「さいてい」
が立ち去ってからのアリスの第一声はそれだった。女ってのは、どいつもこいつもお節介だ。今は何もかもどうでもいい気分だった。ああ、ついにきれいさっぱり、終わってしまったのだから。どのみちどうにもならなかっただろう。は俺の手を拒んだ。
「が……どんな気持ちで。分からない?」
「何の話だよ」
嘆息混じりに聞き返すと、アリスは腕に抱えた大きな紙袋を目の前に突き出してみせた。
「は、あなたと仲直りしようとしてたのよ。バレンタインが近いから
の国では、女の子が好きな人にチョコレートをあげる習慣があるんですって。だから、今からチョコレートケーキを作ろうって。厨房で材料までもらってきて」
え……今、なんて言った?だがそれを問い質す間もなく、アリスはその紙袋を足元に叩きつけて眉をひそめた。こんなにも激しいアリスを見るのは、初めてのことだった。
「このこと知ったら、きっと、ジェームズもがっかりするでしょうね」
そしてツンと顔を背け、と同じように行ってしまった。ひとり残されたシリウスは、彼女の後ろ姿が完全に見えなくなってから、ようやくしゃがみ込んで紙袋からこぼれた小麦粉やバターの包みをよろよろと掻き集める。嘘だろ、そんな。が……もう一度、俺と。それなのに俺は、その可能性を自分の手で。
「無様だね、シリウス・ブラック」
後ろから聞こえてきたのは、冷ややかな声だった。振り向かずとも、聞き違えるはずがない。こぼれた材料を袋の中に入れなおし、それを腕に抱えたシリウスはゆっくりと立ち上がった。
「お前も俺の追っかけとは知らなかったな」
「冗談じゃない。くだらない寸劇でも見せられた気分で不愉快だよ。ここは公共の通路だ」
レグルスがあからさまな嫌悪の表情を浮かべ、肩をすくめてみせる。シリウスも負けじと顔をしかめ、少しだけ脇に退けてそのスリザリン生に道を譲った。
「どうした。さっさと通れよ、空けてやってんだろ」
だがレグルスは横柄に腕を組んだまま、その場から動こうとしなかった。
「なんだ。言いたいことがあるなら言ってみろよ」
「……何をやってるんだ、あんたは」
何のことだかさっぱり分からない。眉間にしわを寄せて数回瞬きしたシリウスの目の前で、数歩こちらに近付いてきたレグルスはすぐに足を止め、何かを抑えつけるように深呼吸してから、出し抜けにこう言った。
「あんたが家を出て、僕は正式にブラック家の跡継ぎになった」
は?いきなり、何を言い出すんだこいつは。そんなこと、もう俺には一切関係がない。
「そうか。そりゃーめでたい、よかったな。これでお前も数年後には立派なご当主様だ」
「
あんたが投げ出したからだ。こんなに、重い……こんな……僕ひとりに、なすりつけて」
握り締めた拳を震わせ、絞り出すようにうめく弟の姿を目の当たりにして
シリウスは初めて、見えないナイフでこれまで触れられたことのない傷を抉られたような気がした。顔を逸らして、つぶやく。
「……悪かった」
「もういい。そんなことはもういいんだ。父さんは僕が一人息子だと振る舞うようになった。母さんは夏中、部屋にこもってずっと泣いてた。今さらどうにもならない……僕たち家族をさんざん苦しめて、その上、駆け落ちまでしたくせに。なのに、あんたは何をやってるんだ」
はっとして顔を上げると、涙に潤むレグルスの瞳が、すぐそこにあった。あいつが生まれたときから、ずっと。小さな手のひら。それを握って、導いてきたのはきっと。
「許さないぞ……別れたなんてことになったら、僕は絶対に許さないぞ」
ああ、俺は本当に。思わず込み上げてきた笑いを口の端に残し、吐き捨てる。
「
大きなお世話だ。泣き虫レグルスが」
crying over spilt milk
こぼれおちた水
「、お土産買ってきたわよ!ねえ、これなんかどう?、チョコレート好きでしょう?ハニーデュークスの新商品詰め合わせよ」
チョコレート。ああ、今、最も聞きたくない単語。バレンタインなんて、だいっきらい。
ホグズミードから戻ってきたニースは上機嫌だった。ブルーノが初めて指輪をプレゼントしてくれたらしい。その薬指には細身のシルバーリングが誇らしげに光っていた。リリーはまだ帰ってきていない。ジェームズと仲良くやってるのよね。うん、それは喜ばしいことだ。とても。
「、どうしたの?朝より元気ないみたいだけど」
「……ううん。なんでもない」
「本当に?ねえ、ブラックとちゃんと話した?」
「……私にあの人のこと、聞かないで」
