試験勉強の合間、はひとりで図書館にいた。メインの通路からは死角になっている、隅の小さなテーブルを陣取って隠れるようにして本を読んでいる。サラザール・スリザリン    そして、予言者。

「夢に興味があるのかな、ミス・

『夢見』という項目を食い入るように見ていたの耳元で、ねっとりした声がした。ぞっとして反対側に飛び退くと、身を屈めてこちらに顔を近付けていたロジエールがゆったりと背筋を正すのが目に入る。は真っ赤になりながら急いで『予言者』という本を後ろに隠し、逃げるように席を立った。

「あんたに関係ないでしょう。人の読書を覗くなんて、悪趣味」
「声をかけるにはあんまり集中なさっていたんでね。よっぽど面白い本かと思ったが」
「えーえー、面白いわよ、これで満足? あなたもよっぽど暇なのね、試験勉強はいいの?」
「やってるさ。もっとも、NEWTの結果なんて俺にはどうでもいいけどな」

どうでもいい? ロジエールがどんな仕事をするのかそんなことは知らないが、スラッグホーンがしきりに入省を勧めているのは何度か見かけたことがあった。
そのことについて話す気はないらしい。こちらの手元を一瞥し、ロジエールが不敵に微笑む。

「気になってるみたいだな。自分の正体が」
「つまらないこと言わないで。ただ、あの人の言ってたことが少し気になっただけよ。それだけよ」

ごまかせるはずがない。ロジエールは分かっている。シリウスたちも知らない    わたしの葛藤に、気付いている。だがどうしてもそれを、この男の前で認めたくはなかった。

「あの人はいつでもあんたを迎える準備ができてる。聞きたいことがあれば、そのときに聞けばいい。あの男と違って、あの人なら包み隠さずすべてを話してくれるはずだ」

は立ち去りかけた足を止め、上半身だけで短く振り向く。

「しつこい。もうわたしに付きまとわないで。そんなんだからエンドアに振られるのよ、ばーか!」

スリザリン生の恋愛事情なんか、知ったことじゃないけど! でもたまーに耳に入ってくるもの、しょうがないじゃない。わたしだって好きで聞いてるわけじゃないわよ!
はどうにでもなれという思いで吐き捨てると、『予言者』を引っ掴んだまま飛ぶように図書室をあとにした。

just around the corner

少しだけ先の話

一週間に渡るNEWT試験を終え、七年生は下級生が試験勉強に追われている横で、好き好きに学生生活の最後を味わっていた。は陽光が降りそそぐ湖のほとりで、友人たちとのんびりくつろぐのが好きだ。今日はリリーやニース、スーザンにメイなど、おなじみの同級生と木陰で恋愛話に花を咲かせていた。マデリンは例のゴブストーンクラブの先輩が忘れられず、彼のあとを追って予言者新聞への就職を目指している。故郷の軽食屋に就職が決まっているメイは長らくフリー、父親の伝手で魔法薬研究所の事務員になるスーザンは、先日結局セオドリックと別れたといって今日はかなり荒れていた。一方、ニースはこの一年アルバニアのブルーノと何度かフクロウのやり取りをし、卒業後は無事結婚する手筈になっているらしい。
日に日に暗雲が立ち込めるようなこの国の現状を、今や知らない人間は誰もいない。だからこそ、そのような吉報はたちの心をいつも以上に熱く沸き立たせた。

「おめでとう! ブルーノも帰ってきたらずっとロンドンにいるみたいだし、新居が決まったら教えてね」
「式には呼んでよ、ぜったい!」
「ニース・ニファー……うーん、語呂はあんまり良くないわね。あ、どうせだったら婿養子にしちゃえば? ブルーノ・ジェファなら違和感ないから」
「別に、名前と結婚するわけじゃないんだけど」

好き勝手なことを口々に捲くし立てる友人たちを眺め、ニースが苦笑いする。でも、ありがとうと微笑んだニースの表情は穏やかで、本当に幸せそうに見えた。
こんな時代からこそきっと、もっとたくさんの希望が必要なんだ。闇の罠に    陥らないように。

のところは? もうだいぶ長いでしょう。結婚しないの?」
「けっ!」

スーザンの無責任な問いかけに、どきりと心臓が高鳴る。『結婚』     一緒に住むっていうことは、『家族』になるっていうことは、つまりそういうことなんだろうけど。直接シリウスの口から『結婚』という文言を聞いたことはないし、卒業してからの具体的な話も、まだ……まあ、卒業まではあと二週間くらいあるし……。

