やった、受かった!は姿現し試験に一発で合格し、ようやく一年を終えたような気分になった。前回の試験に失敗したワットやピーターたちも無事に指定された輪の中に出現することができ、ワットは三連続失敗組などという不名誉な称号を免れた。その『不名誉な称号』を受けることになったディアナをみんなで慰めながら、グリフィンドールの六年生はホグズミードから城へと向かって歩いていた。
「大丈夫、ディアナ!姿現しなんかできなくたって煙突飛行があるし、煙突飛行がなかったら箒があるし、もし箒がなかったら列車っていうマグルの素晴らしい乗り物があるよ!」
すっかり意気消沈しているディアナはこちらが話しかけても俯いたままで、ただ黙々と城への道のりを機械的にたどっていく。ワットはディアナに見えないようにに歯を剥いてから、落ち込むディアナに優しく声をかけた。
「そんな顔するなよ、ディアナ。来月また受ければいいじゃん。こんだけ場数踏んでりゃもう他の誰にも負けないって。ほんの小指の先だけだろう?」
「……そうだけど。でも私、姿現し向いてないのかも。パパも……結局学生の間に合格できなくて、何だかんだでそのまんまって。だって夏の間って魔法省まで受験しに行かなきゃいけないのよ?来年後輩と一緒に受けるのも嫌だし、あーもう」
今にも泣き出しそうな声をあげて、ディアナ。ワットはまるで妹でもあやすように彼女の頭を軽く叩いた。
「それならそれで、いいじゃん。落ちたら終わりとか考えるからつらくなるんだぞ。姿現しがすべてじゃないんだ。ディアナ、飛行術がけっこう得意だっただろ?下手な姿現しなんかよりそっちのほうが案外速いかもしれないし」
距離によっては可能性がないわけではないが、そういうことはまずあんまりないんじゃなかろうか。だがワットの気楽な口振りにディアナも少し気が抜けたようで、ようやく笑顔を見せてそうかもねと頷いた。あれ、なんか……いい感じ。そういえばワットがディアナの飛行術のことなんて覚えていたのもちょっと意外だし。あれ、あれ?これはひょっとして、ひょっとするかも。ワットはこの前、ビクトリアと別れたって言ってたし。ディアナも確か、今はフリーだったはず。
二人がなかなかいい雰囲気で話し始めたので邪魔をしてはいけないと思い、は少しペースを落として後ろを歩いていたピーターと並んだ。
「ピーターも良かったね。魔法省まで受けに行くなんてめんどくさいでしょ?」
「え?う、うん、そうだね。これで一安心だよ」
「ほんとに。だってもし夏休みの間に試験受けるんだったら、早めに帰るか遅れてくるかどっちかじゃなきゃいけなかったでしょ?」
言うと、ピーターはわけが分からないといった顔をしてこちらを向いた。はそのことにいささかショックを受け、咎めるようにして説明する。
「ほら、だって七月の上旬にみんなで揃って日本に行こうって言ってたじゃない。こっち帰ってくるのは八月の中旬くらいにして……だから、試験って七月末だから都合悪いでしょ?」
「あ、ああ……そのこと。そうだね、うん、受かって良かったよ。ほんとに」
慌てて頷きながらピーターが笑ってみせる。まったく、駄目だったら本当にどうしてくれるつもりだったんだろう。まあ、ちゃんと合格したんだからそれは結果オーライだけどさ。
それから数日後、ホグワーツは学期の最終日を迎えた。リリーやリーマスたちは一旦家に帰り、一週間ほど家族と過ごしたあと、漏れ鍋に集合してそこからみんなで煙突飛行を使って日本に向かう予定になっている。とシリウスは出発までの時間を漏れ鍋で過ごすつもりだったのだが、またジェームズのママに熱烈な誘いを受け、三日間だけ『アジト』にお邪魔することになった。どうせこれからの一ヶ月、集団行動を余儀なくされるのだから、せめて出発前くらい二人きりで過ごしたいと言い出したのはシリウスで、彼は残りの四日は絶対に譲らないと頑なに主張し続けたのだ。
in each other's pocket
こぼれおちるもの
「朝だよ。シリウス、起きて」
気だるい心地良さの中、目覚めるとすでに時計の針は十時を示していた。せめて九時には起きようと思っていたは急いで服を着て、まだ布団の中で丸くなっているシリウスに声をかける。シリウスは一旦大きく寝返りを打ったが、目覚めるような気配はまったく見せなかった。
