涙を拭いてようやく客間を出ようとすると、は窓の外にどうやらこっそり覗き見しようとしていたらしいジェームズの姿を見つけ、恥ずかしさのあまりそれまでとは違う意味で泣き出しそうになった。あいつぶっ飛ばす! と力んだシリウスが杖を取り出して(帯に隠していたらしい)逃げたジェームズを追いかけようとするのをすんでのところで止め、ようやく神社にたどり着いた頃にはすでに夕方の六時を回っていた。花火大会は八時からだが、出店の多くは六時前から開いている。すでに神社は涼しい恰好をした人々で溢れ返り、たちはいろいろな店を少しずつ見て回った。ジェームズは輪投げがとても気に入ったようで、すっかり財布が軽くなるまで何度も続け、ニースは意外にも射的が上手だった。リリーはチョコバナナを嬉しそうにかじり、リーマスは焼きイカ、シリウスはカキ氷をしきりに頬張って、みんなでヨーヨーすくいを楽しむ頃には、は完全に人混みに酔っていた。
「う……ごめん、みんな。ホストのわたしがこんな情けないことに」
「ううん、が人酔いするの分かってて引っ張り回した僕たちが悪いんだ。はこのへんでゆっくり休んでたら? 花火まではまだだいぶ時間があるだろ?」
「うん……でもみんなは? わたしがいなかったら言葉とか困るでしょう?」
「大丈夫、大丈夫! 店はもう大体回ったし、いざとなったらボディーランゲージでどうにでもなるさ! 八時くらいにまたこの狐の前に集合ってことでいいかな? シリウス、のことはもちろんお前に任せていいだろ?」
「ああ。好きにしろよ」
ひらひらと、まるで蝿でも追い払うような手付きでシリウスがジェームズをあしらう。『この狐』というのは石のお稲荷様で、今がしゃがみ込んでいる石段のすぐ後ろに立っていた。
「よし、それじゃあゆっくり休んでね! 僕たちちょっとそのへん散策してくるよ。もし迷っちゃったらほんとに赤い花火上げるかも」
「上げなくてすむように迷わないでね……」
「気を付けるよ。じゃあ、また後で」
ウィンクしたジェームズが、リリーやニース、リーマスたちと一緒に再び人混みの中に消えていく。きっと、みんな気を遣ってくれたんだよね。ニースたちはどうするんだろう。もしジェームズとリリーが二人でどこかに行っちゃうってなったら……ごめん、ニース、リーマス。なんだか気まずい旅行に誘っちゃったような気がする。ごめんね。
「大丈夫か?」
「うん……へーき。ちょっと落ち着いてきた」
喧騒から離れてしばらく休んでいると、ずいぶん気分が楽になってきた。隣に座って優しく背中を撫でてくれるシリウスに笑いかけて、そっとそちらに身体を倒す。父と暮らした故郷で、大好きなみんなと。掛け替えのない、シリウスと。
お母さん、わたし
これからもずっと、シリウスと一緒にいたい。
こちらの額にキスして、丁寧に抱き寄せてくれる。彼にプレゼントされた首元のネックレスを握り締めて、は押し寄せる充足感に静かに目を閉じた。
SHRINE PROPOSAL
神に誓う
シリウスが買ってきてくれた冷たいウーロン茶を飲んでしばらくぼんやりしていると、酔いはすっかりさめたようだった。花火の時間まではまだ三十分ほどある。はシリウスと一緒に、お祭りを離れて少し遠くまで歩くことにした。
「もうちょっと行ったところにね、こないだ話した巫女さんの岩があるんだよ」
「ミコ……あー、ごめん、何だっけそれ」
「あれ、覚えてない? ルーン語の課題やってるときに話した巫女さんの話。好きな人を戦争で亡くしちゃったっていう」
「ああ……あれか。へえ、すぐ近くなんだ」
「うん、ちょっと歩くけど。シリウス、足とか平気?」
「まあ……少しは慣れた」
浴衣の足元にはみんなで揃って下駄を買ったのだが、以外の全員が最初は数歩進むだけで必ずといっていいほど転びかけた。見事なまでに豪快に転倒したのは、こんなのちょろいちょろいと甘く見ていたジェームズで、擦りむいた肘をリリーに手当てしてもらい、それはそれでとても幸せそうだった。おめでたいよね、ほんとに! まあ、恋をすれば誰だってそうなってしまうのだろうけど。はもう少しペースを落としてシリウスの手を握り、彼が転ばない速度でゆっくりと歩けるようにした。
「浴衣のほうはどう? 慣れた?」
