日本
か。きっと彼女がいなければ、考えもしなかっただろうな。部屋の壁に貼られた一枚の世界地図。湿気を吸って波打ってはいるが、本来の機能は衰えていない。広大な大陸を挟んで、遠く離れた小さな島国。それが彼女の育った国、日本だった。
どうしてこんなことになっているのだろう。彼女はシリウスの恋人だ。だから彼女はシリウスを誘った。それは分かる。彼女はジェームズの親友だ。だから彼女はジェームズを誘った。それも分かる。彼女はリリーの親友で、ルームメートのジェファとも仲が良い。だから彼女はリリーとジェファを誘った。ジェームズとリリーは、ここのところうまくいっているように見える。すべてが順調だ。そう、ここまでは、とても自然な流れである。
しかし、一体どうしてその輪の中に当然のように僕が含まれているのだろう?
彼女は僕にとって、大切な友人だ。とても。けれど、どうして
僕はこんなにも、当たり前のような顔をして手を差し伸べてくれる素晴らしい友人たちに恵まれているのだろう。
一年生のとき、ルームメートとしてジェームズやシリウス、ピーターに出会った。彼らはとても良い『友人』たちだった。毎日、同じ部屋で生活を共にする仲間。一緒に食事をとって、一緒に授業を受けて、一緒に宿題をして。下らない冗談を言って大声で笑うジェームズたちは、一緒にいるだけでこちらの気分まで楽しいものにさせてくれた。それだけで十分だった。それだけで、満足しなければならなかった。
けれど、二年生のとき、事態は一変した。それはジェームズでもシリウスでもピーターでもない。いや、彼らもまた一枚噛んでいたという意味で『共犯』だけれども、それはたったひとりの、同級生の女の子によって。・。僕の好きな、女の子だった。彼女は縮こまっていた僕の殻の中に、他の誰よりも深く、身体ひとつで飛び込んできた。そういった表現が適切かどうか僕には分からない。しかし、それほどに堅く閉ざしていたはずの僕の心に。僕の鎧は脆かった。一旦涙をこぼすと、あとは止められそうになかった。僕は彼女の前で泣いた。友人たちにはもちろん、ここ数年は両親にさえ見せたことのなかった涙を。踏み込むことの怖さを、僕はよく知っている。それを冒してくれた彼女の思いに
僕は一生分の喜びさえ与えられたような、気がした。
どうして、僕はここにいられるんだろう。眩しいばかりのジェームズやシリウス。彼らの『仲間』になれただけでも、僕には十分すぎるほどの充足感を得られたのに。彼らの最愛の人といっても過言ではないまでもが、僕を彼らの『友人』として、同じような温もりで満たしてくれる。いや、同じような、なんてまさか
しかしこの優しさだけで、僕はきっとこれからもずっと。
そろそろ、時間だ。ホグワーツから戻ってきて、ほとんど解いてもいなかった荷物を改めて詰めなおし、トランクを閉める。一ヶ月だ。きっと、最初で最後の日本旅行になる。悔いは残したくない
愛した彼女が、育った町。一ヶ月きっちりはいられない。そんな危険を冒すことはできない。彼女は僕のバイオリズムに合わせて日程を組もうとしてくれたが、それは僕が断った。リリーやジェファは僕の体質のことを知らない。それに、最後の夏休みだ。みんなには、思い残すことなくしっかり楽しんできてほしいと。そこで、僕だけ一足先に、月齢に合わせて飛行機で帰国することにしていた。飛行機! いいないいな、僕まだ乗ったことないんだよ! とジェームズは興奮していたから、ひょっとしたら彼らも帰りはマグル的空の旅ということになるかもしれないけれど。
「リーマス、準備はできてるの? そろそろ出発したほうがいいわ」
「うん、すぐ行くよ」
ドアの外から、母さんの呼び声が聞こえる。僕は部屋の中をぐるりと見渡して、忘れ物がないかどうかざっと確認した。もともと、そこまで物の多い空間ではない。何かを忘れていればすぐに気付くはずだ。