「す、すると思うけど……わ、分かんない。わたしもうまくいけばヒーラーの実習があるし、シリウスだってオーラーの訓練とかで忙しくなると思うし……か、勝手なこと言ってあとでシリウスに怒られたらイヤだな」
「ヒーラーにオーラーねぇ。、大丈夫? 仕事が忙しくてダメになっちゃう夫婦ってけっこういるみたいよ」
「スーザン! 自分が振られたばっかりだからってに変なこと言わないで!」
「ふっ、振られた? 失礼ね、勘違いしないでよリリー、わたしは振られたんじゃなくてこっちから振ってやったのよ、あんな、肝っ玉の小さい男!」
「それはともかく」

ニースはむきになるスーザンの口元に右手をかざして、のほうを向いた。

「あなたの言う通りよ。仕事が始まったら、なかなか時間がとれなくて、慣れるまではゆっくり話もできなくなると思う。だからわたしたちもせめて、わたしが学生の間に話し合って決めたの。まだちゃんとしたことが決まってないんだったら、今のうちにきちんと話し合っておくべきだと思うわ。特にあなたたちはふたりとも、とても    厳しい世界に飛び込もうとしてるんだから」
「……わー。ニース、おとなー」

惚けたようにつぶやくマデリンの声を聞きながら、はまっすぐにニースの瞳を見た。ああ、本当だ。みんな、わたしの知らない間にいっぱいおとなになっている。

「……ありがとう」

そのあと、とうとう矛先を向けられたリリーはスーザンの執拗な恋愛尋問に怒り、ぷりぷりしながら一足先に城へと帰っていった。
禁じられた森に程近い、大きな木々に覆われた芝生。多くのホグワーツ生がくつろぐ湖からは少しだけ距離がある。残りわずかな時間で、七年も共に過ごした獅子の友人たちと語らうことも大切だ。だが男ならば当然、ひとりの時間を持ちたいときもあるだろう。シリウスはその広々した木陰に横たわり、うとうとと眠り込んでいた。

どれほどの時間が経過しただろう。悪い夢を見たわけではない。だがどこか不快な気分で重々しく目を開けたシリウスは、木々の間から降り注ぐ光がすでに夕暮れどきのそれであることに気付いて小さく息を吐いた。そろそろ食事の時間だろうか。城に戻らなければ。
緩慢な動作で上半身を起こし、重たい瞼をこする。そのとき、彼は背後でかすかに草のすれるような音を聞いた気がして、何とはなしに振り向いた。

茂みの間から顔を覗かせたのは、一匹の小さな黒猫だった。ペットに猫を飼っている生徒はたくさんいるし、敷地内にも野良猫の一匹や二匹は当然いるだろう。だがシリウスはなぜか胸騒ぎを感じ、身体ごと反転させて仔猫の大きな両眼をじっと見た。同時、その小さな身をひるがえして、黒猫は茂みのおくへと走り去っていく。

「まっ……!」

立ち上がりかけて、彼ははたと我に返った。自分は一体、いま何を考えていた?

(……猫だ、ただの。決まってるだろ?)

ほんの一瞬、それがだと錯覚してしまった。一度だけ見た、あの小さな小さな黒い猫に。
馬鹿馬鹿しい。彼女は、事故とはいえアニメーガスになってしまったことを、心から悔いていた。そうした自分の力が怖いと。それなのに、今になって再び猫の姿になろうとするなんて。

(大体、が俺から逃げようとするわけないだろ)

それなのに、どうしてこんなにも不安な気持ちになるのだろう。

(……嫌な夢、見てたのかもな)

夢は見たあとで、すぐに忘れてしまうことが多いから。そういえばも、何かを見たことは覚えていたとしても、その中身は覚えていない、けれども楽しいだとか悲しいだとか、時には恐ろしいとかそういった感情の部分だけは記憶していることがあると言っていた。漏れ鍋の同じベッドに寝ているとき、何度か理由もなく真夜中に突然しがみついてきたのはどうやらそれらしい。怖い夢を見たあとは、再び眠りにつくのが恐ろしいといって朝まで本を読んでいたこともある。いわゆる『怖い話』も苦手なようだし、ひとりで眠るときは大丈夫なのだろうか、それともリリーやニースに助けを求めるときもあるのだろうか。卒業したあとも    自分が、傍にいてやらなければと。

