ここが    の育った町。彼女の暮らした、家。のお父さんに初めて出会ったのは、まだ二年生のときだった。が入院し、マクゴナガルにせがんでジェームズと二人で見舞いに訪れたクリスマス。優しそうな人だと思った。ただ、少し、器用でないだけ。
二度目に会ったのは、やはり聖マンゴで。フィディアスが襲われ、現場に居合わせた彼女を迎えにきた。そうだ、いつだってそうだった。お父さんがイギリスに現れるのは、の身に何らかの害が生じたときだけ。
そして、今    自分は、彼らの国、日本にいる。が幼少時代を過ごし、彼女の父親が今もなお暮らす、日本に。彼女の、帰る場所。

「それは、の背丈だよ」

柱に刻まれた小さな傷を、指で触れながら眺めていたシリウスは、突然声をかけられて飛び上がった。黒い寝巻きの上に薄手のブランケットを羽織ったの父親が曲がり角の奥からゆったりした足取りで近付いてくる。別に後ろめたいことをしていたわけではないが、彼は思わず手を引っ込めてそこから半歩だけ後退した。

の?」
「そうだよ。日付も書いてあるだろう? 四十四年、六月……ああ、が九歳の誕生日だな」

かなり低い位置にある傷跡を人差し指で確認するようになぞりながら、お父さんが呟く。だが、九歳? ホグワーツに入学する少し前だ。彼女はこんなにも小さかったのか。自分もまた、同じくらいの身長だったのだろうか? こんなにも変わったのだ。それだけの月日を、共に過ごしてきた。

「フィディアスは相変わらずかい?」
「え? あ、はい……ここに来る前も、一度寄ってきましたけど……状況は、同じでした」
「……そうか」

短く相槌を打っての父親は柱から手を離し、すぐそばの流し台に移動した。

「水でも飲むかい?」
「あ……はい。いただきます」

ここの水は本当に美味い。この町は独自の水路を持つので、大きな隣町が渇水になってもうちは大丈夫なんだと自慢げに彼女が話していたのを思い出す。シリウスは父親が汲んでくれた水道水をゆっくりと口に含んだ。

「お父さんは……フィディアスのことを、ご存知だったんですよね」
「……ああ。向こうにいたときにね、家内が何度か連れてきたことがあるんだよ」

のお母さん。フィディアスの、友達だった……。

「シリウス」
「あ……はい」

会ったことはない。当たり前だ。母親はがまだ赤ん坊のときに亡くなったという。だが写真を見せてもらったことはある。その魔女は、今目の前に立っているマグルの夫人だった。そのことがなんだか不思議に思えて、物思いに耽っていたシリウスは呼びかけられて慌ててそちらに注意を戻した。お父さんは水を飲み干したコップを流しに置き、ひっそりと言ってくる。

を、よろしく頼むよ」
「………」

それは一年前にも聞いたはずの台詞だった。だがあのときとは状況も、込められた思いも    確かにきっと、何もかもが違う。
今ここで答えられるのは、たったひとつのことだった。

The answer is a lemon

これで最後に

「や、ちょ、だめ、むりむりむり、むり!」
「どうして? ダンスパーティに買ったドレスだって赤いのだったじゃない」
「あ、いやあれはその、でもその、むり! だ、だだだ、だってこれ、」
「どうしたの? なんかあった?」

男物のコーナーからジェームズがひょっこり顔を出すと、リリーとニースは手にした浴衣を後ろ手に隠して、夜まで秘密と彼を追い返した。リリーの手に新たに握られているのは    淡いピンクの、浴衣。

「何で、何で私だけ! 私もリリーのみたいなのがいい!」
「あら、だってかぶったら面白くないじゃない。絶対似合うわ。ほら、見て見てニース」
「うん、ほんと! は何でも似合うんだから、自信持っていろいろ着てみたらいいわ」
「うー、う、う……でもピンク……ピンク……」
「ピンクっていってもそんなに派手な色じゃないし、とっても上品よ。可愛いわ」
「ねえ、みんな、担いでる? 担いでるでしょ、わたし自分でピンクが似合わないことくらい分かってるよ!」
「ううん、分かってないわ、。分かってない。自分じゃ分からないことって、案外多いものよ」
「絶対担いでる、二人して私のこと担いでる……」

