どうやら昨日はかなり飲んだらしく、リリーたちの婚約騒動後の記憶がほとんどない。目が覚めたのはお昼の二時過ぎで、はリリーが持ってきてくれたサンドイッチを寝室で摘むはめになった。

そのまま忘れてしまえばよかったのに。いや、たとえあの伝言を無視したとしても、もう一度呼び出されるのが落ちだろうか。七年も待たせておいて    まともにわたしの顔を、見られるとでもいうのか。

はまだ少し疲れが残っているからといって、その日の午後はずっとひとりでベッドに横になっていた。枕元には花瓶に活けたシリウスの薔薇があり、リリーやニースはそれを見る度にニヤニヤと意味深な笑みを浮かべて去っていく。

、知ってた? 赤い薔薇の花言葉は「あなたを愛す」、それに)
    薔薇って、あなたの誕生花なのよね!)

わざわざ調べてきたらしいニースとリリーは、シリウスって意外とロマンチスト! と勝手に盛り上がっていたけれど。

(……シリウスがそんなの知ってて贈ってくれたわけないじゃん)

まさか、ジェームズじゃあるまいし。ひょっとして花屋さんに教えられたとかだったら、あるかもしれないけど。は嬉しいような恥ずかしいような気持ちでしばらくその赤い花弁を見つめたあと、昨日くしゃくしゃにしてポケットに突っ込んだ羊皮紙を取り出して広げた。

そこには細身の文字で、大事な話があるので至急校長室まで来てほしいというメッセージと、校長室の合言葉とが記されていた。

what the eye doesn't see

見えないことを悲しみはしない

今さら、一体何だというのだろう。卒業を目前にして、やはり本当のことを話さなければと思いなおしたとでもいうのか。聞きたいことなんて何もない。もし本当に『例のあの人』がわたしを手に入れようと姿を現したとしたら    そのときは、仕方がない。シリウスに話そう。隠していたことを謝って……だってあんな馬鹿げた話、シリウスに聞かせたってしょうがない。本当かどうかも分からないもの。それまでは、話す必要なんて。

、気分は良くなったか?」

リリーやニースと夕食をとっていると、食べ終えたシリウスがジェームズと一緒にたちのところにやって来た。ジェームズはそのままデレデレとリリーと話し始め、シリウスは心配そうにこちらを覗き込んでくる。は昨夜の醜態から初めてシリウスと顔を合わせるので、何か変なことを口走らなかったかと不安になりながら苦笑いしてみせた。

「うん、大丈夫だよ。昨日運んでくれたみたいだね……ありがと」
「みたいって、覚えてないのかよ」
「ご、ごめん……飲みすぎちゃった」
「それはいいけどさ。そんなに強くねーんだから、無理すんなよ」

シリウスは、どんなときでも優しい。いつもわたしのことを思ってくれている。だから、それが尚更    心苦しくなるときだって、あるのだ。
そのとき、は不意に視線を感じた気がして広間の前方を仰ぎ見た。しかしいつものように教職員席の中央に掛けるダンブルドアは、隣のマクゴナガルと気楽な様子で話し、こちらのことなど見てもいない。それでも、は確かにダンブルドアの意識がこちらを向いていることを知って眉間に力をこめた。
「こんばんは、ダンブルドア先生。遅くなってすみません」

が校長室を訪ねたのは、就寝時間の二十分前だった。三十分も話すことはない、けれども十分ではあまりにわざとがましいだろう。同じことかもしれないが。だがダンブルドアはそのような素振りはまったく見せず、朗らかに彼女を迎え入れた。

「きてくれて嬉しいよ。急に呼び立ててすまなかったのう」
「いえ……昨日は寮の友人が誕生パーティーを開いてくれて、少し飲みすぎてしまったんです。夕方くらいまで疲れがとれなくて、遅くなってすみませんでした」
「そうか、ともすれば君はもう十八歳ということかな。めでたいことじゃ」
「ありがとうございます」

