乱暴に閉めたカーテンの隙間から、うっすらと差し込む日差しに小さく悪態をついて顔の向きをかえる。よどんだ部屋の空気を鈍く震わせる、控えめな声がドアの外から彼女を呼んだ。

    どうした。具合でも悪いのか」

返事をしようと唇をうすくひらいても、まるで何年も話すことを忘れていたかのように喉の奥が乾いて動かない。眠っていると思ったのだろう。やがてひっそりと足音は遠ざかり、そこには再び痛々しい静寂が訪れた。
昨夜、煙突飛行で日本に戻ってきたは試験勉強漬けで疲れがたまっているといって、食事もとらずに早々と自室へ引き揚げた。翌日、目覚めたのは昼の二時で、すでに夕方の五時を回っているが、まだ一度も部屋から出ていない。父は朝からの仕事を終えてすでに帰宅していたが、冷蔵庫の中身がまったく減っていないことに気付いたのだろう。何度か声をかけにきたが、は何も言えずに横たわったままだった。

(言えない……父さんに、言えるはずない)

何も知らない父    知らされることのなかった哀れな父。それを今さら、わたしの口から何と言える?

(全部、あいつが……あの、ロジエールさえ、いなければ……)

だがしかし、結果は変わらなかったろうか。ロジエールがいなければ、その役を他の誰かが代わりに負うだけで。たまたまそれが、ロジエールだったというだけのことで。いや、ちがう    あいつだ。あいつがいつだって、わたしの大事なものをことごとく台無しにしていくんだ。これまでだって、ずっとそうだったじゃないか。あいつの誘いなんかに、乗らなければ。は己の好奇心をこれほどまでに呪ったことはなかった。

だが、しかし    最も許せないのは、……。

Critical Cheat

『ムーン』の正体

「さあ、どこから話すべきか……」

何を言っているのか、嘘ならもっとまともな嘘をつけ、と呆れるを無視して、ジェネローサスは広げたてのひらをポンと軽く打ち合わせた。

「まずは君の身の回りに起きた出来事をひとつずつ整理していこうか。君は十一歳の夏にホグワーツの入学許可書を受け取り、そこで初めて魔法界の存在を知った。そうだね?」
「……ええ」
「そして一旦スリザリンに組み分けされたものの、組み分けのやり直しを強制され、結果としてグリフィンドールに納まった」
「強制されたわけじゃない。ダンブルドアは    わたしの選択を、尊重すると言った」

思わずダンブルドアを庇うような発言をしてしまったが、それはただジェネローサスの口振りに同調したくなかったからだ。そうだ、今となっては瑣末なことだと思っていたけれど    ダンブルドアは確かに、わたしをスリザリン生にはさせたくないようだった。

「君はグリフィンドールに組み分けされたことについてどう考えている?」
「どうって……これで良かったと、思ってる。わたしはグリフィンドールで    掛け替えのないものを、たくさん手に入れてきた」

ダンブルドアがどんな意図で組み分けのやり直しをさせたのか、それは分からない。でもそのことだけは、自信をもってはっきりと言える。シリウス、リリー、ジェームズ、ニース、……みんなみんな、わたしの大切な宝物。
ジェネローサスは二杯目を注いでからまったく手をつけていないグラスを脇に退かしながら、憐れむように煤けた天井を仰いでみせた。

「そうか、君なら確かにそうかもしれない。だが、可哀相に……愛すべき最後の末裔が、宿敵の懐に育まれてきたと知れば、彼の人は大いに嘆くことだろう」
「末裔? わたしが一体、誰の……なにを言ってるの」

シリウスの言葉が咄嗟に脳をかすめる。厚い布越しにストーンのネックレスをしっかりと握り締め、はジェネローサスの暗い瞳が愉快そうにこちらを向くのを見た。しかしその目は、笑ってなどいない。

「これまでに存在した魔法使いの中で、最も偉大な魔法使いは誰だと思う? 我らが創設者、ロウェナ・レイブンクローその人だ。だが君たちグリフィンドールの気高き生徒は、『勇気』の人ゴドリック・グリフィンドールを挙げるだろう。そしてあちらの愛すべきスリザリンの子供は    もちろん、蛇を最愛の友としたサラザール・スリザリンを最高の魔法使いだと信じているし、そのことはわたしとて否定はしない。スリザリンは偉大な魔法使いだ。常に澱んだ時代をも動かす。君は史上最高の魔法使いのひとり、サラザール・スリザリンの血を引く魔女だ。組み分け帽子が当初、君をスリザリンに選んだのは当然の結果だといえる。君以上に相応しい者など他にいない。だがダンブルドアは君をスリザリンの子供にはしたくなかった。なぜだか分かるか?」

