部屋に戻ると、すでにルームメートたちは全員それぞれのベッドで寛いでいた。ジェームズは相変わらず鼻歌混じりでクィディッチ雑誌を眺め、何でもない口振りでさり気なく聞いてくる。
「どーだった?」
「………」
なぜかそれだけのことで、どきりと心臓が跳ね上がる。何事かと振り向くピーターは無視して、素っ気なさを装いながら答えた。
「あー……ジェファに、殴られた」
するとジェームズは一瞬目を開いてこちらを見やったが、すぐに雑誌に視線を戻して冷ややかに言ってくる。
「当然だろ。ニースはの友達だ」
当然、か。そうだな。あの女のせいでが死にかけたのはもう遠い昔のことだ。誰も彼女を恨んでいない。ジェファ、そしてエバンスの冷たい眼差しを思い出して、独りごちる。
俺は自分で思っていた以上に、多くの敵を作ってしまったようだ。
Tales for Children
おとぎ話
あれからというもの、シリウスを見るリリーの目はこれまでにないほど厳しいものになった。いくらプリシラに謝ってくるという条件付きとはいえ、あっさり許したのことも、ときどき変な目で見てくることがある。最近いい雰囲気のジェームズにも「あなたのお友達をしっかり管理してちょうだい!」と説教しているのを見ることが増えた。
「や、やめてよリリー。恥ずかしいから……私からも言っておいたから、だから、あんまり心配しないで」
「心配に決まってるでしょう!いい?根性っていうのはね、そう簡単には直らないものなのよ!」
「それは……そうだと、思うけど……」
だって、好きなんだもん。結局は巡り巡ってそこに行き着いてしまう。この気持ちだけは、どうすることもできない。
そうしたリリーの防護壁もあり、はやはりシリウスと話をする機会があまりなかった。唯一のチャンスといえば二人だけの古代ルーン語だが、だからといって以前のように積極的に言葉を交わすわけでもない。ただ二言三言を話したり、分からないことがあれば聞いたりとまだその程度のことで、放課後ふたりで宿題をしたり、一緒に過ごしたりすることはできないままでいた。お互いの好意は分かっている、けれどもそれを伝えられない。まるでそうした淡い関係のようだった。
「仲直りはしたの?」
「え?あー……うん、とりあえずは。シリウスもプリシラに謝ってきたらしいし……だから、うん。もう大丈夫。心配させて、ごめんね」
談話室でそっと声をかけてきたジェームズに、ありがとうを告げる。彼はどうやらリリーの不在を狙ってきたようで、の隣を確保してから声を潜めて言ってきた。
「あいつ、鈍いし無神経だし、ほんとどうしようもないときあるけど……でもやっぱり、君たちにはうまくやってほしいんだ。君はあいつが惚れた、唯一の女の子だからさ」
「え、違うでしょ?だって私の前に……シリウス、いっぱい女の人と付き合って……」
「それは告白されたからだろ?あいつから好きになったわけじゃない。その中から、ちょっといいなと思う女の子と付き合ってた、それは事実だ。でもあいつが本気で好きになったのは、君しかいない。先に好きかもって言い出したのはどっちだっけ?あいつだろ?」
ジェームズは不敵に笑って、戸惑うの肩を軽く叩いた。
「あいつは確かに、どうしようもないとこ、あるよ。それは僕も認める。でも君を思う気持ちだけは誰にも負けない。それに君がいないと……駄目なんだ。もちろん、あいつのために自分を犠牲にしてほしいなんて思わない。そんなことはすべきじゃない。君の人生は君のものだ。だけどもし君の人生にあいつが必要なんだったら……そういうあいつでも、認めてやってほしい。支えてやってほしい。あいつの人生には、君が必要なんだよ。生き方を変えさせた、君が必要なんだ」
まっすぐな目で、ひたすらまっすぐに。は思わず泣き出しそうになるのをこらえて、力なく笑ってみせた。