「……シリウス?」

今度は、気付かなかった。先ほど猫が消えた茂みの向こうから、きょとんとした様子のが顔を出していた。

「こんなところで何してるの?」
「な、なにって」

まさか、ひょっとしてさっきの黒猫は本当に。

……おまえ、」
「え? なに?」

いや、まさか。そんなはずはない。アニメーガスの姿で現れた彼女が、その直後に涼しい顔をして俺の前に再び姿を見せるなんて。

「……いや。何でもない」
「なに? 言いかけてやめないでよ、気になる」
「それよりお前こそ、こんなところで何やってんだよ。もうすぐ夕食だろ」
「うん。だから寮に帰ったら、シリウスまだだっていうから。ちょっと話そうかなって思って、ジェームズに地図借りたの。そっち行っていい?」

こちらの返事も待たずに近付いてきたは、気のせいかもしれないが俺の目を見ないようにしながら隣に座り込んだ。人目のないところでこうしてふたりきりになると    当然、いやらしい気持ちも湧き上がってくるが。

「どうした?」

スカートから覗くの艶々した両脚に見惚れながら、声をかける。が、彼女は膝を抱えて俯いたまま、しばらく何事かを躊躇っているように見えた。

「どうした?」
「……あの。その、ね」

途方に暮れた様子で小さくうめき、ようやく顔を上げたの目は赤く潤んでいた。そんなふうに見られたら、我慢できなくなるだろうが。

「何かあったのか?」
「……ううん、そうじゃなくて……あの、卒業したらね、わたしたち、一緒に住むの?」
     

ついに。本当は、自分から切り出さなくてはいけないことだった。だが、刻々と卒業の日が迫っても    どこかでそれを認めたくない自分が、まだいける、まだ大丈夫だと先延ばしにしてしまっていた。
足元の草の一本一本を見下ろしながら、聞き返す。

「あー……は、どうしたい?」
「ど    『どうしたい』?」

なぜか怒ったような声を出しては眉をひそめた。

「一緒に住もうって言ったのはシリウスだよ。なのにこんなギリギリになっても何も言ってくれないし」
「いや……だってそれは、お互いまだ仕事がどうなるか分からないし、それにそれが決まってもまずはお父さんに挨拶に行かねーと……」

当然のことを、口にしたまでだ。だが、お父さんに挨拶、というところでは豆鉄砲でも食ったような顔をして急に赤くなってしまった。

「だ、だってシリウスそんなことちっとも言ってくれなかった! だからわたし、ひょっとしてシリウスが忘れちゃってるかもって思って……」
「わすれる?!」

なんだって俺が指輪まで贈った大事なとのことを忘れたりするものか。渡した指輪は普段、ケースに入れてトランクの中に仕舞ってあるらしい。できれば肌身離さず持っていてほしいのが本音だが、鍵もぽろぽろ落とすのこと、それが最も賢い選択なのかもしれない。
泣き出すの肩を抱き寄せて、その香る黒髪に唇を寄せた。

「……不安にさせて、ごめん。仕事が決まったら、ふたりでお父さんに挨拶に行こう。もし……もし決まらなくても、話し合いに、行こう。お前のこと幸せにするって、お父さんに約束したから」
「へ? え……うそ、いつ?」
「そりゃ、去年の夏休み、日本に行ったとき」
「えぇっ!? うそ、そんな……何で言ってくれなかったの! わたし、ちっとも知らなかった!」
「い、いいだろ、べつに! 俺とお父さんの間のことなんだから」
「だって、だって!」

言葉少なに見つめるの濡れた眼差しは俺を紛れもなく男にするし、こうして子供のように声をあげて泣くとき、その佇まいは俺をまるで父親のような気分にさせるのだった。あやすように抱き締めて、告げる。

「それまでは、これまでみたいに漏れ鍋に部屋でも借りて過ごそう。お父さんと話して、住むところはそれから考えればいいだろ?」

言葉にすると突然、これまで靄のようだった何かが実際に輪郭を帯びてくるようで。ああ、もう子供のままではいられないのだと、唐突に突きつけられたような気分になった。
けれど。

    と暮らす未来なら、それもきっと悪くはないだろう。
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(09.08.15)