「お嬢様、何かお持ちいたしましょうか!」
「わ、ありがとう!それじゃあチョコレート少しと、それから……ええと、あと何が要る?」
「何にする?クッキーとかだったらけっこう楽よね。バター、卵に砂糖、小麦粉……」
「はい、ただいまお持ちいたします!」

ホグワーツの厨房で働く屋敷しもべたちは、本当に嬉しそうな顔でこちらの望むものを何でも提供してくれる。アリスは初めての厨房に戸惑い気味だったものの、ちょこちょこ動く妖精たちが気に入り、お菓子の材料を抱えて出て行く頃には「また来るね」とご機嫌だった。

「寮のキッチンだと本人にバレちゃうかもしれないから、どこかの教室でも借りて、薬学のキットで作らない?」

厨房を出てしばらく歩いたところでアリスが口にした提案には思わず噴き出した。薬学キットでお菓子作り?考えたこともない。

「できるかな?」
「平気だって。大鍋ひとつあれば何だってできるわよ。どこがいいかしら。場所だけ先に決めちゃいましょう」
「えーと……そうだね、じゃあ六階なんかどうかな。あそこだったら空いてる教室も多いし、それに……」

厨房は地下の奥まった場所、聞くところによるとすぐ近くにはハッフルパフ寮があるらしい。ひとまず薬学キットを取りにグリフィンドール寮に戻ろうと歩き出したたちの耳に、どこからか聞き知った声が届いた。

out of love with you

愛するがゆえに

どうにかなってしまいそうだった。なぜ、どうして。俺は一体、どうすればいいんだ。分かっているくせに。俺にはどのみち、お前しかいないんだってことを。お前はジェームズと同じように、誰とでもすぐになじんでしまう。童顔で、人懐っこい、まるで小動物のようなお前を可愛がるやつも多い。大事にしてくれる男だってどうせすぐに現れるだろう。でも俺は    どうしろっていうんだ。以外の女なんてもう考えられない。他に一体誰が、あんなにも広い胸でこのちっぽけな俺を受け止めてくれるっていうんだ。
あいつのせいだ。エバン。エバン・ロジエール。俺の母親とあいつの父親とが遠縁、かつスリザリンの同期生というありがたくもない縁で、俺たちは子供の頃から顔を合わせることが多かった。親友とは言えない。けれども、決して嫌いではない仲間(、、)だった。単純に、友人として。そして同じ運命を背負う、同胞として。憎らしい、だが憎めない……そうした、幼なじみ。ふたりでレグルスをからかってあそんだこともある。ジェームズに出会うそのときまでは。当たり前に傍にいる、友達だと。

あのときから、狂った。目の前にあるものが。だがそれこそが最も大切なことだと気付いた。俺は背を向けた。家族、血筋、かつては名前で呼んだ、友人のこと。それでいい。帽子が蛇に振り分けようとしたとき    俺は自分の意思で、グリフィンドールを選んだんだ。
当たり前のようにスリザリンに組み分けされたあいつは、何も変わらなかった。苛立たしいほどにあの頃のまま、自分に与えられた定めを受け入れ、ぶれることもせずに。時に戸惑う、泣き虫レグルスとは違う。あいつは、諦めるのがうまい。諦め、甘んじることがとても得意だ。俺には決して真似できないし、できなくて結構。それがスリザリンとの違いだというのなら、俺は喜んで蛇に唾を吐く。

一年生のときから、には何かとちょっかいをかけていた。マグル育ちの彼女が自分と仲良くするのが気に入らなかったのだろう。だがそれだけではない。何かが違う。ここ最近    を見る奴の目が、明らかに普通のものではない。それこそ獲物を狙う、狡猾な蛇のように。そのことに気付いたのは、奴がにキスする現場を目撃してからだが。けれども、恥を忍んで彼女が好きなのかと聞いたとき……あいつは、鼻で笑ってみせた。俺がどれだけ焦がれる女か、分かっていて。
あいつだ。あいつが何もかも全部、めちゃめちゃにするんだ。ようやく見つけた俺の幸せを、許すまいとばかりに。

だが、この拳を突き刺すことだけはできなかった。あの目を知っている。やジェームズとは違う    けれども確かに奴の眼差しもまた、あまりにまっすぐだったから。共に笑い、肩を組み合ったあの頃のまま、何も変わらなかったから。運命に逆らわない。その、決意。

冗談じゃない。運命なんて、あってたまるか。もしそんなものがあるとしても、それならば俺は最後のその瞬間まで牙を剥き、抗ってやる。
そのためにも。『ブラック』を離れた俺が生きていくためにも    俺にはお前が必要なんだ、。分かるだろう?だが、言えなかった。俺が守る、なんて。できるのか?『自分の名前も守れないようなお前に』……彼女を守ることなんて、本当にできるのか?

(しばらく、構わないで)

あれは?あの言葉は?それは文字通り、『しばらく』なのか。それとも、もしくは……。

考えるだけで、今にも発狂してしまいそうだった。構うなと言われた以上、どうすることもできない。待つしかない。待てるか?一体いつまで。そのとき彼女は、もしかして誰か別の男の隣に。

バレンタインの誘いは    待つだけ無駄だった。午前中の姿現し練習コースでも、にとって大事なのは三つの『D』だけのようだ。彼女がホグズミードに行ったかどうかすら分からない。どっちでもいい。俺を誘わなかったことだけは確かだ。

「……ミスター・ブラック?」

一日、いや半日、部屋にこもって布団でもかぶって過ごそうと思っていた。だがあまりに惨めで息が詰まりそうだったので、とにかくグリフィンドール塔を離れることを決めたのだ。空腹を満たそうと厨房に向かう途中、不意に声をかけられて振り向く。それが、悪夢への始まりだった。
「私……あなたのことまだ何にも知らないけど、でも……これから知っていきたいと思うの。いろいろ、あっても、そばにいて……力になれたらって。いつでも、そう思ってるの。だから」

ちょっ!それはも知っているハッフルパフの五年生、プリシラの声だった。どうやら少し先の角を曲がったところから聞こえてくるようだ。どうしよう、あれって、愛の告白?まずいところに居合わせてしまったらしい。だがその廊下を通らなければ、階上には戻れないはずだった。

(ど、どうする?これってやばいよね、引き返す?)
(引き返すってどうするの?また厨房に戻るって?妖精たちまた総出で出迎えてくれるわよ)
(だ、だってこんなとこで立ち聞きなんて申し訳なさすぎるでしょ!)