「それを言うのは、私のほうだよ。私には、シリウスが必要なの。だからあのとき、どれだけショック受けても……嫌いには、なれなかった。私が、シリウスと一緒にいたいの」
するとジェームズは少し照れくさそうに頬を掻きながら、もう一度の肩に手を添えた。
「それを聞いて安心したよ。ありがとう。リリーもそのうちまた、分かってくれると思うよ。君たちの間は誰にも裂けそうにないからさ」
「そ、そうかな?ねえ、ジェームズからも言ってよ。シリウス、そんなに悪い人じゃないんだって」
「やだね、それじゃあ僕が殺されかねない。僕はありのままを言うだけだよ。そこは自分でどうにか説き伏せるんだね、腕の見せどころさ!それじゃ」
ちょっと!ひょいと身をかわして楽しげに立ち去っていくジェームズの後ろ姿を見て、は小さく噴き出した。ありがとう、ジェームズ。いつも、ありがとう。
寒さは次第に和らいで、季節は、春。一通りの文法事項を終えたルーン語の授業は、ここのところひたすら長文を訳すことに専念していた。おかげで簡単な石板の文字くらいは辞書なしで読めるようになったが(実際は学者以外、それ以上のことなんて求められないだろう)、バブリングの指導は容赦ない。今日から少し遊んでみましょうといって彼女が配ったのは、またずらりとルーン語の文章が並んだ羊皮紙の束だった。
「あの、先生……これのどこがお遊びなんでしょうか」
「そんなに難しい文章ではないでしょう。下に問題がついていますから、残りの時間でやってみてください。始め」
難しくないって、これ、なんか今までと文章の雰囲気が違わない?
こっそり後ろのシリウスを見やると、彼はすでに問題に取りかかっていた。さすがに二人だけの授業、しかも自分がサボればに迷惑がかかると分かりきっているので、この時間だけはあのシリウスも真剣だ。彼はこちらの視線に気付くと少しぎこちない仕草で微笑んだので、も笑い返しておとなしく羊皮紙のほうに向きなおった。大丈夫。シリウスがいるから。これからもきっと、大丈夫。
だが問題のほうはというと、あまり大丈夫ではなかった。最後の十分でバブリングが答え合わせと解説をしたのだが、早くてとてもついていけない。聞きなおそうと思ってもそこで無慈悲にチャイムが鳴って、バブリングは荷物をまとめながら二人に新たな課題を出した。
「それでは……次の授業までに、ふたりで羊皮紙一巻き分の物語を作ってきてください。もちろん、ルーン語で。お話は既存のものでも何でも結構。今日のプリントを参考にしても構いませんが、そのままでは減点対象ですから気をつけて。今日はここまで」
「えっ?ちょ、先生待ってください!」
授業のあとはいつもそうなのだが、早々に立ち去ろうとしたバブリングを慌てて呼び止める。は赤インクだらけのプリントを手に立ち上がり、しどろもどろに聞き返した。
「え、その……つまり次の授業までに、羊皮紙一巻き分のルーン語作文を作ってこいってことですか?」
「そういうことですね」
「そっ!そんなばかな!あ、いえ、だって……だって私たち今までほとんど英訳しかやったことないですし!」
「だからお遊びって言ったでしょう?気楽にやってごらんなさい。ふたりで仲良くね」
「そんな気楽にって……えっ、ふたりで、ですか!」
「そうですよ。さっき私はそう言いませんでしたか?ブラック」
「いえ、おっしゃいました。『ふたりで』」
淡々と答えるシリウスに、ほらごらんなさいと両腕を広げてみせるバブリング。はルーン語作文なんて難題と、シリウスとふたりでひとつの課題という両方をふっかけてきたバブリングにもどかしい怒りを覚えた。シリウスとひとつの課題……つまりそれって、どうしたって彼とふたりで一緒に勉強しなきゃいけないってことでしょう?
