針はない。数個の惑星が巡る文字盤を見下ろし、彼は重々しく息を吐いた。時は来た。分かっている。あの日から、もう何年も。数え忘れたことさえない。
思い浮かぶ顔が、いくつかある。隅の椅子に座り、抱えた膝の上にきつく握った拳を押し付けて。金色の髪を振り乱した女性は、頭痛でも堪えるように額を撫で付けながら懸命に次の言葉を探しているようだった。だが、今しがた出て行った夫が残した離婚届に視線を留めては、取り乱したように低く嗚咽を漏らす。そしてまたすぐに我に返り、ひとりの成人としてのあるべき振る舞いを思い出そうとしているかのようだった。
「……これで、良かったのかね?」
泣き腫らした目を見開いた彼女は、俯いてその表情を影に覆った。しかし血がにじむほどに噛んだ唇を隠せたわけではない。思わず目を細めた彼の同情を買うまいとでもするように、気丈な声で言ってのけた。
「いいんです。これ以上、もう……私たちは、一緒にいないほうがいいんです」
「しかし、このことが原因で君たちが別れたということを知れば、きっと彼女は
」
「
先生は!」
子供の頃から常に周りの友人たちより大人びた振る舞いを意識していたであろう彼女がそうして声を荒げるのを見るのは、初めてのことだった。一筋の涙をこぼしながら顔を上げた彼女は反射的に顔を逸らしながら、うめく。
「……いいんです。これは……私たちの、決断です」
何も、言えなかった。そもそもの原因は、あのとき彼女を止めなかった自分にこそある。彼女の決断だからと、本当は
声をあげて、行くんじゃないと言うべきだったのに。
彼女はまるで涙など見せなかったかのように毅然とした態度でこちらを見据え、あくまでひとりの大人として、次の言葉を発した。
「何が本当に正しいのか、今の私には分かりません。ですが私も、彼女の言葉を聞いた人間のひとりです。何が正しいのか、どうすべきが最善の道なのか
私はあなたの選択に同意します。ですが、ひとつだけ」
そこまで一気に話し続けた彼女は、息継ぎの呼吸を挟む間に、やはりひとりの子供に戻ってしまっていた。涙をこぼしながら、けれども声の響きだけははっきりと。
「先生。ひとつだけ約束してください。せめて、せめてあの子が……十七歳になったら。そのときは
あの子のことを、彼女に打ち明けると。それが……命を懸けた母としてのあの子への、最後の誠意だと思います」
誠意。彼女に示す、最後の。
彼女の青い瞳を見ていた。しかし、あまりに深く瞼を下ろしたため、その深いブルーはいつの間にか自分の視界から閉ざされてしまっていた。
「……約束しよう。必ず」
必ず。そう、あのとき私は彼女の親友としての彼女に、そのことを誓ったのだ。
時は来た。
私はここから一歩、踏み出さねばならない。
turning point in the world
忘れられない
「だめ、だ!」
頭を抱えて唸るグリフィンドールの六年生、・は今ハグリッドの小屋にいる。期末試験を終え、彼女は久し振りにこの巨大な友人を訪ねたのだが、ありがたくないことに彼は彼女がここ数日過敏になっている姿現し試験のことを思い出させたので、急にそわそわし始めたは間違えてハグリッドのヌガーを口に運んでしまうくらいだった。お陰で上と下の歯がぴったりくっつき、取れるのに十分はかかった。
「お前さんなら大丈夫だ。ジェームズも言っとったぞ。もう何回も成功しとるっていうじゃねーか」
「え、ジェームズ来たの?何回もって、それはジェームズたちの話だよ!私、まだ三回しか……」
「十分じゃねぇか!あんなもん、一旦コツさえ掴めば簡単なもんだ。大丈夫、お前さんならやれる。俺は心配なんかしとらん」
「何そのプレッシャーのかけかた……」
ハグリッドの励ましは素直にありがたかったが、それでもし駄目だったら余計に凹みそうじゃないか。はくんくん鼻先を押し付けてくるファングの顎を掻き、深くため息をついた。
「さーてと……俺はそろそろ出かけるとするかな」
「え?ハグリッドどっか行くの?」
「あー、まあ……ちーと森まで取りに行かなきゃならん材料があってな。ファング、来い」
「えーいいな!ねぇ、私も行きたい。私、ジェームズたちと違ってもう六年も森に入るなっての守ってるよ。ね、一回くらいついてってもいいでしょ?」
「だめだ。すぐ戻るから、これでも食って待ってろや」
そう言って作り置きのヌガーをさらに山盛り皿に出したハグリッドは、ファングを引っ張っていそいそと小屋を出て行った。ハグリッドの、ケチ。そもそも空いてるから遊びにこいって言ったのはハグリッドなのに、普通、ホストがゲストを置いて途中でどっか行っちゃったりする?