は差し出された浴衣を睨みつけてうめいたが、タッグを組んだこの二人にこれ以上何を言っても撥ね返せないことははっきりと分かりきっていた。そう、何だかんだで    特にブルーノと付き合い始めてからというもの、ニースはひょっとしたらリリーよりも強くなったかもしれない。あのシリウスの一件を思い出してもそうだ。きっとこのまま結婚して、ニースのところはかかあ天下になるんだろうなぁと、は漠然とそんなふうに思っていた。
は極力自分の着ている浴衣の色を見ないように注意しながら、リリーやニースの着付けも手伝った。といっても、もこんなことは初めてなので、スーパーで買ってきた浴衣特集の雑誌と睨めっこしながらだ。思った通り、リリーはとても大人っぽく、そしてニースは爽やかな印象に仕上がった。それに比べて……あああ、自分なんかよっぽど子供っぽく見えてるんだろうな。

「後でまた写真でも撮りましょう。ブルーノったらきっと自分の前でも着てくれってせがむわよ」

悪戯っぽく笑ってリリーが言うと、ニースはきょとんとした様子で目を開いた。

「あ……ごめんなさい。ひょっとして、言ってなかった?」
「え? な、なにを」
「私たち、別れたの」
「へっ……えっ!」

リリーとほとんど同時に、素っ頓狂な声をあげる。平然とした様子でさらりとそんなことを言ってのけたニースに、は舌をもつれさせながら慌てて捲くし立てた。

「え、うそ、だって……え、何で! 私、二人はそのうち結婚するだろーなとか……ええと……」
「あー……うん、それなの。まさにそのこと」

ニースは鏡の前でリリーに結ってもらった茶色い髪を確認しながらあっけらかんと続ける。

「結婚しようって言われてたの。バレンタインにもらった指輪もそう。私もそのつもりだったけど、でも急にそんなこと言われてもね」
「そ、そんなことって?」
「私はもちろん卒業してからって思ってたのよ。でもあの人、アルバニアで働くでしょう? 離れるの不安だから、俺が卒業したらすぐ結婚してくれって。そりゃ、私だって確かに大人にはなったわよ。でもあくまで学生だし、紙切れ一枚のことじゃない。まだそんなつもりはないって言ったら、じゃあ一度別れようって」
「え? え、え……ごめんよく分かんないんだけど」
「一年なの、あの人がアルバニアにいるの。研修で。うまくいけばその後こっちに帰ってこられるから、そのときにまだお互い必要とし合ってたら結婚しようって。そうね、私もよく分からないわ」
「そ、それって別れたっていうの? だってまだ好きなんでしょ? ブルーノも、それにニースだって」
「そうね。好き、だけど」

だけど。ニースは不意に窓の外に目をやり、差し込む日差しにそっと瞼を伏せた。

「でも、自信はないかも。今まで、そばにいるのが当たり前だったから。もう、今度ホグワーツに帰っても彼はいないんだなって思うと……どうかな。ずっと好きでいられるか、分からない。こんな気持ちで結婚なんて、できるわけないのにね。甘く見てたのかも。思ったより    大変なことだった」

彼女はそう言って肩をすくめながら笑ったが、たちはとても笑う気にはなれなかった。恐々と、問いかける。

「ニース……今回の旅行、よかったの? 私たちよりブルーノと過ごしたほうが……急に誘ったりして、ごめん」
「ううん、そんなことないわ。どうせ彼も、卒業して一週間で向こうに行かなきゃいけなかったから。だからちょうど良かったの。の国に来られて、嬉しい」

は申し訳なさのあまり浴衣姿のニースにしがみついたが、崩れるからといって早々にリリーに引き剥がされた。ごめんごめんと繰り返して、今度はリリーのほうにがっしりと抱きつく。リリーはまるで子供のようにの背中を叩いてあやしたあと、大真面目な顔をしてニースに向きなおった。

「うまく言えないけど……でも、ブルーノへの気持ちがあるうちは、手紙とかこまめに書いてあげて? あなたも不安だと思うけど、新しい国で、彼もすごく不安だと思うから。言わなきゃ伝わらないことって……案外、あるものよ」

するとニースは少し驚いた顔をしてから、目尻を緩めて穏やかに微笑んだ。

「そうよね。ありがとう、リリー。も、ありがとう」
「えっ? ううん、私は何にも……」
「それから、リリー」

きょとんとした様子で振り向いたリリーに、ニースが何気ない口振りで言い放つ。

「さっきのあなたの台詞、あなたも当然忘れないようにね」
「なっ、何のことかしら」
「分かってるくせに。さあ、ジェームズたちが待ってるわ。そろそろ行きましょ」

さらりとそう言っての部屋を出て行くニースの後ろ姿に、真っ赤になったリリーは何も言えずにただ立ち尽くすばかりだ。やっぱり一番強いのはニースだと、はこの瞬間に確信した。
客間に下りていったとき、三人ともきれいだねとまともに言ってくれたのはリーマスだけだった。ジェームズの目は言わずもがなリリーの浴衣姿に釘付けだし、シリウスはシリウスで驚いたようにこちらを見たまま何も言わない。やだ、やだ、やっぱりピンクなんてありえない。このまま消えてなくなりたい。恥ずかしさのあまりがニースの後ろに隠れると、呆れ顔のリーマスは慣れない浴衣の裾を直しながらシリウスたちを見やった。