はまず、怒り狂うリリーの様をありありと想像した。リーマスやジェームズ、スーザンらの誕生月を挟んで、あれからもう二ヶ月近くが経った。それでもリリーはまだシリウスを許していないのだ。次の夏こそは、最後の夏休みこそはみんなを日本に招待しようと目論んでいるにとってそれは最大の難関だった。談話室でほんの少し話をしているだけでも、リリーはそれを目ざとく見つけてをシリウスから引き離そうとする。シリウスも、リリーがそうする理由を知っているから無理に反発しようとはしない。ときどき気を利かせたジェームズがリリーを散歩に連れ出すときだけ(単に彼がリリーと一緒にいたいだけかもしれないが)、たちは気楽に話をすることができた。だがふたりでひとつの何かをこなすということは、この数ヶ月、一度もないことだった。
「それでは、楽しみにしていますよ」
言うが早いかバブリングはあっという間に教室からいなくなった。まるで、それこそ魔法でも使ったかのように。ああ!逃げられた!
「あー……。次の授業って、もう、二日後だろ?」
「う、うん……そうだ、ね」
ほんとだよ。羊皮紙一巻きって……たったの二日しかないのに。シリウスも少し困った様子で頭を掻きながら、手元の羊皮紙を見下ろして一巻きが一体どれくらいの長さあったかを確かめているようだった。
「本気で時間ないからさ、だから……今日の放課後、一緒に、やれるだけやっとこうぜ。明日はどうせ変身術もまた課題の山だろ」
「え?あ、うん……そ、そうだね」
うわ、どうしよう。なんか、それだけで、どきどきしてきた。
「放課後、図書館の……そうだな。ルーン語の棚のあたりで、待ってるから」
「う、うん。分かった」
頷いて、ふと顔を上げると
視界に映るシリウスの瞳は、優しかった。私の大好きな、あの温かいグレイだった。その目が微笑んで、告げる。
「帰ろうぜ。呪文学に遅れる」
「……うん」
やっぱり私は、この笑顔がすきで。
誰に何を言われたって、決して離れられないということを、思い知らされた。
その日の放課後、ルーン語の教科書片手に、ちょっと図書館に行ってくると立ち上がったをリリーはじとりと非難がましい目で見たが、特に何も言わなかった。ありがとう、リリー。分かってるんだよね。私を思って認めたくはないけど、でも私の気持ちを知っているから。分かってるよ。ごめんね。ありがとう。ニースだってそう。あのときシリウスに手をあげて……びっくりした。そんなに、思っててくれたんだ。みんな、ありがとう。でも私、やっぱりシリウスのこと、嫌いになれなくて。すべてを許すことが、愛ではないと知っていても。
「シリウス、遅くなってごめんね」
ルーン語の棚のそばに置かれている小さなテーブルに着き、シリウスはやたらと分厚い本を何冊か持ってそれらを大雑把に捲っていた。だがが声をかけると、嬉しそうに微笑んで応じる。もはにかむように笑って彼の向かいに腰を下ろした。
「なに読んでるの?」
「うん?ああ、だって物語って言ってたろ?小説の棚からいくつか見繕ってきたんだけどさ……」
「小説って!こんなの読んでまとめてたらそれだけで一ヶ月くらい過ぎちゃうよ」
は優に百ページ以上はある『魔法使いと真夏の万年雪』を脇に退けながら首を振った。シリウスは一体何を考えているのだろう。
「じゃあどうするんだよ。薄めの本も何冊か見たけど、薄い代わりにすげー難しそうな表現がやたらと出てきて、あっちのほうが絶対難しいと思う」
「そうなの?あえて難しい表現使わなくても、なんとかして易しい言い方に変えるとか……」
はそれまでシリウスが目を通していた『ドラマティック・ドラゴン』を捲ったが、すぐにページを閉じてその上に肘をついた。