デスクを挟んでちょうどダンブルドアの正面に腰かけたは出されたレモンティーに少しだけ口をつける。だがすぐにそのカップを机の上へと戻し、何気なく校長室をぐるりと見回した。歴代校長の肖像画が慌てて目を逸らしたり、寝た振りをしたりする。も別段目的があってそうしたわけではないので、どうでもいいような思いでデスクの上に視線を戻した。但し、呼ばれるまではダンブルドアの顔を見ない。

「NEWT試験の結果はいつごろ出るのじゃったかな」
「来週中には届くそうです。結果を見て、寮監と最後の面談があります」
「君の希望は確か……」
「はい、ヒーラーになりたいと思っています」

わたし、本当にどうするのだろう。フィディアスは治らないと分かっていても、それでもヒーラーの道を目指すの? いや、彼が永遠に目を覚まさないと決まったわけじゃない。全部、ジェネローサスが言っているだけだ。わたしはまだ何ひとつ、自分の目で確かめていないじゃないか。やはりわたしには、ヒーラーしか。
そもそも、こんなことを話すために呼びつけたわけではあるまいに。

「覚えておるかね、君がこの城に初めてやってきたとき    組み分け帽子ははじめ、スリザリンと叫んだ」
「……そうでしたね。でもダンブルドア先生が、何かの間違いなのではないかと。史上初と言われた組み分けのやり直し。わたしはグリフィンドールを選びました」

ジェネローサスのことがなければ、こうして呼び出されたとしても何のことだろうと首を傾げていたかもしれない。それほどにとって、組み分けのやり直しというのはすでに過去のこととして薄れきっていたのだ。ここまでくれば、もうどうでもいい。あとはこの学び舎を去るだけ。

「理由を……話しておらなんだ。君の七年間を左右する、重大な要因だったにも関わらず」
「確かに組み分けからしばらくは、気がかりで仕方ありませんでした。でも慌しい生活の中で、わたしにとって大きな関心事ではなくなっていったんです。今はもう、まったく気にしていません。わたしはグリフィンドール生であることを純粋に誇りに思っています。本当です」

そこでようやく、は顔を上げてダンブルドアを見た。その青い瞳からは何を読み取ることもできない。逆に自分が何かを探られているようにも思ったが、はそれでも挑むようにまっすぐとダンブルドアを見つめ返した。
やがて静かに、ダンブルドアが口をひらく。

「では、理由は聞きたくないと?」
「あえて聞きたいとは思いません。先生のご判断にお任せします」

本当は、試したかったのだ。もしも本当にジェネローサスの言っていたことが正しかったとしたら、ダンブルドアはそれをどう語るのか。それともここまで隠し通した男は、このまま口を閉ざしてしまうのか。
訪れた沈黙は決して短くはなかった。背後でかすかに衣擦れの音が、ときどき耐え切れないとばかりに小さな咳までもが聞こえる。それでもダンブルドアの目は一瞬たりともから離れなかった。やがて小さく息を吐き、浅く肘をつきながらゆっくりと話し出す。

「いや……わしは君の未来に過度に干渉した、君はその理由を知る必要がある。そればかりでなく、正しい知識こそが君のもとに迫りくる悪の手を退ける力となり得るのじゃ。君は真実を知らねばならぬ」

    悪の手、真実。それは、いったい。は半ば身を乗り出すようにして正面のダンブルドアを見た。どこからか舞い戻ってきた美しい不死鳥が彼の肩にとまり、主を励ましでもするようにそっと擦り寄る。だがはその赤いからだがぎりぎりと締め付けられている様を思い出し、悟られない程度に椅子の上で身体を引いた。蛇に巻きつかれた、不死鳥。母が夢に見た……。
大丈夫だよと軽くその羽を撫でて、ダンブルドアがこちらに向きなおる。

