「わたしは十四年も待ったぞ。これ以上待たせる気か、ジェネローサス」
「十四年も待たれた貴方様のことです。あと半年くらいは造作もないことでしょう。それで
忠実な『』が、手に入るのであれば」
すべてを見通すような眼差しでせせら笑ってみせれば、その黒い瞳は血の色を思わせる暗い輝きをちらつかせる。この視線を真正面から受け止めることのできる人間は、ごく少数に限られていた。
その、数少ない人間のひとり
帝王の傍らに堂々とたたずむ、脚線美の若い魔女が舌打ちをした。分かっている。彼女が満足そうな顔をするのは、自分だけが有能な死喰い人であるということを、我らが君に証明できたときだけだ。相手にする必要もない。だが。
「なにか? ベラトリクス」
「いいえ、べつに。ただ……そこまで拘る必要が、あるのかしら。いくら……」
それはこちらにというよりも、傍らの大きな肘かけ椅子にかける帝王に向けられたようだった。まるで駄々をこねる子供のように、だが決して子供ではない仕草で流し見るその様子は、見ていて愉快なものではない。だが帝王はさも愉しげに喉を鳴らし、ゆっくりと首を捻ってベラトリクスを見た。
「ベラトリクスはわたしの可愛い孫娘が気に入らないと見える」
「とんでもない! 尊い貴方様の血を……それが確かならば、ですが」
「くどい、ベラトリクス。お前はを知らないから分からないかもしれないが」
彼女の言葉をうんざりと遮り、ジェネローサスはベラトリクスから顔を逸らす。帝王は胸を反らせて高らかに笑い、その暗い瞳の奥からねっとりと彼の視線を捉えた。
「を知らぬ者にも、じきに分かるだろう。だがジェネローサス、わたしが案じているのはがあの老いぼれの手に落ちぬか否かだ。奴に
丸め込まれるようなことがあれば
厄介なことになる」
「ご心配には及びません。むしろ、無理に引き込んだとしても我々への反発が残ることになるでしょう。それならば、彼女が
本当に我々の側につくことを望むとき
同じ過ちを繰り返さないためにも、そのときを待つほうが賢明かと……」
「その前にあの男がわたしの可愛いを丸め込むようなことがあればどうすると聞いているんだ」
その声の響きも、瞳の奥にちらつく冷たい炎も。すべてが唐突に色を変えて、ジェネローサスを射抜いた。だがそれをかわすことなく正面からまっすぐに受け止めて
ジェネローサスは、答える。
「あの男が彼女に『真実』を打ち明けることは、ありえません。これだけの猶予がありながら、閉ざし続けてきたということは」
「だがそれも、半分は賭けだったな。違うか? それでいてわたしは、お前を信じ、委ねた」
腕を組んだベラトリクスが、横目でこちらを見て蔑むように鼻を鳴らす。だがそんなものはジェネローサスにとって、まったく問題ではなかった。愉快そうに唇を歪める、しかしまったく笑ってなどいない帝王の眼差しを見据え、
「賭けではありません、これは、確信です。先刻申し上げた通り、わたしはあの男の弱みを知っています」
ぴくりと眉を上下させ、ベラトリクスの浮かべた余裕が僅かながらにかげる。ジェネローサスはそちらを冷ややかに一瞥し、何事もなかったかのように帝王へと向きなおった。
帝王は線のように細い眼光の奥で笑いながら、ゆったりと肘をついて探るようにこちらを見やる。その瞳を恐れることがないのは、最高の開心術師である我が君に隠し立てすることなど
何ひとつないからだ。
フッと小さく息を吐き、帝王が組んだ足を解きながら芝居じみた仕草で両手を広げてみせる。
「いいだろう。任せよう。だが早く、可愛い孫の顔を見せてくれ」
「心得ております」
厳かに一礼をして、そのままの姿勢で後ろへと下がる。イライラと落ち着かない様子のベラトリクスを尻目に、ジェネローサスは暗がりの一室をあとにした。
PROMISED LAND
約束のカナン
考えれば、考えるほど。深みにはまっていくようで。悩む必要なんかない。わたしは純血主義なんてクソ食らえだと思っているし、そんなもののために大切な人たちを裏切るのか。ダンブルドアがなんだ。仮にダンブルドアが本当にわたしたち親子の記憶を操作して『事実』を隠蔽したのだとしても、それがなんだというのか。たとえ
たとえこの国で戦争が起こるとしても、『あの人』の側につかないからといって、必ずしもダンブルドアに味方する必要はないじゃないか。フィディアスもきっとそうして、自分の立場を守ってきたのだから。