「うん、こっちはまあ……でも日本人ってのはめんどくさい服を着るもんなんだな」
「普段からこんなの着ないよ。もっと複雑なの着る人もいるけど。でもフツーの人はお祭りとか、そういうときだけ。あ、見て見てシリウス、あのおっきい岩だよ」
は両腕を伸ばしても抱き抱えられないほどに大きなその岩の前で足を止めた。けれども、このあたりはまだぽつぽつと街灯があるとはいえ、夜の帳が下りた中でそこに刻まれたという跡を見るのはまず不可能だ。まあ、ああいうのはただの伝説なんだろうけど、でも見る人によっては本当に涙の跡が見えるという人もいるので、シリウスたちの意見を聞いてみたいと思っていたのは本当だった。
「へえ、思ったよりでかいな」
「そうでしょう? 何でこんなところに巫女さんの泣いた跡が残るのか分かんないけど。まさか岩にしがみついて泣いてたわけでもないと思うし」
すぐ近くに残っている苔生した鳥居を仰ぎ見て、独りごちる。何百年も、ひょっとしたらそれ以上大昔に、ここで一組の男女が恋に落ち、彼の訃報を聞いた彼女は三日三晩泣き続けた。まさにこの場所で。そして死のうと思った。だけど、しっかりと自分の生きる道を取り戻して
死んだあとに生前の分も、ふたりは幸せになったって。小さい頃から聞かされていたその伝説が生まれた場所に、こうして大切なシリウスと立っていられるのだと思うと、はなんだか不思議な気持ちになり、しばらくぼんやりとそこにたたずんでいた。
「……なあ、」
「うん?」
繋いだ手のひらが少し汗ばんで、それまで以上に力を込めて握られる。けれども、痛みを覚えるほどではなくて。不意に呼びかけられ顔を上げると、後ろの街灯を受けて浮かび上がったシリウスの眼差しが、熱く潤んでこちらを見下ろしているようだった。な、何だろう。ダメだな……こんな薄暗いところで、ふたりっきりでそんなふうに見つめられると、ちょっと変な気分になってくる。
「なに?」
「……なあ、ずっと言おう言おうと思ってたんだけどさ」
「……うん?」
なんだろう、みょうにあらたまって。きっと真面目なこと言おうとしてるんだろうけど……そんな目で見られたら、こっちはそういう気分を抑えるのに必死なんですけど?
彼はじれったいほど躊躇の間を挟み、ようやく数十秒の葛藤を終えてから吐き出すようにしてをそれを口にした。
「お
俺と、暮らさないか」
「……へ?」
理解できずに、ぽかんと口を開けて硬直する。シリウスは自分でも泣き出しそうなほど狼狽えながらあたふたと声を絞り出した。
「いや、そのもちろん今すぐって言ってるわけじゃないんだ……いずれ、その、できれば卒業したら……真面目に働くから、だからその……俺と一緒に、暮らしてほしい」
「へ、あの……その、シリウス……」
どうしよう、どうしようこれってプロポーズ? 確かにイギリスの魔法社会では、十七歳で成人だから法律的にはもう結婚できる年齢ではあるんだろうけど……ニースから、まさに今日そんな話を聞いたばっかりだけど?
こちらの手を握るシリウスの指先から、怖いほどの震えが伝わってくる。
「一年前……家族のことを諦めた俺に、お前は本気になって怒ってくれて……おまけにあんなところに殴り込みかけるなんて……」
「な、殴り込み? 人聞きの悪いこと言わないでよ!」
「殴り込みだろ、どう考えても。まあ、いいや……とにかく、俺のためにあんなに必死になってくれて、俺のために何が幸せなのか考えろって……俺、ほんとに嬉しかったんだ。家族のことは、どうにもならなかったけど……お前がいてくれれば、それでいいと思った。俺にはお前しかいないって……ずっと、思ってた」
あのときのことは、思い出すだけで顔から火が出そう。けれどもあの日から
確かにシリウスは、家族のことで思い悩むことが、ずいぶんと減ったように思う。
唯一、血を分けた兄弟であるレグルスのことだけは、今でも気がかりなのだと思うけど。
「俺の幸せには、お前が必要なんだ。そしてお前が幸せになるためにも……俺は全力を尽くしたいと、思った。お前の故郷に来てみて……そういう思いが、今まで以上に強くなったんだ。きっと、幸せにする。だから……俺のことも、これからもずっと幸せにしてほしい。お前が……俺の、『家族』になってくれたら……」
どうしよう。どうしよう、わたしが
シリウスの、家族に?