「千年も昔、この国に偉大なる四人の魔法使いがおった。ゴドリック・グリフィンドール、ヘルガ・ハッフルパフ、ロウェナ・レイブンクロー、そしてサラザール・スリザリン。彼らは集い、素質のある子供たちを探しこの城で魔法教育を施した。はじめは小さな小さな学校じゃ、だが生徒も少しずつ増え、今や世界でも屈指の魔法学校となった。彼らの名は、この先も永久に魔法史の中に刻まれ、忘れ去られることはないじゃろう」
「……知っています。わたしは『勇気』のひと、ゴドリック・グリフィンドールを史上最高の魔法使いだと信じています。我々グリフィンドールの学生は、みんなそうです」

それは自分の言葉ではなかった。ジェネローサスの言ったことだ。そんなものではない、わたしは心からグリフィンドールを尊敬している。けれども今は、すべてにおいてダンブルドアを試したかった。自分がすでに『あの人』側の人間と接触しているということを、暗に示してみたかったのだ。そのことに気付いたとしたら、どうする。もしもわたしがすでに『悪の手』に落ちているとしたら、あなたは一体どうするのか。隠し、遠ざけて何も告げなかったあなたが。

「……そうか。君は誇り高きグリフィンドール生になったのじゃな」
「そうです。わたしはグリフィンドールで掛け替えのないものをたくさん得ました。グリフィンドール生としての誇りを忘れないよう、この城を旅立ちたいと思っています」

嘘ではない、誇りはある。グリフィンドールのすべてには、心から感謝している。それなのにそのことを口にするとき、形の見えない負の何かに激しい憤りを感じている自分がいることもまた、きっと変えられない事実だった。

「……これから君に話すことが、君のその誇りを失わせたりはしないと信じる。だが……受け入れるに多少、時間がかかるかもしれぬ。それでも、聞いてほしい。この城を去れば、自分の身を守れるのは自分しかいないのじゃ。この国の現状は分かっておるな? 君の大切な友人の中にも、家族を失った者がいるはずじゃ」

    シリウス……フィディアス。俯き、膝の上でぎゅっときつく拳を握り締める。ジェネローサスのことは許せない。決して、許さない。アルファードおじさんを殺した犯人だって、いつか必ず。

「『名前を言ってはいけないあの人』と呼ばれている闇の魔法使いがおる。だが、名前を恐れることはその存在を恐れることに他ならぬ。君は奴の名前を知っておるかね?」

そういえば、聞いたことがない。誰も、その名を教えてくれたことなどなかった。小さく首を振るに、ダンブルドアは厳かに告げる。

    ヴォルデモート。奴は名を、ヴォルデモートという。本名はトム・リドル、このホグワーツの卒業生じゃが、そのことを知っている者は少ない。わしも教えたことがある。非常に優秀な学生じゃった」
「……どの、寮だったんですか」

思わず問いかけたに、ダンブルドアは訝しげに眉をひそめる。はしまったと思いできるだけさり気なく付け加えた。

「いえ、つまらない噂ですが……闇の魔法使いは、昔からスリザリンに多いと聞きますから。もしかして、『あの人』もそうなのかと」
「ミス・、『あの人』などと言うでない。名前を恐れるからこそ、より得体の知れぬ恐怖が増すのじゃ。あやつのことは、ヴォルデモートとお呼び」
「は……はい。分かりました」

ヴォルデモート。いや、どうにも慣れない。ずっと『あの人』、もしくはジェネローサスのいう『帝王』で通っていたから。だがそんなものは適当に流しておけばいい。重要なのはそんなことではない。
ダンブルドアは不死鳥を後ろの止まり木に移し、疲れたように軽く頭を振る。

「その通り、あやつはスリザリンの出身じゃ。だから付き従う手下も自然とスリザリンの者が多かった。『死喰い人』と呼ばれる人間    何人かその疑いのある魔法使いを身内に持つスリザリン生も、ホグワーツにはおる。もちろん彼らに罪はない。だがわしは……彼らが早い段階から君に接触することを恐れたのじゃ」

は大きく目を開き、吸い寄せられるようにじっとダンブルドアを見る。待って。それ、ジェネローサスが言っていたことと同じじゃない。ダンブルドアの射るような鋭い眼差しが、まっすぐに彼女を捉える。

