クリスマス休暇中、四つの寮テーブルはすっかり取り払われ、大広間にはこじんまりした長テーブルが一つだけ準備されていた。城に残った生徒は全部でたったの十二人で、先生たちも全員が休暇をホグワーツで過ごすわけではないということが分かった。
「おやおや
今年のグリフィンドールは、ずいぶん賑やかなようじゃのう」
最後に悠々と現れたダンブルドアは、テーブルについたグリフィンドール生たちを見回して、嬉しそうににこりと微笑んだ。
Two is company, three is none
三人寄れば
他の寮はみんな居残った生徒が一、二人ほどだというのに、グリフィンドールだけが七人という全体の過半数に達し、食事中にお喋りが盛んなのはもちろん彼らのところだった。けれども誰もが、グリフィンドール寮のとある男子生徒と女子生徒が隣の席に並んでしまった暁には、二人の間に激しい冷戦が繰り広げられていることに気付いたろう。
「ー、一緒にチェスやらないか?」
寝室でごろりと横になって本を読んでいたは、階下から叫ばれたジェームズの声に、重々しい気持ちで起き上がった。案の定、閑散とした談話室にはソファでくつろぐ上級生たちと、暖炉の傍でチェス盤を持ったジェームズ。そしてその隣には
。
「シリウス、お前もやるんだよ」
「三人でチェスはできない」
「交代でやればいいだろ?ひとりで部屋にいたって面白くもなんともない」
男子寮に戻ろうとひっそりと立ち上がったブラックの裾を掴んで、ジェームズが言った。あからさまに顔をしかめて、ブラックが再び彼の隣に腰を下ろす。そんなにいやなら帰ってくれて結構だよ、と心の中だけで吐き捨てて、はジェームズに顔を向けた。
「ジェームズ。私、チェスって全然知らないの。だから二人でやってよ、私は図書館でも行ってくるし」
「えー。それじゃあこうしよう!僕たちがまずやってみるから、はここで見ててよ。その次に僕がやり方とかルール、君に教えるからさ」
「えっ……いや、でも」
「よーし、きまり!じゃあシリウス、何か賭けようか?どうだ、負けた方が勝った方の言うこと、何でも一つ聞くっていうのは」
「お前……またそれかよ、一体どんだけ
」
「だってお前が弱いからいけないんだろう?さあ、それじゃ、始めよう」
有無を言わせず、チェス盤を広げたジェームズがブラックを正面に座らせてゲームを開始した。チェス……そういった遊びが西洋に存在するということは知っていたが、そのやり方はまったくといっていいほど分からない。日本の将棋に似てるって聞いたことはあるけど……どっちにしたって、やったことがない。みんなが談話室でよくやっているものだから、「チェックメイト!」「ポーン」「ナイト」「ビショップ」「キング」……ちょっとした用語くらいは、頭の中に入ってきたけれども。
先攻のジェームズの掛け声で、端っこの駒が二つ前方へと移動するのを見ながら、は二人からほんの少しだけ離れた位置に、そっと腰を下ろした。
ジェームズが「チェックメイト!」と叫ぶまで、三十分もかからなかったと思う。すっかり意気消沈したブラックはソファの背もたれに倒れ込み、わけの分からない単語をぶつぶつと呻いている。ジェームズは勝ち誇った笑みを浮かべ、きらりと光った眼鏡の奥からをちらりと見た。
「じゃあシリウス
にチェス、教えてあげて」
「「は!?」」
このときばかりはまるで示し合わせたかのように、まったく同時にとブラックは声を荒げた。二人の絶叫は談話室中に木霊して上級生たちを振り向かせたが、彼らはその出所を知るや否や、「またあの二人か」と呆れてそれぞれのお喋りへと戻っていった。それまでは埋もれて見えなかったに違いないが、休暇に入っていきなり人口密度の低くなったホグワーツにおいて、彼らの不仲は居残った生徒たちすべての知るところとなっていたのだ。
「な、何で、俺が……お前が教えるって、さっき自分で言ったばっかだろ!」
「何でも言うこと聞くって約束だろう?僕はちょっと出かけてくるからさ、僕が帰ってくるまでにに一通り、ルールを教えてあげること」
「ちょっ……ジェームズ、私やっぱりいい!チェスなんて、一生やらない!」
「、そんな悲しいこと言わないでよ。覚えればすっごく楽しいからさ。けっこう頭も使うしね」
ジェームズは満面の笑顔でそう言ってから、ぽかんと口を開けたままのとブラックを残してさっさと談話室を出て行った。残された二人は、散らかったままのチェス盤を挟んでしばらく口も利かずに、頑なに自分の膝を見つめていた。ああ……どうしよう。まさか、こんなことになるなんて。何で、どうしてこんなことまでして、ジェームズは私とブラックを仲良くさせようとするの?お互いいやって思ってるんだから、放っといてくれたらいいのに。
ごめん、やっぱり私、部屋に帰る。そう言おうとが口を開いたそのとき、向かいのブラックが思い切ったように顔を上げて言った。
「
駒の名前くらいは、知ってるか?」
えっ。は驚きのあまり、答えるのも忘れてただ呆然とブラックの顔を眺めていた。不機嫌そうに眉をひそめ、ブラックが低く唸る。
「知ってるのか、知らないのか」
「え、あ、ごめん……ちょ、ちょっとだけ。だからほんとに……基礎の基礎から、教えてください」