だが、授業中、もしくは城の中で。ロジエールはあれ以来、一向に何も言ってはこない。だが彼の顔を見るだけで、ジェネローサスの言葉が生々しく脳裏に蘇るのだ。『帝王は何としてでも、君を手に入れたいとお考えだ』。
だったら、逃げる? いや
『どのみちあんたには、避けられない運命なんだ』……運命。それは、スリザリンの血を継いで生まれてきてしまったということ? もしくは『夢見』の能力? それすらも、ジェネローサスが言っているだけで確証なんてどこにもない。けれど。
「、紅茶が冷めちまうぞ」
ハグリッドは大きな石弓を手入れしながら、怪訝そうにを見た。小屋の窓からは穏やかに降り積もる白雪の粒が見える。は握り締めたマグカップの表面がすっかりぬるくなっていることに気付き、不意にそこから手を離した。
「ああ……うん、ありがとう」
「どうした? さっきからずっと、ぼさーっとして」
「……ハグリッド」
はこちらの膝に頭をのせてぐっすりと眠り込むファングの耳を掻きながら、何でもないような口調で尋ねた。
「ダンブルドアって、どんなひと?」
「どんな?」
聞かれた意図がよく分からなかったらしい。それはそうだろう。はその視線を避け、テーブルの真ん中にあった蜂蜜の瓶から一匙すくったそれをマグカップの中に垂らした。
「うん、そう。だって、すっごく強い魔法使いなんでしょう。だから、て……『例のあの人』も、ホグワーツには手が出せないって」
弓の弦を伸ばすハグリッドの手が、ぴたりと動きを止める。面白いほどに、このルビウス・ハグリッドという男は胸の内がすぐ顔の表面に出た。だからこそ心を許せたといえる。だからこそ
。
「ああ……そうだな。ダンブルドアは、史上最高の魔法使いだ。ダンブルドアがおれば、この城は安全だ」
「この城は、ね。でも、みんながいつまでもホグワーツに留まってるわけにはいかない。だから、『そのとき』のために防衛術がある
マクゴナガルが、そう言ったんだって」
「……そうか。そうだな」
言葉少なになっていくハグリッドにニッコリと笑いかけ、はあとを続けた。
「そんなに強いのに、普段は全然そんなふうに見えないんだもん。ううん、弱そうって言ってるんじゃなくて、うーん、そう、すごく優しいし、まっすぐで、良いおじいちゃんなんだろうなって思うのに、独身なんてもったいないよね。何で結婚しなかったんだろ、絶対いい人くらいいたはずなのに」
こちらの調子に、警戒を解いたらしい。ハグリッドもまたいつもの人の良い笑顔に戻り、手入れを終えた石弓をテーブルの脇に立てかけた。
「そりゃ、いたのかもしんねぇが、ダンブルドア先生のこった。子供たちの教育に心血を注ぐことを選びなさったんだろう。偉大なお方だ、ダンブルドアは。こんな俺のことも、拾ってくだすって……」
そういえば、ハグリッドがホグワーツの森番になった経緯は聞いたことがない。以前、魔法使いなのにハグリッドはどうして魔法を使わないのかと尋ねたとき、退学になって杖を折られたのだとは言っていたけれど。
スネイプを死なせかけたシリウスだって、退学にはならなかったのに。あのハグリッドが、一体何をしたというのか。だが彼はそれ以上話したくないようだったので、も問い詰めるようなことはしなかった。どうにもならないことを、蒸し返したって仕方がない。魔法が使えなくなっても、彼はこうして今もホグワーツに暮らしている。
は目を開けて楽しそうにじゃれ付いてくるファングの背中を抱え、くすんだ木の床を見つめた。
「強くて、優しくて、ユーモアもあって面白くて
欠けてるものなんか、ないよね。完璧すぎて、なんか……極端だけど、人間じゃないみたい」
「おいおい、、一体どうしちまったんだ? ダンブルドアは偉大な魔法使いだ、そりゃあ『普通』じゃねぇ。だがそれも、天性の才能だけじゃない、俺たちには想像もつかんような、でっかい苦労の賜物だろうよ」
わたしが言っているのは、そんなことじゃない。けれどもそれは、多かれ少なかれ、ダンブルドアを崇拝するハグリッドには伝わらないような気がした。
「……そう。信じてるんだね、ダンブルドアのこと」
そこでようやく顔を上げ、怪訝そうに顔をしかめるハグリッドを見据える。ファングの舌先の熱を手のひらに感じながら、は不審に揺らぐその黒い瞳をじっと見ていた。
「当たり前だ。お前さんは
違うのか?」
問われて、そして、覚悟を決める。は静かに微笑み、やんわりとかぶりを振ってみせた。
「まさか。だってダンブルドアは、『偉大な魔法使い』だもの」