よし、と呟き、リーマスはトランクを引いて部屋を出ようとした。するとそのとき、コツンと何かガラスを叩くような音がして振り向く。見やると、窓の外に見覚えのある大きなフクロウが一羽、脚に手紙を括り付けて羽をばたつかせているのが見えた。
MUG'S GAME
ばかげたうそ
「え、ピーターが来られないって?」
は学期中、寮監のマクゴナガルに今年は一週間ほど漏れ鍋に滞在し、それから日本に帰国する旨を伝えていた。彼女が魔法省に計らって指定してくれた時間帯には余裕を持って臨めるようにと、友人たちとの集合時間も一時間も前に設定した(もっともこれはマグルのお金に換金する時間を考慮に入れたものなので、そこまで早すぎるということもない。何しろ手続きには予想以上に時間がかかるのだから)。そんな中、約束の時間より少し遅れて現れたリーマスは、まだピーターが来ていないことに気付いて「やっぱり」とつぶやいた。彼が取り出したのは、一通の手紙。
「僕が家を出る直前に届いたんだ。君たちのところにも連絡がきてるかと思ったんだけど」
「ううん、きてないけど……どうしちゃったんだろ、ピーター」
「なんでも、家のことでだいぶ忙しいみたいで。急な話で、ごめんって」
ピーターからリーマスに宛てられたという手紙を読むと、確かにそこには彼の筆跡で、急にこんなことになってごめんと言葉少なに書かれていた。それを横から覗き込んできたジェームズの後ろで、シリウスが退屈そうに欠伸を漏らしながら唸る。
「なんだ、ドタキャンか? いいぜ、それならそれで放っとこうぜ」
は咎めるような視線でシリウスを見たあと、手紙を折り畳んでリーマスの手に返した。
「何があったのかな、ピーター。せっかく楽しみにしてたのに」
「忙しいって言ってんだから、なあ、放っとこうぜ」
「シリウスは黙っててよ」
無神経な声をあげる恋人をぴしゃりと撥ね付けて、リーマスやジェームズたちを見渡す。リーマスはしばらく難しい顔をして考え込んだあと、手紙を掴んだ右手を振ってようやく口を開いた。
「僕が少し様子を見てくるよ。もし可能だったらピーターを連れて戻ってくる。時間がないから、君たちは先に銀行に行っててくれないかな。すぐに追いつくよ」
「ムーニー。そんなに甘やかしてやる必要ないって。こんな土壇場のキャンセル、してくる奴が悪い。好きにさせときゃいーだろ、そんなの」
「シリウス」
そのあまりに素っ気ない態度にが何か言おうと口を開きかけたそのとき、リーマスはどこか冷めたような口振りでシリウスに話しかけた。
「君は僕にとって、掛け替えのない友達だけど
でも事情も聞かずにただ切り捨てるだけだなんて、それじゃあ友達の甲斐がないよね。何のために、六年も一緒にいたんだい?」
そして驚き、押し黙るシリウスたちから顔を逸らして、自分のトランクを主人のトムに預ける。
「僕が様子を見てくるから、先に行っててほしい。すぐに追いかけるよ」
リーマスはそう言って、ダイアゴン横丁に通じる裏庭のほうに出て行った。姿くらましに特有の、あのバチンという音がして、しばらくの間、辺りに静寂が立ち込める。気まずい空気を打ち砕くかのように、急に明るい声を出したジェームズは一行を見渡して指を鳴らした。
「よし、それじゃあリーマスのお言葉に甘えて先にグリンゴッツまで行っておこう! 大丈夫、ムーニーのことだからちゃんとワームテールを連れてきてくれるさ。リリー! ニースも、さあお先にどうぞ」
ジェームズのエスコートで、リリーとニースが先に裏庭に出て行く。後ろに残されたはもどかしそうな顔をしたシリウスの袖を引いて、三人のあとを追いかけた。
「……リーマスの言い方、ときどきちょっと厳しいけど。でも、彼の言う通りだよ。友達なんだから……放っとけばいいって切り捨てるだけなんて、冷たい」
ジェームズたちから少し距離を取って歩きながら、小声で告げる。怒った様子で顔を背けるシリウスを見上げて、はどぎまぎと聞いた。
