羊皮紙一巻きなんて、無理!
とシリウスは課題提出日の前夜、深夜の一時を過ぎてもまだ談話室でルーン語の辞書を開いて『吟遊詩人ビードルの物語』と睨めっこしていた。『泣いた巫女さん』や『三人兄弟の物語』は話が重すぎるということで、最終的には『ビードルの物語』の中の『魔法使いとポンポン飛ぶポット』に決めたのだが、なにぶんルーン語作文など二人ともほとんどしたことがない。昨日の授業でやったプリントだって、そんなに役に立たないじゃないか!七年生でルーン語の授業を取っているハーマンにも少し手伝ってもらったが、彼は自分の課題で手一杯だといって十時には早々と部屋に戻っていってしまった。結果として、この時間になってもまだ羊皮紙一巻きの半分とちょっとしか終わっていない。はなんとか眠気を覚まそうとキッチンにコーヒーを入れに行ったのだが、カップをふたつ持って戻ってきたときには、向かいのソファに座っていたシリウスが今や背もたれに倒れ込んで、すっかり寝入ってしまっていた。

「シリウス?シリウス、起きてよ。寝ちゃだめだよ……」

やだやだ私ひとりでこんなの終わるわけない!はマグカップをテーブルに置いてからシリウスの隣に腰掛けた。よほど疲れていたのか、彼はぐっすりと眠り込んでいる。その長い睫毛を横から覗き込んで、は思わずそこにそっと手を伸ばした。こんなふうにそばにいるの、本当に久しぶり。

「シリウス?」

無音の談話室の中、まるで誰も起こさないようにと。吐息のような声で呼びかける。案の定シリウスはまったく反応を示さなかったので、ほんの悪戯心で彼の耳の中に軽く息を吹きかけた。びくりと身じろぎし、ほんの一瞬顔をしかめたものの、それでもシリウスは目覚めない。は仕方なく、自分のカップを手に取り熱いカフェオレを啜りながらひとりで課題へと戻った。その翌日、息子のもとにおじいさんがやってきました……うん、これくらいなら私でもできる……それから、ええと、ここが難しいんだよなぁ。うちのロバがいなくなってしまったんです。あのロバがいなければ、私は売り物の焼き物を町に運ぶことが、その、ええと、つまり……。ていうか、ルーン語作文って必要?まあ、そんなこと言ってたら学問の意味ってなくなっちゃうだろうけど。

「……あ。、ごめん。俺、寝てた?」
「へっ?おはよう、シリウス。もうちょっと寝てていいよ。その代わりあとで交代してもらうから」
「え、いや……いい。起きる、ごめん」

寝惚け眼をこすりながらシリウスが背もたれから身体を起こす。はくしゃくしゃになった彼の後頭部の髪をそっと手ぐしで梳いた。

「跳ねてた。ちょっとジェームズみたいに」
「まさか、あんなのジェルとかつけないとならねーよ」
「そうだね、あんなにひどくはなかったかな」

くすくす笑いながら、入れてきたコーヒーをシリウスに手渡す。サンキュ、と言ってすぐにそれを口にしたシリウスはいつもより苦いその味にひどく顔をしかめた。

「目覚ましに。ちょっとは効いた?」
「うん……かなり」
「もうちょっとだから。がんばろ」

にっこりと笑いかけて、再び羽根ペンを手に取る。半分ほど埋まった羊皮紙の左上には、ふたりの名前を最初に並べて書いてあった。シリウス・ブラック、。こういう文字の並びを目にすることは滅多にないので、は少しこそばゆい気分になり、それをごまかすように羽根ペンの後ろで軽く頬を掻いた。
と、横から視線を感じてふと顔を上げると、シリウスがまだぼんやりした様子でこちらを見つめている。はどぎまぎして、不自然に瞬きしながら上擦った声で聞き返した。

「な、なに?どうかした?」
「……いや。なんか、最初はコーヒーの匂いで分かんなかったけど。シャンプーかえた?」
「えっ?あ、うん……でも、ちょっと前かな。ジェームズのおばさんが送ってくれてたの、切らしちゃったから。新しいの買ったんだ」