「こういうのは?『昔むかし』
おとぎ話だったら、ある程度の変更は自由だし、量的にもそんなに多くないでしょう?ちょうどいいんじゃないかな。シリウス、何かいい話ある?私、魔法世界のおとぎ話って知らない」
するとシリウスはなるほどという顔をしたが、すぐにかぶりを振っての手から『ドラマティック・ドラゴン』を取り上げた。
「いや、魔法界の童話より……マグルの話のほうが、いい。俺も聞きたいし、バブリングだって多分そっちのほうが面白いだろ」
「え?そ、そうかな……でもこれマグル学の授業じゃないし」
自分の持ってきた本を脇に積み上げて押しやりながら、シリウスが少し前に身を乗り出してを見る。その目があまりに彼女の話をねだっていたので、とうとう根負けしたは、自分が父親から聞かされたり、小さい頃に絵本で読んだ物語を思い出そうとした。
「そうだねー……有名なのは『浦島太郎』かな。ある日、浜辺でいじめっ子から亀を助けた浦島太郎は、そのお礼にって海の底にある竜宮城に招待されるの。そこで三日三晩楽しんで地上に戻るんだけど、帰りに乙姫様から玉手箱をもらうのね。絶対開けてはいけませんって。でも約束を破って箱を開けちゃった浦島太郎は、箱から出てきた煙に包まれておじいちゃんになっちゃったってお話」
「……はあ?」
まったくわけが分からないといった様子で眉をひそめるシリウス。うん、そうだよね。いきなり聞いてもよく分かんないよね。でもそれがおとぎ話ってものじゃない?
「あと『桃太郎』っていうのも有名かな。どんぶらこっこって流れてきた桃から生まれた桃太郎がね、鬼ヶ島に住む鬼の噂を聞きつけて、犬、猿、雉と、鬼を退治しに行くんだよ」
シリウスはまた不可解そうに顔をしかめたが、犬という部分に少しだけ反応した。はくすりと笑ったあと、さり気なく目を逸らして小声でささやく。
「……ほんとに、ごめんね。その……猫の、こと」
「それは、もういいって。あれからは、その……『変身しちゃった』、なんてこと、別にないんだろ?」
「うん。それは、ないよ。一回も」
なってたらむしろこれは病気かもしれない。不安げに目線をさまよわせるを見て、シリウスはさっと周囲を見回したあと、声を潜めてに言った。
「ひょっとして、だけど……お前の先祖って、どっかにすごい魔法使いが混ざってるのかもしれないな」
「えっ?まさか。だってお父さんはマグルだし、お母さんだってマグルボーンだって聞いてるよ」
「それは知ってるけど。だって、あんなこと
できちゃった、なんて。普通じゃないだろ?俺たちだって何年もかかったんだ。いや、もちろん……責めてるわけじゃ、ない」
それは。私だって、思ってたけど。でも、だって、できちゃったんだもん。
「何かの発作だったのかも。ひょっとしたら誰かが私に魔法かけたとか」
「はっ?も、もしそんなんだったら大問題だろ。授業以外に誰かに変身術かけるなんて。もしそうなら、それはマクゴナガルに訴えたほうが」
「ひょ、ひょっとして、だよ……分かんないよそんなの。私にも、分かんない。あのとき、確かに……『イメージ』したのは、本当だから。そんなとき都合よく誰かが私に変身術かけるなんて」
は必死にかぶりを振って、話を課題のほうに戻そうとした。
「それよりシリウスのほうは?何か聞かせてよ、魔法使いのおとぎ話。そっちのほうが面白かったらそっちにすればいいし。ね?」
「あー……おとぎ話、なあ。正直、あんまり覚えてねーんだよ」
シリウスは物憂げに立ち上がり、ついてくるようにとに視線を送った。は慌てて彼のあとを追い、たどり着いた物語の棚を上から下まで見渡す。シリウスはその中から、大判の古い絵本を引っ張り出した。
