ほろ酔い気分で寮に戻り、さっさとベッドに入ったエバンはそこでようやくズボンのポケットを検めた。くしゃくしゃになった羊皮紙を広げると、かなり適当に破ったものなのかそれはもとの形からして歪だ。そこにかえって意図しまいとする意図を感じて彼は思わず吹き出してしまった。
あの女は面白い。こんな形でなければもっと良い付き合い方が
それこそあのままスリザリンにでもいてくれたら、出会いこそ良くなかったもののもっとうまく付き合えただろうし、そうありたかったとさえ思う。
同じだ、きっと。あの女もシリウスも……そうだな、ふたり揃ってスリザリンでもきっとうまくやれただろう。惜しいことをしたと、彼は心から思った。これも全部、あのジジイのおかげだ。人の良さそうな顔をして、裏で何を考えているか分かったものじゃない。そんなもの、俺は絶対にいやだ。
策略を巡らせることが悪だなんて言わない。正面突破しかできないのであれば、あの愚かなグリフィンドールと同じだ。だが
あの男は。
いけない。考えても不愉快になるだけだ。エバンは知らず知らずのうちに掻きむしっていた胸を解き、天蓋ベッドの周りに引いたカーテンの向こうからにじむ明かりの中で、再び羊皮紙に認められた文字を目で追った。
ジェネローサスに会いたい。会って、確かめたいことがあるの。
SECRET TALKS
物置部屋にて
最後の晩餐
否、最後の朝餉。仕方のないことだが、たち七年生はどこかどんよりした面持ちでホグワーツ最後の食事を終えた。このあと二時間も経てばホグズミードからあの蒸気機関車に乗り込んでロンドンへ発つことになる。荷造りはすでにすませてあったが、最後の確認をしようとリリーやニースたちと寮に戻る途中、は後ろから追いかけてきたシリウスに呼び止められた。ジェームズも一緒だ。
「、城の中ちょっと歩いてから帰らねえ?」
「え? あ、うん……いいけど」
「リリー! 僕たちも少し散歩して帰ろうよ」
その様子を見たニースやスーザンたちは、勝手にどうぞとばかりにさっさと引き揚げていく。はその場でリリーたちと別れ、シリウスとふたりで適当に城内をぶらついた。すでに何度か見納めと称していろいろと回っていたのだが、これが本当に最後の。
思い出深い教室の数々、中でも特にシリウスとは縁が深いルーン語の教室。そして六階の物置部屋……シリウスと初めて、思いを伝え合ったところ。猫になってしまったとき、シリウスが激怒したのもこの同じ部屋だった。声を荒げて怒ってくれた。わたしのことを、心から心配して。
「、こっち」
その部屋にも窓はあったが、そこまで山と積まれている机のせいで到達できない
はずだった。だがたちが中に入ったときにはひとつの窓まで通路を作るように机が崩されており、ふたつほどその机を踏み越えて狭い窓まで達したシリウスがまだ手前で立ち往生しているを気楽に手招きした。
「シリウス、机の上とか乗っちゃだめ!」
「はあ? いいだろ、どーせ使ってないんだから。それよりこっちこいよ、いい眺めだぞ」
そういえば、こちら側の窓から外を見たことはなかった気がする。は少し迷ったが、とうとう誘惑に負けて
だが靴だけは脱いで机の上に飛び乗った。そのまま膝歩きでシリウスの隣まで移動する。小さな窓なのでほとんど彼に身体を密着させながら覗くと、眼下に広がる一面の緑とそれを見下ろす青が、朝日を浴びてきらきらと煌いていた。
「わー、すっごいきれい!」
「だろ? 窓があるからずっと気になってたんだけどさ、見てみたらすげーいい景色だったから。誰かがわざと隠してたのかってくらい」
「まさか。だってここずっと物置だったし……って、シリウス!」
