左腕が、うずく。時折、まるで心臓のように    激しく、どくどくと。汗が噴き出しそうなこの夏の熱気でも、彼は長い袖を捲り上げることができなかった。

「痛むのか?」

渇いた喉に冷たい水を流し込んだところで、後ろから声がした。慌てて振り向くと、寮に続く通路からパジャマ姿のまま顔を覗かせているのは、ルームメートのパーシブル。
パーシブル・エイブリー    同じく『死喰い人』の父を持つ、闇に魅せられた蛇のひとりだ。

「……何でもない」
「ここんとこ、ずっとそうだろ。寝てられないくらい痛むのか?」
「何でもないって、言ってるだろう」

腹が立つ    いや、ちがう。虫唾が走る。奴の左腕にはまだこの印がない。だがそんなことは問題じゃない。どうして分からないんだ……今になってもまだ、あんな下らないものを振りかざすなんて。

「その印は、あの方と繋がってるんだろう。何か伝言なのか    それとも、あの方が何かを感じている?」

そう尋ねるパーシブルの声が、太く、高揚している。エバンは腹の底から込み上げてくる不快感を隠しもせずに返答した。

「知ったことか。どうせすぐにお前だって同じものをもらうだろう。そのとき確かめたらどうだ。聞かれて答えられるようなものじゃないってことがよく分かるさ」

分かっていない。こいつは    いや、こいつらは。ただただその光が当たる世界(、、、、、、、)に焦がれるばかりで、本当の闇というものを知らない。

「エバン、待てよ」

流し台にコップを置いて寝室に戻ろうとしたエバンの前に、大柄なパーシブルが立ち塞がった。うんざりと息を吐き、見せ付けるように顔を逸らす。

「なんだ」
「せっかく仲良くしようっていうのに、その態度はないんじゃないか? 俺たちは『仲間』なんだ    これまでも、もちろんこれからもな」

吐き気がする。こんな奴らと一時でもつるんでいた時期があると思うと自分自身に腹が立った。あの頃はまだ、何も知らない子供だったとしても。

「何か勘違いしてるんじゃないか。お友達作りのお遊戯会が始まるわけじゃないんだ」

挑発したいわけではない。何の益にもならない。そんなことは分かりきっているが    こんな奴らが同じ印を持つのだと思うと、どうしようもなくやるせない気分になった。
パーシブルの顔付きが一瞬で変貌する。そんなことでは、帝王にすぐさま心を見破られてしまう。だがあの方は、こんな小者ひとりの思惑などきっと、歯牙にもかけないことだろう。

「お前こそ、勘違いしてるんじゃないのか。自分は一年前に印をもらったと思って……今に見てろ。お前なんかすぐに見返してやる、そのとき後悔してみろ」

吐き捨てるようにそう言ったパーシブルの顔は、欲望に満ちたあまりにも浅ましいものだった。彼が荒々しく寝室に戻っていくのを眺め、なぜだか泣きたい気分になる。ああ    戦うとは一体、どういうことなのだろう。

そのときふと思い浮かんだのは、あのとき漏れ鍋で泣き崩れていた、の姿だった。

FRAGILE

最後のプロポーズ

嬉しかった。シリウスがすでに、わたしとのことを父さんに約束してくれていたということ。父さんの前で、わたしのことが好きだと    そう言ってくれたあのときも、本当に嬉しくて、頼もしくて。ほんの少しでも、疑ってしまったことが恥ずかしかった。何も言わないシリウスにも非はあると、リリーはお冠だったけれど。

「リリーは一旦、実家に戻るの?」
「ええ。一週間くらい家に戻って、その後はロンドンに部屋を借りる予定よ」
「ジェームズは? 一緒に暮らさないの?」

実は数日前、はジェームズが改めてリリーにプロポーズしたと聞いていたのだ。しかしリリーはもう少し待ってと答えを保留したらしく、NEWTは自信満々のジェームズだが、最近は見かける度にわけの分からないうめき声をあげていた。ほんとに、分かりやすい人。わたしに言われるのも癪だと思うけど。
リリーはホグワーツの七年間が詰まったアルバムをめくる手を休め、表情を曇らせた。近しい友人に写真が趣味の同級生はいないが、一学年下のバートは母親が写真屋を営んでおり、現像に必要な材料を持っているので毎年卒業生の多くに学生時代の写真を配り歩いている。もかなりの量をプレゼントしてもらい、自分たちが初めはこんなにも幼かったのだということを知って驚いた。

