結局、三日も帰れなかった。鍵穴にキーをさしこみ、ガチャリと重い感触を回してからドアノブを手前に引く。すると暗がりの部屋から白い大きなものがひょっこりと顔を出し、ジェーンはひとまずそれを軽く足で押し込めながら自分も中に入り扉を閉めた。同時に習慣だけでスイッチを探し当て、パチンと明かりをつける。
パンツ、というよりはむしろ下腹部に擦り寄ってくるのは純白の大型犬クーバーズだった。ハンドバッグを肩にかけ、その白い巻き毛を両手でゆるゆると撫でてやる。

「ただいま。ロメーヌに迷惑かけなかった?」

わう、と吠えて嬉しそうに尻尾を振る大型犬の前に人差し指を立て、ジェーンは静かにと合図した。さらにその指を下に向けてシットと命じると、おとなしく尻を下ろしてきれいにお座りをする。その頭をよしよしと撫でて褒め、ジェーンはそのままワンルームのソファに腰かけた。テーブルの上には仕事でどうしても帰れないときに犬の世話を頼んでいる友人からいつものようにメモが置かれている。そのメモから特に変わったこともなかったことを知り、そして冷蔵庫の中を見よと追記されているのを見てジェーンは首を傾げながらも言われたとおりにした。
すると中には見慣れぬタッパーが三つ。ポテトサラダ、小さなハンバーグ、ミートパイ。ああ、そうだ。ミートパイは学生時代から彼女の得意料理のひとつだった気がする。笑いながらも涙をにじませる主人の足に擦り寄って、白犬は同調でもするようにくーんと鼻を鳴らした。

「何でもないのよ。大丈夫」

そう、なんでも。大したことではない。
ジェーンは冷蔵庫の扉を閉め、そのままその場にしゃがみ込んでクーバーズの大きなからだを抱き寄せた。そう、あの頃から、ずっと。途切れ途切れのようでいてすべては繋がり、そうして『今』を経てさらにその先へと伸びていくのだろう。これからも、きっと永遠に巡って。
その確固たる証明が、今まさにこの手の中にあるじゃないか。

「……お前はいつまでわたしを縛り付けるのかしらね、ムーン」

It isn't all in the past

形見としての

はっ    と目をひらくと。部屋は明るかった。そして上からかなりの至近距離で覗き込む顔が、ふたつ。はぐっしょりを汗をかいたパジャマの中で身を竦ませたまま、酸素を求めて激しい呼吸を繰り返した。

、どうしたの! 最近、変よ?」
「へ、へん? え、あの……リリー、ニース……ふたりとも、どうしたの」
「もう、こっちが聞いてるんでしょう! あなたがずっとうなされてたから」

ぐっすりとよく眠るニースまで起きているということは只事ではない。そんなに、ひどかったんだろうか。朝になってから、昨日はうなされていたと指摘されることはこれまでにも間々あったけれど。
二人してのベッドに座り込み、汗に濡れたこちらの顔をそっとタオルで拭いながら、ニース。

「そうよ、。あんまり大きい声出すからびっくりして起きちゃったじゃない。悪い夢でも見たの?」
「ご、ごめん……」

夢。わるい、ゆめ    
曖昧に笑いかけたは不意にそのことを思い出し、声を引きつらせてそのまま痙攣でも起こしたかのように布団の中でがくがくと打ち震えた。ぎょっと飛び上がったリリーとニースが慌ててその身体を押さえつけ、ようやく落ち着いたを見下ろして安堵の息を吐く。

……本当に、何があったの? 最近ずっと元気がないし、夜もあんまり眠れてないみたいだし。ジェームズもシリウスもすごく心配してるわよ」

ジェームズ    シリウス……。は湿った手のひらでぎゅっときつく自分の胸元を掴みながら、小さくかぶりを振ってみせる。

「ほんとに、何でもないの。うん、なんか……変な夢、見ちゃったみたいだけど。でもよく覚えてないし、ごめんね、起こしちゃって。いま何時かな、まだ眠れそう?」


まるで小さな子供にでも言い聞かせるようにゆっくりと呼びかけながら、リリーは少し表情を厳しくした。

「あんなに苦しそうにうなされてたのに、何もないわけないでしょう。ただでさえあなたって分かりやすいんだから、放っておけるわけないじゃない。ここのところずっと変よ。心配事があるなら、話してみてくれない?」