は十分ほどはおとなしく待ったのだが、一向に戻ってくる気配を見せないハグリッドに痺れを切らせて勝手に帰ろうかと思い始めていた。せめてファングは置いていってくれた良かったのに、噛めないヌガーだけを相手にどれだけの時間をここで過ごせっていうの?
そのとき、小屋のドアが開いて背の高い誰かが入ってきた。ハグリッドのような巨体ではない。すっきりした痩躯、豊かな白い髭に三角帽子、落ち着いた歩き方。現れたのは、校長アルバス・ダンブルドアだった。
「こんにちは、ミス・」
「っえ!あ、ダンブルドア先生!ど、どうしたんですかこんなところで」
「ハグリッドは今、外出中かのう」
「は、はい、あの、ほんとについさっき!ちょっと森まで取りに行く材料があるって……あの、でもすぐに戻ると思います」
「それでは、少し待たせてもらうとするかな」
そう言って、ダンブルドアは先ほどまでハグリッドが座っていた椅子に腰掛けた。すでに空っぽになったのグラスを見ると、にこりと笑って取り出した杖を振る。するとあっという間に新しいアイスティーが注がれ、ダンブルドアの前にも同じものがもうひとつポンと音を立てて現れた。
「わ、ありがとうございます」
冷たくて、気持ちいい。そして悪いんだけど、ハグリッドのよりずっと美味しい。ダンブルドアは満足そうに紅茶を飲むをしばらく見つめたあと、穏やかな口振りで聞いた。
「ミス・。君は確か、もう六年生だったかな」
「あ、はい。こないだ十七歳になりました!わたし誕生日が遅いから、姿現しの試験はまだ受けられてないんですけど。来週ホグズミードで受験する予定になってるんです」
「うまくいくと良いのう。練習は順調かね?」
「えーと……うーん、あの……何回か成功はしてるんですけど……やっぱりまだ、完全じゃないし、ちょっと……不安は、あります。やっぱり」
「案ずることはないよ。わしは試験に合格してから何十年も経つが、今でもときどきぼんやりして思っていたのとは違うところに着いてしまったりすることがある。そんなことがあっても、今もこうして元気にやっておるよ」
くすくす笑うダンブルドアに笑い返して、は何とはなしに窓のほうを見た。ハグリッドの姿はまだ見えない。まったく……どこまで行ってるんだろう。ダンブルドアは好きだけど、校長先生と二人っきりっていうのはやっぱりちょっと緊張する。今から帰るのもなんだか逃げるみたいで気が引けるし……早く帰ってきてよーハグリッド!