そのあまりにも馬鹿げた展開には盛大に息をつき、部屋の入り口に立つロジエールを見た。だが彼もまた、大真面目な顔をして静かにこちらを見据えるだけだった。ちょっと、待ってよ。あなた、スリザリンの生徒でしょう。こんな馬鹿げた話を、容認してもいいの? スリザリンの誇りなんてその程度?

「何で、そんなこと言うの? わたしを担いで何をさせたいの。わたしが……グリフィンドールのわたしが、よりにもよってスリザリンの子孫だなんて」
「だったらこれはどうだ。君は蛇と話ができるのではないかな?」
「……!」

まさか。どうして、それを。誰もそのことを知らないはず    シリウスの他は、誰ひとりとして。
動揺するの姿を見て、ジェネローサスは満足げに胸を反らした。

「パーセルタングが遺伝型の特殊能力だということは知っているか。サラザール・スリザリンは歴史上の偉大なパーセルマウスだった」
「だから……? だから、それがなんだっていうの。蛇と話せりゃそれだけでみんなスリザリンの子孫なの? 第一、だからなんだっていうのよ。わたしがスリザリンの子孫だったら、どうしてダンブルドアがわたしをスリザリンにしたくないわけ? 関係ない、わたしがどの寮に入ろうが、ダンブルドアに何の関係もないじゃない」
「その通り。あの老いぼれには君の組み分けに干渉する権限などないはずだ。だがその権限を踏み越えて干渉した。なぜだと思う」
「……知らない。知ったことじゃない。わたしはグリフィンドールよ、今さらスリザリンに未練なんて    
「それは『死喰い人』の多くがスリザリンの出身だからだ。そこにいるエバンの父親もそう、マルシベールも、ドロホフもそうだ。彼らは帝王の学友だった    スリザリンの。『死喰い人』と呼ばれる魔法使いの、いわゆる先駆け的な存在だ。ダンブルドアは早い段階から君が彼らと接触することを恐れたのだろう。君が幼い頃から『悪』に慣れ親しむことのないよう、そう、できることならグリフィンドールの懐で育てたかったことだろう。結果としてそれは成功したわけだ。君はわたしに杖を突きつけるような『勇敢』な魔女に成長した」
「『悪』なんかじゃない、これは」

唐突にロジエールが声をあげた。はっきりとそのことを、『真実』として認識しているかのように。
ジェネローサスは軽く肩をすくめ、あっさりと頷いてみせた。

「その通りだ、エバン。俺だってなにも自分が悪人だと言ってるわけじゃない。無論、善人でもなかろうが。今はお嬢さんにも理解できるよう、彼女の目線で物を言っているだけだ。じきに彼女にも分かるだろう、この世に善悪など存在しないということが」

滔々と語る男の声には、自信というよりもどこか諦めに似た響きがあった。その暗い瞳を睨みつけ、尋ねる。

「……『帝王』というのは、『あの人』のこと?」
「ああ、そうだ。我々はあのお方を『闇の帝王』と呼んでいる。帝王はスリザリンのご出身だ。ホグワーツを卒業し、修行の旅を経て    帝王は決意なさった。澱んだこの国を変革すること、力のある者こそが頂点を収めるべき時代への転換。それにはもちろん、君の助力が要る。そのことはダンブルドアにも分かっている、だから君をスリザリンから遠ざけた」
「………」

もう何度目か分からないため息を深々と吐き、はうんざりした面持ちでジェネローサスを見た。

「もういい、聞きたくない。何を言ってるのか……もういい、何も聞きたくない」
「聞くんだ、。母親の死の真相を知りたくないのか」
「……母は、病死だったのよ! 父からもそう聞いてる、それ以外に、一体何を聞けっていうの」
「病死? 本当にそうなのか? だとすればそれは、一体何という病だ」
「もう、いい加減にして! 知らない……そんなこと、もうどうだっていい」

ジェネローサスの話を聞けば聞くほど、胸の奥がムカムカと気持ち悪くなって    同時にひどく、手の届かないどこかを激しく掻き乱されているかのように感じた。
母がどんな病で亡くなったかなんて……今まで、考えたことも、なかった。