は動きを止めて、上から覗き込んでくるふたりの友人を見上げた。だがその真摯な眼差しを見ているとやはり自分がとてつもなく汚れた存在であるように思えたし、シリウスのことを考えるとそうした思いはますます強まっていくばかりだ。激しい虚脱感と、憎悪。そればかりが巡り巡って身体中を支配し、耐え切れなくなったは頭から布団を被って丸くなった。

「ちょ……ちょっと、! わたしたちに言えないなら、せめてシリウスに」
「ダメ! シリウスには、絶対、言っちゃだめ……」

シリウスにはこんな気持ち、知られたくない。こんな……こんな醜い感情に負けて、『悪』に目を瞑っているなんて。ジェネローサスに話を聞いただけならまだよかった。真偽を確かめるまでは、知らない振りをしてでも大好きなシリウスと一緒にいられると思ったから。わたしは逃げたのだ。『真実』から目を背けて    ただ平凡な幸せを、掴んでもいいと思った。
でも、ダンブルドアの口から聞かされてしまった以上。黙って通り過ぎることが、できなくなってしまった。ジェネローサスの言葉は無視してもいい、でもダンブルドアは。ここで根本的な矛盾が生じる。もうダンブルドアのことなど信じられない、だがその感情そのものがダンブルドアの言葉を信じる自分自身に由来している。信じているのだ、だから。だから、もう……知らぬ振りをしてシリウスの透き通った目を見つめることはできない。今のわたしの心は、汚れた負の感情に支配されている。こんな気持ちのまま、大好きなシリウスには触れられない。

布団の上から優しくの背中を撫でながら、リリーが言う。

「分かったわ、。シリウスには言わない。約束する。だから話してみて、? わたしたち、友達でしょ」

リリー……でも、わたし。そのまま動かないの布団をあっさりと剥ぎ取ったのは仏頂面のニースだった。

「このままひとりで鬱々してて、懲りずにまた夜中に大騒ぎして起こしてくれるっていうの? わたし、卒業式の三日後にはブルーノと会う約束してるんだけど、そのときわたしが寝不足でクマ作っててもはいいっていうのね? ね、そういうことでしょう? 一年ぶりだっていうのに、こいつ疲れてるなって思われてもいいって。久しぶりに会う恋人に元気な顔見せたいって女心がきっとには分からないのよね……」
「ニ、ニース……なにもそんな……わ、わたしそんなつもりじゃ……」
「じゃあ一思いに全部話しちゃったほうがきっと楽になるわよね。ね、わたしのためにも是非そうしてほしいんだけど分かってもらえるかしら
「わ、わか、わか、わか、わ……分かったってば! だ、だから、お、おち、お、落ち着いてニース……!」
「……さすがだわ、ニース」

睡眠に貪欲なニースはやはり起こされたことに苛立っていたらしい。の布団を持ち上げたまま張り詰めた空気で微笑むニースにがあたふたと折れるのを見て、リリーは親指を立てて彼女に賞賛の眼差しを送った。さすがじゃないよ、あーもう、怖かった……。
はがっくりと項垂れながらようやく身体を起こし、重苦しい気持ちで眼前の友人たちを見た。
    しかし。と、彼は腕を組みながら考えた。目の前のショーウィンドウには中を覗き込む男、すなわち自分の顔が映っているはずである。だが実際にはそれは自分の顔ではなく、記憶にすらない老人のものだった。老若男女と演じることは容易い。この十年、そうして生きてきたのだから。だがごくごく稀に、ガラスに反射した自分の姿に驚かされることがあった。お前は一体、誰なんだ。もしかしたら自分の顔だと思っていたものこそが知らない誰かのもので、こちらの顔がもともとは自分のものだったのかもしれない。そんなことをふと考えて、馬鹿馬鹿しいと失笑する。自分の本当の顔は覚えている。それはあいつの瞳だから。
笑ったときの目尻が似ていると言われてきた。それを聞くとあいつは歯を剥き出しにして怒った。怒ったときの鼻の膨らみ方が似ていると言われると、無理に笑おうとして汚い泣き顔になった。それでも人はこの俺よりもあいつのほうが男前だと言った。お前ら、どこに目をつけて物を言っている?