「ここにはよく遊びにくるのかね?」
「え?えっと……そんなにちょくちょくってわけでもないですけど。でも、やっぱり初めて魔法界のこといろいろ教えてくれた友達だから、なんか……来ちゃいますね、ふっと思い出したときとか。今日はハグリッドのほうから誘ってくれたのに、私のことなんか放ったらかしていなくなっちゃいましたけど」
することがないので、仕方なくヌガーの欠片を口に運ぶ。一旦噛んでしまうと歯にこびりつくので、あくまで飴のように舌の上で溶かすように。
ダンブルドアはしばらく黙っていたが、脱いだ三角帽子を膝に置きながら何気ない調子で言ってきた。
「わしばかりが聞いておるのも、不公平じゃな。何か聞きたいことがあれば、遠慮なく言ってごらん」
「え?」
な、何で急にそんな話になるんだろう。はわけが分からず顔を上げたが、ダンブルドアは指先の三角帽子を見つめていた。聞きたいこと、ダンブルドアに聞きたいこと。さしあたり気がかりなのは姿現し試験のことだけど、あれって多分コツがどうとかじゃなくて本当に感覚を掴めるかどうかの問題だろうから、人に聞いてもしょうがないような気もするし。何だろう、ダンブルドアに聞きたいこと、ダンブルドアに聞いてみたいこと。
「えっと、それじゃあ……先生、その髭で毎日歯を磨いてるってほんとですか?もうだいぶ前からそういう噂が出回ってるんですけど」
「……この髭で、かね?ほうほう、なるほど。確かにこれだけしっかりしておれば、有効に活用すべきかもしれん。ありがとう、ミス・。その案は検討しておくこととしよう」
ダンブルドアはいかにも楽しそうに笑い、ハグリッドのヌガーに手を伸ばした。そ、それはあんまり食べないほうが!だがこちらが警告するよりも先にヌガーの粘着力にやられたらしいダンブルドアは、開かない口元を押さえながらも、それでも愉快そうにニコニコと笑い続けた。その表情がなんだかおかしくて、もつられたように声をあげて笑う。ハグリッドは結局夕暮れ時まで帰ってこず、下らないことをしばらく話し合ったとダンブルドアは、彼の帰宅を待たずに城に戻ることにした。ダンブルドアは小屋に書き置きだけを残し、の斜め前をゆったりと歩いていく。
「薔薇も良い季節になったのう」
不意に聞こえたダンブルドアの声に、は彼の視線を追いかけて校庭の隅にある薔薇の連なりを見やった。すでに最盛期の薔薇は色とりどりの花を咲かせ、独特の香りをこのあたりまで仄かに漂わせている。中にはフィディアスがプレゼントしてくれた、白い種類のものも混ざっていた。
「先生、薔薇はお好きですか?」
は、大好きというほどではないものの、やはりその美しさは認めざるをえないと思っている。フィディアスのこともあり、薔薇は彼女にとってある種の特別な花となりつつあった。
聞こえなかったのか、ダンブルドアは答えない。だが忘れかけたその頃、は後ろ姿だけを見せるダンブルドアがひっそりと言葉を発するのを聞いた。
「……そうじゃのう。好き、ということになるのかもしれぬ。鮮やかすぎて
わしには、眩しいが」
な、何その意味深な発言は!だが彼の声があまりにいつもの陽気な調子と違っていたので、それを追及することはとてもできそうになかった。
玄関ホールでダンブルドアと別れるとき、躊躇いながらも、声をかける。
「あの……ダンブルドア先生」
階段を上がりかけていたダンブルドアは、不思議そうに振り向いて瞬いた。
「薔薇って、きれいな花ですよね、すごく。鮮やかで、ときどき眩しくても
眩しいからこそ、惹かれることって……あると思います」
半月眼鏡の奥に見えたブルーの瞳は、がこれまでに見たことのない深い色彩を帯びて見開かれたようだった。だが彼が次に瞬きしたときには、それがすべて錯覚だったのではないかと思えるほど、ダンブルドアはいつも通り穏やかに微笑んでみせた。
「その通りじゃな、ミス・。姿現し試験、うまくいくように祈っておるよ」
言えなかった。どうしても。何のために下手な芝居まで打って、彼女と二人で顔を合わせるように計らったのか。約束したのに。約束しただろう
必ず。あの子が十七歳になったら、必ず、と。
「ふざけるな!何も言わないつもりか
それであいつが、安心するとでも思うのか!」
「だったらどうしろって言うの!あの子はまだ幼すぎる!はマグルよ、こっちのことなんか何も知らない。分からせられるはずがないでしょう!何にも分からないまま、ただ混乱だけさせられて……あの親子は終わりよ!こっちの世界でも、あっちの世界でも生きていけやしない!」
「ふざけるな!マグルだろうが何だろうが関係ない……あいつの選んだ男だろう。受け止められないとしたら……その程度の男だったってことだ。偽りの世界で生かされて、それであの子がまともに育つのか!」