「シリウス……ひょっとしてピーターのこと、好きじゃないの?」
彼が口を開くまでは、少し時間がかかった。きつく引き結んだ唇をゆっくりと動かして、シリウス。
「別に、嫌いじゃない」
「だったら……だって、友達なのに何であんな」
「『友達』だからこそ嫌なことってのは
あるだろ」
「えっ? シリウス、それどういう……」
しかし彼はきっぱりとそっぽを向き、それきり押し黙ってしまった。は何度か思い切って口を開こうとしたが、とてもそれ以上を問い質せるような空気ではなかったので、とうとう諦めて肩を落とす。せっかくみんなで過ごせる、最初で最後の夏休みのはずだったのに。シリウスとピーターの間に特別な何かがあったのか、それとも長年培われてきたわだかまりのようなものでもあるのか。は歩きながらこっそり後ろを振り返り、無人の大通りを盗み見た。リーマスの姿はまだない。
(ピーター……来られるといいんだけど)
それとも、来ないほうがいいんだろうか。シリウスの頑なな仏頂面を見ていると、そのどちらがベターなのかにはとても判断がつかなかった。
もう、出発しただろうか。それともまだ、ダイアゴン横丁で準備でもしている頃だろうか。これでよかったんだ。無理をして一ヶ月も外国に行ってどうなる。毎晩、人知れず泣いて過ごすキャンプなんて御免だ。それならいつものように家族で過ごす二ヶ月のほうがよっぽど有益に決まっている。もう学校の外で魔法だって使えるんだ。何も困らない。のんびりして、少しずつ宿題でも片付けてしまえばいい。みんなが遊んでいるうちに、僕はほんの少しでも先に進んでいくんだ。
そんなとき、扉の向こうからあっけらかんとしたママの声が聞こえた。
「ピーター、お友達が見えてるわよ。すぐにいらっしゃい」
と、友達? 僕は思わずベッドから飛び起きて、荒れ狂う鼓動を服の上から押さえつけた。誰だ
一体誰が、こんな僕を迎えにきてくれるっていうんだ? 大慌てで階段を駆け下りた僕は、玄関先に立つリーマスの姿を見て少なからず落胆している自分に気が付いた。僕は何を期待していたんだろう。第一なら、ママは彼女のことを知っているのだから、が来たとはっきり言うはずだ。
「やあ……忙しかったかい?」
控えめに笑って聞いてくるリーマスに、ぎこちない笑みを返してかぶりを振る。
「ううん、今は……それよりリーマス、こんなところまでどうしたの?」
「ああ……手紙、受け取ったよ。でもせっかくの機会だから、どうにかならないかと」
ちょうどそのとき、キッチンに引っ込んでいたらしいママの大きな声が聞こえてきた。
「ピーター、そんなところに突っ立ってないで客間に入ってもらいなさい! ごめんなさいね、気が利かなくて」
「いえ、お構いなく。僕はすぐに行きますから」
リーマスは奥から顔を出したママににっこりと笑いかけてみせる。僕は居心地の悪い恥ずかしさを感じながら、どういうわけか客間ではなく玄関の外にリーマスを引っ張っていった。
「ごめん……実はキャンプのこと、ママには話してなくて」
「え? どうして」
「いや、その……話しちゃうと多分、行ってこいって言ってくれると思うから。でも、この夏は本当に家のことが忙しくて……空けて行くのは心配なんだ。だから……連絡がぎりぎりになっちゃって、本当にごめん。でも僕は、残ることにするよ。だから僕のことは気にしないで、みんなで楽しんできて」
この台詞を口にするのに、僕がどれだけのものを押し殺したか。今この瞬間、なんとか笑ってみせるのに、僕がどれだけの顔の筋肉を酷使しているか。だがリーマスはそんなことはすべて見透かしているかのように、悲しそうな顔をして口を噤んだ。やめてくれ。そんな憐れな目をして、僕を見ないでくれ。居たたまれなくなって、僕はそちらから目を逸らした。
「……今ならまだ、間に合うよ。一緒に日本に行かないか?」