もう、鈍いところはものすごく鈍いくせに、こういうところはやたらと鼻が利くっていうか。ご飯のあとにお風呂入ったっていうのもあるだろうけど。でもシャンプーの香りが分かるくらいに近付いたのが久しぶりっていうのも……あると、思う。
シリウスはしばらく何も言わずにじっと凝視したあと、徐に腕を伸ばしての頭を抱き寄せた。

「えっ!ちょ、シリウス!だめ、だめだよ早く宿題やっちゃおう!ねえ、起きてる?シリウスってば!」
「うん、起きてる。のコーヒーのおかげで」
「だ、だったらこんなことしてないで、早く宿題やろ?ちょっとでも早く終わったらちょっとでも寝られるよ?」
「うん、それは……そうだけど、さ」

もどかしそうにつぶやくと、少しだけ身体を離して間近での目を覗き込みながら、シリウスは弱々しい声でこう言った。

「……ごめん。俺……今ものすごく、キスしたい」
「えぇっ?え、だって……だって」

キスって、一体何ヶ月ぶり?
だって、あのロジエールのことがあってから、一回も……。

「……?いやなら、いいんだ。大丈夫になるまで……待つ、し」

その声が、すごく優しくて。見上げると、その目はもっと、ずっと優しくて。肌を幸せな震えが走るのを感じて、は涙混じりに首を振った。

「ううん……いやじゃ、ないよ。いやじゃない」

シリウスだったら、何もかもを委ねたい。以前と同じように、心も身体も全部。シリウスだったら。ううん、シリウスだけにしか。
は相手の優しい唇を受け止めて、泣きながらその背に精一杯しがみついた。

KNEE-DEEP

完成!

その日の朝、一番に談話室に下りてきたグリフィンドール生は隅のソファで眠り込む一組の男女を見つけて思わず噴き出した。あれだけ何度も喧嘩別れのようなことをしておきながら、結局はきっちりと元の鞘に収まるのだ。シリウス・ブラックとというのはそういうカップルだった。昨日は遅くまで課題をやっていたらしい。テーブルの上に辞書や羊皮紙を広げたまま、座り込んで眠るシリウスの膝を枕に、はまるで猫のように丸まって眠っている。その光景があまりに微笑ましいので起こさずに黙って眺めていたのだが、そうしているちにひとり、またひとりと寮生たちが下りてきて、二人の姿を見るや談話室はあっという間に無音のざわめきに満ちていった。何を隠そう、そのグリフィンドール生というのは彼らの親友、ジェームズ・ポッターその人だ。

「おはよう、ジェームズ。ねえ、昨日が帰ってこなかったみたいなんだけどどこに行ったか知ら……」

人だかりを掻き分けて近付いてきたリリーが、ジェームズの肩越しにたちの姿を見つけて瞬時に固まった。ジェームズは彼女がまず自分を探して声をかけてくれたということに舞い上がり、正直に言えばそれどころではなかったのだが、リリーが今にも火を噴きそうな顔をしたので慌てて口を開いた。

「あ、ふたりとも課題がんばったみたいだね?ルーン語作文で羊皮紙一巻きなんて……ねえ、見てみてよなんてすっかり甘えちゃってまるで猫みたいだ」

シリウスは本来なら猫はあんまり好きじゃないんだけどね。するとリリーは凄まじい形相でシリウスとを睨み付けたあと、自分を落ち着かせようとしてのことか、何度か深呼吸を繰り返した。

「……そうね。悔しいけど、が誰かの膝であんなにぐっすり眠れるなんて知らなかったわ」

ああ、いいな、シリウス。いいな、僕の膝の上でもいつか、リリーが……。
だがこちらが幸せな妄想に浸っている間に、リリーは仏頂面のままシリウスたちのもとに近寄り、テーブルを挟んでふたりの真正面にどっかりと座り込んだ。やがて談話室も騒がしくなっていき、先に目を覚ましたのは丸くなって眠るのほうだ。