その狭い窓をふたりで覗くにはどうしても身体を寄せなければならない。目的はむしろそちらのほうだったのかもしれないと気付いたときにはもう遅く、はそのまま腰を抱かれて隣の机に押し倒されそうになってしまった。すんでのところで押し止め、抗議の声をあげる。
「ちょっと、朝っぱらから!」
「朝でも何でも。な? ちょっとだけ。ホグワーツの最後の思い出にでも」
「何で今! わたし、こんなとこで……」
『あの人』のことを打ち明けた次の日。無理強いはしないけど、一緒に寝たい、入れないからと言われて、まだ少し怖かったけれど、もう一度ゼロから始めるような気持ちでシリウスの部屋に行った。しばらくシリウスのベッドに並んで横になって、彼の腕の中にいるだけですごく安心した。大好きなシリウスのにおい、ときどき髪を梳いたり、額にそっとキスしてくれたり。抱えていたものをたくさん話した解放感も手伝ってか、はそれだけのことでじわじわと身体の奥から熱が込み上げてくるのが分かった。シリウスの手付きも次第にいやらしいものになっていき、彼が具体的に核心を突いたわけではないのだが、とうとう欲しくなって自分からねだってしまった。
シリウスはとても嬉しそうだった。でも少し、不安そうだった。痛かったら絶対に言えよ、と言い聞かせて、入れる前に何かひんやりするものを塗りこんで。あとで聞いてみたら、ワットに分けてもらった潤滑剤だったらしい。その日は痛みもなくて、久しぶりに感じられて、でもそれ以上にシリウスが気持ち良さそうだったのが嬉しかった。やっぱり、心も身体もひとつになれるのが一番気持ちいい
それは、そうなのだが。
「だめ! 部屋の外は絶対やだ。もうそんなに時間だってないんだから」
流されないように、睨みつけてきっぱりと言い放つ。こちらに身を乗り出したままふて腐れた顔をしてみせたシリウスは、ふいにニヤリと笑って間近で覗き込んできた。
「なに、時間がないって。こんなとこで一時間以上するつもりだったの?」
「ば、ばか! 揚げ足とらないで! だって特急出るまであと一時間ちょっとしか……」
「大丈夫、荷造りなんか十分もあればじゅうぶんだから。はもう終わってるんだろ?」
「終わってる、けど……だからそういうことじゃなくて、こんなとこでするのはヤなの!」
夏祭りでプロポーズされたときだって。浴衣の胸元に大きな手を差し込まれ、少し覗いた鎖骨に吸いつかれてそのまま流されてしまいそうになった。でも結局は羞恥と理性のほうが勝って、キスとタッチだけでなんとか収めさせたのだ。外でそういうことするなんて考えられない。はまだ物欲しげな顔でこちらの肌に触ろうとするシリウスの胸を強く押し返した。そして自分で開けた距離を自分で詰め、ふて腐れるシリウスの耳元に囁きかける。
「ロンドンに帰ってから」
漏れ鍋で、と。魔法で日本と行き来するには今のところ煙突飛行に頼るしかない。はイギリスに入国する際もちろんパスポートなど使っていないので、飛行機になど乗れば不法入国ということになってしまう。移動キーを作るにはいちいち魔法省に申請しなければいけないし、姿くらましではとても一度で渡れる距離ではない。さらにそのどちらにしても、強い力を持つあの故郷にポンと降り立つことはできないのだ。それなりに離れたところに到着し、そこからはマグル式のやり方で移動しなければならなくなる。なぜか煙突飛行ネットワークだけは実家の暖炉に繋ぐことができるらしいのだが、そのあたりの仕組みはよく分からない。
とにかくそういうわけで、マクゴナガル曰く日本に戻るときはあと一往復のみ魔法省に融通を利かせてもらえるらしい。だから父に挨拶に行くというシリウスも一緒に煙突飛行を使う予定だ。卒業したその日のうちに父に会うというのはシリウスにとって少し負担が大きい強いだろうと思ったので、は煙突飛行を繋いでもらうタイミングをこれまでより一日ずらしてもらうことにした。今夜は漏れ鍋で過ごして、明日の昼過ぎにロンドンを離れる。
