが。
すぐに出てきたカフェオレを持って戻ると、ジェネローサスは温かい紅茶にミルクを少し入れるところだった。
「それだけでいいのかい? いい時間だし、甘いものでも欲しいんじゃないのかな」
「余計なこと気にしないでいいの。長居するつもりないんだから。早く帰って夕食の準備もしなきゃいけないし」
早口に捲くし立て、浮かぶ氷の中にストローを突っ込む。ロジエール
もとい、ロジエールの姿をしたジェネローサスは、まさにそのロジエールの顔でニヤリと笑っての手元を見た。
「結婚したのかい? おめでとう。となれば君は、・ブラック?」
「……余計なこと気にしないでって、言ったばかりでしょう。そんな話がしたくてあなたとこうして会ってるんじゃないの。分かってるわよね? 少しでも妙な真似したら」
「そう怖い顔をするな。『お友達』と会っているのに、そんな顔をしていると怪しまれるぞ?」
ジェネローサスは涼しい顔でさらりとそう言った。眼球だけを動かして、テムズ川に面した外を一瞥する。騒々しい店内で、彼の低い声は神経を研がなければ完全に聞き取ることはできなかった。
「あの男は知っているよ。若いのにずいぶんと名の通ったオーラーだそうだな?」
「……へえ、そうなの。とにかく、わたしにはずっとオーラーがついてるの。ちょっとでも妙な真似したら、すぐに突き出すからね」
「だが君は突き出さなかった。これまでもじゅうぶんにそうするだけの時間がありながら、君はわたしのことを誰にも話さなかったね。そうだろう?」
飲み込みかけた液体が、喉の奥で詰まりそうになった。咳き込み、慌てて口元を押さえながらは何度か咳を繰り返して正面の男を睨みつける。
「つまんないこと言ってると、今すぐ突き出すわよ」
「それは君の自由だが、わたしに聞きたいことがあったのではないかな? 捕まればわたしはアズカバン行きになるかもしれないし、わたしの息の根を止めたいと思っているオーラーだっている。そうなれば、こうして話をすることもできなくなるよ。それでもいいのなら」
アズカバン行き。息の根を、止める。そんな恐ろしいことを平気で口にしてしまえるその神経が分からなかった。アズカバンの話は聞いたことがあった。孤島の監獄。盲目の看守、ディメンター。アズカバン投獄は、死よりも苛酷な刑罰だと聞いた。死よりも
あるとすればそれは、フィディアスのような。
はスカートの上でぎゅっときつく拳を握り、その親指の爪を見ながら震える声を絞り出す。
「聞きたいことは、ひとつだけよ」
ここで逃げては、いけない。シリウスと結婚するって、家族になるって決めたんだもの。どのみちしばらく挙式は無理だからと、シリウスは婚姻届だけ先に出しておこうと言った。それをわたしが、もう少し待ってと止めた。せっかくだから、結婚記念日はなにか切りの良い日にしたい、どうせならフィディアスの誕生日
十九日に、しようと。そうしたら来年からはきっと、三人でお祝いができるからと、笑って。
本当は、少しの猶予が欲しかった。後ろ暗いものを隠したまま、結婚なんてできないと思ったから。せめてこのことだけは、決着をつけてから。そして大好きなシリウスに、本当のことを打ち明けてから。
「……ほんとに、あなたがやったの?」
「うん?」
どうということのない口振りで、ジェネローサスが聞き返す。は顔を上げ、ロジエールの顔でテーブルに自然と肘をついたその男を刺すように睨み付けた。緊張で、涙がにじんだ。
「フィディアスは
本当に、あなたがやったの?」
ジェネローサスは表情を変えなかったが、幾ばくかを挟んでゆっくりと慎重に視線だけを動かした。意識を集中して、ごみごみした店内を、前後、左右、そして背後まで。は声を苛立たせてそれを遮った。
「誰もいないわよ。警護は表のロングボトムひとり。わたしはただ……本当のことが知りたいのよ」
「本当のこと」