「『吟遊詩人ビードルの物語』」
「何それ、面白そう」
は白いポットが独りでにポンポン跳ねている可愛らしい表紙を見て、率直な感想を言った。だがシリウスは少し難しい顔を作り、脇の柱に背中を預けて中ほどのページを数枚ほど捲った。
「面白いのは確かに面白いけどな。『魔法使いとポンポン飛ぶポット』、『ぺちゃくちゃウサちゃんとぺちゃくちゃ切り株』……魔法界にもおとぎ話はいろいろあって、大抵どれもこの説話集からきてるんだ。小さい頃に聞かされて、一番印象深かったのは……この話かな。子供のときはほんとに怖くて、初めて話を聞いてからしばらくは、夜中にひとりでトイレに行けなかった」
そう言って肩をすくめ、シリウスが苦笑してみせる。はそれを聞いただけで少し怖くなったが(怖い話は昔から嫌いなのだ)、シリウスがそばにいる、シリウスの話ならば大丈夫。そう言い聞かせて、シリウスが静かに語り出すのを聞いた。
「昔むかし、三人の兄弟が、旅の途中にさびしい夜の山道を歩いていました」
シリウスはひょっとして、朗読に向いているのかもしれない。そう感じるほどに雰囲気が出ていたので、は思わず彼のほうに心持ち身体を近付けた。シリウスはそれに気付いて微笑みながら、先を続ける。
「やがて兄弟は、歩いて渡れないほどに深く、泳いで渡るには流れが急すぎる川にたどり着きました。しかし三人は魔法使いだったので、杖をひょいを振るだけで、あっという間にその川に橋をかけてしまいました。かんたん、かんたん。意気揚々と橋を渡る三人の前に、突然フードをかぶった何者かが現れました」
おとぎ話だと分かってはいても、想像力の豊かなはとうとうシリウスの腕にしがみついて袖をきつく握り締めた。小さく噴き出して、シリウスが絵本から顔を上げる。
「、お前は一体何歳だよ」
「だって……シリウスだって夜中トイレに行けなかったって!」
「ばか、子供の頃の話だろ」
「もういい、シリウスが読むと怖いから自分で読む!貸して!」
は茶化すシリウスの手から絵本を取り上げて、ひとりでさっさと席に戻った。『三人兄弟の物語』のページを開き、黙々と読み進めていく。イラストがまたさらに物語のおどろおどろしさを表現していて、はこんなものが子供向けに作られている魔法社会の恐ろしさを切に感じた。
「楽しんだか?」
少し経って戻ってきたシリウスが、悪戯っぽく笑んで聞いてくる。はそんなシリウスをきつく睨み付けたが、すぐに気になったことを思い出して小声で聞き返した。
「ねえ、『死』がくれた三つのプレゼント。三つ目のこれ、透明マントって、ひょっとして」
「『死』は彼らに、三つの贈り物をしました、ってやつか。昔、ジェームズも言ってた。『僕は三兄弟の子孫に違いない!』」
はどきりとして手元の本に視線を落としたが、シリウスは軽く笑って首を振った。
「あいつだって、本気でそんなこと思ってねーよ。それはおとぎ話だ。偶然の一致だろ」
「そっか……ちょっとびっくりしちゃった」
末の兄弟が手に入れた透明マント。『死』からも逃れることができるそれを持って、そして彼は、夜の闇へとその姿を消した。ひょっとしてそれが、ジェームズの持っているあのマントかと。
「……これ読んでね、思い出したお話があるんだ」
「うん?」
は『吟遊詩人ビードルの物語』を脇に置き、窓の外を見ながらゆっくりと口を開いた。澄んだ空に、青い春の陽光がきらめいている。