「俺とフィディアスと、どっちが男前だと思う」

出し抜けに、そう聞いたことがある。すると遠慮もせずにこの店で一番高いハンバーグを注文したはしばらく不思議そうな顔でこちらを見つめたあと、

「どっちもどっち」
「どっ!? お前、それ、どーいう……」
「どういうって、だってほんとのことだもの。帰って鏡、見てみたら? わたしそんなこと考えたこともないし。たまに弟の話題が出たと思ったら何なの、それ。気になるなら顔見に行ってあげればいいのに」

彼女はいたく機嫌を損ねたようだった。そんなつもりはなかったのだが。それとも怒った振りでもすれば、負い目なく爽やかに奢ってもらえるとでも思っているのかもしれない。ちゃっかりした女は程度さえ弁えていれば好きだ。ジェネローサスは口腔に残る肉片を赤ワインで流し込み、軽く咳払いを漏らした。

「別に。俺は気にならないが、ときどきレイブンクローの旧友に会うとね。男前の弟はどうしてる、なんてたまに聞かれるんだよ」
「なんて答えてるの?」
「知ったことか、気になるなら手前が自分で探せってね」
「うそばっかり。ほんとは自分が気になるくせに。だからわたしとだってこうやって会ってくれるんでしょう?」

あっさりとそう言い切ったは適度に小さくしたハンバーグを美味しそうに口に運ぶ。その綻んだ表情を優に十秒以上はじっと見つめたあと、ジェネローサスは鼻腔から息を抜いて笑った。

「何度も言ったはずだぞ。あいつのことはもういい、俺はただあんたの顔が見たいだけだってな」
「はいはい、誰にでもそういうこと言ってるんでしょう? フィディアス、来週から一ヶ月ペテルブルクですって。あったかいものでも送ってあげたら」
「お前は……人の話を聞けよ。あいつのことはもういいって言ってるだろう。俺はただの顔が見たくて誘いに応じてるだけだよ」
「またそんなこと言って。人妻なんかで遊んでも面倒なだけでしょ? つまらないこと言わないで。わたしだってフィディアスのことがなければあなたと食事にきたりなんてしないわよ」
「つれないな。たまには遊んだっていいだろ? クソ真面目なマグルとちっこいガキに挟まれて……いや、クソ真面目ってわけでもないか。あっという間に手ぇつけて孕ませたんだもんな、なかなかのもんだ」

カチャリ、と。かすかに音を立ててナイフとフォークをおいた彼女の目の色は変わっていた。分かっている、彼女が最も腹を立てるのは愛する家族のことを侮辱されたときだ。それでも、まったく靡かない彼女を、ときどきこういった形で怒らせてみたくなることはこれまでにも何度かあった。
呆れたように息を吐きながら、ぷいと顔を逸らしたはグラスの水を一気に飲み干す。

「あなたもそのうち分かるようになるわよ。ひとりの人を選んで、その人と結ばれて。愛する人との間に新しい命を授かって、そうすれば家庭を築くことが犠牲だなんて思わなくなる」
「どーかな。どうでもいいね、少なくとも今のうちは。ただでさえストレスのたまる仕事だ、プライベートまで縛り付けられたくはない」
「縛り付けるとか……もういいわよ、今のあなたに何を言っても分からないんでしょうから。あとになって思い知るわよ、ああが言ってたのはコレだったのか! ってね」

そしてさっさと立ち上がったを見上げてジェネローサスはきょとんと瞬いた。

「もう行くのか?」
「ええ、そろそろ昼休みもおしまいだから。あなたもそろそろ戻ったほうがいいんじゃない? 怖い上司が目をギョロギョロさせてあなたのこと探してるんでしょう」
「はあ……思い出したくもないな。まったく地獄だよ、いつ辞めてやろうか常に考えて働いてる。そうだな、『大切な家族』でもできたら置き土産でも残して辞めてやるか」