の話をしようか。彼女は弟の同級生だった    、ひとまず杖は仕舞ってわたしの話を聞いてくれないか」
「おとなしく命を差し出せと言いたいの?」
「残念だが今の君では、杖を構えていたとしても、いま杖を手放しているわたしからも身を守れやしないよ。安心してくれ、可愛いエバンの前で、彼が七年も一緒だった学友を殺したりはしない」
「……ともだちなんかじゃ、ないわ」

吐き捨てるように言って、は杖を下ろした。彼の言うとおりだ。さっき、杖を吹き飛ばされて分かった。どれだけのハンデを与えられたとしても、今のわたしでは決してこの男から逃れることすらできない。この男を従えている、『帝王』と呼ばれる人物は    一体どれほどの魔法使いなのだろうと、考えざるを得なかった。
満足げに頷き、のっぺりした顎を撫でながら、ジェネローサス。

「ホグワーツに入学して以来、彼女は弟と親しくしていた。彼女はグリフィンドール、弟はレイブンクローに組み分けされたにも関わらず、だ。ふたりの友情は卒業まで続いた。卒業後も続いていたようだ    というのも、弟は学生時代にリンドバーグの家を出たが、わたしは卒業してからも君のお母さんと連絡をとっていたからだ。いや、そう言えば語弊があるか……彼女のほうから、何度もフクロウを送ってきた」

何を言っているのか飲み込めず、眉根を寄せて目を細めるに唇だけで笑いかけて、ジェネローサスはあとを続けた。

「奴が家を出たとき、わたしたち家族は奴に見切りをつけた。互いが互いを理解できなかったからだ。だが君のお母さんは、決して諦めなかった。必ず分かり合えるはずだと、いつか再び、弟を迎えてやってほしいと。わたしは卒業後しばらくロンドンにいたんだが、彼女は、アパートの近くまでわたしに会いにきたことさえある。強情な子だった。君も似たようなものだと聞いているが? やはり親子だな」

その話を聞き、は初めてジェネローサスを母の目線で見た。そのときの様子がまるで目に浮かぶようだった。わたしは、決してレグルスになにかを訴えかけるようなことはしなかったけれど    母はきっと、フィディアスにもしきりに家に戻るようにと説得したはずだ。

「それから何年かが過ぎ、わたしはリンドバーグの家に戻った。両親を事故で失い、わたしが当主となったからだ。からは相変わらずフクロウがきていた。そしてその年の秋、ダイアゴン横丁で彼女に会った。君は確かまだ三歳だったよ、
「……母はわたしが一歳のときに亡くなっています。そんなはずはありません」
「その話はまた後にしよう。とにかくわたしは、彼女と会った。相談があると言われたのでね」

母がこんな男に相談を持ちかけるなんて。そんな話を聞かされて吐き気が込み上げてきたが、きつく唇をかんでなんとか傾聴の姿勢を保った。

「彼女に不思議な力があるということは、学生時代から何となく感じ取っていた。だがそれはあくまで漠然とした印象であって、具体的な考えがあってのことではない。何にせよ、彼女はその『不思議な力』のことでわたしに相談を持ちかけてきた。とても、気味の悪い夢を見た、と。すでに我々は、弟のことを話し合うだけの関係ではなかったのでね。ああ、もちろん、深い意味はない」

あってたまるか。だがそのことよりも、にはひどく引っかかる箇所があった。夢……気味の悪い、夢?

「すでに学生時代からそのことを意識していた彼女は、教授に相談して調べてもらったことがあるという。太古の時代から世界中に見られる能力ではあるが、遡ればどうやら、日本でも『夢見』の力を持つ家柄というのが古くから存在するらしい。『夢見』    それがどのような能力か、分かるか?」

夢見。それは、まさか、……。
こちらの反応を見て、確信を覚えたのだろう。ジェネローサスはよどみなく言葉を継いだ。

「心当たりがあるようだね。わたしは占いの類を信じていない。偽物があまりにも多いからだ。だが中には真実を見つけることも稀にある。の能力もそのうちのひとつだった。彼女の夢は、ある種の予言だ。正確な家系図でもない限り、確証を得ることは難しいが、どうも彼女はその『夢見』の血筋を継いでいるらしいという    あくまでも仮説に過ぎないが    そういった、ひとつの可能性を得た。その能力は、彼女の娘である君にも受け継がれているはず」