思い浮かぶ顔が、いくつかある。声を荒げる男の形相は凄まじい。だがそれに対峙する女もまた、激しい感情を全身から放出し、半ば震える声で切り返した。
「あなたは
何も知らない。何も。私は心から……あの子の結婚を、喜んだことなんかない。小さな男よ、つまらないマグルだわ。あんな男に受け止められるはずがない。どうせショックでボロボロになって……あの子に当たって……いずれ破滅するわ。そのほうがあの子のためになると思うなら」
破裂音がして、弾け飛んだのはテーブルにあったワイングラスだった。だが誰も気に留めはしない。黒髪の若い男はワインにまみれた拳をテーブルの上でさらにきつく握り締めた。
「……歪めることでしか、守れないと。それがお前の考えか」
「そうね。そういうことになるわね」
「分かってるのか。お前は
あいつの残した言葉すら、歪めようとしてるんだぞ」
女は一瞬だけ眉間に力を入れたが、すぐにかぶりを振って素っ気なく言った。
「歪めてなんかいない。あの親子を守ること。どうすればそれが可能かという点で、私たちは考えが異なるということ。それだけよ」
ツンとすました顔をすることは彼女にとってごく当たり前の仕草のひとつだった。だが今はそこに冷酷ささえにじませている。男はしばらく向かいの女を睨み付けたあと、不意に身体を捻ってついにこちらを見た。その黒い瞳にありありと嫌悪の色を浮かべて、告げる。
「……あんたの入れ知恵か?あいつはそんなことを望んじゃいない。あいつらのこと何も知らないくせに、余計な横槍を入れるな。俺はを知ってる。彼女が選んだ男だ。頭の固い男だが、魔女と分かっていてあいつを受け入れたんだ。俺は全部話す。全部話した上であの親子が自分たちで選択する生き方を支援する」
彼の言葉のひとつひとつが。心臓の芯を抉っていくようだった。何とかゆっくりと息を吸い込んで、吐き出しながら。冷静さだけを心がけて、口を開く。
「……もちろん、それが最も理想的な方法じゃろう。だが、リスクが大きい。ジェーンの言うように、彼はこちらで起こっている事態を何も把握しておらぬ。突然『真実』を聞かされ、彼女の変わり果てた姿を見る……その後、彼が正常な精神状態であの子を育てられるか。どちらの世界で生きていくか、あの子は果たして、母の身に起こった出来事を受け入れられるかどうか
」
「もうたくさんだ」
こちらの台詞を遮った男の声は冷たかった。子供の頃から少し背伸びをして、知的な探求をすることが大好きで。だが陽気なムードメーカーとして寮の外からも人気があった兄に茶化され、結局は子供じみた部分をさらすことが多かった。愛すべき鷲兄弟だった。兄は人を楽しませるという点において、弟は学問的な問題についてよくこちらを訪ねてくることさえあった。校長室の前に二時間も居座って、あのガーゴイル像とホグワーツの歴史的意義について議論し合う生徒などきっとこのフィディアス・リンドバーグの他にはいないだろう。だが今や、あの頃の眼差しを向けてくることはない。解釈の暴力だと吐き捨てて、彼は脱ぎ捨てたコートを羽織った。
「あんたたちの好きにすればいい。俺は俺の好きにする。でも忘れるな
あんたはあいつの作り上げた『家族』を、陰険なやり方でぶち壊そうとしてるんだってことをな」
そして濡れた右手を払いながら、足早に部屋を出て行く。あとに残された女は涙こそ見せなかったが、片手で金色の髪を掻きむしって大きくため息をついた。
「ジェーン……大丈夫かね。フィディアスもきっと、分かってくれる」
「……さあ。どうでしょうね」
彼女はこちらの気休めなど気に留めた様子もなく、懐から取り出した煙草に火をつけた。いつから覚えたのか。だがまだ慣れている様子ではない。ときどきむせながら、それでも頑なに煙を吸い続けた。
「彼には何も見えてない。自分が一番盲目だってことに……気付いていない」
彼は答えなかった。果たしてそうだろうか?彼が最も彼女のことを正面から受け止めている
そんな風に思えて、ならない。
自分が最も盲目だということに気付いているから。気付いていてもなお、それを修正できるほどの勇気を持たない。自分が最低の男だということには、気付いていた。そしてまた、十年の時を経て己の臆病さをはっきりと突きつけられたのだ。自分は努力した。けれども彼女はそれを望まなかったのだ。考えるだけのチャンスはこれまでに何度もあった。聞かれなかったのだから、あえて答えることはないと。卑怯な、逃げ道を作って。
(鮮やかで、ときどき眩しくても
眩しいからこそ、惹かれることって……あると思います)
その通りじゃのう、。眩しいからこそ惹かれ、そしてその眩しさが故にまた目を逸らす。
何も見えていないのは、紛れもなくこの老いぼれなのだよ。