「率直に聞こう。すでに彼らから何らかのアクションがあったのではないかね? 君はすでにいくらか情報を得ているように見える。本当のことを話してほしい」

見透かされた。そういえば何度か、同じような気持ちにさせられたことがあったっけ。はそっと目を閉じて、乾いた唇を徐に動かす。

「……確かに、話をされたことはあります。でもあまり、重要なこととは思えません。わたしがサラザール・スリザリンの子孫だと。馬鹿馬鹿しいですよね、わたしが……よりにもよってグリフィンドールのわたしが」
「それは本当のことじゃ、ミス・。確信をもって言える。君はサラザール・スリザリンの末裔じゃ。彼らがどれだけ欲しても決して得ることのできない『高潔』な血を引いておる」

ダンブルドアははっきりとそう言い切った。確信があると。ジェネローサスに初めて聞かされたときは、馬鹿馬鹿しいとさして取り合わなかったのに。どれだけ彼の言葉が次第に重みを持ち始めたとしても、これほどまでは。
はがちがちとときどき歯を鳴らしながら、震える声で聞き返す。

「……ど、どうしてですか。わたしがスリザリンの子孫なんて……そんなこと、どうして分かるんですか。だって大昔の人でしょう、そんなの……分かるはずがありません」
    残念じゃが。君はパーセルタングを、蛇語を話せるじゃろう?」
「そ、それが何だっていうんですか。スリザリンがパーセルマウスだったって聞きました。だからってそれだけを結びつけるのはあまりに短絡的じゃありませんか」

自分がスリザリンの子孫だとか、そんなことはどうだっていい。驚きはするし、まったく驕らないといえば嘘になるが、だからといってそれがなんだというのか。史上最高の魔法使いのひとり、サラザール・スリザリン。その血を受け継いでいるということはきっと誇りに思うべきなのだろう。だがそのことが千年のときを経て生きる自分の未来に影を落とすことがあるとすれば、そんなものはむしろないほうがいい。
ダンブルドアは目を閉じて、あくまでも穏やかに語り続ける。

「パーセルタングは先天的なものと、後天的なものとがある。非常に高度な魔法だが、学ぶことも可能じゃ。だが君は……自ら学んだわけではなかろう? これまでに確認されているパーセルマウスとしての先天的な能力は、『東の湿原』からやってきたサラザール・スリザリンに由来するものだけじゃ」
「……そんな。どうして    わたしが蛇と話せるなんて、どうしてあなたがご存知なんですか。誰も知らないはずなのに……だれも」

シリウスの他は、誰も。ジェネローサスのように、彼がそのことを知っていたとすればそれは。
ダンブルドアはそれと分からない程度に沈黙を挟んだあと、ゆっくりと言葉を紡ぐ。

「君のお母様がそうだったからじゃ。先天的なパーセルマウスだった。君もそうだということでまたひとつの確証を得た。君たち親子に引き継がれた能力、先天的なパーセルマウス    君はスリザリンの血を引いておる」
「……そのことを『あのひ』……ヴォルデモートも知っていて。彼は何が欲しいんですか。わたしの中に流れるスリザリンの血ですか。彼がスリザリンの出身だから。そんなにも尊い血ですか、わたしの受け継いだものは」
「尊い    そうじゃな。スリザリンを尊ぶ彼らにとっては、その血を継いだ人間が傍にいるということは信じられぬほどの僥倖じゃろう。崇拝、羨望、妬み……あらゆる感情をもって君を見ているはずじゃ。それこそ彼らが、ヴォルデモートを見るときと同じように」

ヴォルデモート。この国を恐怖のどん底に陥れ、罪のない人々を無惨に殺していく。そんな人間と同じだなんて。無神経にそんなことを口にするダンブルドアに怒りを覚えて俯いたに、彼はさらにあとを続ける。

「なぜならあやつも、サラザール・スリザリンの血を引く末裔だからじゃ」
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(09.11.11)
What the eye doesn't see, the heart doesn't grieve over