知らない。そんな、こと。だがこの数年間、夢に対して何らかの異常な思いが付きまとって離れないことには、うすうす、気が付いていた。ジェネローサスはさらに続ける。

「だが重要なのは、その力を意識しすぎないこと。夢というものは元来、確実性など持たない。教授にそう注意を受け、は必要以上に気にかけないようにしていた。だが、それにしても決して忘れられないような、不気味な夢を見たのだと。夫はマグルだ。魔法や予見能力なんていうものについて相談したところで意味がない。彼女の親友は、わたしの弟と結婚していた。ふたりの結婚以来、気を遣った彼女は親友にあまり込み入った相談をしないようにと心がけていた。そこで浅すぎず、深すぎず    それにわたしは、当時魔法省にいた。予言に関して詳しい神秘部に同期もいたからな。そこで、わたしに白羽の矢が立ったということだろう。彼女の話を聞いて、わたしには感じるものがあった。わたしはそれを、直接あのお方に伝えた。あのお方は彼女の夢を、わたしと同じように解釈した」
「ちょ、ちょっと待って」

は慌てて相手の言葉をさえぎり、回らない舌でなんとか声をあげた。

「あなた、魔法省の人間なの? なのに、なのに『例のあの人』の下で働いてるの?」

ジェネローサスは探るようにじっとを見つめたあと、気楽な調子で首を振った。

「いまわたしが省の人間でないことは、風貌を見てもらえれば容易に想像できるだろう。だが、そうだな、当時は魔法法執行部にいた。そのときにはすでに、あのお方の下で働いていた」
「そ……そのことを、母は……母はもちろん、知らなかった」
「当然、そうだろうね。そもそも当時はまだ、あのお方は公に活動をしていなかった。だからこそ彼女は、自分の夢を正しく解釈することができなかったんだろう」
「……その夢って、一体。母は一体……なにを見たの」

震える声で問いかけると、ニヤリと笑ったジェネローサスは机に置いた杖をつかんだ。も思わず右手の杖を握り締めたが、ジェネローサスは杖先を虚空に向けて軽く突き出しただけだった。そこから幻影のようにぼんやり現れたのは、とぐろを巻いた蛇に締め付けられ、苦悶の表情を浮かべた、……。

「不死鳥……」

見たことがある。あれは、校長室にいた    

「ダンブルドアの不死鳥だ。今これを見れば、もその意味に自ら気付けただろうに」

ジェネローサスが再び杖を動かすと、浮き上がる蛇と不死鳥はあっという間に塵と消えた。

「そして夢の中では、蛇の傍らに自分が立っていたらしい。わたしには分かった。そしてそれを知った帝王もまた、その夢の意味を知ったのだ」
「……つまり?」
「分からないか、。君は聡い女性だと思ったが」

知りたくない、そんな。そんなことは    
だが覆い隠すようにきつく瞼を塞いでも、男の声を阻むことは到底できない。

「勘違いしないでほしい。だが我々が新体制を築くにあたり、大きな障壁がふたつある。魔法大臣、ミリセント・バグノルド。わたしは執行部時代の彼女を知っているが、あの魔女は決して一筋縄ではいかない。彼女のまとめ上げる省を叩くには綿密な計画と十分な時間が必要だろう。そして彼女が生涯の師と仰ぐ、アルバス・ダンブルドア。むしろダンブルドアさえいなければ    省を潰すのは容易だと、あのお方は考えておられる」
「『闇の帝王(、、、、)』が……ダンブルドアのことは、ずいぶんと持ち上げるのね」

精一杯の皮肉をこめてつぶやいたが、ジェネローサスは意に介した様子もなく口角を上げてみせる。

「帝王は愚かではない。ダンブルドアは、至上最高の魔法使いのひとりだろう。この革命において、大いなる障害となる。だが、そこに思わぬ吉報が舞い込んだ……君のお母さんの、夢だ。彼女が我々の側につけば、蛇はあの不死鳥を喰らうことができる」
「……それでどうしたの。あなたが    こうやって母のことも、仲間に引き入れようとした」
「ああ、そのつもりだった。だがその必要はなかった。なぜだと思う? 彼女は自ら進んで、帝王に付き従うことを決めたからだ」
    うそよ!!」