自分の言葉が、こんなにも薄っぺらなものだなんて。
「、調子はどうだ?」
最後の、バレンタイン・ホグズミード。シリウスはその日程が決定するや否や、すかさずを誘ったが、の体調がここのところ優れないのを気遣い、当日の様子を見て出かけるかどうかを決めようと言っていた。何だかんだでもホグズミード行きは楽しみにしていたので、朝食の席にシリウスが現れたときは、笑顔で彼の問いかけに応じた。
「今日は大丈夫。心配させて、ごめんね」
「いや、それはいいんだ。良かった」
ほっとした様子でシリウスがこちらの隣に腰かけると、彼と一緒に来たジェームズはの向かいでトーストをかじるリリーの横に座った。リーマスとピーターはそれぞれふたりの向こう隣に掛け、たちに挨拶すると目の前に現れたミルクを口に運んだ。は蜂蜜をかけたヨーグルトを掻き回しながら、首を捻ってそちらを見やる。
「リーマスとピーターは出かけるの?」
「いいや、僕たちは残ることにしたよ。みんなは、楽しんできて」
静かに微笑んでリーマスが答えると、ジェームズは不貞腐れた顔をしてリーマスの脇を小突いた。声を潜めて、言ってくる。
「ムーニーってばせっかく誘われたのに断ったっていうんだ。相変わらずだよね、もったいない」
「えぇ? そうなんだ……でも、うん、無理して行かなくても、いいかもね」
はまともにジェームスの顔を見ずに、ひっそりとつぶやいた。以前は、どんな告白も断るリーマスの頑なな姿勢を快く思っていなかったけれど。大切な人たちに大きな隠し事ができてしまった今、は彼の気持ちが少しは分かるような気がした。
乗ってくれると思ったのだろう。つまらなさそうに口を尖らせて、ジェームズは近くのオートミールに手を伸ばした。
談笑を交えながらの朝食は三十分ほどで終わり、たちは混雑が過ぎるまで少し談話室で過ごしてからホグズミードへと向かった。『三本の箒』でリリーやジェームズたちとバタービールを楽しんだあと、ふたりと別れてハニーデュークスや悪戯専門店、本屋などを巡る。一通りいつものルートを回り終えると、これもまたいつものように、とシリウスは雪一色の村外れを歩いた。
シリウスが握ってくれる右手は
今も変わらず、こうしてあたたかい。
シリウスが最後にを連れてきたのは、村外れにある洋装店『ザ・リーバーズ』だった。久しぶりにリーバーに顔を見せたいからと言われて来たのだが、ふたりをリビングにあげて紅茶を出すと、リーバーは所用があるといってすぐに出かけてしまった。しばらく本屋にいるので、帰りは寄ってくれとだけ言い残して。
「そっか……せっかく来たのに、リーバーさん忙しそうだね。残念」
リーバー手製のスコーンを口に運びながらふたりきりのリビングを見渡す。奥さんの写真は、一年前と同じように、変わらず壁の一面にあった。
シリウスは、そうだなと返して、の隣の椅子に腰かける。そして紅茶をすするの横顔を覗きこんで、安心したように頬を緩めた。
「良かった。少しは元気になったみたいで」
「え?」
「ずっと
つらそうにしてただろ? 疲れてるんだよ。たまには外に出て、試験のことなんか忘れちまったほうがいい。お前は頑張りすぎなんだ」
そう言って、まるで子供のように優しく頭を撫でてくれる。はその温もりに安堵と落ち着きがどっと押し寄せてくるのを感じ、思わず息を吐いて笑い出した。こんな、こんなにも大切な人がそばにいてくれるというのに。わたしは何を悩んでいるのだろう。悩み苦しむ、必要なんて。
彼の広い肩に久しぶりに寄りかかって、そっと目を閉じる。大好きな、シリウスのにおい。わたしは子供の頃からずっと、この香りに包まれて育ってきたのだった。今ならそのことが、はっきりと分かる。
「……シリウス」
「ん?」
こちらの髪にゆっくりと通すシリウスの指先が、ときどき地肌に当たってくすぐったい。はさらに彼の首元に顔を近付け、まるで犬のように鼻先を押し付けた。
「シリウスは、闇祓いになるんだよね。だったら、それは……魔法省に、つくってことだよね。『例のあの人』と、戦うってことだよね」
「……そりゃあ、そういうことになるだろ。どうした? なにか、あったのか」
「それは、魔法省のために働くってことだよね。この国の平和のために
ダンブルドアは、関係ないよね。彼はホグワーツの校長先生だけど、魔法省の人間じゃない」
「ダンブルドア?」
それは、突拍子もない話に聞こえただろう。驚いたように声をあげたシリウスの手が、彼女の頭上で動きを止める。は顔を上げて間近でシリウスの訝しげな眼差しを見た。