シリウスはまだしばらく不服そうに唇を尖らせていたものの、そもそもこんなところで本気でしようとは思っていなかったのだろう(と思いたい)。の腰を抱き寄せて、甘えるように額を摺り寄せながら言ってきた。
「分かった。そのかわり、今夜は覚悟しとけよ」
「えー、だって明日起きれなかったら困るし……」
「じゃあ今すぐしよう」
「やだ! 分かったってば……シリウスのエッチ」
「『エッチ』にさせてるのはお前だよ。ほら、パンツ見えてる」
「えっ!」
「嘘だよ、バカだなお前」
そう言ってさり気なくスカートの中に入れようとしてきたシリウスの手をはたき、は机の上で反転して彼に背中を向ける。そして膝を抱えて丸くなった彼女をシリウスはすぐさま後ろから抱き締めた。
「なあ、黒のソックスってエロイ」
「は? 意味が分かんない、じゃあホグワーツの九十パーセント以上の女子生徒がエロイって話になるんじゃないですか、ミスターブラック?」
「だって脚すげーきれいに見えるもん。あ、限定だけど」
「取ってつけたように言ってくれなくても結構です」
「ほんとだって。他にどんなイイ女がいたってやっぱ恋しくなるのはだし。俺、の匂い大好き」
軽く髪を掻き上げて、シリウスがのうなじにキスをする。その優しい唇の感触にびくりと身じろぎすると、彼の吐息が首の後ろで嬉しそうに笑んだ。
「なあ、」
「うーん?」
結局のところ、わたしだってシリウスのことが大好きなのだ。後ろから回された彼の手を引き寄せ、遠慮なく体重を凭せ掛けるとシリウスは「重い」と唸りながらもしっかり受け止めてくれた。ときどき胸を反らして振り向き、斜めに映った彼の唇をねだる。何度か焦らして遠ざけられたが、少し袖を引いて求めると彼は素直に口付けをくれた。
その隙にやんわりと胸を揉まれ、感じてしまったことをごまかすようには彼の両手を掴んで離す。
「あのあと、ダンブルドアと話したか?」
「……話したよ。ダンブルドアと、ベンサムと。わたしの警護の話」
前へと向きなおって、何でもないように答える。だが相変わらずの前に腕を回して抱き締めたシリウスは後ろから覗き込んで素っ頓狂な声をあげた。
「ベンサム? ベンサムって確か、フィディアスの」
「ていうか、魔法法執行部の……なんていったかな、参事官? わたしが狙われてることは魔法省も把握してるから。二十四時間ってわけにはいかないけど、基本的には警護をつけるって言われちゃった。あ、間接的にはこの夏からシリウスの上司になるんだね。オーラーって魔法法執行部の管轄でしょう?」
「……そっか、そーだな。それで、警護の話って?」
「断っちゃった」
息を詰め、シリウスの腕の力が弱まった隙にその拘束を解いては振り返る。呆気にとられた様子で瞬くシリウスの顔を覗き込んで、は窺うように聞いた。
「ダメだった? そ、そうだよね、シリウスも魔法省に入るんだもんね。警護つけるって言ってくれてるのに、わたしが断ったらシリウス立場ないよね……ごめん、そういうのちっとも考えてなくて。結婚、するんだから……もっとシリウスの立場とか、考えなきゃだよね。ごめんなさい」
「いや、立場とかそういう話じゃなくてだな……それ、断る必要あるか? そりゃ、俺が守ってやるって、言いたいけど……でもお互い仕事がある以上、いつも傍にいてやれるわけじゃないしさ。省が警護してくれるっていうなら、俺だってそのほうが安心だよ。それじゃダメなのか?」