意識よりも先に、喉を嗄らすような叫びが身体の奥から飛び出した。同時、嵐のような突風がうずを巻いて部屋中の調度品を吹き飛ばす。ジェネローサスは椅子ごとその場で引っくり返ったし、ドアに背をはりつけていたロジエールは押し潰されそうな風圧の中で驚きのあまり目を見開いた。
風がおさまったあと、舞い上がったほこりに咳き込みながら顔を上げたジェネローサスは、心底おかしそうに唇を歪めて笑い出す。

「ああ、これか……話は聞いているよ。己を制御することは魔法使いにとって最も大事な能力のひとつだ。だがそのことを差し引いても、杖を使わずにこれだけの力が出せるというのはさすがとしか言い様がない」
「余計なお世辞はけっこうよ。それ以上、あることないことペラペラしゃべるつもりなんだったら……」
「わたしは嘘は嫌いだと言っただろう。は自らの意思で我々のところへやってきた」
「うそよ! 母がそんなことをするはずがない……わたしたちという家族がいながら、自分でそんな馬鹿な道を選ぶはずがない! 自分の夫がマグルだっていうのに、」
「その道を選ばせたのは誰だと思う。誰もが聖人だと信じて疑わない、あのアルバス・ダンブルドアだよ」

また、その話か。はすっかり困憊し、怒鳴る気力も失せてげんなりと頭を垂れた。ジェネローサスは杖を振り、部屋の中を元通りにしてから自分も直した椅子に腰かけ、芝居じみた仕草で肩をすくめる。

「ダンブルドアはその頃、水面下で動いているはずの帝王の活動にすでに気付いていた。あの男は独自の情報源を持っているからね。そして、これは恐らくわたしのミスだが    我々がを欲していることを、知ってしまったんだ。我々は焦ったよ、早急に手を打たなければ彼女を決して手の届かないところへ隠されると思った。だが、それを知ったダンブルドアは、どうしたと思う。スパイとして、彼女をあえて我々の側へ送ることを画策したんだ」
「……うそよ。ダンブルドアが、そんな危険な橋を渡らせるはずない。家族がいるのに、そんな……教え子にそんな、危険なこと、させるはず、ない」

先ほどの魔法で、残っていた精気を使い果たしてしまったのかもしれない。抗う声にも、もはやまったく力が入らなかった。

「だが育ちかけた『悪』の芽を、できるだけ早いうちに摘んでおきたいと焦っていたとしたら? 帝王もまた、至上最高の魔法使いのひとりだ。ダンブルドアがそのことに気付いていなかったはずがない。帝王の勢力が拡大する前に、手を打っておかねばと急いていたとしたら。逃げても、逃げても、帝王はそれこそ蛇のように執念深くを手に入れようとするだろう。娘が大きくなったとき、そこが『悪』のはびこる世界であっていいのかと、ダンブルドアはに迫った。そして彼女は、ダンブルドアのスパイとして自ら我々のもとに赴いたのだ。帝王の隣にいるわたしを見ても、彼女は驚かなかった。うすうす、感付いてはいたのだろう。彼女はとても、頭の良い子だった」

ほんの少しでも、この男に感傷というものが残っているのか。そんなことはどうでもいい。は目を閉じ、耳をふさぎ、その場によろよろとうずくまった。しかし男の声を遮断することは、できない。

「スパイとして働くには、まず、敵の信頼を勝ち得なければならない。そのためにはもちろん、自分の手を汚さなければならないこともあった。『死喰い人』としての彼女の働きぶりは、実に見事なものだったよ。だが、彼女は優秀な魔女だが、『夢見』の術者としてはまだまだ三流だった。その力をコントロールする術を知る者は他に誰もいないのだから、自ら鍛錬しなければどうにもならない。我々は待った    『夢見』としての彼女の力が磨かれるまで。そして最大の障害、アルバス・ダンブルドアを倒す決定打が導き出されるのを。だがそもそもスパイである彼女にそのつもりはなかったのだろう。そして彼女は、死んだ」

ぴくり、と、睫毛をふるわせ。抱えた膝に浅い息をこぼしながら、は蚊の鳴くような声でうめいた。

「……あんたたちが、殺したの?」
「まさか。彼女は我々にとっても貴重な存在だった。なぜ殺さなければならない」
「スパイだと分かって    あんたたちが」
「だとしても、軟禁こそすれ、殺す必要はないだろう。彼女の才能はとても貴重だ」
「だったら……なんで。何で母は死んだの! 病気じゃなかったんなら、一体、どうして!」

