「心は決まったか?」

約束をしたわけではない。だが    通じるものがあったとは、言いたくない。言いたくない、けれど。ここにいるのではないかと思った。
ホグワーツの図書館は広い。その、小さな一角。魔法薬学の棚の周りでは、そもそもスリザリン生と遭遇する確率が高かった。

さり気なく隣に並んで上級魔法薬の本を探しながら、口をひらく。

「お陰さまで」
「それはよかった」

まるで世間話でもするかのように。世間話をするような仲では、決してないけれど。

「俺たちの側にくるなら、不自由はさせない。あの人はあんたの帰りを心待ちに    
「生憎だけど、あなたの気持ちには応えられないわ」

他の誰に聞かれてもいいように。いや、どちらにしても聞かれたくない内容には変わりないが。だが少なくとも、真意を悟られるよりはずっといい。
ロジエールの息遣いが変わったことに気付いて、そっと横目で盗み見る。彼は本棚の上段にある『上級魔法薬・欠かせない薬草』に左手を伸ばしたまま、同じようにしてじっとこちらを見ていた。探るように    そしてどこか、見透かすように。

「逃げるのか? だったら、それもいい。杖尽くで手に入れるまでだ」
「逃げてなんかない。自分の道は自分で拓けと、そう言ったのはあなたよ。わたしは自分自身の意思で選んだの」

叩きつけるように言いながら、は彼の手から『欠かせない薬草』を取り上げて自分の腕の中に納めた。きつく睨みつけて、はっきりと告げる。

「わたしは誰のものにもならない。わたしには、大切な人たちがいるもの。わたしは、わたしが大切に思う人たちに属する。他の誰にも従わない」

たとえそれが、魔法界の誰もが恐れる『例のあの人』だろうと    あらゆる意味で史上『最高』の魔法使い、アルバス・ダンブルドアであろうと。
ロジエールは鼻先で笑い飛ばし、抱えた数冊の本を脇に持ちなおした。

「それでどうするつもりだ。あの人はあんたを諦めないぞ。日本の田舎にでも戻って一生そこで暮らすか?」
「逃げないと、そう言ったでしょう。でもどうしてそれを、わたしがよりにもよってあなたに話すとでも思うの?」
「まったくだな」

口角を上げて笑うロジエールの青い瞳は、こちらの胸の奥に燻る迷いを知っているかのように、暗い光を宿して覗き込んでくる。逃げじゃない。逃げてなんかいない。モヤモヤしたものをぶつけるように、は去り際『欠かせない薬草』をロジエールのほうへ投げつけた。彼はそれを自分が抱えた本の山に載せようと少し後退したが、バランスを崩してそのまま転倒する。初めてロジエールの無様な姿を見た気がしては少しだけ満足し、踵を返して薬学の本棚を抜けた。
そこで、同じように本の山を抱えたセブルス・スネイプとぶつかりそうになった。

「ああ……ごめん、なさい」

ひょっとして、聞いていたのだろうか。だが彼が怪訝そうな顔をしているのはいつものことなので、そのどちらとも判断がつかない。大丈夫だ。もし仮に聞いていたとしても    ただそれだけでは、何のことだか分からないはずだから。聞かれても、まさかロジエールがスネイプにそんなことをペラペラしゃべるとも思えない。
それとも、もしかして……?

「いつまでもそんなところに突っ立ってるんじゃない。邪魔だ」

じゃ    ああ、こいつは、本当に! 一年生のときから、何ひとつ変わっていないじゃないか! 確かに、薬学の本棚に続く通路を塞いでしまっているのは事実だけれど。は眉間に力を入れて「ごめんなさいね!」と怒鳴りつけると、肩をぶつけるような気持ちで    だが実際は、スネイプに触れるのがいやだったので、極力、距離をとるようにしながら、急いでその場を立ち去った。

either shut or open

どちらかでしかありえない

「早いわね。あと一ヶ月で卒業なんて」
「……うーん」

ああ、信じられない。信じたくない。しかし、部屋にかかったカレンダーはすでに六月のページまで繰られていた。NEWT試験は特に魔法省や癒療関係の就職に直結するため、早めに結果を出さなければならず、OWL試験より二週間も前に実施されることになっている。つまり、試験本番まではあと一週間しかないということだった。