はしばらく黙ってシリウスを見つめていたが、何も言わずに俯いた彼女の頬を指の腹でシリウスがなぞった。はその手をとって縋るように擦り寄り、半分ほど伏せた瞼の下から恐る恐る見上げる。
「……だめ、じゃないけど。それにベンサムさん、わたしが拒否しても警護はつけるって言ってたよ。狙われてるのが分かってて、みすみす放置はしないって」
「まあ、妥当じゃないか? ダンブルドアの話が本当なら、お前は真っ先に狙われてもおかしくないんだ」
「……でも。だって省にずっと監視されてるとか……あんまり、気持ちいいことじゃないし」
「そりゃそーかもしれないけどな! 『あの人』に狙われてるとしたら、それどころの話じゃねーだろ。『あの人』が捕まったあとで、いくらでも身軽になれるって。だからそれまでは……我慢して警護つけてくれねーか? 俺がずっとついててやれたらいいんだけど……」
「うん、分かってるよ……分かってる。うん、そうだね。わたしのこと心配で、シリウスが仕事に専念できないとかあったら、いやだもんね。うん……分かってる」
分かってる。分かってはいるけれど。そのまままた黙り込んだの頭をそっと撫でて、シリウス。
「記憶のことは、聞いた?」
「それは……あの、」
不自然に目を泳がせるを見て、シリウスは聞こえよがしに嘆息する。彼は机の上で胡坐をかいてしばらく難しい顔をしたあと、思い切ったように顔を上げて言ってきた。
「まだ時間あるな。よし、ダンブルドアのとこ行こう。俺も行くから」
「えっ? え、え、ちょ、待ってよ……待って、シリウス!」
「ダメだ。ずっと引っかかってんだろ、このまま卒業していいのか? 俺は嫌だ、が記憶のことでずっともやもやしてんの。すっきりさせてから卒業しよう、そのほうが絶対……」
「やだってば!」
強引に手を引いて机から降りようとするシリウスに、は半ば金切り声のような声をあげて拒んだ。驚いて目を見張るシリウスから逃げるように視線を落とし、ぼそぼそとつぶやく。
「もう……いいんだよ、あの人のことは。卒業したら顔合わせることもないんだし、だから……もういいの」
「もういいって、
」
「いいの!」
相手の言葉を乱暴に遮り、はそのままシリウスの胸に飛び込んでしがみついた。ぎゅっときつくシャツを握り締め、彼の肩口でふるふると首を振る。シリウスは彼女の腰を抱き、髪を梳いて宥めながらすぐ耳元で問うた。
「ほんとにそれでいいのか?」
「……うん。つまんないこと話して、ごめんね。大丈夫だから。わたしは、何でもないから」
「つまんなくないよ。これからも、気になることあったら何でも話してほしい。俺たち……家族になるんだからさ」
家族。シリウスと、家族に。シリウスが望んだ形。それは、わたしだって。
は恐る恐る見上げたシリウスの瞳が優しく細められるのを見て、涙がこぼれそうになった。うん、と小さく頷くと、彼は肩をすくめながらもの額にそっとキスを落とす。
「分かった。もうダンブルドアのことは言わない。代わりにマクゴナガルのところに行く」
「え、マクゴナガル? なんで……」
「マクゴナガルも、お前のこととかお母さんのこととか知ってるんだろ? 俺たち、これから一緒に暮らすんだからさ……今後のこと、事情を知ってる人と少し話しておきたい。警護のこともあるしな」
「でも、シリウス……」
「
、これはお前だけの問題じゃないんだ。お前の問題は俺の問題でもある、家族になるって……そういう、ことだろ?」
家族に、なる。そっか……そうだね。結婚ってその場限りの問題じゃない、分かっているのかと偉そうに言っておきながら、本当に分かっていなかったのは自分のほうだったのかもしれない。はぎゅうと彼の首にしがみつき、そのサラサラした黒髪に縋るように頬を寄せた。