「何でもないの。ごめんなさい、変なこと聞いた」
「いや。それより、ダンブルドアがどうかしたのか? 俺が就職するのは魔法省の予定だから、直接ダンブルドアに関係はないけどな」
「ううん……だったら、いいの。ごめんなさい
今はまだ、踏ん切りがつかない」
たとえ、大好きなシリウスにでも。もう少し、待って。気持ちの整理がついて、あなたにも話ができるようになれば、そのときは。今はまだ……ジェネローサスの話の、真偽だって定かではない。こんな中途半端な情報を伝えて、大切なシリウスを混乱させたくない。ただひとつ、確かなことは
これまで聖人だと信じて疑わなかったアルバス・ダンブルドアへの疑念が、自分の中で次第に膨らんでいっているということ。
「いつか、話せるようになったら話すから。だから今はまだ……聞かないで、ほしい。ごめんね」
まるで見つめていれば口を割らせることができるかのように、シリウスはしばらくじっとの目を見ていたが、今の段階では無理だと悟ったのだろう。諦めたように息をついて再びの頭を撫でた。
「分かった。お前のタイミングでいい。でもさっきの、ひとつだけ訂正な。俺はこの国のためだなんて、そんな大層なことは考えてない。フィディアスを襲った犯人を、おじさんを殺した犯人を……必ず、見つける。それだけだ」
分かってはいたけれど。その宣言を聞いて、ひどく胸が痛んだ。打ち明けてしまおうか。せめて、フィディアスのことだけは。いや、そんなことを話せば結局はジェネローサスの語ったことをすべて言わなければいけなくなる。まだだ。ごめんなさい、シリウス。でも、今はまだ。
「あー……。あのさ、今日は……渡したいものが、あるんだ」
シリウスは唐突にそう言って、椅子の背にかけたコートのポケットから淡いブルーにラッピングされた小さな箱を取り出した。今日は朝から一緒に買い物をしていたのだから、今日買ったものではなさそうだ。何だろう。どきどきしながら包みを解くと
はその中に入った煌くシルバーに驚いて、言葉を失った。
「合うと思うんだけど。着けてみてくれないか。その……お前が嫌じゃ、なかったら」
「だ、だって……あの、その……ちょ、早くない? も、もちろん嬉しいよ! うれしい、けど……」
うそ、うそ。どうしよう。それはシンプルなシルバーリングで、縁に繊細な模様があり、内側にもなにか少しだけ文字が刻まれているようだった。シリウスは苦笑混じりに頬を掻き、
「ジェームスにも言われた。お前は気が早いんだって」
「まあ……ジェームズに言われるのも、ちょっと癪だけどね」
「俺も言ってやった。お前に言われたら終わりだってな」
と顔を見合わせて笑ったあと、シリウスはあまりにも優しい、はにかんだ笑顔での左手をとった。
「卒業まではまだしばらく時間があるけど……これは俺の、覚悟でもあるんだ。ずっと、ふらふらしてきた……でも、必ず幸せにする。だから、今ここで受け取ってほしい」
今、ここでって。はリビングをこっそりと見回し、壁に貼られたリーバー夫人が悪戯っぽく微笑むのを見た気がして、まさかと思い当たった。最初から共謀してたんだ。シリウスも、リーバーさんも。ホグズミードの他の店では、いつ何時ホグワーツ生の目に留まるか、分かったものではない。
シリウスはこちらの手から指輪を取り上げ、左手の薬指に、そっと滑り込ませる。それは初めからあるべき場所を知っていたかのように、すんなりとその指に納まってくれた。
自分の左手でかがやく、シリウスの思いの結晶を見つめていると。どうしようもなく切なくて、苦しくて
たまらなく、愛おしくて。涙が、止まらなくなった。
困った顔で笑いながら、シリウスが腕を回してそっと抱き締めてくれる。は彼の首にしっかりとしがみつき、嗚咽を漏らしながら幾度となく「大好き」を繰り返した。
わたしの、ばか。こんなにも大切に思える人がいるというのに、一体何を悩んでいたのだろう。ダンブルドアのことなんかどうだっていいじゃないか。どうしても、『あの人』がわたしを諦めないというのなら
。
「おめでとう、おふたりさん」
彼の肩越しに女性の声を聞いたような気がしたが、きっと空耳だろう。肖像画は命を吹き込まれてその口をひらくが、たとえ魔法使いの写真だとしても、写された人々が再び何事かを語ることはない。
しかし写真に残されたイングリッド・リーバーの笑顔は、確かに二人を見下ろしていつまでも微笑んでいた。