「シリウス、お昼にはみんな来るでしょう?早く起きて」
「んー……まだ時間、あるだろ……」
「そうだけど。起きてからすぐ動けるシリウスじゃないでしょ。それに私、銀行行ってこないといけないし。一緒に行くって言ってたじゃない。シリウスだってお金換えなきゃ」
「あー……でもどうせ、他の奴らだって換金するだろ?みんなで行けばいいんじゃねーの?」
「あ、そっか。ううん、でも私はみんなより時間かかるかもしれないし。やっぱり先に行ってくる。シリウスはもうちょっと寝てる?」
「んー……すぐ、追っかける」
そんなこと言って、どうせ私が帰ってくるまで寝てるんでしょう。いいよいいよ、ひとりで行ってくるから。はまた気持ち良さそうに寝息を立て始めたシリウスに小さく舌を出してから、いそいそと客室をあとにした。
父さんは心配するなと言っていたけれど、やっぱり何人もの友達が家に一ヶ月も滞在するのだから、うちの家計を考えるとそれは絶対に大ダメージのはずだ。学生生活はあと一年残っているけれど、母さんが遺してくれた金庫のガリオンもまだ山のようにあったので、はそれをいくらかマグルポンドに換金し、さらに日本円にしてから帰宅するつもりだった。
漏れ鍋の一階でもらったトーストを食べて出て行こうとすると、慌てた様子のトムに呼び止められる。
「さん、おひとりで?」
「え?うん、そうだけど。なに?」
「おひとりで出歩くのは物騒ですよ。ブラックさんとご一緒したほうが」
「へーきへーき。ちょっと銀行まで行ってくるだけだから。すぐ戻るよ、心配しないで」
日を追うごとにダイアゴン横丁は寂れ、世界そのものが暗くなっていくような気がした。ここ最近は、一週間に一度必ずといっていいほど髑髏の事件が報じられ、漏れ鍋もはっきりと客足が遠退いた。だがホグワーツにいるときはまったくそんな気配は感じられないので、はまるでこのあたりがホグワーツと同じ国の中にあるとはとても信じられなかった。それともよっぽど、あの城の中だけが異質な空間なのだろうか。徹底して守られた、箱庭。そういえば『例のあの人』は、ダンブルドアを恐れているとスラッグホーンが言っていたっけ。だからホグワーツだけには手が出せないのだろうか。裏返せば、それは
。
グリンゴッツに向かう最後の角を曲がったところで、はちょうどそこから出てこようとした背の高い誰かとぶつかりそうになった。
「あっすみませ……」
反射的に頭を下げ、顔を上げたところで。は目の前の中年男がじっとこちらを見つめていることに気付いて言葉を途切れさせた。な、何なんだろう。だがその不安はすぐに解消された。その男は腰を屈めてしゃがみ込み、の足元に落ちた鍵の束を拾い上げた。
「落としたよ」
「あ、その……ありがとう、ございます」
「ポケットに大事なものは入れないほうがいい。ふとしたときに零してしまうことがあるから」
「え、あ……気をつけます、どうも」
大事な鍵を落とすなんて、ロジエールに拾われて以来。ああ、いやだ。やなこと思い出しちゃった。しかしポケット以外に入れるところがないのでとりあえずは鍵をポケットに仕舞ったところで、は後ろから自分の名前が呼ばれるのを聞いた。
「!」
はっとして振り向くと、寝癖も直さないままに疾走してくるシリウスの姿がある。はまさか彼が本当に追いかけてくるとは思っていなかったので、ぽかんと口を開けて彼が近付いてくるのを待った。
「シリウス、ほんとに来たの?」
「ほんとにってお前……ばか、ひとりで出歩くなって言ってあるだろ!」
「な、なに言ってるの、先に行くねってちゃんと言ったじゃない」
「寝惚けてる俺にそんなこと言ったって意味ないだろ、殴ってでもちゃんと起こせ!」
「何よ、殴ったら殴ったですごい顔して怒るくせに!」
凄まじい剣幕で喚くシリウスを、ふて腐れた顔で睨む。そのときはようやく先ほどの男の存在を思い出してはたと振り向いた。男は何か愉快なものでも見るように目を細め、大げさに肩をすくめてみせる。
「ボーイフレンドの言う通りだよ、お嬢さん。ひとりでほろほろ出歩かないほうがいい。このご時勢だ、一寸先のことでも何が起こるか分からない」