「おはよう、。よく眠れたかしら」

シリウスの膝に頭を載せたまま、はしばらく自分の置かれた状況が分かっていないようだった。寝惚け眼でぼんやりリリーを見上げたあと、それから    

「リっ、リリリリリリリー!なっ、こんなとこでなに……ていうか、え!なに、みんな何で見てるの!?」

やっとシリウスから飛び跳ねて起きたはぐるりと談話室の寮生たちを見回し、真っ赤になって喚いた。その拍子にシリウスもまた弾けた様子で目を覚ます。彼も周囲の視線に気付いて赤くなったが、のそれに比べればどうということもない。は大急ぎでテーブルの上を片付けると、教科書や羊皮紙を持って立ち上がり、シリウスにほとんど舌が回らない状態で話しかけた。

「そっそれじゃわたし行くね宿題わたしが持ってくからそれじゃおつかれ!」

言うが早いか、周りを取り囲んで密かに囃し立てていた寮生たちを押し退けて女子寮に上がっていく。リリーはばつの悪い顔をしたシリウスをきつく睨んでから、そんなのあとを追って階段の向こうに消えた。

「ふーん、楽しい夜だったようだね、パッドフットくん」

頬を染めたまま未だにポカンとしているシリウスにニンマリと笑いかけて、さっきまでリリーが座っていたソファに腰掛ける。シリウスはやっと我に返ったように軽く頭を振り、陰鬱に牙を剥いた。

「うるせぇ。マジできつかったんだ、一巻きなんて」
「でもちゃんと終わったみたいだな。偉いもんだ。いちゃついてた甲斐があったな」
「いっ…………ない!」
「うん?何か言ったかなパッドフットくん」
「………」

はっきり「いちゃついてない!」と言わないところを見ると、やっぱりいちゃついてたらしい。チクショウ、お前らなんて毎日一巻き分の物語でも延々書いてればいいんだ、この、この、羨ましい奴らめ!
逃げるようにこちらから顔を背け、まだ自分を見ている寮生たちに向けてシリウスがわけの分からないことを吠え立てる様子を見ながら、ジェームズはやれやれと肩をすくめた。まったく、世話の焼けるふたりだよ、ほんとに。
迫りくる睡魔の中、なんとかシリウスと励ましあいながら完成させた『魔法使いとポンポン飛ぶポット』は古代ルーン語教授のバブリングを仰天させた。まさか本当に一巻き分書いてくるとは思わなかった、しかも見たところ、原書は読んでいないでしょう?他の授業の課題は大丈夫だったの?逆にそんな心配までされてしまったので、たちはほとんど怒りかけていた(『ビードルの物語』にルーン語の原書があるということもショックだった)。あれだけ必死になって仕上げたのに、宿題を出した当の本人はそれを本気にしていなかったのだ。バブリングがそんな冗談を言う人だったなんて!もう三年以上の付き合いになるというのに、こんなことは初めてだ。まあ、おかげでこれまでお互いに何となく距離を置いていたところが一気に縮まった感はあるので……その点に関しては、感謝しているけれども(でも、まさか膝枕をしてもらったまま朝まで寝てしまうなんて、迂闊だった!)。

「ごめんなさいごめんなさい。せいぜい書けても半巻きくらいかと思っていましたよ。少しあなたたちを甘く見ていたようですね、反省しています。それじゃあふたりの頑張りに……グリフィンドール、五十点」
「ごっ……」

次の文句を口にしかけていたは思わず変な声を出して呆然と目を見開いた。五十点?え、今、五十点って言った?反射的に振り向くと、シリウスもまるで豆鉄砲でも食ったような顔で固まっている。

「要らないのなら構いませんよ。そんなにもらいたくないというんでしたらすぐに減点を……」
「いっ!なに言ってるんですか要ります、もちろん欲しいですくださいありがとうございます!」

一気に    ふたりで、だけど、五十点も!こんなに大きな加点は滅多にもらえない。とシリウスは顔を見合わせてにっこりと笑った。そんなにもらえるんだったら私、毎週この課題やったっていい!いや、それはやっぱり……厳しいかな。他の宿題もあるし。バブリングも満足そうに微笑むと、受け取った課題を教卓に置いて別のプリントを配り始めた。

「それでは、せっかくですから次の時間は少し『ビードルの物語』を原文で読んでみましょうか。今日は古代の旅行家が遺したとされるアジア史について見てみましょう」

一緒にひとつのことに取り組むって……やっぱりすっごく、すてきなこと。
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(09.03.03)
ヤシロはビードルの物語を買っていないので、ポットのお話はアマゾンのレビューを参考にしました。