「二人とも、感想があるなら素直に言ってあげたら?」
「えっ、あっごめん! あんまりあんまりあんまりきれいでつい、その……リリー、きれいだすごく似合ってる!」
「あ……ありがとう。あなたも、似合ってるわ」

リリーは素っ気なく言ったつもりなのだろうが、耳までまるできれいな朱色だ。感激してしまったジェームズはその場でまた黙り込んだし、シリウスはまだうんともすんとも言わない。付き合っていられないとばかりにリーマスは彼らを放置してニースに話しかけた。恐らく、いや、まず間違いなく、私たちのせいでこの旅行中はニースとリーマスが一緒にいることが多い。最初のうちは二人ともかなり遠慮がちだったが、今ではずいぶん打ち解けて話をするようになっていた。は仕方なくニースの背中から離れ、たたずむシリウスのところに近付いていく。シリウスの浴衣はリーマスのものよりも深い濃紺だ。ジェームズは明るく澄んだものをまるで慣れたように着込み、はひょっとして自分がピンク色を着せられたのは男性陣の浴衣の色も関係あるのではないかと踏んだ。

「シリウス、も、けっこう似合ってるね」
「そ、そうか? 正直、自分じゃよく分かんねぇ。こういうの、イギリスにはないし」
「似合ってるよ。なんか、様になってるっていうか。いーな、シリウス、何でも似合うから……」

ぽつりと呟いたに、それまでどこかぼんやりしていたシリウスはすかさず鋭い視線を投げつけてきた。

「お前はまたつまんねーこと考えて」
「え、まだ何にも言ってないじゃない!」
「言わなくても分かる。どーせ自分は似合ってないとか思ってんだろ」

図星を指されては一瞬怯んだが、まるで磁石が反発でもするかのように勢いに任せて叫んだ。

「なに、悪い? だ、だってピンクなんて……子供っぽいとか思ってるでしょ! 思ってるんでしょ!」
「は? お前、誰もそんなこと言ってな……」
「だってシリウス何にも言わないんだもん、何にも!」
「……言わなくても、そんな、お前な、ここで言わせるか?」

だって、だって、だって! シリウスっていつもそう! 二人きりのときはびっくりするくらい恥ずかしいことだって平気で言ってくるくせに、こういうときはまるで石像かと思うくらい頑なに押し黙って何も言わない。そりゃ私だって分からないでもないけどさ、でも、それでも! これだけ不安なんだから、せめて一言くらい何か言ってほしいって思って何がいけないの。
先ほどのリリーに負けないほど赤くなったシリウスとふて腐れた顔でしばらく睨み合っていると、リリーがニースを見ながら神妙な面持ちで口を開いた。

「ニース。これだけ長くてもこういうことで簡単に口喧嘩になるのよ。やっぱり手紙は逐一書くべきだわね」
「そうね。いい見本がいてくれてよかったわ」
「何のことだよ、おい」
「それはに聞いてちょうだい。ねえ、ニース、そろそろ行きましょう?」

シリウスの問いかけをあっさりと切り捨てて、リリーはニースやリーマスたちと先に外に出て行った。あーもう、完全に遊ばれてる! ジェームズもどういうわけか訳知り顔でこちらを一瞥すると、リリーたちを追ってさっさと客間から消えた。二人きりで取り残され、急に静かになった室内でシリウスがようやく聞いてくる。

「さっきエバ……あー、リリーが言ってたのって、なに」
「え? あ、あれはその……ニース、ブルーノがアルバニアに行っちゃったらなかなか会えなくなるでしょ? だから手紙とか書いたりして、言いたいことがあったらちゃんと言ったほうがいいよねってさっき上で話してたの」

これまでこのメンバーを全員ファーストネームで呼んでいるのはとジェームズだけだったが、一ヶ月もの期間を一緒に遠国日本で過ごすのだから、まずは呼び方から仲良くなろうというジェームズの提案で、シリウスもまたリリーやニースのことを名前で呼ぼうと努力していた。まだ慣れないのか、こうしてやはりファミリーネームが口をついて出てきてしまうことも多かったけれど。
シリウスは彼らの消えた扉をしばらくじっと見据えたあと、徐にこちらを見て遠慮がちに首の後ろを掻いた。