リーマスの声は、僕の哀れな嘘を見抜いている。彼はきっと他の誰よりも、周りの人間の感情に敏感だった。きつく両の拳を握り締めて、喉を震わせる。
「忙しいんだって、言っただろう」
「……そうか」
彼はまた、黙り込んだ。けれども確かにじっと、まっすぐにこちらを見ていた。俯き、頑なにその視線を避ける。僕は誰の強い眼差しも、真正面から受け止めることができない。ジェームズの明るいハシバミ色も、シリウスの鋭いグレイも、そしての、どこまでも澄んだブラックさえも。
程なくして、リーマスは躊躇いがちに小さな声をあげた。強くはない。けれども決して、儚くもない。
「僕の思い違いなら、聞かなかったことにしてほしい。君は
のことが、好きなんじゃないか? だから、今回のキャンプのことだって……」
予想していなかったわけではない。気付いているのだろうということは、頭のどこかで察していた。だが実際に口に出してそのことを突きつけられ、僕はすっかり動揺してしまった。
急速に打ち始めた鼓動がまるで喉の奥から飛び出しそうで、しばらくパクパクと馬鹿みたいに口を動かしてから、やっとのことで引きつった笑いとともに声を発する。
「な、何を言ってるの? そんなこと、あるわけないじゃない。は……シリウスと付き合ってるんだよ?」
笑い飛ばしてほしかった。そうでなければ、あまりにも惨め過ぎるじゃないか? だがリーマスがそんなことをする人間ではないということは、この六年で嫌というほどよく分かっていた。そっと瞼を伏せて、リーマス。
「そうだね。でもだからって、それが彼女を好きにならない理由にはならないだろう?」
「……何が言いたいの?」
とうとう耐え切れなくなって、僕は歯噛みしながらきつくリーマスを睨み付けた。彼は少しだけ不意を衝かれた顔をしたが、すぐにまたあの哀れな眼差しを細めた瞼の奥から突き刺してくる。リーマスに罪はない。分かっている。だけど、もう僕は。
「惨めな僕を笑いにきたの? ああ、そうさ、僕はのことが好きだ! あいつがと付き合う前から、ずっと! 僕はずっとが好きだった! でも、仕方ないだろ……どうにもならないんだ。シリウスはかっこいい、女の子にすごくモテる、頭もいいし何だってできる、敵うわけないじゃないか。そうやって逃げるしかない惨めな僕を笑いにきたの? だったら笑えよ、好きなだけ笑えばいい!」
「……ピーター」
分かってる、分かっているんだ。リーマスに当たったって仕方がない。誰のせいでもない、リーマスが悪いわけじゃない。そんなことは分かっている。分かっているけれども
こうして彼に対して声を荒げることしかできない自分が、ますます惨めに思えた。何をしているんだ、僕は。でもこれよりも他に、できることなんかない。を前にして、そしてシリウスを前にして
僕はただ、唇を噛んで俯くことしか。
リーマスは、しばらくの間、何も言わなかった。だがひとしきり怒鳴りあげてこちらが落ち着いたのを見ると、静かに、どこか疲れたような音をにじませて囁いた。
「気持ちは……分からないでもないよ。でも彼女は、シリウスのそういうところに惹かれたわけじゃないと思うよ」
そして脇の門に手をかけると、少しだけ顔を上げて悲しそうに微笑んだ。
「それじゃあ、僕は行くよ。また……新学期に会おう」
敷地の外に出ると、リーマスは振り返らずにその場でバチンと音を立てて姿くらましした。早速こんなところで実践しているんだ。すごいな。僕はできるだろうか。一応合格したとはいえ、望むだけでここから彼女のいるところだなんて……。
「ピーター、お友達は帰ったの?」
「あ……うん。ほんとに、ちょっと用事があっただけだから」
ママが玄関を開けて不思議そうに顔を覗かせたので、僕は慌てて目尻の涙を拭った。顔を見られないように俯きながら、急いで家の中に入る。僕は盆にジュースやケーキを用意していたママの非難がましい声を無視して、一段飛ばしで階段を駆け上がった。