あの人?素っ頓狂な声をあげたニースが、一抱えもありそうな大きな箱をのベッドに下ろした。ふたの開いたその中には、確かに色とりどりの魅惑的なパッケージがひしめき合っている。はごまかすようにそこからキャンディーの袋を取り出したが、ニースの追及は終わらなかった。
「ねえ、ちゃんと話したの?大事なことでしょう」
「ううん、もういいの。それよりプリシラってシリウスのこと好きだったって、知ってた?」
ちょ、わたし、なに言ってんだこのばか!ニースも不可解な顔をしながらの隣に腰を下ろした。
「プリシラってハッフルパフの?それより、もういいってどういうこと?」
淡い青色の飴玉は、なぜか甘ったるいチョコレートの味がした
さいあく。
「だって……別れたもん、私たち」
リリーは夕食の時間になっても戻ってこなかったので、は寝室で彼女の帰りを待っていた。一緒に待とうかとニースは言ったのだが、気にしないで先に行ってて、と送り出す。昼間のことを心配したアリスも部屋に顔を出してくれた。ほんとに平気だから。わたし、もうちょっとリリーのこと待ってる。そう言うとアリスはまるで母親のように優しく抱き締めたあと、の頭をぽんと叩いて部屋を出て行った。
厨房でもらったケーキの材料は帰ってくるなり談話室のゴミ箱に捨てた。取っておけばよかったかな……お腹すいた。でもやっぱり、あんなの。手元に置いておきたくない。修復できると期待をかけて、お菓子なんかを作ろうとした自分が本当に情けなかった。ジェームズ、ごめんね。でも私たち、もう、無理だよ。
六時半を過ぎてもリリーは帰ってこない。おかしいな。ジェームズと一緒……だよ、ね?もうホグズミードの門限時間は過ぎてるはずなのに。ジェームズが時間を過ぎてから秘密の通路を使って戻ってくるのは茶飯事だとしても、まさかリリーまで?だとすればジェームズの影響力はすごいなとは思った。仮にもリリーは監督生だ。
(……下で待ってようかな)
ここにいても、仕方ないし。いい加減、お腹すいたし。先に食べていれば、そのうちリリーたちも戻ってくるかもしれない。はニースのお土産を元通り箱の中に詰めて、だらだらとベッドを下りた。どうかシリウスにだけは会いませんように。あと、プリシラも。私が謝ってもしょうがないけど、でも……ごめん。心の中だけで、繰り返す。
だがのその願いは、階段を下りたところですぐに破られることになった。がらんとした談話室の中、燃え盛る暖炉の前にシリウスがひとりで座っていた。こちらを見ている。は気付かなかった振りをしてそのまま外に出て行こうとした。
「……待ってたんだ。一緒に、飯食いに行こう」
え?なんで。何で急に、そんなの。何を、言ってるの?信じられない思いで振り向いたは、ソファから立ち上がり近付いてくるシリウスの手に、ルーン語の教科書が握られていることに気付いた。
「それから、あとで一緒に課題やらないか。ひとりでやってても、あんまり進まないしさ……」
「……なんで」
はぎこちなく笑いながら近寄ってくるシリウスから逃げるように後ずさり、幾度となく首を振った。
「そうやって、何にもなかったことにしようとするの?」
ぴたりと立ち止まったシリウスの顔からさっと笑みが引く。はそんなシリウスの姿に、嫌悪すら感じてしまっていた。何で。どうして。大好きなのに……どうして、こんな。
「つい数時間前にさよなら言ったはずなのに、何でそんなふうに振る舞えるの?一時的な『支え』が欲しいから?あなたにとって女の子ってその程度の存在なの?」
シリウスはこちらの物言いに一瞬苦々しげに唇を引き結んだが、それだけだった。大げさに肩をすくめて、また強張った笑いを口元に宿して言う。
「あれは……言葉のあやだ。分かるだろ。俺はお前のこと、そんなふうに思ったこと
」
「分かんないよ!私の気持ち何にも分かってくれないのに、自分は何にも言わないで分かってもらおうなんて虫がよすぎるよ、そうでしょう?」
こらえきれずに声を荒げたを見て、シリウスは知らず知らずのうちに次の言葉を飲み込んだ。はそんな彼から目を逸らし、きつく拳を握り締める。なんで。分かんなくなる。近付けば近付くほど
遠い昔、初めての恋人が自分に言ったことの意味が、ここで初めて分かったような気がした。
「……アリスから聞いた。お前が、俺のためにケーキ作ろうとしてくれてたって。仲直りしたいって。それなのに俺、あんな
」
「全然分かってない」
何もかもを撥ね付けるように。は相手の言葉をきつく遮った。泣き出しそうな眉間に力をこめ、驚くシリウスを睨み付けて、告げる。