いやだ、いやだ。もう、なにも聞きたくはない。それなのにどうして、もっともっとと先を促してしまう。

「彼女は任務の途中で死んだ。闇祓いと激闘になり、倒壊した小屋の下敷きになって死んだ。誰のせいでもない、あれは悲しい事故だ」
「悲しい事故    ですって?」

とうとうたまっていたものが音を立てて破裂し、杖腕を前へ押し出しながらは飛ぶように立ち上がった。

「悲しい事故? 母さんがオーラーと戦わなきゃいけなかったのは誰のせい? そもそもあんたが、母の信頼を裏切って夢の話を『あの人』なんかにしたから! 母があんたたちの側につかなきゃいけなかったのは、もとはといえばあんたのせいじゃないの!」

するとジェネローサスは呆気なく両手を上げ、素直にうなずいてみせた。

「そうだな、その点は認めるしかない。だがその後のダンブルドアの対応が大きな問題だ。なぜは病死したことになっている? 世間的な体裁だけならばともかく、君たち家族までがそうした認識でいるのは? わたしは君が三歳のときに、が連れた君に紛れもなく会っている。それなのに君は、母は自分が一歳のときに死んだと言い張る。この食い違いはなぜだ?」

つらつらと並べ立てるジェネローサスの言葉に、どくどくと心臓が早鐘をうつ。数々の齟齬、大人たちの秘密。今の自分の認識では、とても説明がつかない。

「ダンブルドアは省を巻き込んですべてを隠蔽し、君たち家族の記憶までもを操作したからだ」
「……馬鹿馬鹿しい!」

反射的にすべてを一蹴しようとしたけれど。はまともにジェネローサスの目を見ることができず、逃げるように身体の向きをかえて朽ちかけた古い鏡台を睨んだ。

「彼女をスパイとして我々のもとに送り込んだのはダンブルドアだ。当然、君たち家族に『真実』を説明する義務がある。だがダンブルドアは    夫は所詮マグルだと、その義務を怠った。それどころか、君たち親子の記憶を操作し、は病死したことにして君たちを日本に移住させるよう仕向けた。いま君たち親子が住んでいる土地は、いわゆるパワースポットだ。我々の一般的な魔力が乱されるほどに強力な『何か』を持っている。おかげで我々は、君を探すことができなかったよ。ダンブルドアはある筋の人間に、これであの親子は平安に暮らせると漏らしたそうだ」

もうなにを言えばいいか、分からなかった。馬鹿馬鹿しいと、ただ声を荒げるだけならば容易い。しかしはもはや、ダンブルドアがそんなことをするはずがないと叫ぶ気力さえ失っていた。

「ダンブルドアのボガートについて説明しようか。それは、君の記憶を操作しようとしたときの奴の姿だと思うね。記憶を操作された君は当然ダンブルドアのその恐ろしい姿を忘れていたが    ボガートにはお見通しだった。もしくは、君は二年生のときに大怪我をして聖マンゴに入院していただろう。ひどく頭を打って、脳に障害が出たと。思うに、そのとき奴にいじられた記憶が多少なりとも戻った可能性はある。それをボガートが見抜いたんだ」
「……もう、いい」

乾いた舌を動かしてつぶやくと、はぐったりとその場に膝をついた。うそだ、そんな    信じていたものが、当たり前にそこにあったものが突然、音を立ててがらがらと崩れ落ちる。瞬きすら忘れ、薄汚れた床を呆然と見つめる彼女の前に、淡い色彩の蜂蜜酒を波打たせたグラスがふわふわと飛んできた。

「一口飲むといい。少しだろうが楽になる」
「……ひとつだけ、聞かせて」

今さら毒の心配などしていない。だが目の前のアルコールは無視して、は慎重に言葉をつむいだ。

「母はなにか……なにか、動物、を……」
「あぁ、」

それだけで、こちらの言わんとすることを察したらしい。ジェネローサスは静かに笑みを浮かべ、まるでその光景を思い返すかのように瞼を伏せて答えた。

「犬を飼っていたよ。白い大きな犬を、一匹。いつか兄弟で見にこいと、フクロウに写真までつけてね」

……もう、だめだ。
は崩れるようにして両手を床につき、指先に額を押しつけて、ただひたすらに、泣いた。
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(09.07.21)