「先生、俺たち結婚するんです」
そんな、いきなり! 寮監のオフィスを訪ねるなり出し抜けにそう言ったシリウスの後頭部を見つめ、は激しく脈打つ心臓を制服の上から押さえつけた。デスクについたマクゴナガルはしばらく呆気にとられた様子でこちらを見つめていたが、やがて僅かに表情を緩め、徐に立ち上がる。
「そうですか、それはおめでとうございます。夫婦生活は長い長い会話だといいます。話し合うことを忘れずに、温かい家庭を築いてください、ブラック
」
は真っ赤になりながらもシリウスの後ろで深々と頭を下げた。シリウスも「ありがとうございます」と一礼したが、あまり時間がないからだろう、さほどの余韻も残さずに早々と切り出した。
「から聞きました。お母さんのことも、『例のあの人』との関係も。俺、日本のお父さんに挨拶に行って、こっちに戻ってきたら彼女と一緒に住むつもりです。だから……先生も、と『あの人』のことはご存知なんですよね。警護のこととか、ちゃんと話しておきたくて。俺にも仕事があるので……ずっとついててやれるわけじゃないし」
うわ、なんか……すごく、恥ずかしい。こんなところで照れてる場合じゃないのに。でもふたりでこんなふうに真面目に挨拶するなんて初めてだったので、は熱のこもった顔を隠すようにシリウスの後ろでさらに小さくなった。
うちのお父さんに挨拶に行くって、シリウス、どんなに緊張するだろう。わたし……ほんとにシリウスのご両親に何も報告しなくて、いいのかな。
「警護の話でしたら、先日魔法法執行部のマダム・ベンサムからに直接お話があったはずですが?」
「はあ、あの……それは聞いたんですけど。でも、そのときは断っちまったって。それでも省は警護をつけるって言ってくれたそうなんですけど、多分、連携してたほうがうまくやれると思うから。俺も『あの人』が捕まるまでは、できれば彼女に警護をつけてほしいって思いますし。先生からも、マダム・ベンサムには連絡つけられますよね?」
「それは可能ですが……在学中、省からの問題を預かっているのはダンブルドアです。わたしを介すよりも、直接ダンブルドア校長に話を聞いたほうが」
は反射的に、手元のシリウスの裾を引っ張った。振り向きはしなかったが少しだけ頭を動かしたシリウスが、それを汲み取って滔々と言葉を続けていく。
「いえ、彼女は校長先生と話したくないと言っています。お願いできませんか、先生。のためだったら、俺……オーラー諦めてもいいと、思ってるんです」
彼がさらりと放った言葉に、は不意をつかれて大きく目を見開く。そんな話、聞いてない。
なに言ってるの、シリウス。そんな危険な仕事、やめてほしいって何度も言った。でも彼の信念は揺らがないと分かったし、わたしはわたしにできることをしようって。それなのに、今さらどうしてそんなこと言うの。マクゴナガルも言葉を失って呆然と立ち尽くしている。は後ろからシリウスのシャツを掴んでぐいぐいと引っ張った。
「冗談でしょ、シリウス。わたしやだよ、シリウスがわたしのせいで仕事諦めるなんて……もう入省決まってるんでしょう、それなのに」
「分かってるよ。そう言うと思って今まで言わなかったし、お前がそんなこと許さないだろうってのも分かってる。だから、先生
先生からもう一度、省に話を通してもらえませんか。お願いします」
そう言って頭を下げるシリウスの背中が、とても頼もしく見えた。も慌てて彼に倣い、彼が顔を上げるまでしっかりと腰を折る。マクゴナガルはしばらくこめかみに手を当てて黙したあと、嘆息混じりに言葉を継いだ。
「分かりました。ですが省からの件を信任されていたのはあくまでダンブルドア校長です。このことはダンブルドアから省に伝えていただきます、宜しいですね?」
魔法省からわたしのことを、すべて任されていた。当のわたしは、何も知らされていなかったというのに。
唇を噛み、何も言わずに俯くの前で、シリウスは神妙に頷いてみせた。