「『泣いた巫女さん』っていって、私の地元に伝わるお話なの。今はそこに小さなお宮が残ってるだけなんだけど、昔は近所に大きな大きな神社があったみたいでね。そこに仕える巫女さんの中に、特別な力を持った人がいたの。その人がね、夢を見るの。それが結果的には正夢になることが多くて。みんな、彼女の言うことは神様の言葉だって信じるようになった。彼女の言う通りにしてたら、それが現実になるから。だけどその巫女さんには、どうしてもみんなに言えないことがあったの。その人は、朝廷の……ええと、つまり国の偉い人たちのお使いで神社にやって来る男の人をね、好きになっちゃったんだ。でも神様に仕えてる巫女さんは、結婚しちゃいけないの。禁断の恋なの。でもその役人の男の人も、巫女さんのことが好きになっちゃった。二人は、こっそり会うことくらいしか何もできなかったけど、それでも二人は幸せだった」
ああ、そうだ。小学校のときに劇でやったんだっけ。子供には難しい話だけど、でも故郷の伝統文化を守ろうとか確かそういった主旨の発表会で。因みに私は村人その三くらいだった気がする。それはまあどうでもいい。
「だけどあるとき、戦争が起こるの。その役人も駆り出されて、戦争に行かなきゃいけなくなった。止めるわけにもいかない。もともと、許されない恋だったもん。寝る間も惜しんで作ったお守りを渡して、巫女さんは泣く泣くその人を見送った。その夜、彼女は夢を見るの。その人が……戦死する夢。発狂しそうで、でも、あれは夢だ、ただの夢だって自分に言い聞かせて、彼女は戦争が終わるのをひたすら待った、ずっと祈ってた。でも、戦争が終わって、また朝廷からの使者が神社に来るようになっても……もうそれは、巫女さんが好きな人じゃなかった。別の人が来たの。あの人はどうしたんですかって聞いたら……戦争で、死んじゃったんだって」
「……うん。それで?」
少し黙り込んだを、シリウスが優しく促す。はしばらく目を閉じ、またゆっくりと開いてからそっとシリウスのほうに向きなおった。
「巫女さんは三日三晩泣いて泣いて、泣いて暮らしたの。神社の仕事も全部放り出して。せめて夢で会えたらって思っても、あの人は出てきてくれない。そして神様にお願いするの。自分をあの人のところに行かせてくれって。でも夢に出てきた神様は言うの。お前がいなくなったら、誰が自分の声をみんなに伝えるんだって。自分のためにも、生きてくれって。そこで彼女はやっと思い出すの。自分は神様に仕える巫女だったんだって。彼女はもとの仕事に戻って、自然に死ぬまでずっと神様のために働いて、天国ではあの役人と幸せに暮らしましたとさ」
「……なんか、重いな。それって童話か?」
「分かんないけど。今でもそのお宮の中に、巫女さんの泣いた跡がついた岩があるって観光誌にも出てるよ。どう見ても普通の岩だったけど」
は肩をすくめて、後味の悪い顔をしたシリウスに小さく笑いかけた。
「『死』って……世界中で、どの国の人たちも一度は考えることなんだよね、きっと。こんなお話とか作って。昔、マクゴナガルも言ってた。人間、誰でも必ず死ぬんだって。私の……お母さんもそうだった。永遠じゃないからこそ、何でも大切にできるんだって」
言うと、突然シリウスは両腕を伸ばしての手を掴んだ。どきりとして思わず目を開いたに、躊躇いながらも、思い詰めた様子で言ってくる。
「永遠、とか、永遠じゃないとか、俺にはよく分からない。でも、俺は……」
「……シリウス」
は相手の手を逆に握り返して、安心させるように微笑んでみせた。
「ありがとう」
無理して言わなくても、いいよ。ちゃんと、伝わってるから。
泣きそうな顔で目を細めたシリウスが、ありがとうの代わりにそっとの指にキスを落とす。指先からまるで、すべてが溶け出してしまいそうだった。