溢れ出す思いが止まらなくて、涙をこぼしながらひくひくと嗚咽を漏らす。ぎょっと目を見開いたシリウスの胸にしがみついて、は何度もしきりに首を振った。
「なんで……シリウスなんて、もっといくらでも可愛い子がいるかもしれないのに! そんなこと言っちゃっていいの? まだ一年あるんだよ、その間に後悔したって知らないんだから!」
「ばっ……バカ言うな! ああ、お前がそんなに疑り深いなら正直に言うけどな、お前よりきれいってだけの女ならホグワーツにだっていくらでもいるぞ! でもな、そんなこと関係ないんだよ! 俺のためにあんなに怒れる女がいるか? あの『ブラック家』に乗り込んで説教垂れるような女はお前以外に絶対にいないぞ! そういうことなんだよ、くだらねーこと言うな!」
お前より美人なんていくらでもいると言われてさすがに傷付いたが、それは自分でもはっきり意識していたことなので仕方がない。それよりも彼がこんなに声を荒げてお前しかいないんだと言ってくれたことが、そのままの胸を揺さぶった。
こちらの肩を掴んで引き寄せ
そして肩口に顔をうずめたシリウスは、また声の調子を落として呟いた。
「俺のほうが……ずっと、不安だよ。ひとりじゃ何もできねぇ、ガマンはきかねーし、鈍いし……いつお前のこと傷付けて、いつ見放されるかって不安で……お前を幸せにできるやつは、別にいるんじゃねーかって」
「な……なに、いってんの」
信じられない。そんなの。
もう、あなた以外には他の誰も
考えられないっていうのに。
「ばか、ばかばかばか……そんなことあるわけないじゃない! シリウスしかいないんだよ、フィディアスが襲われたとき……一番会いたかったのはシリウスだった! 他の誰でもなくって、ただシリウスのことしか考えられなかった! シリウスがいてくれて……あのときわたしがどれだけ心強かったか。ずっと大事にしてたお母さんのネックレス外したのも、シリウスしかいないって思ったから。ここにいてほしいのは……シリウスだけだったから。シリウスのこと、大好きだから。シリウス以外……誰も、考えられないから」
ひたすらそれだけを唱えながら、彼の首筋にしっかりとしがみついた。
二度と、放さなくてもいいように。
「……」
そっと。すぐそばで、優しすぎるその声に呼ばれて。
身体の芯を突き抜けるそれまでとはまた違った高揚感に、はきつく目を閉じた。
「信じて……いいか?」
「うん」
「キスして、いい?」
「……うん」
「
もうガマンできないんだけど」
「だめ」
繰り返されるキスの間に、腰の下にシリウスの手が回ってきたのでは慌ててそれを遮った。だがすぐにまた唇を塞がれ、そちらに意識を奪われているうちに伸びてきた彼の右手が浴衣の中に這い込んでくる。
「ちょ、やだ、だめ!」
「俺、ガマンきかねーって言ったばっかじゃん」
「だからって! だめ、ちょ、やだ! これって公然わいせつ!」
「誰もいないんだから公然じゃねーだろ。『ミコ』さんだってきっと許してくれる」
「神聖な神前で巫女さんが許してくれるわけないでしょ! あのね、それに誰にいつ見られてもおかしくないような状況でそういうことするのって犯罪なの! 分かる?」
「俺こっち来てからずっとガマンしてたの。なのにお前がそんなエロい格好してるのが悪い、これは不可抗力だ」
「エ……いきなりなにいってんの! 本音、それが本音? 日本の夏はこれなの、男も女も浴衣着て普通なの! シリウスみたいな考えの男ばっかだったら日本中性犯罪だらけ!」
「日本の性事情なんて俺の知ったことか」
「やだってば、ちょっ! ばか! ばかばかばか! もう帰らなきゃ、みんな待ってる!」
お母さん、フィディアス。わたし、大好きなシリウスの傍に、ずっといても、いいみたい。
それは正式な、『契約』としての約束ではないけれど
今はただ、彼のその思いだけで。
巫女さん。きっとわたしたちの、『証人』になってくれますよね?