「分かりました。宜しくお願いします、先生」
back to London
卒業
最後のホグワーツ特急の旅は、あっという間に過ぎていった。、リリー、ニース、マデリンはロンドン、スーザンはクロイドンでの就職が決まっているので会おうと思えばいつでも会える距離だが、メイはアイルランドの実家に戻るのでひときわ寂しそうだった。コンパートメントを占領したこの六人のうち半数が卒業後の結婚を決めていたので、少なくとも三回は近いうちに会えると励まして、あとは車内販売のおばさんから大量に買ったお菓子の山をみんなであさって過ごした。
「わたし、ディアナのとこも絶対結婚すると思うんだけど。ねぇ、賭ける? ディアナとワットが一年以内に結婚するかどうか!」
「どうかなぁ。だってワットは箒職人を目指してるんでしょう? カンブリアで少なくとも五年は修行するって」
「でも五年も待たせるかしら。ディアナもそっちのほうで働くって言ってたわよ、さっさと結婚しちゃえばいいのに。五年後なんて何がどうなってるか分かんないんだから」
蛙チョコを頬張りながら、スーザンは窓側の座席から身を乗り出してリリーのほうを向いた。
「知ってた、リリー? 『こんな時代』だからこそ、少しでも長く一緒にいたい! って卒業したらすぐ結婚するの、巷では『ポッター婚』って言われてるみたいよ」
ぶっ!! とリリーが飲んでいたカボチャジュースを通路側の壁に噴き出す。リリーのそんな失態を見るのは初めてだったので、たちはぎょっと驚きながらもそのあとすぐに腹を抱えて笑った。
「あら、今のジェームズに見せたかったわね」
「スーザン!! ……誰よ、そんな下らないこと言ってるのは」
「広めたとしたらハナしかいないでしょう」
「あの子は……懲りないんだから!」
肩を怒らせながら急いで壁をきれいにするリリーの横顔はうっすらと朱に染まっている。その頬をつんつんとメイがつつくとリリーは歯を剥いて怒ったが、それすらも微笑ましい光景にしかならなかった。これで最後だなんて信じられなかった。また、いつでも会える。でも、こうして当たり前にみんなで笑って過ごせる日々は、もう。
「どーも! 最後の記念に一枚、どう? もちろんあとでフクロウで送るからさ」
ロンドンまであと一時間を切った頃、愛用のカメラを片手に現れたバートが意気揚々と言った。騒ぎ疲れてウトウトしていたたちは写真用の笑顔を作るのに多少の時間を要したが、そうした抜けた顔すらもバートは次々と写真に納めてしまう。女の子の天敵だななどとぼんやり考えながら、隣のマデリンに軽く体重を預けられたはそのまま逆隣のスーザンに凭れかかってカメラにブイサインを送った。
「オッケー、いい表情が撮れた。これからもトイ写真館をどうぞご贔屓に!」
キングズクロス駅に降り立ったあとも、バートはグリフィンドールの卒業生の写真を撮るのに大忙しだった。さすがは写真屋の息子、血は争えない。シリウスやジェームズたちと合流したたちも、また何枚か撮ってもらった。
「じゃあね、。またすぐに会おう」
「うん。ジェームズ、がんばってね!」
ジェームズはリリーの一家と途中までマグルの地下鉄で一緒に帰るという。もちろんそれは遠回りにしかならないのだが、姿現しを習得した彼にとってそんなことは苦でも何でもない。ご両親への結婚の挨拶は後日あらためて正装で行くというジェームズの背中を叩いて励ましてから、はシリウスと一緒に彼らの後ろ姿を見送った。
「リーマスとピーターも、絶対また会おうね。ロンドンまで出てくることあったら連絡してね」
別れ際に声をかけると、振り向いたリーマスは哀しそうに笑った。思い返せば彼が心から楽しそうに、快活に笑う姿を見たことはほとんどない。いつもどこか控えめで、悟りきったような。それでいてこんなふうに、かなしそうに笑うのだ。それでも
あの頃は確かに、好きだった。