「シリウス、全然分かってない。私、そんなこと言ってるんじゃないの。何であんなことしたの。プリシラ、泣いてたじゃない」
「……それは」
「プリシラ、あなたのこと本気で好きだったのに。あんなことして……何とも思わないの?」
「……だったらどうしろって?好きでもない女と付き合えって言いたいのか」
「何でそうなるの?わけ分かんない。あんな……あんな、乱暴する必要があった?自分を好きだって言ってくれてる子に、何であんなひどいことができるの!」
溜まっていたものを、すべて吐き出すような勢いで。シリウスは最初ばつの悪い様子で口元を押さえていたが、こちらの口振りが神経に障ったのか、視線を鋭くして唸るように切り返した。
「……別に、大したことじゃないだろ。少し、脅かしただけだ」
その一言が、それまで保っていたの線をぷっつりと断ち切った。湧き上がる感情をすべて、脇の椅子に置かれていた誰かの雑誌を取り上げ、目の前の男へと叩きつける。突然の暴走に不意を衝かれたシリウスはまともに一撃目を食らい、二発目以降は両腕を丸めてなんとか庇ったものの、の手は決して止まらなかった。
「それだけは
分かってくれてると思ってたのに!無理やり、ああいうことされる女の子の気持ち……あんなことされて、どれだけ傷付くか……シリウスだけには、分かっててもらいたかったのに!」
信じてたのに。分かってくれてると思ってた。ロジエールに無理やりキスされて、私がどれだけ傷付いたか。どれだけこの胸に傷を負って、あなたの温かい手を拒んできたか。分かってくれてると、思ってた。そのシリウスが。現場を直接見たわけではないから、実際彼がプリシラに何をしたかは分からないけれど。だけどあのとき、しゃがみ込んだプリシラは胸元を押さえつけていた。いつもきっちりと締めた彼女のネクタイがくしゃくしゃに緩んでいた。それを見ただけで、凡そを察するのは当然のことじゃないか。
愕然と目を開くシリウスを、涙混じりに睨む。彼の灰色の瞳は、あまりの衝撃に大きく見開かれていた。だがそれを見ても、の気持ちは治まらなかった。癒されるはずがない。もともと深く刻まれた傷痕を、最愛の人によって再び大きく抉られたのだから。あんなの……あなたの大嫌いなロジエールと、同じじゃないか。
その重々しい沈黙を破り、いそいそと談話室の中に入ってきたのは、誰あろうジェームズ・ポッターとリリー・エバンスのふたりだった。
「あー寒かった!ただいま愛しのグリフィンドール!って、あれ?シリウスにじゃないか、一体どうし……」
そこまで一気に捲くし立て、ジェームズは初めてその場の異変に気付いたらしい。やたらと大きな紙袋をいくつも提げた両腕をぱったりと下ろし、何やら尋常ならざる様子で向き合う親友たちをまじまじと眺めた。
「えーと……あー、ひょっとして僕ら、いけないときに帰ってきちゃった?」
「た、ただいま、。あの……お邪魔だったかしら?」
「お帰り、リリー、ジェームズ。ううん、そんなことないよ、ちっとも。問題なんか、全然、ない」
こぼれかけた涙を瞼の裏に押し込め、はにっこりと微笑んだ。潰れたゴブストーン雑誌を元の場所に戻し、大仰に両腕を広げてみせる。
「私、ご飯食べに行こうと思ってたところなの。リリーたちはもう食べた?」
「い、いいえ、まだ。先に荷物を置いてからと思って……」
「だったら一緒に食べに行こう。ジェームズ、私、リリーと行ってもいい?半日リリーのこと独り占めしたんだからいいよね?」
「えっ!あ、うん、もちろん……それじゃあリリー、えっと、荷物どうしようか?僕が部屋に上げておこうか?」
「それはいいわ、ありがとう。あとは私が持って上がるから。ジェームズ、今日はどうもありがとう。楽しかったわ、とっても」
リリーに天使のような微笑みを向けられたジェームズは完全にのぼせ上がっていた。生き生きと頬を紅潮させ、持っていた紙袋の大半をリリーに手渡す。は半分ほど手伝い、それをリリーと一緒にひとまず部屋に置きに行くことにした。
「リリーたち、遅かったね。帰りはひょっとして……秘密の抜け道を?」
「えっ?あ、そうね、あなたも知ってるのよね。ええ、そう……もちろん、内緒よ?」
「分かってるよ。心配しないで」
小さくウィンクして階段を上がるを後ろから追いかけながら、リリーは不安げに口を開いた。
「そんなことより……大丈夫だったの?あなたたち……ずいぶん、深刻そうに見えたけど」
「そんなことないよ。ただちょっと、呆れちゃっただけ」
そう。ちょっとだけ、ね。
何でもないことのようにカラカラと笑いながら、は空いた方の手で部屋のドアを開けた。