そして二人に向けて軽く頭を下げると、何事もなかったかのように踵を返して風のように消えてしまった。実際、瞬きした間に忽然と消えてしまったように見えたのだ。姿くらましか、それとも
パチンというあの独特な音は、聞こえなかったような気がした。
「……何だ、あのおっさん」
「え?さあ、さっき私の鍵、拾ってくれて」
「鍵!お前、そんな大事なもん落っことすなよ!どっかにぶら下げとけ、キーケースないんだったら今度買ってやるから!」
「い、いいよそれくらい自分で買う!」
やっぱりあれだ、寝起きのシリウスは機嫌が悪い。ゆっくりと段階を経て起きたのならともかく、きっとふと目を開けたときに私の姿が見えなかったものだから、慌てて飛び起きて猛ダッシュしてきたというところだろう。ありがたいことはもちろんありがたいのだが、それで何でもかんでも怒られるのは朝からあまり良い気分ではない。結局、漏れ鍋に戻るまで二人は一言も口を利かなかった。
「……怒ってる?」
少し散らかしていたものをトランクに詰めている途中、頑なに背中を向けていたにシリウスが話しかけた。
「何で。怒られるようなこと、した?」
「してない。してないけど、だって、怒ってるだろ」
「だったら怒ってない」
「だったらって……」
がトランクにふたをしたところで、近付いてきたらしいシリウスが後ろからぎゅっときつく抱き締めた。それだけで、温かい何かがどっと身体中に流れ込んでくるような。
「……分かるだろ。俺、お前のことほんとに心配なんだよ。だからすぐ近くでもひとりで勝手に出かけてほしくない。覚えてるだろ?リンドバーグが襲われたのは……ダイアゴン横丁の中だ」
はシリウスの手のひらを握り締めて、そっと目を伏せた。夏休みの二日目、シリウスとジェームズと、三人でフィディアスの見舞いに行ってきた。相変わらず眠り続ける彼の身体は、以前にもまして小さくなったかのようで。実際は痩せているだけだと分かってはいても、このまま、消えてなくなってしまうんじゃないかと。怖くてたまらない。私が必ず呪いを解いてみせるから、だからそれまでは、必ず。
「……うん。忘れるわけ、ない」
「だったら
これ以上……不安に、させないでくれ」
さらに強く力を込めて抱き寄せられて、は涙が溢れそうになるのを瞼をきつく閉じることで抑え込んだ。
「うん……ごめん、私……ごめん」
「いや、分かってくれれば……俺も、あんなに怒鳴って……ごめん」
いつも、いつだって私のことを真っ先に心配してくれて。振り向いたはまだ跳ねているシリウスの髪の毛を手ぐしで何とか梳かそうとした。少しはましになったところで、身体を浮かせて互いの額を擦り合わせる。こうしていると、他のどんなときよりも、とても穏やかな気持ちになれるのだ。
「どうだった?」
馴染みのカフェに戻るや否や、待ちくたびれたように身を乗り出して聞いてきた青年を軽い一瞥で制しながら、彼は向かいの椅子に腰掛けて空のグラスを脇に退けた。
「どう……どうと言われれば、どうということもなかったというところかな」
「どうということもないって、話をつけてくるはずじゃ」
「彼女には、ずいぶん大事にしてくれる男がいるんだな?なかなかひとりにはさせてくれないようだ。惜しいところで逃してしまったよ」
「ああ……あいつか、シリウスだ。シリウス・ブラック。やつは」
「ベラトリクスの従兄弟だろう、分かっているよ。顔立ちが少し似ている。なかなかの男前だ」
さびれたダイアゴン横丁の中で、この店はまだ繁盛しているほうだといえた。人並みに話しているだけならば、人並みの喧騒の中に霞んで消えてしまう。彼はウェイターに新しい紅茶を頼み、ゆったりと広い背もたれに身体を預けた。不満げな顔をした青年に自分ではないはずの顔でニヤリと笑いかけ、告げる。
「まあいい。今回は延期といこう。チャンスはまだある」
「延期?」
あからさまにがっかりした様子で、エバン。程なくして運ばれてきた紅茶にミルクを注ぎ、曖昧な色彩を楽しむようにグラスを傾けて揺らしながら、ジェネローサスはあとを続けた。慣れないブラウンの長髪を軽く撫でつけ、
「最後の夏休みだ。終わりくらいは……楽しい思い出のひとつやふたつ、作らせてやればいい」
いつかはそれらを糧にして、こなしてもらわなければならない仕事があるのだから。