ピーターも寂しそうだった。というよりは、どことなく困憊していた。NEWTの結果は散々だったようだし、うまく就職先が見つからなくて結局しばらくはお母さんの仕事を手伝うらしい。みんなそれぞれ、いろいろあるよな……でも共に過ごした七年間は、決して変わらないと信じている。
「うん、そのときは連絡するよ。またね、
シリウス」
ピーターのその言葉尻に、ふと一年前の夏を思い出す。がこっそりと横目で盗み見ると、傍らのシリウスは母親と共に離れていくピーターの背中をすでに見ていなかった。ふたり分のトランクを押し、気だるげに別の通路へと視線を移している。
「腹減った。なあ、漏れ鍋に着いたら荷物だけ置いてそのままソフィーの店行かないか?」
「え? うん、いいよ。わたしあんまりお腹すいてないけど」
「また汽車の中でばくばく食ってたんだろ? 移動してたら少しは減るって」
苦笑混じりに言いながらシリウスが突然お腹に触ってきたので、は思わず後ろに飛び退いた。その拍子に右手に掴んだ鳥かごが揺れ、中のムーンがキーキーと抗議の声をあげる。
「あっ! ご、ごめんってばムーン……」
「あーあ、可哀相にな、落ち着きのない主人に振り回されて」
「大体いっつもシリウスのせいなんですけど」
「なすりつけは良くない。なあ、もうここで放してやったら? ムーン、俺たち今夜は漏れ鍋に泊まるから」
シリウスはもともと動物に優しい。中でもムーンには殊に甘い。飼い主の許可もとらずに勝手に鳥かごを開け放つ恋人を嘆息混じりに見下ろしてから、はすっかり人の少なくなってきたプラットホームを見た。すでに友人たちの姿はない。自由になった森フクロウは嬉しそうに鳴きながら飛び去っていく。
そう。とうとうわたしたちも、自分の翼で羽ばたかねばならないときがやってきたのだ。
その夜、眠りにつくことができたのはいったい何時頃だったのか。時計なんて見ていないから正直分からないけれど、もう明け方が近かったのではないかと思う。ホグワーツの寮はやはり個室ではないので、ジェームズたちを追い出すにしても時間に限りがある。だから誰にも邪魔されることのない漏れ鍋での夜はもともとそれなりに時間をかけていたのだが、今夜のシリウスはなんというかその……いつも以上に激しかった。激しかったというか、びっくりするほど愛撫が執拗だった。ワットにもらった潤滑剤はまだ残っていたらしいが、そんなものは必要なかったし、欲しくて欲しくて何度もねだったのに「まだダメ」といって身体の隅々までじっくりと舐め回された。今までで一番、感じてしまったかもしれない。もっとも、最中はとてもそれどころではないので、終わったあとは大抵いつもそう思うのだが。それでも、最も熱い夜のひとつには確かに違いなかった。
そんな翌朝に、きっぱりと起きられるはずがない。寝室のドアがノックされたとき、は全裸でまだベッドにいた。もちろんシリウスも隣でぐっすりと眠り込んでいる。だがそのノックの音はやたらとしつこく響き、さらに痺れを切らせたような少し切羽詰った声が続いた。
「さん、起きてらっしゃいますか? 魔法省の方がお見えになってますよ」
魔法省……そっか、一度シリウスと三人で警護の話をってことになってたんだっけ。でもこんな朝っぱらから訪ねてくることないのに、と胸中で文句を言いながら枕元の懐中時計を手に取ると、時刻はすでに十一時を回っていた。
「はーい……下でちょっと待ってもらって。すぐ行くから」
のろのろと身体を起こし、扉の向こうのトムに聞こえるようになんとか喉を絞る。もう少し、寝たかったな。はまったく目覚める気配のないシリウスの肩を控えめに揺さぶった。寝起きの悪いシリウスは、こうして段階を経なければ軽く一時間は機嫌を損ねてしまう。
「シリウス、起きて。魔法省の人がきてるって」
「……んー。うん……ん」
「シーリーウースー」
先にシャワーを浴びたいけれど、そんな時間はないだろう。はシリウスが布団を抱き抱えてウンウン唸っている間に服を着て、さらにシリウスのトランクから彼の着替えを適当に取り出した。