「あなたたちなら大丈夫よ。これまで人一倍努力してきたんだから」

ベッドの上でもノートを広げてげんなりと項垂れるの肩を叩いて、ニースが気楽に言った。ニースもNEWT試験を受けることは受けるのだが、彼女は父親の伝手で、すでにフローリシュ&ブロッツ書店への就職が決まっていたのだ。父親の伝手、というよりは、正しくは彼女が幼い頃に亡くなった母親のおかげ、だが。ニースの母親は優れた製本師で、何ヶ月も先まで予約が詰まっているような人気の職人だったらしい。ニースも子供の頃から本は好きだったし、母親の手がけた美しい装丁を誇りに思っていたので、書店で働きながら、自分にしかできない一冊を作ることのできる、ただひとりの製本師を目指すのだと言っていた。そして父親の口利きで、古くからの由緒あるフローリシュ&ブロッツへ就職することが決まったのだ。

「リーマスは? 卒業したらどうするの?」

卒業を間近に控えた七年生が何となく固まって過ごしている談話室の一角で、リーマスはシリウスたちと一緒に呪文学の参考書を見ていた。こちらの声に顔を上げ、微笑んでみせるその眼差しには諦めの色が付きまとう。

「両親の店を手伝おうと思って。話したかな、実家は小さな雑貨屋をやってるんだよ」
「へえ……そうなんだ。すごいね、それじゃあ将来的にはリーマスが経営することになるんだ? 遊びに行くよ、絶対。ね」

が声をかけても、リーマスはただ静かに笑うだけだった。
本当は、もっと他に、やりたいことがたくさんあったかもしれないのに。狼人間であるリーマスは、初めからすべてを諦めて何も口には出さない。マクゴナガルともきっと、嫌というほど話し合ったのだろう。リーマスが人狼であることはリーマスの罪ではない。大丈夫だと    本当にやりたいことがあるなら、諦めてはいけないと。現実問題、人狼に対する差別意識が世間に根強く存在する以上、そんなことを安易に言うなんて、できなかった。
ホグワーツに就職すればいいよ、ダンブルドアだってきっと喜んで受け入れてくれるさと、ジェームズは明るく言ったけれど。教師になるには若くて経験がなさすぎる、事務員のフィルチはまだまだ退く気配もない、僕の仕事なんてこの城にはないよとリーマスは笑って首を振るばかりだ。だったらフィルチに一発ぶちかまして、二度とホグワーツには戻れない身体にしてやろうとまことしやかに囁きあうジェームズとシリウスを、馬鹿なこと言ってんじゃないの! と叱りつけたのは

こんな生活が、永遠につづくような気がしていたのだ。けれどもそんな未来は、いつか終わりを迎えて旅立たねばならない。そのタイムリミットが、目に見える形で目前に迫ってきただけのことだ。そんなことは分かりきっていた。
「どういうことですか、ダンブルドア。約束したはずです。あの子が十七歳になったら、『真実』を打ち明けると。あなたはそれが可能な距離にいる    魔法界に戻ってきた彼女を、七年もずっと見守ってきたのですから」

はっきりと、叱責する口調で捲くし立てれば、整然とした机を挟んで正面の椅子に腰かける老人は、僅かに眉をあげて心持ち後ろに身を引いた。だが、すぐに思い当たったらしい。そっと瞼を伏せて疲れたように頭を振った。

「ああ……アラスターか。確か今は、闇祓い局の総轄をしておるんじゃったな?」
「そんなことはどちらでもいいことでしょう。ダンブルドア、お分かりだと思いますが    彼女があなたの懐に留まっているのも、あとほんの僅かですよ。聞けば彼女はヒーラーを志望しているそうじゃないですか。聖マンゴは警備も厳しければ、それと同時に万人を受け入れる施設でもあります。磐石の護りなど実現できる場所では決してありません」
「その通りじゃな。彼女を閉じ込めてでもおかない限り、我々の護りにも当然限界がある」

しゃあしゃあと言ってのけるこの老人を見ていると    フィディアスの言っていたことも、分かるのだ。彼の気持ちも、痛いほどによく分かる。分かるのだけれど、だからといって彼の主張は同意するにはあまりにも感情論に傾きすぎていた。だからこそ、わたしは。
きつく握り締めた拳を振り解きながら、吐き捨てる。

「あなたは口先だけの男なのですか、ダンブルドア。あなたは、彼女と約束しましたね。何に代えてもあの子の家族を護ると。それが、何もかもを閉ざすことなのですか。は家族のために死んだのに!」
「だが、『真実』が彼ら親子に崩壊をもたらすと、そう言ったのは君のほうではなかったか」