鸚鵡返しにつぶやいて、ジェネローサス。彼は微かに口元に残っていた笑みを消し、すでに湯気のないミルクティーを少しだけ飲んだ。カップをソーサーに戻し、さり気なく外を見やる。
「言わなかったかな。わたしは嘘が嫌いだ。オーツ通りで奴を襲ったのは誰かと問われたら、それはわたしだと言うより他にない」
「……何で。現場から、フィディアスの杖は見つからなかった。魔法法執行部は、犯人が持ち去ったんだろうって。どうして杖を? あなたが本当に犯人だっていうなら、証拠を見せてよ」
彼はすぐには答えなかった。だが戸惑った様子はなく、肘をついた右側に少し重心を傾け、しばらく探るようにこちらを見つめたあと軽く肩を慣らして口を開いた。
「ここにはない。だがお望みとあらばグリンゴッツへ。わたしの金庫に預けてある」
「……自分の顔で自由に出歩けないようなあなたが、グリンゴッツに?」
「ご心配なく。グリンゴッツには旧友がいるのでね。不自由はしていない」
グリンゴッツ。ダイアゴン横丁。フィディアスが襲われた、オーツ通りの近く。わたしは今でも近付く度にあの髑髏を思い出して身震いするのに
この人は、平気なんだ。自分が実の弟を殺そうとしたところなのに。考えるだけで身体中が冷え冷えして、溢れ出す空しさには両手で顔面を覆い隠した。
「、こんなところで泣かれてはオーラーにエバンの顔を印象付けてしまう」
「……何で。ねえ、何で。何でフィディアス……何で、殺さなきゃいけなかったの。兄弟なのに……たったふたりの、兄弟なのに。何で……」
涙が、止まらない。顔を上げることが、できない。薬指の冷たいリングを感じながら、は声を潜めて泣いた。フィディアス……本当に、このまま消えてなくなってしまうの?
鼻水を啜り、ようやく涙を拭ったは頬に垂れた長い前髪の隙間からロジエールの顔を見据え、必死の思いで懇願する。
「せめて……お願い、自首して。お願いだから。フィディアスは、わたしのことほんとに心から可愛がってくれた。わたしはフィディアスのこと、今も信じてる。フィディアスのお兄さんがそんなことしたなんて、信じたくないの。でも、もしほんとにあなたが犯人なんだったら……せめて、自首して。フィディアスのこと、信じてる。だからあなたのことだってわたしは疑いたくないの、信じたいの」
きっと、本当はそうだった。ダンブルドアへの恨み、憎しみ? もちろんそれもあっただろう。けれど、本当はきっと
信じたくなかったのだ。フィディアスのお兄さんが、彼を殺そうとしたなんて。もしも本当にそうだったとしても、きっと今は悔いているに違いない。だから、もう一度きちんと話をして。まっすぐな気持ちで、向き合えたらと。
だがジェネローサスは半ばうんざりした面持ちでロジエールの茶色い髪を撫で付けた。
「君は一人っ子だね。君は兄弟というものに理想を持ち過ぎているよ。兄弟なんてものはたまたま同じ親から生まれてきただけの他人、分かり合えなければただの人だ。君の亭主も、そうして家を出たんじゃなかったのかい?」
返す言葉が、なかった。ジェネローサスの言う通りだ。でも、それでも。シリウスは家を出た、わたしだってその片棒を担いだ。けれどもシリウスの心の中には今もまだ、弟への尽きぬ思いがある。彼はそれを決して口には出さないけれど。わたしには分かる、分かっているつもりだ。
だからきっと
ジェネローサスにも。心のどこかで今もまだ、そう、信じて。
「……お手洗い、行ってくる」
「ああ、ごゆっくり」
ロジエールの顔でトイレにごゆっくりと言われると、それだけで無性に腹が立つ。は涙に濡れた顔を俯いて隠し、乱暴にバッグを掴んで店の奥に駆け込んだ。一人用の小さな女子トイレ。鏡を覗き込んで、赤く腫れた自分の両目をじっと見つめる。
どうすればいいか分からなかった。シリウス
フィディアス。わたし、どうしたらいい? あなたのお兄さんを引き渡して……どのみちあなたは、戻ってこないのに。
俯き、深く息を吐いてゆっくりと顔を上げたところで、は鏡の奥にぎらりと光る赤いふたつの瞳を見た。