「……わたし、やっぱり自信がないわ」
「え? な、なんで」

だって、リリーとジェームズは、この一年すっごくいい感じにやってきたじゃないか。あの日本旅行でめでたくちゃんと付き合うことになって、それからのジェームズは時々ほんのちょっと調子に乗るくらいで、みんなの勉強を邪魔するような悪戯はしなくなったし、闇祓いを目指すのだといって、シリウスと揃って彼らには似合わない猛勉強なんてものまでやってのけた。リリーはリリーで、もちろん根が真面目なのは変わらないけど、ジェームズと一緒に少しだけ就寝時間後のデートだとか、こっそりホグズミードに買い物に出かけたりだとか。が誘えば引き止めようとするような行動も、ジェームズとふたりなら犯してしまうこともあった。無論、そんなことは稀だし、いけないことはいけないとしっかり言えるのがリリーの美徳だけれども。そしてジェームズもまた、リリーの言うことならば素直に従った。そうして、互いに良い影響を与えながら、この一年付き合ってきたのだ。傍目には、とてもうまくいっているように見えた。

「ジェームズなら大丈夫だよ! どんなに忙しくても、リリーのこと大事にしてくれるよ」
「それは……分かってるわ。わたしが心配してるのは、そんなことじゃないの」

リリーは半ば苛立ったような口振りで切り返したあと、すぐにばつの悪い顔で頭を下げた。

「ごめんなさい。だけどわたし、自信がないの。冬にあなたと話した、あのときのまま。彼はやっぱり闇祓いになるって言ってるし……そんな、危険なこと。わたしが希望してる惨事部も……マクゴナガル先生に聞いたわ。時代が時代だから、今はとても忙しいところ。自分の選んだ進路だから、そのことは仕方がない。でも、自分がそんな状態で、その上、大切な人までそんな……わたし、耐えられるかどうか」

言っていることは分かるし、彼女の不安だってよく分かる。そうだ、わたしたちはきっと。
は黙りこくって俯いたリリーの隣に移動し、そっと包み込むように抱き締めた。

「分かるよ。すっごくよく、分かる。でも、あのときリリーが言ってくれたんだよね。わたしが待っててあげたら……シリウスが、安心して出かけられるって。絶対帰ろうって、思ってくれるって。同じだよ。ジェームズだって……リリーがいてくれると思ったら、絶対に強くなれるよ。七年来友達だったわたしが保証する! だから     一緒にいてあげて。リリーにとってもジェームズが必要なんだったら、離れる理由なんかないよ……わたしも、結婚するしさ」

躊躇いながらも打ち明けると、リリーは驚いた様子でこちらを見た。これまではずっと、一緒に暮らすだとか、家族になるだとか。そういった間接的な文言ばかりで、はっきり「結婚」と言ったことはなかった。それを言い出したシリウス自身が、公的な契約となる婚姻関係を結ぶということに関して実感を持っておらず、自分の中でけじめがついていればそれでいいと思っている節があったのだ。だからリリーに言わせれば「何が覚悟だ、まともな覚悟なんてできてないじゃないか」ということだったのだが。

「さっき、シリウスと話してね。別に、婚姻届出すとか……わたしも、そういうきっちりしたことはどっちでもいいかなって思ってたんだけど。でも、すごく大切な人だから、ちゃんとした『家族』になりたいし……それにやっぱり、子供も欲しいなとか思ったら、ちゃんと結婚しといた方がいいかなとか、あー、うーん……ごめん、全部ウソ。ううん、ウソじゃないけどでも、シリウスが結婚しようって言ってくれてすっごく嬉しかったし……それに結局は、わたしがシリウスの奥さんになりたいの」

うわあああ、恥ずかしい、恥ずかしい! でもこちらの困った顔を見て吹き出したリリーは、本当におめでとうと言ってきつく抱き返してくれた。ううん、わたしこそ、ありがとう。リリーがいてくれたから、みんながいてくれたから、だからわたしは今、こうして。