こちらの冗談めかした物言いがまた気に入らなかったらしい。きつい眼差しで睨みつけてきたに不敵に笑いかけてから、ジェネローサスはグラスを空にして立ち上がった。彼女が化粧室に行っている間に勘定を済ませ、店の外に出て大きく伸びをする。これからまたあの上司の潰れた顔と対面しなければならないのだと思うとそれだけで肩が凝った。
不可解そうに顔をしかめながら、

「そんなにイヤなら、さっさと辞めちゃえばいいのに。大体、似合ってないのよ初めから」
「身も蓋もないことを言うな」

ジェネローサスは嘆息混じりに言いやったが、胡散くさそうに目を細めるを見ているとまた意地の悪いことをしてやりたくなった。メインストリートからは陰になっているこの路地裏の隅で、そっと腰を屈めて彼女の耳元に唇を寄せる。の髪からは、淡いローズの香りがした。

「例のギョロ目の上司    俺は密かに『マッドアイ』って呼んでるんだが。奴の鼻を明かしてやるまでは、辞められないと思ってる」
「あっ……そ、そう。でも、ちょ、ジェネローサス、顔が近い! 女の子だったら誰にでもこういうことしてるの? ホグワーツ時代も噂だけはいろいろと聞いてたけど!」
「失礼だな、ガキだった頃と一緒にしてほしくない。今『こういうこと』してるのはだけだよ」
「また! そういうこと言って! もう、いい加減にして、わたしはフィディアスのことお願いにきてるだけなんだから」

弾けるように後退した彼女の頬が、心なしか紅潮している。それだけで湧き上がった悪戯心はそれなりに満たされてジェネローサスはおとなしく身体を引いた。

「分かったよ、もうしない。本気で人妻に手ぇ出すつもりはないからな。俺だっていずれは跡継ぎが欲しいと思ってるし。これでも長男だから。でもな」

言って、びくりと身じろぎしたを舐めるように見据える。

「あいつはあんたのこと、本気だったよ」

告げられたは一瞬動きを止め、すぐさま大きく目を見開いてニ、三度瞬きした。だがそのショックも一時的なものだったようで、あっという間に表情を険しくして口早に捲くし立てる。

「ほんと、やめて、そういうの。フィディアスのことなんて、何にも分かろうとしてなかったじゃない。なのに……勝手なことだけ言わないで。フィディアスは、わたしの親友の旦那さんなのよ」
「知ってるよ。でも……俺は知ってる。だから」

ジェネローサスは口元から微かな笑みすら消し、半分ほど伏せた瞼の下からじっと上目遣いに彼女の怯えた眼差しを見た。

「あいつのこと少しでも思ってくれてるなら、もう構わないでやってくれないか。あんたが『愛する家族』に囲まれて……そんなもん本当は、見たくないはずだからさ」

憑かれたようにこちらを見つめて動かない彼女の唇が、何度かぎこちなく上下して。ようやくがっちりと歯を食い縛ったは広げた手のひらを容赦なくジェネローサスの頬にぶちかました。

「ばか!! あなたに何が分かるのよ……わたしたちのこと、何にも知らないくせに!!」

そしてタイトなスカートを引き裂かんばかりの勢いで疾走していったその後ろ姿を見送り。
バチンと思い切りひっ叩かれた頬を押さえつけながら、ジェネローサスは泣き出したい思いで笑った。ついぞ奴の思いなんぞ理解できなかった。だがこれだけは分かる。そして恐らくそのことは、彼女だって心のどこかで気付いているのだろう。ただそれを、認めることが怖いだけ。

迎えになんて行かないぞ、フィディー。そんなことをしても互いに傷付くだけ。極を同じくする磁石は反発するしかない、きっとそれと同じこと。
    だから俺が兄として最後にしてやれることがあるとすれば、それは。
(……つまらんことを思い出したな)

ふうと小さく息を吐いて、ショーウィンドウから顔を上げる。もうすぐ、もう少しだ。じきに誰かの顔など借りずとも自由に外を歩ける日がきっと    いや、必ずやってくる。最後にもう一度ガラスに映った老人の姿を一瞥してから、彼は先ほど食料品店で買い溜めした紙袋を抱えてようやくゆっくりと歩き出した。
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(09.11.17)
クーバーズって今回調べてみて初めて知った犬種だけどめっちゃ可愛いですね!
白い大型犬でわたしの好みに合うのはこいつしかいませんでした。