声にもならない声で、口早にアリスと押し問答する。そうしている間にも刻々と時間は過ぎていき、しばしの沈黙を挟んで、プリシラの相手と思しき男の声が聞こえてきた。

「だから……何度も言わせるなよ。俺、誰とも付き合う気ないって」

息が、詰まるかと思った。アリスも大きく目を開いて一瞬こちらを見たあと、さり気なく視線を逸らす。それは紛れもなく    シリウスの声だった。どうしよう……わたし、今、最悪の状況に晒されてる気がする。何で、何でよりによって今、こんなところで!

「で、でも、とは別れたんでしょう?」
「……あんたに関係ないだろ」
「だったら、ねえ、お願い。私にチャンスをくれない?好きなの。あなたのそばにいたいの」
「そんなつもりないって、言ってるだろ」

ほとんどめんどくさそうに呟くシリウスの声は、冷たい。そりゃあ、あんまり優しくされてもいやだけど……でも今はそれよりも、別れたのかというプリシラの質問にシリウスがノーと言わなかったことのほうがよっぽどつらかった。やっぱりシリウスは、もう私のことなんか。
プリシラはまた、同じ言葉を繰り返す。

「お願い。一度だけチャンスをちょうだい。あなたのそばにいたいの、支えになりたいのよ」

支え    シリウスにとっての、支え。ほんの少しでも、私はなれていたのかな。苦しいとき、彼の縋れるような、何かに。
今度の沈黙は長かった。アリスも進むべきか戻るべきか、考えあぐねて立ち往生している。引き返そうと心を決め、後ろを向いたの耳に再びシリウスの声が聞こえてきた。

「へえ……あんたが俺の、『支え』になってくれるって?」

嘘のような、あまい、こえ。私だって、ベッドの上でしか聞いたことのないような。まさか。いやだ。戸惑うアリスと目が合って、さっと顔を背けたは材料を詰めた紙袋をきつく抱え込み、元来た道を引き返そうとした。
だが、続いて石の廊下に響いたのは    プリシラの、引き裂かんばかりの泣き声だった。

    いや!いや、やめて……」

はっとして、振り向く。は少なからず躊躇したが、聞かなかった振りをするわけにはいかなかった。覚悟を決めて、駆け出す。面食らった様子のアリスもそのまま彼女のあとをついてきた。
突き当たりの角を曲がった先にふたりが目撃したのは、追い詰められた壁に背中を押し付け、制服の襟元を抱きかかえてしゃがみ込んだプリシラと、その傍らに片手をつき、脅すように上から覗き込むシリウスの姿だった。こちらの存在にはまだ気付いていない。

「支えだ?笑わせるな。支えってのは、こういうことを言うんだよ。気安く使うんじゃねぇ」

そしてようやく顔を上げたシリウスは    視界の端に闖入者の姿を認めると、その正体に気付いて愕然とした。しゃくり上げるプリシラのことなど、まったく眼中にない。はどうすればいいのか分からずたたずむだけだったが、アリスはすぐに飛び出してプリシラのもとに駆け寄った。だがアリスが伸ばした手を払い、プリシラは泣きながら厨房への道を走り去っていく。そのネクタイは乱雑に緩み、シャツの胸元はしわだらけだった。アリスは長身のシリウスを威圧するように背筋をのばし、激しい口調で捲くし立てる。

「シリウス、あなたなんてことするの!あんな    
「『こういうこと』、なんだ」

言葉は、自然と出てきた。慌てて振り向いたアリスと、その正面で立ち尽くすシリウスと。は彼らの足元をぼんやり見つめながら、どこか乾いた笑い声をあげてみせた。

「『支え』って、そういうこと、なんだ。そう、なんだ……シリウス、そんなふうに思ってたんだ。それじゃあ、よかった。私、これまでシリウスの『支え』になれてたんだ。そう。それが分かって、安心した」
……シリウス、なにか言いなさいよ!そういうことじゃないでしょう」

だがシリウスは何も言わない。時間が止まってしまったのかと思うくらい、あたりは静かだった。けれども違う。この胸が、熱湯と冷水とをいっぺんに浴びせられたかのように、奇妙な脈を打つ。やがて沈黙を破ったシリウスの声は、やけに淡々としたものだった。

「だったら何だよ。よかった、安心した、それじゃあさようなら。そういうことか?」
「シリウス!」

アリスの一喝もほとんど意味を成さない。は初めてシリウスの暗い瞳を見返し、そしてそっと瞼を伏せた。

「……そうだね。なんかもう、私たち、だめみたい」
、待って!ちょっと、待ってったら!」

ごめんね、アリス。変なところに居合わせることになって。だけど、もう駄目。プリシラにあんな乱暴したことも、そして『支え』というのが    そういうことだと、言い切ったこと。
大好きだったのに。少しでも、大好きなシリウスの『支え』になれてたらと……思ってたのに。

ばいばい、シリウス。
わたし、あなたとはもう一緒にいられない。
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(09.02.17)