その言葉を聞いて、ジェーンは噴き出す怒りに我を忘れそうになったが、咄嗟にポケットに手を入れて掴みかけた杖に爪を立てたところで理性を取り戻し、あくまでも抑え込んだ声音でささやいた。

「議論をすり替えるおつもりですか。わたしは、あのマグルには受け止められないでしょうと申し上げたのです。彼女はまだ四歳でした。どうしても親の庇護が必要です。『真実』を知らされたが、正常な精神状態であの子を育てられるとはとても思えなかった。だから彼女が独り立ちできるまで、たとえ父親の護りがなくとも生活できるほどの年齢になるまでは伝えないほうがいいと思ったのです。ええ、『真実』はひょっとして今でもを崩壊させることになるかもしれません。でも、彼女ならきっと受け入れられる。彼女が大人になった今、それでも隠し続けるのはに対する不誠実だと認識しますが」

抉るような心地で突きつけた言葉は、思った通りに老人の青い眼球を半月眼鏡の奥で萎縮させた。彼女はダンブルドアのお気に入りだった。もっとも、ほとんどすべての教師にとって、彼女のような才能に溢れた眩いばかりの生徒は希少な存在だったに違いないが。
だからこそ憧れた。だからこそ、当然    妬ましく思うことも、一度や二度ではなかった。それでも離れられなかったのは、結局のところわたし自身がというひとりの人間に、心底、惚れ込んでいたからだ。
たとえ    愛した男がいつになっても、彼女のことを忘れられなかったとしても。

ダンブルドアは程なくしてこちらから視線を外し、卓上の丸い砂の器を見下ろしながら口をひらく。

「君の話はよく分かった。じきにアラスターがここに立ち寄る予定じゃ。すまぬが、ふたりだけで話がしたい」

逃げるのか。強く、そう、言ってやりたかった。だがこれ以上話をしても平行線だということは分かりきっていたので、ジェーンは憤懣と諦念の入り混じった表情を俯いて閉ざし、静まり返った校長室をあとにした。乱暴に開けた扉の向こうで    古株の闇祓い、今は彼女の間接的な部下のひとりでもあるアラスター・ムーディが、胸糞の悪い笑みを浮かべてたたずんでいる。

「こんなところで油を売っていていいのかね、参事官」
「大きなお世話よ。あなたこそ、ウィンチコムの調査はどうなってるの。報告書はまだ受け取っていないわよ」
「ページに任せてある。だがお聞き及びでなければ今ここで申し上げよう。あれは巨人の仕業だ」
「きょ    何ですって?」

ジェーンは反射的に聞き返したが、ムーディが何か言ってくるよりも先にうんざりと右手を上げてそれを制した。巨人は国内にもまだ生き残った種族が数少ないながらも存在する。彼らがその棲家である山岳地帯から出てくることはほとんど皆無といっていいが、『あの人』が、現体制の我々は厳しく制限している巨人の『自由』を約束する代わりに、彼らの強大な力を利用しているという噂は聞いたことがあった。しかし、それを証明する事件は起こっていなかったのだ    まだ。

「……省に戻るわ。国内の巨人の動向を改めて調査しなければ」
「その前にすべきことがあるのではないか」

彼が踏み越えてきた螺旋階段へと一歩足を踏み出したところで、すれ違い様に声をかけられる。振り向くと、肩越しにこちらを見たムーディが意地悪い眼光で傷だらけの唇をひらいた。

「ダンブルドアばかりを責めることができるのか。お前さんもまた、その『真実』とやらを知る人間のひとりだろう。それならば、自分の口から娘に話せばどうだ。それでフィディアスのやつも多少は報われるだろう」

かっと、頭に血が昇り    しかし、何も反論することはできなかった。視線だけで憤りをぶつけてから、踵を返して螺旋の石段に足をのせる。重厚な音を立てて回る階段がゆっくりと下へと下がり、一対のガーゴイル像の前に降り立ったとき、ジェーンの両眼からたまらなくなって涙が溢れ出た。

(あんたに言われるまでもなく、分かってるわよ)

声を出さずに、毒づく。
自分もまた彼女を前にして、何事も語ることのできない弱い人間なのだということを。
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(09.08.12)
『あの人』は "You-Know-Who" 、
『』のついていない「あの人」は "he" に置き換えてもらえると混同しないと思います。

A door must be either shut or open.(矛盾律)