「リリー、考えてみて。だったら、仮にジェームズと離れて暮らすとして、どう思う? 傍にいないからって、ジェームズの心配するのをやめられる? 自分の仕事に専念できる? できるんだったらいいんだけど……もし無理なら、それだったら一緒にいたほうがいいよ。少しでも長くいて、またここに帰ってこようって気力もらえるほうが、ずっと。大事な人が傍にいてくれるって思ったら    それだけで、いっぱい強くなれるでしょう?」

そんなことは、リリーだって当然分かっていただろう。だが、言葉にしてはっきりとそれを突きつけられ、彼女は戸惑っていた。もう一度優しく抱き寄せて、繰り返す。

「ジェームズの傍にいてあげて。本当は臆病で寂しがりな、彼の隣に。リリーならできるよ    リリーは、ジェームズが好きになった、たったひとりの人だもん」
はその日の夕暮れどき、シリウスに誘われてホグズミードに続く秘密の通路を歩いていた。七年生に上がってからは、こうして時々こっそり抜け出してふたりでホグズミードに出かけることがあった。ホグワーツを卒業してしまえば、きっとここに来られる機会もぐっと減るだろう。ホグワーツの城は、ここで七年を過ごす生徒たちにとって最高に居心地の良い空間だった。だが時には、ここではないどこかへ飛び出していきたい    そうした欲望を叶えてくれる、魅力的な空間。それがホグズミードという、小さな小さな村だった。
例の井戸から降り立って、まずはロスメルタの三本の箒を訪ねる。ロスメルタはいつものように笑顔でふたりを迎え、カウンター席にバタービールを二本取り出して置いた。

「寂しくなるわね、あなたたちがいなくなると」

店内はそれほど混み合っているわけではないが、アルコールが入って陽気に騒ぐ客の笑い声や歌声などが満ちて賑やかだ。ロスメルタは杖先で瓶のふたを叩いて開け、はその赤く塗られた艶やかな爪が忙しなく動くのを見ていた。

「ウソばっかり。ママが寂しく思うのはシリウスのことだけでしょー」
「あらやだ。分かっちゃった?」
「マダム、そういうこと平気で言うのやめてくれねーか。こいつ、冗談なんか通じやしないんだから」
「はいはい、分かってるわよ。冗談よ、冗談。あなたたちがいなくったってちっとも寂しくなんかないわ。来年からはまた新しい三年生が来てくれるものね。何も変わらないわ、この村は」

それがロスメルタなりの気遣いなのだということは、よく分かっていたけれど。
何も変わらない。七年を過ごしたわたしたちがあの城を旅立っても、また新たな子供たちがやって来るだけで、そうして世界は回っていく。円環的な時間と、直線的な時間。それを言い出したのは確か、ヨーロッパの古人らだった。

「オーラーになるの?」

自分のグラスに注いだ蜂蜜酒を飲み干した唇で、ロスメルタが尋ねた。シリウスはすでに空になった瓶を見つめたまま、言葉少なに頷く。

「……そう。も大変ねえ、そんな奇特な男に惚れるなんて。知ってた、シリウス? 闇祓い局にはとんでもない妄想癖のオーラーがいるらしいわ。訓練生が後ろから近付いただけで俺を襲おうとしたって叩きのめしちゃったらしいわよ。あなたも気をつけて」

へえ……でもこんな時代だから、それくらいの心構えがなきゃだめなのかも。なんでも、服従の呪文をかけられて操られる人も出てきているらしい。ジェネローサス曰く、最近はポリジュース薬も多用されているようだ。そんなことされたら    誰を信じていいか、分からなくなるじゃないか。
だから、もっとたくさん一緒にいて、少しでも異変があれば、すぐにでも分かるように。

「それじゃあ、マダム、多分これで……卒業前は、最後になると思うけど」

バタービールを飲んでしばらく話をしたあと、ふたりはゆっくりとカウンター席を立った。

「ええ、またいつでも帰ってらっしゃい。あなたたちの席が空いてるかは分からないけど」

そう言って先ほどまでふたりが座っていた座席を一瞥し、ロスメルタが軽くウィンクしてみせる。これで最後だと思うとは唐突に寂しさが込み上げてきて、カウンター越しにロスメルタの細身を抱き締めた。彼女は少なからず驚いたようだが、よしよしとあやすように頭を撫でて、そっと抱き返してくれる。