「あー……似合ってる、すごく」
「……ほんと? 子供っぽくない?」
「ない。それに……子供っぽくて、何が悪いんだよ。俺は……そのまんまのが好きなんだ」

今度はが赤くなる番だったが、どこか複雑な気持ちは否めない。やっぱりそうだ、やっぱり、私ってまだまだ子供っぽいんだ。魔法界では一応これでも大人になったのに。

「おい、何でそこでへこむんだよ。こっちがへこむだろ」
「ご、ごめん。でも、だって……私、昔からずっと子供っぽく見られてたから、ちょっとでも大人っぽくなれたらいいなーって、頑張ってるのに、なぁ……」

頑張ってるっていっても、所詮はアイメイクに力を入れるくらいだけど。力を入れるっていっても、精々アイラインとマスカラを塗り足すくらいだけど! でもリリーは、すっぴんだって私なんかよりもっとずっと大人びている。どこで差が出るんだろう。どうすれば彼女のような、大人っぽい落ち着いた女性になれるんだろう。

「……あー。頑張らなくて、いいよ」

項垂れるを見て、困ったようにシリウスが呟く。それって案外、女の子にショック与えるって知ってる? 頑張っても一緒って言ってるんだよ、それ! しかしそんなの胸中すら読み取ったかのように、シリウスは不意に右手を伸ばしての頬を撫でた。

「頑張ってる、可愛いよ。俺も嬉しいし、きれいだ。、すごいきれいになった。さっきだって、分かんなかったんだったら言うけどさ……見とれてたんだよ、すげーきれいだから」

わー、わー、わー! ほら、ほら二人きりになったらいきなりこんな恥ずかしいこと言い出す! 顔から火が出そうになってるのも絶対気付かれてるよ、やだ、やだみんな外で待ってるのに!

「だから、無理して他の誰かみたいになろうとしなくてもいいだろ。俺にそのこと教えてくれたのは    お前なんだからさ」
「……え? わたし?」

まったくそんな覚えがなかったので、ぽかんと口を開けて瞬く。シリウスはそこに、日本に来て以来初めてのキスを落とし、驚くの顔を覗き込んで囁いた。

「俺だってずっと悩んでた。俺はジェームズみたいに大きくも、リーマスみたいに広くもなれない。嫌なこと思い出させるかもしれないけど    エバンみたいに、強くもない。ずっとふらふら、ぶれてばっかりだ」

エバン……ロジエールの、ことか。そういえば、彼はシリウスの遠戚なのだと言っていたっけ。でも彼の口からロジエールのファーストネームを聞くのは初めてのことだった。さり気なく瞼を伏せて、つぶやく。

「……私、ロジエールのことはよく分からないけど。でも、彼がたとえ『強い』んだとしても    嫌なやつだよ、すごく。私は、きらい」
「でも、俺だってあいつみたいに……『嫌なやつ』なんだろ、すごく」

シリウスがそう言って卑屈に笑ってみせたので、は頬に添えられた彼の手を軽く振り払って眉をひそめた。ごめんと素直に謝って、シリウス。

「でも、俺がどんだけ『嫌なやつ』で、他の誰にもなれなくても    それでもお前が、俺を選んでくれた」
「……シリウス」
「俺がどんだけ馬鹿やっても、それでもお前は俺を選んでくれた。見捨てないでくれた。分かったんだ。こんなどうしようもない俺でも、他の誰にもならなくていいんだって。だからお前も……あんまり、無理すんなよ。俺がお前のこと、好きなんだからさ」

うわ、どうしよう。やめてよそんなこと言うの。せっかくマスカラたっぷり塗ってきたのに。不安だからいつもウォータープルーフだけど、それでもやっぱり涙が出ると心配になる。ばか、ばかばかばか。落ちたらどうしてくれるの。みんな待たせてるのに。
泣くなよといって恥ずかしそうに頭を掻いたシリウスは、その場に誰もいないのに律儀にこちらの耳元に顔を近付けてそっと囁いた。

「それに    心配しなくても、感じてるときのって、すっげー大人っぽいから。そんなの、俺だけが知ってれば十分だろ」

その台詞を聞いた途端、は耳まで真っ赤になって絶叫した。

「ばか!」

いいとこなのに、何で男の子って最後の最後にエッチなネタでくるのかな!
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(09.04.12)