はブラックの対応にも、自分の口から飛び出した言葉にもびっくりしてしばらく身動きがとれなかった。部屋に戻るんじゃなかったのか、私。まさかブラックは、私のことなんて知らん顔でそのままどこかへ消えてしまうものとばかり……。
ブラックは、どうやら初心者のに向けて野次を飛ばしているらしい駒を定位置に揃えなおし、にこりともせずにを見た。
「一度で覚えろよ、」
その言い方はとても尊大で、いかにもブラックらしくて癪だったけれども。
はこのとき、確かに自分の中でシリウス・ブラックの心象が少しずつ変わっていくのを感じ取っていた。
チェスのルールは世界共通。先攻は、白駒。相手のキングを追い詰め、キングの逃げ場がなくなった状態を「チェックメイト」という。駒は全部で六種類。前後左右に一マスずつ進める「キング」、前後左右に自在に動ける「クィーン」、斜め四方向に進む「ビショップ」、前後左右の八ヶ所にジャンプして移動できる「ナイト」、縦横自在に動ける「ルーク」、そして最初の一手に限って二マスまで進むことのできる、「ポーン」。
ブラックの教え方が良かったのか、の飲み込みが早いためか、はその日のうちに駒の基本的な動き方と、簡単なルールだけはマスターした(口にこそ出さなかったが、これにはブラックも感心していたようだ)。アンパッサン、ポーンの昇格、キャスリング……問題はそれが『魔法使いのチェス』だということで、練習に一度だけ実践ゲームをやってみようということになったのだが、を見くびった駒が好き勝手なことを叫び、しばしばを混乱に陥れた。
「もう、ばかね!そんなところに進めるわけないでしょう!なに考えてるの、私が取られちゃうわ!」
「あああ……もう、黙っててよ!私は初心者なの、初心者!」
が動かしたクィーンを見て、ソファの肘掛けに寄りかかったブラックがにやりと笑う。
「ビショップをBの5へ……チェックメイト」
彼の命令で動いたビショップが白のクィーンを倒し、のキングはその場で転倒して苦しそうに悶えた。だから言ったじゃないの!と殴られたクィーンは甲高い声で怒鳴る。
「う、うるさい!初めてなんだから……初めてなんだから、勝てるわけないじゃない!」
「初戦は俺の勝ちだな。どうする?もう一回やるか?」
「……今日はもういい。もっと練習して、今度は絶対勝ってやる。今日のはちょっとした余興よ、だって私まだ、ルール覚えたばっかりなんだから」
「言い訳がましい女は嫌われるぞ、さんよ」
「はっ……?!なによ、どっちにしたって私のことなんて嫌いなくせに!」
怒鳴りつけてから、ははっとして口を噤んだ。しまった……こんなこと、言うつもりじゃなかったのに。いくら賭けに負けたからって、律儀にチェスを教えてくれた彼のこと、ほんの少しだけ見直していたのに。
小馬鹿にするように目を細めて嘲笑っていたブラックは、その笑みすらも消し去って苛立たしげにを睨み付けた。緩んでいた緊張が、再びぴんと張り詰めての額に嫌な汗を滲ませる。
「はっ。よくもそんなことが言えるな。嫌ってるのはお前だろうが。お前が俺のこと、嫌ってんだろ!」
「はーあー?それはこっちの台詞よ。最初に嫌な顔してみせたのはどっち?あんたの方じゃないの!」
「なんだと?聞いて呆れるな……お前、自分が俺を見るときどんな顔してるか、一度鏡でも覗いて確認でもしてみたらどーだ?あ?」
「そーれーはーこっちの台詞だって言ってるでしょ!クリスマス休暇、ジェームズにホグワーツ残れって言われたときのあんたの顔なんて、こんな、こーんな、それはそれはもうブラックくんの綺麗なお顔がこんなへんてこりんなものになっちゃうくらい、すごかったんだから!見せてあげられなくて残念だこと!」
「……言ったなこのヤロウ!」
怒り心頭に発したブラックがチェス盤を引っ繰り返さんばかりの勢いでソファから立ち上がり、も反射的に飛び上がってテーブルを挟んだブラックと対峙した。そのまま無言で冷ややかに睨み合う二人の間に、談話室に残っていた上級生たちが慌てて割って入った。
「おい、、ブラック!やめろよ、せっかくの休暇なんだ。仲良くしようぜ?」
「そのつもりだったのに……でもブラックが!」
「なに!お前だろ!お前がいっつも駄目にするんだ!何もかも、いつだってお前がぶち壊しにするんだろうが!」
「やめろって言ってるだろ!マクゴナガルに言いつけるぞ!」
激しい口調で捲くし立て、六年生のフレミングがとブラックを交互に見やった。次の台詞を飲み込んで、は荒々しく呼吸を繰り返すブラックを睨む。相手もまた強烈な軽蔑の眼差しでじっとこちらを見ていた。
「ふーん、それが本音なんだ」
冷ややかに呟いて、はブラックから目を逸らした。
「よーく分かった。もうあんたの邪魔なんてしない。だからどうぞ、これからは私のことなんて気にせずお好きになさってください」
呆れ顔で息をつくフレミングもろとも無視し、ばたばたと女子寮への階段を駆け上がる。もういい、知らない。ブラックのことも、もう
ジェームズのことだって。あんな男と仲良くしろと言うのなら、私はもう、大好きなジェームズとだって関わらない。
ひとりきりの寝室に飛び込んだは、自分のベッドに倒れ込み、冷えた布団に顔をうずめ、声を潜めて泣いた。この城にやって来て、初めて流す涙だった。