「またね、ママ」
「ええ。不安だと思うけど、お幸せにね、
「うん……ありがとう」

次は、いつ会えるのか。だけど、必ず……。
ロスメルタに見送られ、たちはすでに暗くなりかけたホグズミードの通りを懐かしむように歩いた。夕食の時間はとっくに始まっているので、ハニーデュークスで買ったお菓子を摘み、城に戻ったらそのまま厨房に押しかけるつもりだ。だが最後にリーバーにお別れを言うために彼の家に向かうのかと思いきや、シリウスはを連れて、普段ならまず通らない裏路地へと入っていった。

「……あれ、シリウス。どこ行くの?」

尋ねるも、シリウスは「秘密」とだけ言ってどんどん知らない路地を突き進んでいく。いい加減、不安になってきたが「そろそろ帰ろうよ」と裾を引っ張ったとき、ここだとシリウスが立ち止まったのはすでに閉店したらしい小さな花屋の前だった。

「ちょっと待ってろ」
「え? でも、もう終わってるよ。こんなお店知らなかった……花屋さんがどうかしたの?」

シリウスが花屋なんて、一体何が起こったのだろう。わけが分からず立ち尽くすの前で、シリウスはどうやら通用口らしいドアをノックして、返事も待たずに勝手に中に入っていってしまった。ちょ、ちょっと! 何やってるのよ、無断外出のホグズミードで!
がどぎまぎしているうちに、ひとりで戻ってきたシリウスはその右手に大きな赤い花束を抱えていた。

「……シリウス?」

え、何、なになになに、シリウスが真紅の薔薇? しかもすっごく似合ってるあたりがやっぱりハンサムボーイは違うよね。いや、そういうことは問題じゃなくて。
やっている本人も、かなり恥ずかしいらしい。呆然と目を見開くに、半ば押し付けるようにしてその薔薇の花束を差し出した。

「明日、誕生日だろ。おめでとう。本当は明日渡したかったんだけどさ……ジェームズたちがパーティーするって言ってるだろ? お前の誕生日はいつも賑やかで、ここに来られるか分かんなかったから」
「あ、ありがとう……びっくりした。前から注文してくれてたの? わたし、こんなお店知らなかったよ」
「ああ、俺も知らなかったけど、ロイドが教えてくれたんだ。ここで奥さんの好きだった花をいつも買ってるって」

ロイドというのは、洋装店のリーバーのことだ。は一抱えもあるその花束を受け取って、漂う大人らしい香りに思わず頬を緩めた。フィディアスに贈られた白薔薇とは違う、ゆったりした深い色。

「嬉しい、ありがとう。でも初めてだね、シリウスが花くれるなんて」

薔薇が大好きってわけじゃないけど。でもやっぱり、きれい。花をもらって嬉しくない女の子なんて、きっといないだろうし。それにシリウスにもらったものなら、何だって特別だから。

「ああ……お前が白い薔薇、持ってるときにさ。お前だったら赤いほうが、似合うんじゃないかと思ってた」
「そ、そうかな。似合う?」
「うん、似合ってる。お前は髪も黒くてきれいだし、こういう深い色がしっくりくるんじゃないか?」

そういえば、ダンスパーティのときもシリウスに勧められて赤いドレスローブを買ったっけ。去年の夏は、リリーやニースに担がれてピンクの浴衣なんか着ちゃったし……。
シリウスは花束を握るの両手をそっと包み、とても優しい眼差しで、こう言った。

「何があってもお前を護る。必ず、幸せにする。だから    卒業したら、結婚しよう。俺は、家族に恵まれなかったから……お前と本当の、『家族』になりたい」

結婚。その言葉をシリウスの口から聞いたのは、初めてだったけれど。この薔薇を渡されたときから    はそのことに、どこか自分で気付いていたような気がした。
そういえば、いつの日か……赤い何かを、夢に見たような……。

は涙混じりに頷いて、勢いよくシリウスの首に手を伸ばして抱きついた。

もっと、強くなろう。誰に、何を聞かされても    大切な人のために、もっと、強い人間に。シリウスのためならばきっとそうなれるし、ならなければいけないのだとは思った。折れやすい自分を、こうしてシリウスが護ってくれるように。本当は傷付きやすいシリウスを、これからはわたしが護ってあげられるように。
BACK - TOP - NEXT
(09.08.21)